2024年09月29日「王の葬り 왕의 매장」

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聖句のアイコン聖書の言葉

15:40また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。
15:41この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。
15:42既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、
15:43アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。
15:44ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。
15:45そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。
15:46ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。
15:47マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 15章40節~47節

原稿のアイコン日本語メッセージ

ユダヤの王イエス・キリストは、午後三時に十字架上で息を引き取られました。その死は、愚弄と嘲りの中で、弟子たちに見捨てられ、群衆に見捨てられ、そして神に見捨てられた絶望的な死でありましたが、しかし、本日の箇所において、神の優しい光が注がれていることを確認することが出来ます。その優しい光とは、最後まで墓を見守った女たちと、アリマタヤのヨセフによる葬りであります。絶望的な死を遂げたイエス様に対して少しでも恥を取り除こうとした人々の行いを通して、神様が優しい光を注いでくださいました。本日も、マルコによる福音書15章を通して御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】.最後まで見届けた女性たち

マルコによる福音書には女性の弟子の存在についてあまり詳しく書かれていません。なぜ、これまで女性にスポットが、当てられなかったのかと言うと、それは、当時の社会が男尊女卑の社会であったからだと思われます。ところが今、男性の弟子たちが皆逃げてしまったために、残された女性たちにスポットが当てられているのです。40~41節をご覧ください。

“また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。”

「マグダラのマリア」とは、ガリラヤ湖の近くの村であるマグダラ村出身で、ガリラヤからイエス様に一緒についてきたということが分かります。彼女はイエス様に七つの悪霊を追い出してもらいました。「小ヤコブとヨセの母マリア」とは、恐らく十二弟子の一人アルファイの子ヤコブと、ヨセの母だと思われます。サロメとは、ゼベダイの二人の息子であるヤコブとヨハネの母です。彼女たちはイエスに従って来て、世話をしていたとありますから、イエス様一行の食事の準備などをしていたのかもしれません。イエス様のことを愛し、最後までその場から立ち去ろうとしなかった彼女たちに大切な役割が与えられました。その役割とは彼女たち自身、この時点で全く知らされてはいませんが、彼女たちがイエス様の死を最後まで見届けたこと、その後、墓に葬られたこと、脳裏に焼き付いた一つ一つの場面が、後に初代教会の中で、「復活の証人」としての大変重要な役割を担う事になるのです。彼女たちは、ただの「傍観者」としての役割ではなく、「復活の証人」としての役割が神様から与えられたのでありました。この女たちに関する記事は、初代教会による創作ではなく、まぎれもない事実だと考えられています。なぜなら、もし教会が十字架で亡くなった後、イエス様の復活の証人の物語を後で創作しようとすれば、当時、ユダヤの社会で女性は証人として認められていなかったため、当然、男性の証人を抜擢するからです。しかし、あえて「女性が証人として立てられた記事」が伝えられている、このことから、この福音書の記事が創作や、後で付け加えられた物語などではなく、限りなく事実に近い内容であると考えられるのです。

【2】. 葬られたことの重要性

さて、イエス様のご遺体が葬られた記事は、四つの福音書全てにおいて語られています。主イエスが十字架にかけられ、死んだことだけではなく、墓に葬られたことも必ず書き残すべきだと考えたという事でしょう。私たちが礼拝において、聖餐式の後に告白している使徒信条にも、主イエスが「苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」と語られていて、「十字架で死んだ」というだけでは物足りず、「葬られた」という言葉が念を押すように出てきます。その背景には、初代教会に現れた異端の教えがあったと考えられています。異端の教え。彼らは主イエスが永遠に生きておられる神の子であるという信仰を持っていました。ですから神であられるお方が、ロゴスであるお方が、死んだということをどうしても受け入れることが出来ません。そして彼らは次のように考えました。「神であるお方、ロゴスであるお方が十字架で死んだのではなく、仮死状態に陥っただけで、実は墓の中で蘇生したのだ」、或いは「十字架上で肉体が死ぬ前に、肉体から霊魂がロゴスとして抜け出して、もぬけの殻になった。イエス・キリストは、ロゴスとして永遠に生きておられる。」などと主張し、とにかく神の子イエス様の死を受け付けようとしないのです。このような考え方は、イエス様のもたらす救いとは、霊の救い、魂の救いであって、肉体の救いではないという教え方に発展し、所謂「霊肉二元論」という教えになって、猛威を振るっていきます。初代教会はこのような間違った教えと戦わなければならなかったのです。それでは「葬られた」こと、そのことが、なぜそれほど重要なのでしょうか。それは、葬りは、イエス様の死を確定し、保証するものだからです。それではイスラエルの王の死が、なぜ大切なのでしょうか。それについては日々、講壇から語らせていただいております。「イスラエルの王の死」即ち「メシアの死」、「神の御子の死」は、多くの人の身代金として捧げられる死であるからです。マルコ10:45をお読みします。

“人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。”

マルコ10:45には「全ての人」ではなく、「多くの人」と書かれていることに注意してください。イエス様は全ての人類の頭ではないということです。イエス様は全ての人の預言者、王、祭司ではありません。イエス様は、イスラエルの頭、教会の頭であり、シオンの王として油注がれました。従って、イエス・キリストの死は、全ての人類を贖うための死ではなく、ご自分に結ばれている教会を贖うための死であるということです。もう一度言いますと、イエス様は全人類のために死なれたのではなく、イスラエルの王として、ユダヤの王として、ご自身の民のために死なれたのです。そして、葬りは、このイスラエルの王が死んだことを公にし、捺印を押すことであります。さらに言えば、葬られた場所が確定されることによって、その場所がまさに、復活の栄光が表される場所となるためなのです。ですから教会の教理の重要な基礎となる、「イエス様の葬り」について、四つの福音書は繰り返し念を押すように語っているのです。

【3】. ヨセフの信仰

既に夕方になり、もう間もなく日付が変わろうとしています。その日は安息日の準備の日、即ち安息日の前日でしたので、日付が変わってしまえば、もう何もすることは出来ません。当時のユダヤ人の情緒から考えると、死者の葬りを丁重に行うことは常識であり、たとえ十字架刑に処せられた悪党であっても、日が暮れる前におろしてやって埋葬してあげたいと思うのが普通の感情でした。申命記には次のような御言葉があります。申命記21:22~23をご覧ください。

“ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。”

この日は特に、安息日の準備の日でしたので、木にかけた死体で安息日を汚したくないという感情もあったのでしょう。そのようなユダヤ人の情緒は、ローマ当局者たちも理解していましたから、そういった考え方は尊重されるに違いありません。しかし、そうだとしても、男の弟子たちが全員恐れをなして逃げ去った中、ヨセフがピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出たのは、とても大胆な行動でした。このヨセフという人は一体どのような人物だったのでしょうか。43節をご覧ください。

“アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。”

「アリマタヤ出身」とあります。アリマタヤとは、エルサレムから北西約33キロにある、「ラマタイム・ツォフィム」のことであると考えられています。旧約聖書の預言者サムエルが生まれた町もラマタイム・ツォフィムでありました。また、「身分の高い議員」とありますので、ヨセフはユダヤの最高法院の議員の一人であったと考えられます。この最高法院は、イエス様に対し死刑判決を下しました。真夜中に大祭司のカイアファの家で行われた宗教裁判においてです。恐らくヨセフは、この決議に積極的には同意していなかったと思われます。並行記事であるルカ福音書23:50~51に次のように書かれているからです。そのままお聞きください。

“さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。”

ヨセフは、ひそかにイエス様の教えに感銘を受け、イエス様にある神の国の到来を信じていたのだと思います。自分の立場をわきまえ、イエス様に従って、直接お仕えすることはしませんでしたが、しかし、イエス様のことを来るべきメシアであると、心のどこかで信じていたのだと思います。そんな中、今、イエス様が十字架上で不思議な出来事を伴って死んでいかれるのを目撃し、自分もイエス様を信じる者の一人であることを公言しないではいられない!そのような思いに駆られたのです。

このヨセフの勇気について、著者マルコは、「神の国を待ち望んでいたから」と、一言付け加えています。それにしても、ヨセフのこの行動は大変思い切った行動のように見えます。なぜなら、総督ピラトの元に進み出てイエス様のご遺体を私にくださいと願い出る時、ヨセフにとって明らかにいくつのかのリスクが伴うからです。そのリスクというのは、第一に、ローマの総督に「あなたが行ったこの十字架刑は間違いでした」というメッセージを発することになります。ですからピラトから見れば、ヨセフの願い出は、ローマへの反逆者、総督ピラトへの反逆者として映りかねません。第二に、ヨセフはユダヤ社会において身分の高い議員でしたが、つまり、人々から大いに尊敬を受けていましたが、このユダヤの最高法院が下した決議に対しても、「実は、あれもとんでもない大間違いであった」というメッセージを発することになります。このようなメッセージを発することにより、これまでヨセフがユダヤの社会において築いてきた高い地位を、そして、それに伴う財産や、人々からの尊敬を、失う可能性がありました。そのような葛藤があったに違いません。しかし「そんなことに、もはや捕らわれている場合ではない!」「神の国を待ち望む者として、今ここで、自分に与えられている力を利用し、自分にしか出来ないことをするべきだ!」とヨセフは考えたのです。周りにはガリラヤからついてきた多くの女性たちがいましたが、彼女たちは直接ピラトに謁見することなどできません。つまりヨセフの地位でなければ、直接ピラトに願い出ることなど不可能でした。「イエス様のご遺体を引き取らせてください!」と言えるのは、自分だけである。神の国を待ち望む者として、そのような思いで、ヨセフはピラトの前に出て行ったのであります。

ピラトは十字架上のイエスが、もう死んでしまったのか不思議に思い、百人隊長に調べさせました。通常、十字架上の死刑囚は、ニ、三日ほど苦しみながら死んでいきます。イエス様の死は、思いのほか早かったため、ピラトは不思議に思ったのでしょう。この時、イエス様が確かに死んでいることが、百人隊長によっても確認されました。その上で、遺体はヨセフに下げ渡されました。間もなく日付が変わろうとしています。この時ヨセフは、自分の行いの意味を完全に理解していた訳ではありませんでした。ただ、神の国を待ち望む者として、限られた時間内に、イエス様のご遺体を丁重に葬りたい、それだけです。ご遺体を岩で掘った墓に納めましたが、この墓も、もちろんイエス様のために用意したものではなかったのでしょう。自分のために、或いは自分の家族のために用意していたもの(マタ27:60)を、ちょうど、この時イエス様を納めるために用いたのです。亜麻布を買っておいたというのも、まさか、この時を見越して買った訳ではなく、たまたま、以前買っておいた新品の亜麻布があって、それを用いたということだと思います。いずれにせよ、神の国を待ち望む者として、限られた時間内で、自分に出来ることを精一杯、捧げただけでありました。するとどうでしょうか。神様はそのような神の国を待ち望む者としての働きを、復活の栄光を証しするためにお用いになられたのです。考えてみてください。もし、ヨセフがこのように、自分のために用意しておいた新しい墓に葬らなかったら、イエス様のご遺体は穴に投げ込まれ、犬や鳥に食べられた可能性があったのです。もし、ヨセフがこのような働きをしなかったなら、イエス様が復活しても、果たしてその方が十字架上で死んだイエス・キリストであることを証明することが出来ない可能性もあったのです。もし、ヨセフがこのような働きをしなかったなら、異端の教えに惑わされ、イエス様は決して死んではいなかった。神の子である方が死ぬはずがないと多くの人が誤って信じてしまったことでしょう。神の国を待ち望む者としての、自分にできる精一杯の働きが、神様によって用いられ、その働きが復活の栄光を証しするために用いられたのです。自分にできる精一杯の働きが、教会の教理の重要な基礎となる「葬られたこと」の証拠として、語り継がれるようになったのです。

【適用】

本日の内容をまとめます。神の国を待ち望む者として、イエス様に対するほんの少しの心配りや、配慮、自分にできる精一杯の働きは、神様の優しい光に照らされて、初代教会の教理に欠かすことのできない大変重要な役割を担う事となりました。私たちのイエス様に対する日々の小さな行いも、神様は同じように用いてくださり、神の国の中で欠かすことのできない奉仕へと引き上げてくださることでしょう。私たちには、一つ一つの行いの真の意味を今は理解することは出来ませんが、日々の営みの中で、神の国を待ち望む者として、教会の兄弟姉妹に仕え、隣人や職場の同僚に親切に接し、誠実に歩む者たちとならせていただきましょう。神は兄弟姉妹の交わりをご自身の神殿としてくださり、私たちの日々の営みを、生きた犠牲の供え物として喜んで受け入れてくださることでしょう。

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왕의 매장

2024년 9월29일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

마가복음 15장 40~47절

서론

유대의 왕 예수・그리스도는 오후 3시에 십자가상에서 숨을 거두셨습니다. 그 죽음은, 우롱과 비웃음 가운데 제자들에게 버림받고, 군중에게 버림받고, 그리고 하나님에게 버림받은 절망적인 죽음이었습니다. 그러나 오늘 본문을 통해, 하나님의 다정한 빛이 쏟아지고 있음을 확인할 수 있습니다. 그 다정한 빛이란, 끝까지 무덤을 지켜 본 여인들과 아리마대 요셉에 의한 매장입니다. 절망적인 죽음을 당한 예수님에 대해 조금이라도 부끄러움을 제거하고자 한, 사람들의 행실을 통해, 하나님께서 다정한 빛을 부어주셨습니다. 오늘도 마가복음 15장을 통해 말씀의 은혜를 얻고자 합니다.

(1) 끝까지 지켜본 여성들

마가복음에서는 여성 제자의 존재에 대해 그다지 자세히 나와 있지 않습니다. 왜 그동안 여성에게 스포트라이트가 맞춰지지 않았는가 하면, 그것은, 당시 사회가 남존여비의 사회였기 때문이라고 생각됩니다. 그런데 지금, 남성 제자들이 모두 도망쳐 버렸기 때문에 남겨진 여성들에게 스포트라이트가 집중되고 있는 것입니다. 40,41절을 보시겠습니다.

40 멀리서 바라보는 여자들도 있었는데 그 중에 막달라 마리아와 또 작은 야고보와 요세의 어머니 마리아와 또 살로메가 있었으니

41 이들은 예수께서 갈릴리에 계실 때에 따르며 섬기던 자들이요 또 이 외에 예수와 함께 예루살렘에 올라온 여자들도 많이 있었더라

「막달라 마리아」란 갈릴리 호수 근처 마을인 막달라 마을 출신으로, 갈릴리에서 예수님을 함께 따라왔다는 것을 알 수 있습니다. 그녀는 예수님으로부터 일곱 악령을 쫓아냄을 받았습니다. 「소야곱과 요세의 어머니 마리아」란, 아마도 열두 제자 중 한 명인 알패오의 아들 야고보와 요세의 어머니라고 생각됩니다. 살로메는, 세배대의 두 아들인 야곱과 요한의 어머니입니다. 그녀들은 예수님을 따라와서 보살폈다고 하니, 예수님 일행의 식사 준비 등을 하고 있었는지도 모릅니다. 예수님을 사랑하며 끝까지 그 자리를 떠나려 하지 않았던 그녀들에게 소중한 역할이 주어졌습니다. 그 역할은, 그녀들 자신, 이 시점에서 전혀 알려진 바는 없지만, 그녀들이 예수님의 죽음을 끝까지 지켜본 것, 그 후 무덤에 매장 된 것, 뇌리에 박힌 하나하나의 장면이, 나중에 초대교회안에서 「부활의 증인」으로서의 매우 중요한 역할을 맡게 되는 것입니다. 그녀들은 단지 「방관자」로서의 역할이 아니라 「부활의 증인」으로서의 역할이 하나님께로부터 주어진 것입니다. 이 여성들에 대한 기사는, 초대 교회에 의한 창작이 아니라, 틀림없는 사실이라고 생각됩니다. 왜냐하면, 만약 교회가 예수님이 십자가에서 죽은 뒤 예수님 부활의 증인 이야기를 나중에 창작하려고 했다면, 당시 유대 사회에서 여성은 증인으로 인정되지 않았기 때문에 당연히, 남성 증인을 발탁했을 것이기 때문입니다. 그러나 굳이 「여성이 증인으로 세워진 기사」가 전해지고 있는 것으로 보아, 이 복음서의 기사가 창작이나 나중에 덧붙여진 이야기 등이 아니라 더없는 사실에 가까운 내용이라고 생각할 수 있습니다.

(2) 매장된 것의 중요성

자, 예수님의 시체가 매장된 기사는, 네 복음서 모두에서 이야기되고 있습니다. 주 예수님이 십자가에 못박혀 죽은 것뿐만 아니라 무덤에 매장된 것도 반드시 써서 전해야 한다고 생각했다는 것이겠지요. 우리가 예배에서, 성찬식 후 고백하고 있는 사도신경에도, 주 예수께서 「고난을 받으사, 십자가에 못 박히시고, 죽으시고 장사한지」라고 말하고 있고, 「십자가에서 죽었다」는 것도 모자라 「장사한지」라는 말이 다짐하듯 나옵니다. 그 배경에는 초대 교회에 나타난 이단의 가르침이 있었다고 생각됩니다. 이단의 가르침, 그들은 주 예수님이 영원히 살아 계시는 하나님의 자녀라는 믿음을 가지고 있었습니다. 그래서 하나님이신 분이, 로고스이신 분이 죽었다는 것을 도저히 받아들일 수가 없습니다. 그리고 그들은 다음과 같이 생각했습니다. 「하나님이신 분, 로고스인 분이 십자가에서 죽은 것이 아니라 가사상태에 빠졌을 뿐, 실은 무덤 속에서 소생한 것이다」혹은 「십자가 위에서 육체가 죽기 전에 육체에서 영혼이 로고스로서 빠져나와 혼이 떠나간 시체가 되었다. 예수・ 그리스도는 로고스로 영원히 살아계신다」등의 주장을 하며 어쨌든 하나님의 자녀 예수님의 죽음을 받아들이지 않으려는 것입니다. 이러한 사고방식은 예수님이 가져오는 구원이란 영의 구원, 영혼의 구원이지 육체의 구원이 아니라는 가르침으로 발전하여 소위 「영육이원론」이라는 가르침이 되어 맹위를 떨칩니다. 초대교회는 이런 잘못된 가르침과 싸워야 했습니다. 그렇다면 「매장된 것」, 그것이 왜 그렇게 중요할까요? 그것은 매장은 예수님의 죽음을 확정하고 보장하는 것이기 때문입니다. 그렇다면 「이스라엘 왕의 죽음」이 왜 중요할까요? 그것에 대해서는 매회 강단에서 이야기하고 있습니다. 「이스라엘 왕의 죽음」, 즉 「메시아의 죽음」, 「하나님의 자녀의 죽음」은 많은 사람의 몸값으로 바쳐지는 죽음이기 때문입니다. 마가복은 10장 45절을 읽겠습니다.

인자가 온 것은 섬김을 받으려 함이 아니라 도리어 섬기려 하고 자기 목숨을 많은 사람의 대속물로 주려 함이니라

마가복음음 10장 45절에는 「모든 사람」이 아니라 「많은 사람」이라고 적혀 있는 것에 주의하시기 바랍니다. 예수님은 모든 인류의 머리가 아니라는 것입니다. 예수님은 모든 사람의 선지자, 왕, 제사장이 아닙니다. 예수님은 이스라엘의 머리, 교회의 머리이자 시온의 왕으로 기름부음을 받았습니다. 따라서 예수・그리스도의 죽음은, 모든 인류를 속죄하기 위한 죽음이 아니라, 자신에게 연합되어 있는 교회를 속죄하기 위한 죽음이라는 것입니다. 다시 말씀드리면 예수님은 온 인류를 위해서 죽으신 것이 아니라 이스라엘의 왕으로서, 유대의 왕으로서, 자신의 백성을 위해 죽으신 것입니다. 그리고 매장은, 이 이스라엘 왕이 죽었다는 것을 공개하고 날인을 하는 것입니다. 더 말하자면 매장된 장소가 확정됨으로써, 그 장소가 바로 부활의 영광이 드러나는 장소가 되기 때문입니다. 그래서 교회 교리의 중요한 기초가 되는 「예수님의 매장」에 대해 네 복음서는 거듭 다짐하듯 말하고 있습니다.

(3) 요셉의 믿음

이미 저녁이 되었고 곧 날짜가 바뀌려고 합니다. 그날은 안식일 준비의 날, 즉 안식일 전날이었기 때문에, 날짜가 바뀌면 더 이상 아무것도 할 수 없습니다. 당시 유대인의 정서로 볼 때 죽은 사람의 장례를 정중히 치르는 것은 상식이었고, 비록 십자가형에 처해진 악당이라도 해가 지기 전에 내려주고 매장해주고 싶은 것이 보통의 감정이었습니다. 신명기에는 다음과 같은 말씀이 있습니다. 신명기 21장 22,23절 말씀을 보시기 바랍니다.

22 사람이 만일 죽을 죄를 범하므로 네가 그를 죽여 나무 위에 달거든

23 그 시체를 나무 위에 밤새도록 두지 말고 그 날에 장사하여 네 하나님 여호와께서 네게 기업으로 주시는 땅을 더럽히지 말라 나무에 달린 자는 하나님께 저주를 받았음이니라

이 날은 특히 안식일 준비의 날이었기 때문에 나무 위에 달린 시체로 안식일을 더럽히고 싶지 않다는 감정도 있었을 것입니다. 그런 유대인의 정서는 로마 당국자들도 이해하고 있었기 때문에 그런 사고방식은 존중될 것이 틀림없습니다. 그러나 그렇다고 남성 제자들이 모두 겁을 먹고 달아난 가운데 요셉이 빌라도에게 가서 예수님의 시체를 달라고 청한 것은 매우 대담한 행동이었습니다. 이 요셉이라는 사람은 도대체 어떤 인물이었을까요? 43절을 보시겠습니다.

아리마대 사람 요셉이 와서 당돌히 빌라도에게 들어가 예수의 시체를 달라 하니 이 사람은 존경 받는 공회원이요 하나님의 나라를 기다리는 자라

「아리마대 사람」이라고 합니다. 아리마대는 예루살렘에서 북서쪽 약 33km에 있는 「라마다임소빔」을 말합니다. 구약성경의 선지자 사무엘이 태어난 마을도 라마다임소빔이었습니다. 또 「존경받는 공회원」이라고 하니 요셉은 유대 대법원의 의원 중 한 명이었을 것입니다. 이 대법원은 예수님에 대해 사형 판결을 내렸습니다. 한밤중에 대제사장 가야바의 집에서 행해진 종교 재판에서입니다. 아마도 요셉은 이 결의에 적극적으로는 동의하지 않았다고 생각됩니다. 병행기사인 누가복음 23장 50,51절에 다음과 같이 적혀 있기 때문입니다. 그대로 들어주세요.

50 공회 의원으로 선하고 의로운 요셉이라 하는 사람이 있으니

51 (그들의 결의와 행사에 찬성하지 아니한 자라) 그는 유대인의 동네 아리마대 사람이요 하나님의 나라를 기다리는 자라

요셉은 은밀히 예수님의 가르침에 감명받아 예수님께 있는 하나님 나라의 도래를 믿었던 것 같습니다. 자신의 입장이 있기에, 예수님을 따르고, 직접 모시지는 않았지만, 그러나 예수님을 오실 메시아라고 마음속 어딘에서 믿었던 것 같습니다. 그러던 중 지금 예수님이 십자가상에서 이상한 일을 동반하고 죽어가는 것을 목격하고 자신도 예수님을 믿는 자 중 한 명임을 공언하지 않을 수 없다는 생각에 사로잡힌 것입니다.

이 요셉의 용기에 대해, 저자 마가는 「하나님의 나라를 기다리는 자」라고, 한마디 덧붙이고 있습니다. 그렇다 치더라도, 요셉의 이 행동은 매우 과감한 행동으로 보입니다. 왜냐하면 총독 빌라도에게 나아가 예수님의 시체를 자기에게 달라고 청할 때 요셉에게 분명히 몇 가지 위험이 따르기 때문입니다. 그 위험이라는 것은 첫째, 로마 총독에게 「당신이 행한 이 십자가형은 실수였습니다」라는 메시지를 발하게 됩니다. 그래서 빌라도편에서 보면 요셉의 청원은 로마에 대한 반역자, 총독 빌라도에 대한 반역자로 비칠 수 있습니다. 둘째, 요셉은 유대 사회에서 존경 받는 공회원이었는데, 즉 사람들로부터 큰 존경을 받았는데, 이 유대 대법원이 내린 결의에 대해서도 「사실 그것도 터무니없는 큰 실수였다」는 메시지를 보내게 됩니다. 이러한 메시지를 전달함으로써 그동안 요셉이 유대 사회에서 쌓아온 높은 지위를, 그리고 그에 따른 재산과 사람들의 존경을 잃을 수 있었습니다. 그런 갈등이 있었음에 틀림없습니다. 그러나 “그런 일에 더 이상 사로잡혀 있을 때가 아니다!” “하나님의 나라를 기다리는 자로서 지금 여기서 자신에게 주어진 힘을 이용해 내가 할 수 있는 일을 해야 한다!”라고 요셉은 생각했습니다. 주변에는 갈릴리에서 따라온 많은 여성들이 있었지만, 이들은 직접 빌라도를 알현 할 수 없습니다. 즉 요셉의 지위가 아니면 직접 빌라도에게 청을 하는 것은 불가능했습니다. 「예수님의 시체를 거두게 하소서」라고 말할 수 있는 사람은 자신뿐입니다. 하나님의 나라를 고대하는 자로서, 그런 마음으로 요셉은 빌라도 앞으로 나갔습니다.

빌라도는 십자가 위의 예수가 벌써 죽었는지 의아해하며 백부장에게 알아보게 했습니다. 보통 십자가상의 사형수는 2,3일 정도 고통받으며 죽어갑니다. 예수님의 죽음은 생각보다 빨랐기 때문에 빌라도는 이상하게 생각했을 것입니다. 이때 예수님이 분명히 죽었다는 것이 백부장에 의해서도 확인되었습니다. 그런 까닭에 시체는 요셉에게 내주어졌습니다. 곧 날짜가 바뀌려고 합니다. 이때 요셉은 자신의 행실의 의미를 완전히 이해하고 있었던 것은 아니었습니다. 다만 하나님의 나라를 고대하는 자로서 제한된 시간 안에 예수님의 시체를 정중히 묻고 싶은 것뿐입니다. 시체를 바위로 파낸 무덤에 넣었는데, 이 무덤도 물론 예수님을 위해 마련한 것은 아니었을 것입니다. 자신을 위해 혹은 자신의 가족을 위해 준비했던 것(마태복음 27장 60절)을 마침 이때 예수님을 매장하기 위해 사용한 것입니다. 세마포를 사두었다는 것도 설마 이때를 미리 내다보고 사 놓은 것은 아니고 우연히 이전에 사두었던 신품 세마포가 있어서 그것을 사용했다는 것이라고 생각합니다. 어쨌든 하나님의 나라를 기다리는 자로서 제한된 시간 내에 할 수 있는 일을 힘껏 했을 뿐입니다. 그러면 어떨까요? 하나님께서는 그런 하나님의 나라를 고대하는 자로서의 행실을, 부활의 영광을 증명하기 위해 사용하신 것입니다. 생각해 보십시오. 만약 요셉이 이처럼 자신을 위해 마련해 놓는 새 무덤에 매장하지 않았다면 예수님의 시체는 구덩이에 던져져 개나 새에게 먹혔을 가능성이 있었던 것입니다. 만약 요셉이 이런 일을 하지 않았다면 예수님이 부활하시더라도 과연 그분이 십자가상에서 죽은 예수・그리스도임을 증명하지 못할 수도 있었던 것입니다. 만약 요셉이 이런 일을 하지 않았다면 이단의 가르침에 현혹되어 「예수님은 결코 죽지 않았다. 하나님의 아들이신 분이 죽을 리 없다」고 많은 사람들이 잘못 믿어 버렸을 것입니다. 하나님의 나라를 기다리는 자로서의 자신이 할 수 있는 최대한의 행실이 하나님에 의해 사용되었고, 그 일이 부활의 영광을 증명하기 위해 사용된 것입니다. 자신이 할 수 있는 최선의 행실이, 교회 교리의 중요한 기초가 되는 「매장된 것」의 증거로서 구전되게 된 것입니다.

적용

오늘의 내용을 정리하겠습니다. 하나님의 나라를 기다리는 자로서 예수님에 대한 아주 작은 마음씀이나, 배려, 그가 할 수 있었던 최선의 행실은, 하나님의 부드러운 빛에 비추어 초대교회 교리에서 빼 놓을 수 없는 매우 중요한 역할을 담당하게 되었습니다. 우리의 예수님에 대한 매일의 작은 행실도 하나님께서는 똑같이 사용해 주시고 하나님 나라 안에서 빼놓을 수 없는 봉사로 끌어올려 주실 것입니다. 우리에게는 하나하나 행실의 참뜻을 지금은 이해할 수 없지만, 하루하루의 영위 속에서 하나님의 나라를 고대하는 자로서 교회의 형제자매를 섬기며 이웃과 직장 동료에게 친절하게 대하며 성실하게 걷는 자가 되도록 합시다. 하나님은 성도들을, 자신의 성전으로 간주 하시고, 우리의 매일의 행실을 살아있는 희생 제물로 기쁘게 받아주실 것입니다.

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