2024年09月22日「神に見捨てられた神の子 하나님께 버림받은 하나님의 아들」

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神に見捨てられた神の子 하나님께 버림받은 하나님의 아들

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 15章33節~41節

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聖句のアイコン聖書の言葉

33昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
34三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
35そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。
36ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。
37しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
38すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
39百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
40また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。
41この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 15章33節~41節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

十字架刑は、激痛の中、死ぬまで放置させる極刑であり、ローマの市民権を持っている人には、執行されてはならない死刑法でありました。よく、絵画では十字架のイエス様を、腰布がかけられて描かれていますが、実際は腰布などなかったでしょう。まさに「恥」と「痛み」と「呪い」の極み、それが十字架刑でありました。15章25節には、「イエスを十字架につけたのは午前九時ごろであった」と書かれていますが、本日の箇所の冒頭には、「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と書かれています。従って六時間もの間、その残虐な十字架刑によって苦しんでいる姿を、人々は見世物でも見るかのようにして愚弄し、罵りながら、見ていたということです。イエス・キリストは弟子たちに見捨てられ、人々に見捨てられ、神に見捨てられた者として描かれているのです。

【1】. 神の審判

全地が暗くなったとありますが、これは日食でも起こったのでしょうか。しかし、皆既日食の継続時間は、せいぜい3~4分です。正午から午後三時まで、三時間も続くような日食など、とても考えられません。それでは、砂嵐によって太陽が遮られたのでしょうか。或いは厚い雲によって遮られたのでしょうか。この現象をうまく説明することは出来ませんが、それにしても太陽が最も高くなる正午の時間帯に、全地が暗くなったというのは、ただ事ではありません。奇跡が起こったということでしょう。注解書を見ますと、ある人は、人間たちによって悩まされている御子の姿を、父なる神はとても直視することができなかったために、覆い隠したのではないかと主張しています。また、ある人は、エジプトに対する裁きとして「十の災い」の中の「暗闇の災い」を引用しながら、エジプトに裁きが下ったように、神の怒りと裁きがゴルゴタの十字架の上に臨んでいるのではないかと主張しています。私も後者の意見に賛成です。つまり暗闇とは、神の審判を象徴的に表す奇跡だと思います。神様に見捨てられること、それこそまさに神の裁きだからです。その審判の中で、苦悩の末、イエス様は大声で叫ばれ、そして息を引き取られました。34~37節をご覧ください。

“三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。”

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」これは、アラム語で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。普段、イエス様は天の父なる神に祈る際、「父よ」と呼びかけています。ところがここでは、「わが神」と呼びかけています。これは、イエス様がこの瞬間、罪人として審判を受け、父との関係が断絶され、見捨てられたということが描かれているのだと思います。十字架上での絶望的なイエス様の苦悩は、詩編22編の内容と重なってきます。22編2~9節をご覧ください。

“わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」”

「苦難の僕」を描写している詩編22編の作者は、それでも自分が救い出されることを確信していました。詩編22編を最後まで読むと、さらにはっきりわかりますが、聖所におられる神に依り頼むなら、イスラエルの先祖たちと同じように最終的には救い出され勝利するという希望に満ちています。同じくイエス様も、ぶっちゃけて言うと、少し楽観的な思いで「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫んだのでしょうか。そうではないと思います。その理由は、まず、罪人として父なる神と関係が断絶され、完全な審判を受けること、これは、私たちの中でまだ、誰一人味わったことがないという事に目を向けなければなりません。律法には罪の代価は死であると書かれていますが、アダムは罪を犯してすぐに死んだわけではなく、堕落後、完全な審判が下された訳でもなく、審判はなお留保されているからです。つまり、この世で罪人に対する神の審判は留保されているのです。しかし、イエス様に降った審判は完全な審判でありました。私たちが体験したことのない審判です。多くの人々が犯した罪と咎を、一身に背負って神の怒りと審判を受けられたのです。イエス様の味わった恐怖と悲しみはどれ程だったのか、それは私たちが決して想像することができないものであったに違いありません。この十字架の出来事について、ガラテヤ書3:13には次のように書かれています。ご覧ください。ガラテヤ書3:13です。大変有名な御言葉です。

“キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。”

イエス様は私たちの代わりに、神の怒りと神の審判を、その身に受けてくださいました。しかし、そのことを理解できなかったそこに居合わせた人々は、「そら、エリヤを呼んでいる」と言いました。これはどういうことかと言いますと、十字架上でエリヤに最後の命乞いをしていると考えたのであります。そのように考えたのは、当時のユダヤ人の間に、神の民が困難に陥った時、エリヤが天から助けてくれるという信仰が、背景にあったからだと思われます。エリヤは死なずに天に引き上げられたと聖書に書かれているため、神の導きにより、いつでも地上に来ることができると信じられていたようです。そこで、ある者がイエス様に走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて、イエス様に飲ませようとしました。酸いぶどう酒とは、水よりも効果的にのどの渇きを潤す飲み物ですから「気付け薬」を与えたという事です。この行動は、彼らが憐みの心でそうしたというより、むしろ、エリヤが本当に来るのかどうか、興行をもっと楽しみたい、ショーをもっと楽しみたいという好奇心から、そうしたと思われます。十字架上でのイエス様の最後の祈りの言葉でさえ、人々はこのように侮辱して受け止めたのでした。しかし、この後、侮辱は完全に止むことになります。

【2】. 神殿の役割の終焉

イエス様は大声を出してから息を引き取られました。ギリシア語を直訳すると、「息を(霊を)、はき出された」となっています。その時、はっきりと分かる奇跡が起こりました。神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂かれたのです。この「垂れ幕」というのは、至聖所を覆っている垂れ幕のことを指していますが、下からではなく、上から下という言葉に注目してください。これは、人間によってではなく、神様によって裂かれたという事を意味します。皆様もご存じのように、神殿の中には至聖所と聖所に区分されていて、至聖所は、聖なる神が臨在される場所として、大祭司は年に一度しか入ることが許されませんでした。しかも、もし大祭司が汚れている場合、至聖所の中で即死する可能性もありましたので、腰に紐を結わいつけて、緊張感を持ちつつ、万が一の時は大祭司の体を引っ張り出すことができるようにしました。これらは全て、神の聖さを私たちに教えるものです。聖なる神様は、罪人である私たちから完全に超越しておられ、聖なる神様と罪人である私たちの間には、深い淵が横たわっており、私たちは容易に神様に近づくことは出来ないということを示しています。ところが、この垂れ幕が真っ二つに裂かれました。聖所と至聖所の隔ての壁が取り除かれ、私たちに神へ近づく道が開かれたということです。ヘブライ人の手紙10:19~20(聖書協会共同訳)をご覧ください。

“それで、きょうだいたち、私たちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生ける道を私たちのために開いてくださったのです。”

旧約聖書の全ての犠牲祭事は、やがて献げられるまことの供え物であるイエス・キリストを指し示すものでありました。今や、完全な犠牲の供え物が十字架を通して献げられ、神殿の秩序と役割に終わりが告げられました。ですから垂れ幕が裂かれたというのは、「神殿の崩壊の象徴」として受け止めることができると思います。今や、イエス・キリストという門を通して、誰でも神に近づけるようになったのです。神ご自身に至る「生ける道」を、イエス様の十字架の死によって開いてくださったのです。そして、神に見捨てられ、神の完全な審判を受けたイエス様が「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたために、私たちはもはや、そのように叫ぶ必要がなくなったということです。私たちの日々の歩みの中で依然として、「神様何でですか?」と叫びたくなること、理不尽な扱いを受けて絶望的な思いになることが、あるかもしれません。しかし、私たちがイエス様に依り頼むなら、私たちは決して神に見捨てられることはないのです。

【3】. 百人隊長による告白

この奇跡が起こった時、そばに立っていた百人隊長は、これを見て「本当にこの人は神の子だった」と言いました。この時、百人隊長の位置ですが、ギリシア語を見ますとイエス様の後ろや両隣ではなく、前にイエス様に向かい合って立っていたとなっています。通常ローマ人は、ローマ皇帝に対し「神の子」という言葉を使いました。このローマ人の百人隊長が、どのような意味で「神の子」と言ったのかははっきりとは書かれていませんが、少なくとも、百人隊長の告白は、ローマ皇帝ではなく、この人こそまさに「神の子」であったという告白であり、それは命がけの告白だったに違いありません。また、ルカによる福音書を見ますと、百人隊長は神を賛美したと書かれています。ルカ23:46~47をご覧ください。

“イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。”

聖霊が臨まない限り、神を賛美することなんかできません。ですから、この時イエス様が霊を吐き出され、正面にいた百人隊長にキリストの霊が臨んだため、このような信仰告白に導かれたというふうにも考えることができるのです。そして、何よりも私たちが注目したい点は、マルコの福音書が、ここで百人隊長の口を通して「神の子」という言葉を使用したという点です。これは、大変驚くべきことです。なぜなら、人間の口を通して、イエス様に対し「神の子」と告白されたのは、マルコ福音書の中でこの箇所が初めてだからです(参照1:1、3:11)。8:29のフィリポ・カイサリアでのペトロの信仰告白においても、「神の子」という言葉は出てきませんでした。著者マルコは「神の子」という言葉を、明らかに慎重に使っています。その理由は、マルコによる福音書全体に一貫して流れているテーマが「一体、あなたは誰ですか?」という質問であるからです。さらに言えば、「神は本当に生きておられるのですか?」という質問であるからです。当時、皇帝ネロの迫害の中にあったローマのキリスト者たちは、ローマに火をかけた放火罪という濡れ衣を着せられ、次々と捕らえられ、猛獣の餌食にされたり、十字架にかけられたり、松明代わりに燃やされて処刑にされました。そのような彼らから出て来た質問に答えるために、この福音書は書かれたと考えられています。「一体、あなたは誰ですか?」「本当に、神という方が生きておられるなら、私たちを何故このように惨めで、悲惨な迫害の中に放置されるのでしょうか?」という質問でした。今、百人隊長は、その質問に答えてくれているのです。「ローマ皇帝ではない、このお方こそ神の子だった」と。ネロの迫害下のローマのキリスト者と同じように、私たちもこの世において、生きれば生きるほど、理不尽なこと、悔しい思いを体験することでしょう。この世はユートピアでないこと、この世は暗闇であり、一切希望がないことを知らされるようになるでしょう。しかし、イエス様の十字架の死によって垂れ幕が真っ二つに裂かれ、闇に閉ざされている私たちに光が射しこみました。神の子が、多くの人の罪の贖いの代価として献げられたからです。この方にあって、罪が赦され、隔ての壁は取り除かれ、生ける道が開かれたのです。ですから、たとえどんなに悔しい状況に置かれても、たとえどんなに理不尽な扱いを受けても、イエス様にある私たちは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばなくても良いのです。なぜなら、イエス様にあって神様と共に歩むことが出来るからです。イエス様にあって神の御顔の光に照らされて、神の守りと、恵みと平和の内に歩むことが出来るからです。

【結論】

本日の内容をまとめます。この世はユートピアではなく、この世には希望がありません。しかし、イエス・キリストを信じる者たちに、新しい生ける道の扉が開かれました。イエス様が十字架上で私たちの身代わりに、神に見捨てられ神の怒りと審判を受けて「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれて死なれたからであります。私たちはキリストという門を通して、神と共に歩むことができます。この方を通して、神の守りと、恵みと、平和を受け取ることが出来るようになったのです。「本当にこの人は神の子だった」という百人隊長の告白が、皆様の信仰の営みを通して日々証しとなって出てくるようにお祈りいたします。

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하나님께 버림받은 하나님의 아들

2024년 9월 22일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

마가복음 15장 33~41절

서론

십자가형은 극심한 고통 속에서 죽을 때까지 방치시키는 극형으로, 로마 시민권을 가진 사람에게는 집행되어서는 안 되는 사형법이었습니다. 흔히, 그림에서는 십자가의 예수님을 허리에 천을 걸친 모습으로 묘사했지만 실제로는 그런 천 같은 것은 없었을 것입니다. 바로 「부끄러움」과 「통증」과 「저주」의 극치, 그것이 십자가형이었습니다. 15장 25절에는 「때가 제삼시가 되어 십자가에 못 박으니라」고 적혀 있는데, 오늘 부분 첫머리에는 「제육시(정오)가 되매 온 땅에 어둠이 임하여 제구시(오후3시)까지 계속하더니」라고 적혀 있습니다. 따라서 6시간 동안 그 잔학한 십자가형으로 고통받는 모습을 사람들은 구경거리라도 보는 것처럼 우롱하고 욕하면서 지켜봤다는 것입니다. 예수・그리스도는 제자들에게 버림받고, 사람들에게 버림받고, 하나님께 버림받은 자로 묘사되고 있는 것입니다.

(1) 하나님의 심판

온 땅에 어둠이 임했다고 합니다만, 이것은 일식이라도 일어난 것일까요? 그러나 개기일식의 지속 시간은 기껏해야 3~4분입니다. 정오부터 오후 3시까지 세 시간이나 계속되는 일식 등은 도저히 생각할 수 없습니다. 그렇다면 혹시 모래 폭풍에 의해 태양이 가려지게 된 것일까요. 아니면 두꺼운 구름에 의해 가려졌을까요? 이 현상을 잘 설명할 수는 없지만, 그렇다 치더라도 태양이 가장 높아지는 정오 시간대에, 온 땅이 어두워졌다는 것은 예삿일이 아닙니다. 기적이 일어났다는 것입니다. 주해서를 보면, 어떤 사람들은 인간들로 인해 괴로워하는 독생자의 모습을, 아버지 하나님은 도저히 직시할 수 없었기 때문에 어둠으로 덮어 가린 것이 아니냐고 주장하고 있습니다. 또 어떤 사람은, 애굽에 대한 심판으로 「열가지 재앙」가운데의 「흑암의 재앙」을 인용하면서, 애굽에 심판이 내려진 것처럼, 하나님의 진노의 심판이, 골고다의 십자가 위에 임하고 있는 것이 아니냐고 주장하고 있습니다. 저도 후자의 의견에 찬성합니다. 즉 「어둠」이란 하나님의 심판을 상징적으로 나타내는 「기적」이라고 생각합니다. 하나님께 버림 받는 것, 그것이야말로 바로 하나님의 심판이기 때문입니다. 그 심판 속에서, 고뇌 끝에 예수님은 큰 소리로 외쳤고, 그리고 숨을 거두셨습니다. 34~37절을 보시겠습니다.

34 제구시에 예수께서 크게 소리 지르시되 엘리 엘리 라마 사박다니 하시니 이를 번역하면 나의 하나님, 나의 하나님 어찌하여 나를 버리셨나이까 하는 뜻이라

35 곁에 섰던 자 중 어떤 이들이 듣고 이르되 보라 엘리야를 부른다 하고

36 한 사람이 달려가서 해면에 신 포도주를 적시어 갈대에 꿰어 마시게 하고 이르되 가만 두라 엘리야가 와서 그를 내려 주나 보자 하더라

37 예수께서 큰 소리를 지르시고 숨지시니라

「엘리 엘리 라마 사박다니」이것은 아람어로 「나의 하나님, 나의 하나님이여 어찌하여 나를 버리셨나이까」라는 뜻입니다. 평소 예수님은 하늘의 아버지 하나님께 기도하실 때 「아버지여」라고 부르셨습니다. 그런데 여기서는 「나의 하나님」이라고 부르고 있습니다. 이것은 예수님이 이 순간 죄인으로 심판을 받으시고 아버지와의 관계가 단절되고 버림받았다는 것이 그려져 있는 것이라고 생각합니다. 십자가상에서의 절망적인 예수님의 고뇌는 시편 22편의 내용과 겹쳐집니다. 22편 1~8절을 보시겠습니다.

1 내 하나님이여 내 하나님이여 어찌 나를 버리셨나이까 어찌 나를 멀리 하여 돕지 아니하시오며 내 신음 소리를 듣지 아니하시나이까

2 내 하나님이여 내가 낮에도 부르짖고 밤에도 잠잠하지 아니하오나 응답하지 아니하시나이다

3 이스라엘의 찬송 중에 계시는 주여 주는 거룩하시니이다

4 우리 조상들이 주께 의뢰하고 의뢰하였으므로 그들을 건지셨나이다

5 그들이 주께 부르짖어 구원을 얻고 주께 의뢰하여 수치를 당하지 아니하였나이다

6 나는 벌레요 사람이 아니라 사람의 비방거리요 백성의 조롱 거리니이다

7 나를 보는 자는 다 나를 비웃으며 입술을 비쭉거리고 머리를 흔들며 말하되

8 그가 여호와께 의탁하니 구원하실 걸, 그를 기뻐하시니 건지실 걸 하나이다

「고난의 종」을 묘사하고 있는 시편 22편의 작가는, 그래도 자신이 구원받을 것을 확신하고 있었습니다. 시편 22편을 끝까지 읽으면, 더 분명하게 알 수 있지만, 지성소에 계신 하나님을 의지한다면 이스라엘 조상들과 마찬가지로 결국 구원받고 승리할 것이라는 희망이 가득합니다. 마찬가지로 예수님도 솔직히 말하면, 조금 낙관적인 생각으로 「엘리 엘리 라마 사박다니」라고 외치셨을까요? 그렇지 않다고 생각합니다. 그 이유는, 먼저 죄인으로서 아버지 하나님과 관계가 단절되고, 온전한 심판을 받는 것, 이것은 우리 가운데 아직 누구 하나 맛본 적이 없다는 것에 눈을 돌려야 합니다. 율법에는 죄의 대가는 죽음이라고 적혀 있지만, 아담은 죄를 짓고 바로 죽은 것이 아니며 타락 후 완전한 심판이 내려진 것도 아니고 심판은 여전히 유보되어 있기 때문입니다. 즉, 이 세상에서 죄인에 대한 하나님의 심판은 유보되어 있는 것입니다. 그러나 예수님께 내려진 심판은 완전한 심판이었습니다. 우리가 겪어보지 못한 심판입니다. 많은 사람들이 지은 죄와 허물을, 한 몸에 짊어지고 하나님의 노여움과 심판을 받으신 것입니다. 예수님이 맛보신 공포와 슬픔이 어느 정도였는지, 그것은 우리가 결코 상상할 수 없는 것이었음에 틀림없습니다. 이 십자가 사건에 대해 갈라디아서 3장 13절에는 다음과 같이 적혀 있습니다. 보시기 바랍니다. 갈라디아서 3장 13절입니다. 매우 유명한 말씀입니다.

그리스도께서 우리를 위하여 저주를 받은 바 되사 율법의 저주에서 우리를 속량하셨으니 기록된 바 나무에 달린 자마다 저주 아래에 있는 자라 하였음이라

예수님은 우리 대신 하나님의 노여움과 하나님의 심판을 그 몸에 받아주셨습니다. 그러나 그 일을 이해하지 못한 그곳에 있던 사람들은 「보라 엘리야를 부른다」하고 말했습니다. 이게 무슨 말이냐면, 십자가상에서 엘리야에게 마지막 목숨을 구걸하고 있다고 생각했던 것입니다. 그렇게 생각한 것은 당시 유대인들 사이에 하나님의 백성들이 어려움에 빠졌을 때 엘리야가 하늘에서 도와줄 것이라는 믿음이 배경에 있었기 때문이라고 생각됩니다. 엘리야는 죽지 않고 하늘로 끌어올려졌다고 성경에 적혀 있기 때문에 하나님의 인도에 따라 언제든 지상으로 올 수 있다고 믿었던 것 같습니다. 그래서 어떤 자가 예수님께 달려가 해면에 시큼한 포도주를 머금어 예수님께 먹이려고 했던 것입니다. 시큼한 포도주는 물보다 효과적으로 갈증을 풀어주는 음료이기 때문에 각성제를 주었다는 것입니다. 이 행동은 그들이 연민의 마음으로 그랬다기보다 오히려 엘리야가 정말 올지, 구경거리를 더 즐기고 싶다, 쇼를 더 즐기고 싶다는 호기심에서 그랬다고 생각됩니다. 십자가상에서의 예수님의 마지막 기도의 말씀조차 사람들은 이렇게 모욕하고 받아드린 것이었습니다. 그러나 이후 모욕은 완전히 멈추게 됩니다.

(2) 성전 역할의 종언

예수님은 큰 소리를 지르시고 숨을 거두셨습니다. 헬라어를 직역하면 「숨을(영을) 뱉어냈다」라고 되어 있습니다. 그때 분명히 알 수 있는 기적이 일어났습니다. 성소 휘장이 위로부터 아래까지 찢어져 둘이 됐습니다. 이 「휘장」이라는 것은 성소와 지성소를 구분하는 휘장을 가리키는데, 아래부터가 아니라 위로부터 아래까지라는 말에 주목하십시오. 이것은 인간에 의해서가 아니라 하나님에 의해서 찢어졌다는 것을 의미합니다. 여러분도 아시다시피, 성전 안에는 지성소와 성소로 구분되어 있었고, 지성소는 거룩한 하나님이 임재하시는 곳으로서, 대제사장은 1년에 한 번만 들어갈 수 있었습니다. 게다가 만약 대제사장이 부정해져 있을 경우 지성소 안에서 즉사할 가능성도 있었기 때문에 허리에 끈을 묶어 긴장감을 가지면서, 만일의 경우 대제사장의 몸을 끌어 낼 수 있도록 했습니다. 이것들은 모두, 하나님의 거룩함을 우리에게 가르치는 것입니다. 거룩하신 하나님은, 죄인인 우리에게서 완전히 초월하여 계시고, 거룩하신 하나님과 죄인인 우리 사이에는, 심연이 가로놓여 있어 우리는 쉽게 하나님께 가까이 다가갈 수 없다는 것을 보여줍니다. 그런데 이 휘장이 찢어져 둘이 되었습니다. 성소와 지성소 사이의 칸막이 벽이 제거되고 우리가 하나님께 다가갈 수 있는 길이 열렸다는 것입니다. 히브리서의 10장 19,20절을 참조하시기 바랍니다.

19 그러므로 형제들아 우리가 예수의 피를 힘입어 성소에 들어갈 담력을 얻었나니

20 그 길은 우리를 위하여 휘장 가운데로 열어 놓으신 새로운 살 길이이요 휘장은 곧 그의 육체니라

구약성경의 모든 희생제사는, 곧 바쳐질 진정한 제물인 예수・그리스도를 가리키는 것이었습니다. 이제 완전한 희생제물이 십자가를 통해 바쳐져, 성전의 질서와 역할에 끝이 났습니다. 그래서 휘장이 찢어 졌다는 것은 「성전 붕괴의 상징」으로 받아들일 수 있다고 생각합니다. 이제 예수・그리스도라는 문을 통해, 누구나 하나님께 가까이 다가갈 수 있게 된 것입니다. 하나님 자신에게 이르는 「살 길」을, 예수님의 십자가의 죽음으로 인해 열어주신 것입니다. 그리고 하나님께 버려지고, 하나님의 완전한 심판을 받은 예수님이「나의 하나님, 나의 하나님 어찌하여 나를 버리셨나이까」라고 외치셨기 때문에 우리는 더 이상 그렇게 외칠 필요가 없어졌다는 것입니다. 우리의 매일의 삶 속에서 여전히 “하나님 왜요?”라고 외치고 싶어지는 것, 불합리한 취급을 받아 절망적인 생각이 드는 것이 있을지도 모릅니다. 그러나 우리가 예수님 안에 있다면, 우리는 결코 하나님께 버림받는 일은 없습니다.

(3) 백부장에 의한 고백

이 기적이 일어났을 때, 옆에 있던 백부장이 「이 사람은 진실로 하나님의 아들이었도다」라고 했습니다. 이때, 백부장의 위치에 대해서 입니다만, 헬라어를 보면 예수님의 뒤나 양옆이 아니라, 예수님을 향해서 마주 보고 서 있었다고 되어 잇습니다. 보통 로마인들은, 로마 황제에게 「신의 아들」이라는 말을 사용했습니다. 이 로마인 백부장이 어떤 의미로 「하나님의 아들」이라고 했는지는 분명하게 적혀 있지 않지만 적어도 백부장의 고백은, 로마 황제가 아니라 이 사람이야말로 바로 「하나님의 아들」이었다는 고백이었고, 그것은 목숨을 건 고백이었을 것입니다. 또 누가복음을 보면 백부장은 하나나님께 영광을 돌렸다고 적혀 있습니다. 누가복음 23장 46,47절을 보시겠습니다.

46 예수께서 큰 소리로 불러 이르시되 아버지 내 영혼을 아버지 손에 부탁하나이다 하고 이 말씀을 하신 후 숨지시니라

47 백부장이 그 된 일을 보고 하나님께 영광을 돌려 이르되 이 사람은 정녕 의인이었도다 하고

성령이 임하지 않는 한 하나님께 영광을 돌릴 수 없습니다. 그러니까, 이때 예수님이 영을 뱉어내시고, 정면에 있던 백부장에게 그리스도의 영이 임했기 때문에 이런 신앙 고백으로 이끌렸다는 식으로도 생각할 수 있는 것입니다. 그리고 무엇보다 우리가 주목하고 싶은 점은 마가복음서가 여기서 백부장의 입을 통해 「하나님의 아들」이라는 말을 사용했다는 점입니다. 이것은 매우 놀라운 일입니다. 왜냐하면 인간의 입을 통해 예수님께 「하나님의 아들」이라고 고백된 것은 마가복음 중 이 대목이 처음이기 때문입니다(참조 1장 1절, 3장 11절). 8장 29절의 빌립보・가이사랴에서의 베드로의 신앙고백에서도, 「하나님의 아들」이라는 말은 나오지 않았습니다. 저자 마가는 「하나님의 아들」이라는 말을, 분명히 신중하게 사용하고 있습니다. 그 이유는, 마가복음 전체에 일관되게 흐르는 주제가 「도대체 당신은 누구입니까」라는 질문이기 때문입니다. 더 말하면 「하나님은 정말 살아계십니까」라는 질문이기 때문입니다. 당시, 황제 네로의 박해 속에 있던 로마의 그리스도인들은, 로마에 불을 지른 방화범이라는 누명을 쓰고 차례로 붙잡혀 맹수들의 먹잇감으로 삼겨지거나 십자가에 못 박히거나 횃불 대신 불이 붙여져 인간 횃불이 되어 처형당했습니다. 그런 그들에게서 나온 질문에 답하기 위해 이 복음서는 쓰여진 것으로 생각됩니다. 「도대체 당신은 누구입니까?」「정말 하나님이라는 분이 살아계신다면 우리를 왜 이렇게 처참하고 비참한 박해 속에 방치하시는 것입니까?」라는 질문이었습니다. 지금, 백부장은 그 질문에 「로마 황제가 아닌 이 분이야말로 하나님의 아들이었다」고 대답해 주고 있는 것입니다. 네로의 박해 아래 로마의 그리스도인들과 마찬가지로 우리도 이 세상에서 살면 살수록 불합리한 일, 억울한 일을 겪게 될 것입니다. 이 세상은 유토피아가 아님을, 이 세상은 어둠이며 일체 희망이 없음을 알게 될 것입니다. 그러나 예수님의 십자가 죽음으로 휘장이 둘로 찢어지고, 어둠에 갇혀 있는 우리에게 빛이 비쳐졌습니다. 하나님의 자녀가 여러 사람의 죄를 속죄하는 대가로 바쳐졌기 때문입니다. 이 분 안에서 죄가 용서되고 칸막이 벽은 제거되고 살 길이 열린 것입니다. 그러니 아무리 억울한 상황에 처해져도, 아무리 불합리한 대우를 받아도, 예수님께 있는 우리는, 「나의 하나님, 나의 하나님 어찌하여 나를 버리셨나이까?」라고 외치지 않아도 됩니다. 왜냐하면, 예수님 안에서 하나님과 함께 할 수 있기 때문입니다. 예수님 안에서 하나님의 얼굴의 빛에 비춰져서, 하나님의 보호와 은혜와 평화 속에서 살아갈 수 있기 때문입니다.

결론

오늘의 내용을 정리하겠습니다. 이 세상은 유토피아가 아니며, 이 세상에는 희망이 없습니다. 그러나 예수・그리스도를 믿는 자들에게, 새로운 살길의 문이 열렸습니다. 예수님이 십자가상에서 우리 대신, 하나님께 버림 받고 하나님의 노여움과 심판을 받고 「나의 하나님, 나의 하나님 어찌하여 나를 버리셨나이까」라고 외치며 돌아가셨기 때문입니다. 우리는 그리스도라는 문을 통해, 하나님과 동행할 수 있습니다. 이 분을 통해, 하나님의 보호하심과 은혜와 평화를 얻을 수 있게 된 것입니다. 「이 사람은 진실로 하나님의 아들이었도다」라는 백부장의 고백이, 여러분의 믿음의 영위를 통해 하루하루 간증되기를 기도합니다.

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