2024年09月15日「十字架刑 십자가형(刑)」

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十字架刑 십자가형(刑)

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 15章16節~32節

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聖句のアイコン聖書の言葉

15:16兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。
15:17そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、
15:18「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。
15:19また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。
15:20このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。
15:21そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。
15:22そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。
15:23没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。
15:24それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、/その服を分け合った、/だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。
15:25イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
15:26罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
15:27また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。
15:29そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、
15:30十字架から降りて自分を救ってみろ。」
15:31同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。
15:32メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 15章16節~32節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

神様の救済史は、イスラエルの王メシアが、十字架上で贖いの御業を成就されることによって、そのクライマックスを迎えます。この時、ついに神の真理が明らかにされますが、しかし、その御業を目の前にした人々は、感謝してそれを受け入れるどころか、神の贖いの御業を罵り、侮辱したということが本日の箇所で描かれています。すなわち、神様の真理が、人間の理想とどれほど大きなギャップがあるのか、そして、神様の祝福の方法が、或いは神様の救いの方法が、人間の考えといかにかけ離れているのかが示されています。それでは早速、今朝も聖書に耳を傾けつつ、御言葉の恵みに与って行きたいと思います。15:16節をご覧下さい。

【1】. 十字架刑に対する人間の視点

“兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。”

「総督官邸」という言葉が出てきます。ここは以前、ヘロデ大王の巨大な王宮でありましたが、ユダヤがローマの直轄領となって以来、ローマの総督がエルサレムに来た時に滞在するための場所となっていました。「兵士たち」とは、ローマ兵のことです。十字架刑が確定した罪びとたちは、通常兵士たちによって鞭打ちが加えられ、罵りと侮辱が浴びせられます。ローマの秩序に反し、反乱を起こそうとした自称ユダヤ人の王を罰するために、今回は、普段よりエスカレートされました。既に死刑が決まっている訳ですから、何をしても構わないといったところでしょう。革ひもの鞭には、釘やガラスや石のような鋭い破片が埋め込まれており、それで鞭打ちをされると、皮膚が切り裂かれ、骨にまで達することもあったようです。「部隊の全員を呼び集めた」とありますが、これは「ユダヤ人の王」を、皆で侮辱しからかうためです。このような滑稽な機会を逃してはならないということで、部隊の全員が呼び集められました。17~19節をご覧下さい。

“そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。”

マタイ27:27節によれば、まずイエス様は着ていたものを脱がされたようです(マタ27:28)。その上で紫の服を着せられました。なんの為でしょうか。この「紫の服」とは、ローマ兵の赤い外套であったと考えられますが(マタ27:27)、これは、紫のトーガを着て、月桂冠をかぶり、王笏を手に握ったローマ皇帝カエサルに見立てているのです。神の子カエサルに見立て、侮辱を加えているのです。まさにローマの凱旋式の様子を真似て、「勝利者カエサル、皇帝万歳」と叫ぶように、「ユダヤ人の王、万歳」と敬礼しているのです。葦の棒は王笏の代わりでした。その葦の棒で頭をたたき嘲笑します。唾を吐きかけたのは、皇帝への愛情表現を表すためのキスの代わりでありましょう。このようにさんざん侮辱したあげく、兵士たちはイエス様の紫の外套を脱がせ、再び元の服を着せました(後にこの服は、くじ引きによって分け与えられることになります)。そして、いよいよゴルゴタ、つまり、アラム語でされこうべの場所と呼ばれる刑場に十字架を背負わせる時間となりました。ゴルゴタは、エルサレムの城壁の外にある丘です。その場所には十字架の支柱となる縦の木が刺さっていて、死刑囚はゴルゴタの刑場まで十字架の横木を担がされたようです。21節を見ますと、イエス様の代わりにシモンというキレネ人が担がされたことが語られています。それについては、後でまた触れたいと思いますが、ここで私たちが見つめておくべきことは、イエス様は、もはや自分で十字架の横木を背負うことができないほど衰弱しておられたという事です。イエス様がどんな体格をしておられたのか、聖書は全く語っていませんが、決して丈夫な方ではなかったのでしょう。昨夜から一睡もしておらず、兵士たちから残虐に扱われ、もはや自分で横木を背負って歩くことができないほど衰弱しきっていたのです。

死刑場に到着してもまだ、ローマ兵による侮辱は続きました。十字架にかけられる前に「没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとした」とありますが、この箇所は注解書によって意見が分かれる所です。ある注解書には、苦みのある没薬が麻酔的な効果があり、ローマ兵による死刑囚に対する憐れみの行為であると主張します。また、ある注解書は逆の見解で、没薬に鎮痛効果はないとし、没薬を入れたぶどう酒は珍味として知られていたため、ローマ兵は侮辱する意味で、ユダヤ人の王に対し、極上のぶどう酒を与えたのだと主張します。どちらの主張も甲乙つけがたいですが、もし、後者の主張のように、この行為が憐れみではなく、侮辱行為であったなら、イエス様がこのぶどう酒を拒否された理由は、大祭司カイアファの前で沈黙を守り、総督ピラトの前で沈黙を守ったように、今、愚弄と罵りを受けながら、何の反応もされずひたすら沈黙して耐えていたということになるでしょう。兵士たちはイエス様を裸にし、十字架に掛けました。そしてイエス様の服を誰が取るのか、くじを引きました。実はこの情景は詩編22:19の成就でありました。ご覧下さい。

“わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。”

詩編22編は、イザヤ書53章と合わせて、苦難の僕を預言する大変有名な箇所であります。「わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか」という言葉で始まる詩編22編は、私たちキリスト者にとって、イエス様の十字架の出来事を生々しく思い出さずして読むことは出来ません。本日のマルコ15章には、旧約聖書の預言の成就が何度も出てきますので、その都度説明させていただきます。

十字架の罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書かれていました。これは、ユダヤ人をあざ笑うためのピラトの皮肉でしょう。イエス様と一緒にいた二人の強盗が、一人は右に一人は左に十字架に付けられました。この二人の強盗は誰なのか、はっきりとは書かれていませんが、恐らくローマに反逆し、暴動を起こしたバラバの一味ではないかと推測されます。つまりバラバと共に死刑判決が確定されていた者たちです。この二人の強盗の真ん中にイエス様は張り付けにされ、そして罪状書きとして「ユダヤ人の王」と書かれている。これは見方によれば、非常に滑稽で、おかしな姿です。しかしこのことも、実は旧約聖書の預言の成就でありました。イザヤ53:12をご覧下さい。

“それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。…”

罪のないイエス様が、ここでは罪びとの一人に数えられているのです。イエス様を侮辱する人々はローマ兵にだけではありません。ゴルゴタの死刑場を通りかかった通行人まで、頭を振りながらイエス様を罵って言いました。29節です。「おやおや、神殿を打倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」これは、煽動された群衆の中から出て来た言葉ですが、この言葉も詩編に書かれている預言の成就でありました。詩編22:7~8をご覧下さい。

“わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。”

通行人の目には、「今、十字架に掛けられているこの男が、どうやって三日で神殿を立て直すことが出来るというのか、まず十字架から降りてきなさい。その上でそのような大口をたたきなさい」という事なのでしょう。さらに、イエス様を十字架の死に追いやった張本人である祭司長や、律法学者たちも代わる代わるイエス様を侮辱しました。31節です。

“他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。”

この侮辱は、先ほどの通行人の罵りの言葉と共通点があります。どちらもイエス様が「わたしがそれである、わたしがメシアである」と言った言葉を取り上げ「お前が本当にメシアなら、まず、自分を救ってみろ、奇跡によって十字架から降りて見せろ、それが出来ずに無様に十字架につけられているのは、お前がメシアではない証拠だ」と、言っているのです。「他人を救うとか言っているが、自分を救うことすらできないではないか」と、言っているのです。最後には、32節において、なんと一緒に十字架につけられた強盗たちまで、イエス様を罵ったと書かれています。このようにして皆が皆、イエス様を侮辱し、からかい、罵っているのです。

【2】. 十字架刑に対する神の視点

今見てまいりましたのは人間の側の視点ですが、神の視点はこの状況を全く異なるように見ていました。第一に、イエス様の十字架刑とは、イエス様御ご自身の受難予告の成就でありました。マルコ10:33-34をご覧下さい。

“「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。”

これは、イエス様の三度目の受難予告です。御自身がエルサレムで祭司長たちや律法学者に引き渡され、その後、異邦人に引き渡され、侮辱を受けた上で殺される、そして三日の後に復活するということが、事前に弟子たちに予告されています。

第二に、イエス様の十字架刑とは、旧約の聖書の預言の成就でありました。先ほどいくつか見てきましたが、十字架上でのイエス様の苦しみは、「苦難の僕」として旧約聖書に前もって予告されていました。父なる神様はそのようにして、私たちのための救いの御業を予めご計画され、今、まさに実行なさってくださったのです。つまりこういうことではないでしょうか。神様による救いの御業とは、神の僕であるメシアが自分を救うことをせず、十字架刑によって、罪の贖いの生贄として捧げられることであった。イエス様を取り囲む人々の罵りの言葉も、預言の成就であり、本人たちが意図せぬ形で真理が語られているのです。通行人は罵りながら言いました。「おやおや、神殿を打倒し、三日で建てる者」と。これも真実を言い当てています。なぜなら、イエス様は十字架によって御業を成就され、三日目に復活させられました。これは、神様の目から見る時、三日で新しい神殿とも言える、「キリストの教会」を建てられたと映っているのです。三日で神殿が建てられるとは、イエス様の復活により、初代教会が形成されたことを言っているのです。また、兵士たちが「ユダヤ人の王、万歳」と敬礼したこと、或いは罪状書きに「ユダヤ人の王」と掲げられたこと、これも真実を言い当てています。兵士たちは侮辱しながらそのように言いました。ピラトは皮肉交じりに、ユダヤ人への軽蔑を込めて「ユダヤ人の王」という罪状書きを掲げました。しかし、神の目から見る時、イエス様は、まさにユダヤ人の王として、神の民イスラエルの王として、もっと言えば、教会の頭として、十字架の死を遂げてくださったのです。この王に結ばれている者は、罪が贖われ、赦しが与えらます。この王に結ばれている教会は、イエス様にある復活の命に与り永遠の命を与えられるのです。神の視点から見る時、真理が、逆説的にローマ兵やユダヤ人を通して語られたのです。

【3】. キリスト者の視点

イエス様の十字架刑を取り囲み、皆が皆イエス様を罵り、なぶりものにし、侮辱する中で、何の不平も言わずイエス様の代わりに黙々と十字架を背負い、ひときわ異彩の光を放っている人物が出てきます。それはキレネ人のシモンです。キレネ人ということは、現代の北アフリカのリビア出身という事になります。シモンという名はユダヤ人の名前ですから、恐らく彼はディアスポラであり、過ぎ越し祭の時にエルサレムまでやって来たと考えられます。ローマ兵たちは、その辺の人々を呼んで、自分たちのために何かを持っていくよう強制することができましたので、ちょうどそこにいたシモンに、イエス様の十字架の横木を背負わせました。突然指名されたシモンとしては、大変苦々しく感じ、内心「とんだ災難だ、これ以上不名誉なことはない」と思ったことでしょう。しかし、その考えは、後でイエス様の十字架の真の意味を理解するようになった時に、変えられることになるのです。

マルコの福音書というのは、ローマのキリスト者に対して、AD.64~70年頃、皇帝ネロの時代に書かれた文書だと考えられています。15:21節を見ますと、シモンという人物はアレクサンドロスとルフォスとの父親であると紹介されていますが、マルコが名前を出し、そのようの情報まで言及した事実から見ますと、読者であるローマのキリスト者たちにとって、アレクサンドロスとルフォスは良く知られていた人物であったという事でしょう(参ロマ16:13)。この福音書を読んだ人々は、あー、あのアレクサンドロスとルフォスのお父さんが、イエス様の十字架を共に担ってくださったのねと、口を揃えたに違いありません。もしそうなら、聖書に自分の出身地と自分の名前と、そして二人の息子の名前が記述され、永遠に残されたということになります。そして何よりも、主イエスが私たちのために担ってくださった十字架の苦しみのほんの一端を、共に担っていく者とされたということは、どれほど光栄なことだったでしょうか。

【結論】

イエス様の十字架刑は、神の救済史における究極の御業でありました。十字架は、滅びゆく者には愚かなものですが、私たち救われる者には神の力であります。神様の真理は、人間の理想とは大変かけ離れているのです。キレネ人シモンは、最初イエス様の十字架を共に背負う事を嫌がったはずです。それを自ら要望したのではなく、無理やり背負わされました。「これ以上不名誉なことはない」「避けることができるなら避けたい」と思っていたでしょう。しかし、彼の歩みは、イエス様の御苦しみの一端を、共に担う事が出来たということで、後に「自分があの時、選ばれたのは神の祝福だ」「これ以上の喜びははい」と変えられることになります。私たちもしばしば神様が生きて働いておられるのに、なぜ私の人生に苦難と困難があるのかという質問をします。そのような苦難の中で、私たちもシモンのようにイエス様の十字架に共に参加する者として、歩んでいく者とならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

십자가형(刑)

2024년 9월15일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

마가복음 15장 16~32절

서론

하나님의 구속사는 이스라엘의 왕 메시아가 십자가 상에서 속죄하는 역사를 성취함으로써 그 절정을 맞이합니다. 이때 마침내 하나님의 진리가 밝혀지는데, 그러나 그 역사를 눈앞에 둔 사람들은 감사하고 그것을 받아들이기는 커녕, 하나님의 속죄하는 역사를 욕하고 희롱했다는 것이 오늘 본문에서 묘사되고 있습니다. 즉 하나님의 진리가 인간의 이상과 얼마나 큰 간극이 있는지, 그리고 하나님의 축복의 방법이, 혹은 하나님의 구원의 방법이 인간의 생각과 얼마나 동떨어져 있는지를 보여줍니다. 그럼 바로 오늘 아침도 성경에 귀를 기울이면서 말씀의 은혜를 얻고자 합니다. 15장16절을 보시기 바랍니다.

(1) 십자가형에 대한 인간의 시각

군인들이 예수를 끌고 브라이도리온이라는 뜰 안으로 들어가서 온 군대를 모으고

「브라이도리온」이라는 말이 나옵니다. 이곳은 이전에 헤롯 대왕의 거대한 왕궁이었지만, 유대가 로마의 직할령이 된 이후, 로마 총독이 예루살렘에 왔을 때 머물기 위한 장소가 되었습니다. 「군인들」은 로마 병사들을 말합니다. 십자가형이 확정된 죄인들은, 보통 군인들에 의해 매질이 가해지고 욕설과 희롱이 퍼부어집니다. 로마의 질서에 위배되고, 반란을 일으키려고 했던 자칭 유대인 왕을 벌하기 위해, 이번에는, 평소보다 확대되었습니다. 이미 사형이 정해져 있는 것이기 때문에, 무엇을 해도 상관없다고 하는 것입니다. 가죽끈 채찍에는 못이나 유리나 돌 같은 날카로운 파편이 박혀 있어서 채찍질을 당하면 피부가 양쪽으로 찢어져 뼈에까지 도달하기도 했던 것 같습니다. 「온 군대를 모으고」라고 되어 있는데, 이는 「유대인의 왕」을 희롱하기 위해서입니다. 이런 우스꽝스러운 기회를 놓쳐서는 안 된다고 해서, 군대의 전원이 불러 모아졌습니다. 17~19절을 보시기 바랍니다.

17 예수에게 자색 옷을 입히고 가시관을 엮어 쒸우고

18 경례하여 이르되 유대인의 왕이여 평안할지어다 하고

19 갈대로 그의 머리를 치며 침을 뱉으며 꿇어 절하더라

마태복음 27장 28절에 따르면, 먼저 예수님은 입던 옷이 벗겨지신 것 같습니다. 그들은 예수님의 옷을 벗기고 자색 옷을 입혔습니다. 무엇 때문일까요? 이 「자색 옷」이란 것은, 로마 병사들의 홍포였던 것으로 보이는데(마태복음 27장 28절), 이것은 자주색 토가를 입고 월계관을 쓰고 규를 손에 쥔 로마 황제 카이사르로 비유하는 것입니다. 예수님을 신의 아들 카이사르로 비유해서 희롱을 가하고 있는 것입니다. 바로 로마의 개선식 모습을 본떠 「승리자 카이사르, 황제 만세」를 외치듯 「유대인의 왕 만세」라고 경례하고 있는 것입니다. 갈대는 규 대신이었습니다. 그 갈대로 머리를 치면서 비웃습니다. 침을 뱉은 것은 황제에 대한 애정 표현을 표현하기 위한 키스 대신일 것입니다. 이렇게 심하게 희롱한 끝에 군인들은 예수님의 자색 옷을 벗기고 다시 원래의 옷을 입혔습니다(나중에 이 옷은 제비뽑기에 의해 나누어지게 됩니다). 그리고 드디어 골고다, 즉 아람어로 된 「해골의 장소」라 불리는 형장을 향해 십자가를 짊어지고 행진해야 하는 시간이 되었습니다. 골고다는 예루살렘 성벽 밖에 있는 언덕입니다. 그 자리에는 십자가의 지주가 되는 세로 나무가 박혀 있고, 사형수는 골고다의 형장까지 십자가의 횡목을 짊어진 것 같습니다. 21절을 보면, 예수님 대신 시몬이라는 구레네 사람이 대신 짊어졌다고 나와 있습니다. 그것에 대해서는 나중에 다시 언급하겠습니다만, 여기서 우리가 바라봐야 할 것은 예수님은 더 이상 스스로 십자가의 가로 나무를 짊어질 수 없을 정도로 쇠약해 계셨다는 것입니다. 예수님이 어떤 체격을 가지고 계셨는지 성경은 전혀 말하지 않았지만 결코 튼튼한 분이 아니었을 것입니다. 어젯밤부터 한잠도 못 자고 군인들로부터 잔학하게 다루어져, 더 이상 스스로 횡목을 메고 걸을 수 없을 정도로 쇠약해져 계셨던 것입니다.

사형장에 도착해서도 아직, 로마군인에 의한 희롱은 계속되었습니다. 십자가에 못박히기 전에 「몰약을 탄 포도주를 주었으나」라고 되어 있는데, 이 부분은 주해서에 따라 의견이 갈리는 곳입니다. 어떤 주해서에는 쓴맛이 있는 몰약이 마취적인 효과가 있으며 로마군인에 의한 사형수에 대한 연민의 행위라고 주장합니다. 또 어떤 주해서는 반대 견해로 몰약에 진통 효과가 없다며, 포도주는 별미로 알려져 있었기 때문에 로마군인은 희롱하는 의미에서 유대인의 왕에게 극상을 포도주를 주었다고 주장합니다. 어느 주장도 갑을을 따지지 어렵지만, 만약 후자의 주장처럼 이 행위가 연민이 아닌 희롱 행위였다면 예수님이 이 포도주를 거부하신 이유는 대제사장 가야바 앞에서 침묵을 지키고 총독 빌라도 앞에서 침묵을 지키셨듯이 지금 비웃음과 욕설을 들으며 아무런 반응도 없이 그저 침묵하며 버티셨다는 것이 될 것입니다. 군사들은 예수님을 벌거벗기고, 십자가에 달았습니다. 그리고 예수님의 옷을 누가 차지할지 제비를 뽑았습니다. 사실 이 정경은 시편 22편 18절의 성취였습니다. 보시기 바랍니다.

내 겉옷을 나누며 속옷을 제비 뽑나이다

시편22편은, 이사야서 53장과 아울러, 고난의 종을 예언하는 매우 유명한 구절입니다. 「내 하나님이여 내 하나님이여 어찌 나를 버리셨나이까」라는 말로 시작하는 시편 22편은, 우리 그리스도인들에게 예수님의 십자가 사건을 생생하게 상기하지 않고는 읽을 수 없습니다. 오늘 마가복음 15장에서는 구약성경의 예언 성취가 여러 번 나오기 때문에 그때 그때 설명드리겠습니다.

십자가의 죄상에는 「유대인의 왕」이라고 적혀 있었습니다. 이것은 유대인을 비웃기 위한 빌라도의 비아냥일 것입니다. 예수님과 함게 있던 두 강도가, 한 사람은 오른쪽에 한 사람은 왼쪽 십자가에 못 박혔습니다. 이 두 사람의 강도는, 누구인지 명확헤게 적혀 있지 않지만, 아마로 로마에 반역하고 폭동을 일으킨 바라바 일당이 아닐까 추측됩니다. 즉 바라바와 함께 사형 판결이 확정되었던 자들입니다. 이 두 강도 가운데 예수님은 못 박혀졌고, 그리고 죄목으로 「유대인의 왕」이라고 쓰여 있습니다. 이것은 어찌 보면, 매우 우스꽝스럽고 이상한 모습입니다. 그러나 이 일도, 실은 구약성경의 예언의 성취였습니다. 이사야 53장 12절을 보시기 바랍니다.

그러므로 내가 그에게 존귀한 자와 함께 몫을 받게 하며 강한 자와 함께 탈취한 것을 나누게 하리니 이는 그가 자기 영혼을 버려 사망에 이르게 하며 범죄자 중 하나로 헤아림을 받았음이니라 그러나 그가 많은 사람의 죄를 담당하며 범죄자를 위하여 기도하였느니라

죄 없는 예수님이, 여기서는 범죄자 중 하나로 헤아림을 받고 있는 것입니다. 예수님을 희롱하는 사람들은 로마군인들 뿐만이 아닙니다. 골고다 사형장을 지나던 행인들까지 머리를 흔들며 예수님을 모욕했습니다. 29절입니다.

지나가는 자들은 머리를 흔들며 예수를 모욕하여 이르되 아하 성전을 헐고 사흘에 짓는다는 자여

이것은 선동된 군중 속에서 나온 말인데, 이 말도 시편에 적혀 있는 예언의 성취였습니다. 시편 22편 7,8절을 보시기 바랍니다.

7 나를 보는 자는 다 나를 비웃으며 입술을 비쭉거리고 머리를 흔들며 말하되

8 그가 여호와께 의탁하니 구원하실 걸, 그를 기뻐하시니 건지실 걸 하나이다

행인의 눈에는 “지금 십자가에 못 박혀 있는 이 남자가 어떻게 사흘 만에 성전을 다시 세울 수 있단 말인가? 네가 너를 구원하여 십자가에서 내려오라, 그런 다음에 그런 큰소리를 쳐라!”는 것입니다. 게다가 예수님을 십자가 죽음으로 내몰았던 장본인인 제사장이나 서기관들도 번갈아가며 예수님을 희롱했습니다. 31절입니다.

그와 같이 대제사장들도 서기관들과 함께 희롱하며 서로 말하되 그가 남은 구원하였으되 자기는 구원할 수 없도다

이 희롱은 조금 전의 행인의 욕설과 공통점이 있습니다. 둘 다 예수님이 「내가 그이니라 내가 메시아다」라고 하신 말씀을 거론하며 “네가 정말 메시아라면 먼저 자신을 구해보라, 기적에 의해 십자가에서 내려 보여라, 그것을 하지 못하고 무력하게 십자가에 못박혀 있는 것은 네가 메시아가 아니라는 증거다”라고 말하고 있는 것입니다. “남을 구한다고 하지만 자신을 구할 수조차 없지 않느냐”라고 말하고 있는 것입니다. 마지막에는, 32절에서 무려 함께 십자가에 못 박힌 강도들까지 예수님을 욕했다고 쓰여 있습니다. 이렇게 모두가 예수님을 희롱하고 조롱하고 욕하는 것입니다.

(2) 십자가에 대한 하나님의 시각

지금까지 살펴 본 것은 인간 측의 시점이지만, 하나님의 시점은 이 상황을 전혀 다르게 보고 계셨습니다.

첫째, 예수님의 십자가형이란, 예수님 자신의 수난 예고의 성취였습니다. 마가복음 10장 33,34절을 보시기 바랍니다.

33 보라 우리가 예루살렘에 올라가노니 인자가 대제사장들과 서기관들에게 넘겨지매 그들이 죽이기로 결희하고 이방인들에게 넘겨 주겠고

34 그들은 능욕하며 침 뱉으며 채찍질하고 죽일 것이나 그는 삼 일 만에 살아나리라 하시니라

이는, 예수님의 세 번째 수난 예고입니다. 당신 자신이 예루살멤에서 제사장들이나 서기관에게 인도되고, 그 후, 이방인에게 넘겨져, 희롱을 당한 후 죽임을 당하나, 사흘 후에 부활한다는 것이, 사전에 제자들에게 예고되어 있습니다.

둘째, 예수님의 십자가형이란, 구약의 성경 예언의 성취였습니다. 앞서 몇 가지 살펴보았지만 십자가상에서의 예수님의 고통은, 「고난의 종」으로 구약성경에 미리 예고되 있었습니다. 아버지 하나님께서는 그렇게하여, 우리를 위한 구원의 역사를 미리 계획하셨고, 지금 바로 실행해 주신 것입니다. 그러니까 이런 거 아닐까요? 하나님에 의한 구원의 역사는, 하나님의 종인 메시아가 자신을 구원하지 않고, 십자가 형에 의해, 죄의 속죄제물로 바쳐지는 것이었습니다. 예수님을 둘러싼 사람들의 욕설도 예언의 성취이며, 본인들이 의도하지 않는 형태로 진리가 회자되고 있는 것입니다. 행인은 욕을 하면서 말했습니다. 「아하 성전을 헐고 사흘에 짓는다는 자여」이것도 진실을 알아맞히고 있습니다. 왜냐하면 예수님은 십자가에 의해 구원의 역사를 성취하셨고 사흘 만에 부활하셨습니다. 이는 하나님의 눈으로 볼 때, 사흘 만에 새로운 성전이라고 할 수 있는 「그리스도의 교회」를 세운 것으로 비치고 있는 것입니다. 사흘 만에 성전이 세워진다는 것은, 예수님의 부활로 인해, 초대 교회가 형성된 것을 말하는 것입니다. 또, 군인들이 「유대인의 왕 만세」라고 경례한 것, 또는 죄목에 「유대인의 왕」이라고 내걸은 것, 이것도 진실을 알아맞히고 있습니다. 군인들은 희롱하면서 그렇게 말했습니다. 빌라도는 비아냥거림으로 유대인에 대한 경멸을 담아 「유대인의 왕」이라는 죄목을 내걸었습니다. 그러나 하나님의 눈으로 볼 때, 예수님은, 바로 유대인의 왕으로서, 하나님의 백성 이스라엘의 왕으로서, 더 말하자면 교회의 머리로서, 십자가 죽음을 이루어 주신 것입니다. 이 왕에게 연합되는 자는, 죄가 속죄되고 용서를 받습니다. 그리고 예수님께 있는 부활의 생명에 참여하고 영생이 주어지는 것입니다. 하나님의 시각에서 볼 때, 진리가 역설적으로 로마군인이나 유대인을 통해 이야기된 것입니다.

(3) 그리스도의 시점

예수님의 십자가형을 둘러싸고, 모두가 예수님을 욕하고 놀림감으로 삼고 희롱하는 가운데, 아무런 불평 없이 예수님 대신 묵묵히 십자가를 지고, 유난히 이채로운 빛을 발하는 사람이 나옵니다. 그것은 구레네 사람 시몬입니다. 구레네인이라는 것은, 현대 북아프리카의 리비아 출신이라는 것이 됩니다. 시몬이라는 이름은 유대인의 이름이기 때문에, 아마도 그는 디아스포라이며, 유월절 때 예루살렘까지 왔다고 생각됩니다. 로마군사들은 그 근처 사람들을 불러, 자신들을 위해 무엇인가를 가져가도록 강제할 수 있었기 때문에, 마침 그곳에 있던 시몬에게, 예수님의 십자가의 횡목을 짊어지게 했습니다. 갑자기 지명된 시몬으로서는 대단히 싫고, 내심 “어처구니 없는 재난이다, 이보다 더 불명예스러운 일은 없다”고 생각했을 것입니다. 그러나 그 생각은, 나중에 예수님의 십자가의 진정한 의미를 이해하게 되었을때 바뀌어 진 것입니다.

마가복음이라는 것은, 로마의 그리스도인들에게, AD.64~70년경 황제 네로 시대에 쓰여진 문서라고 생각되고 있습니다. 15장 21절을 보면 시몬이라는 인물은 「알렉산더와 루포의 아버지」라고 소개되어 있는데, 마가가 이름을 말하고, 그런 정보까지 언급한 사실로 볼 때, 독자인 로마 그리스도인들에게 있어, 알렉산더와 루포는 잘 알려진 인물이었을 것입니다(참고 로마서 16장 13절). 이 복음서를 읽은 사람들은 “아, 저 알렉산더와 루포의 아버지가 예수님의 십자가를 함께 짊어 졌구나”하고 입을 모았을 것입니다. 만약 그렇다면, 성경에 자신의 출신지와 자신의 이름과 그리고 두 아들의 이름이 기술되어, 영원히 남겨졌다는 말이 됩니다. 그리고 무엇보다, 주 예수님께서 우리를 위해 짊어지신 십자가 고통의 아주 일부분을, 함께 감당해 나가는 자로 여겨졌다는 것은, 얼마나 영광스러운 일이있을까요.

결론

예수님의 십자가형은, 하나님의 구속사에 있어서 궁극적인 역사였습니다. 십자가는 멸망하는 자에게는 어리석은 것이지만 우리 구원받은 자에게는 하나님의 능력입니다. 하나님의 진리는, 인간의 이상과는 매우 동떨어져 있습니다. 구레네인 시몬은 처음에 예수님의 십자가를 함께 짊어지는 것이 싫었을 것입니다. 그걸 차청한게 아니라, 억지로 떠맡겨졌습니다. “이보다 더 불명예스러운 일은 없다 피할 수 있다면 피하고 싶다”고 생각했을 것입니다. 그러나 그의 행보는, 예수님의 고통의 일부분을, 함께 짊어질 수 있었다는 것으로, 나중에 “자신이 선택된 것은 하나님의 축복이다” “더 이상의 기쁨은 없다”라고 바뀌게 됩니다. 우리도 종종 하나님이 살아서 역사하시는데, 왜 내 삶에 고난과 어려움이 있느냐는 질문을 합니다. 그런 고난 속에서, 우리도 시몬처럼 예수님의 십자가에 함께 참여하는 자로서, 걸어가는 자가 되도록 합시다.

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