2024年09月01日「ペトロの三度の否認 베드로의 세 번의 부인」

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ペトロの三度の否認 베드로의 세 번의 부인

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 14章66節~72節

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聖句のアイコン聖書の言葉

14:66ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、
14:67ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」
14:68しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。
14:69女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。
14:70ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」
14:71すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。
14:72するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 14章66節~72節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」この言葉は、少し前に弟子たちを代表して、ペトロが語った言葉です。しかし、その数時間後にペトロはイエス様を三度否認してしまいました。この数時間の間にペトロに何が起こったというのでしょうか。それはペトロが自分自身で考えているような自分ではなかったということが明らかにされるということが起こったのであります。本日もマルコ福音書14章の御言葉を通して、共に恵みに与りたいと願います。

【1】. ペトロの三度の否認

イエス様が捕らえられ、大祭司カイアファの屋敷に連れて行かれた時、ペトロも遠くからイエス様の後に付いて行きました。マルコ14:54節をご覧ください。

“ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。”

他の弟子たちは皆その場から逃げ去って行きましたが、ペトロだけはイエス様のことを心配し、大祭司の屋敷の中庭まで入って行きました。当時、貴族の中でも最上位であった大祭司の屋敷はかなり大きく、そこで雇われている下役たちや女中たちは、一般の人々より大きな権力を持っていたようです。ペトロは、そこで「火にあたっていた」とありますが、この箇所のギリシア語を直訳しますと「光にあたっていた」となっています。因みに67節にも再び「火に当たっていると」とありますが、この言葉はまた、別の言葉であり、直訳するなら「暖を取っていると」となります。両方とも意訳すると「火に当たっている」となりますが、54節では、「光」という言葉が使われています。ペトロはこの時、光に照らされていたのです。光に照らされて自分自身の本当の姿が映し出されるのです。光という言葉遣いは、大変象徴的だと思いました。ペトロのイエス様への従い方に注目すると、遠く離れながら従ったとあります。つまり、万が一、危険や困難が自分の身に降りかかるなら、いつでも逃げられるようにということです。下役たちに一緒に紛れ込みながら、自分の身の安全を第一にし、イエス様についてきているのです。屋敷の中では、イエス様が、大祭司を始めとし、権力を持った議員たちに囲まれて、まさに一方的な裁判が進行中でありました。イエス様は辱められ、唾をかけられ、こぶしで殴られ、平手で打たれています。自分の先生がこのような扱いを受けるのを、ペトロは今まで見たことがなかったでしょう。この状況の中で、どうにかして先生を助け出すことができないかと、ペトロは様子を伺っていたのでしょう。

この時のペトロの姿は、ある意味、私たちの姿を映し出していると言えるのではないでしょうか。私たちは、イエス様を信じ、イエス様に従って行こうとしている訳ですが、実際、自分の身に困難や苦しみが降りかかって来ないように「遠く離れて従って」行きたいと思うものです。「隠れ切支丹」という程ではないにしても、できれば自分がキリストの弟子であることを公言せず、世間の人々の間に紛れ込みながら、他の人々と、何も変わらないふりをして、主イエスに従って行きたいという思いが、私たちの心のどこかにあるのではないでしょうか。この世に向かって、自分がキリストの弟子であると公言することは、確かに大きなリスクを伴います。なぜなら、この世はイエス・キリストを受け入れないからです。しかし、私たちは神とこの世の二人の主人に同時に仕えることは出来ません。キリスト者が福音を人々に伝えようとするなら、イエス様だけに仕え、自分がキリストの弟子であることを公言しなければならないのです。

すると次の瞬間、ペトロは、女中の一人に声をかけられました。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいましたね」。ペトロは、しどろもどろになってそれを打ち消しますが、この女中との些細なやり取りが、ペトロの信仰に大きな危機をもたらすことになります。67~68節をご覧ください。

“ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。”

大祭司の女中は、ペトロを捕まえて突き出してやろうというのではなく、「あれっ」という軽い気持ちで声を掛けたのだと思います。しかし、この女中の何でもない一言が、ペトロをひどく動揺させました。「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」。必要以上に強く打ち消すペトロの答え方は、かえって女中に怪しまれることになります。ペトロは中庭から、出口方面の前庭へと逃げていくと、その時、鶏が鳴きました。女中が再びペトロを見て、周りの人々に「この人は、あの人たちの仲間です」と言い出しました。この女中の二番目の言葉は、核心をついた言葉だと思います。「あの人たちの仲間ですね」とは、つまり、「ナザレのイエスの共同体に属する者ですね」、「イエスの教会に属する者ですね」「キリスト者ですね」と質問しているからです。ペトロはこの言葉も打ち消しました。ところが、その際、ガリラヤの訛りが出てしまったのでしょう。ガリラヤの人々のアラム語とユダヤの人々のアラム語は、明らかに発音やアクセントが異なっていました。その訛りによって、すぐにその人がユダヤ出身なのか、ガリラヤ出身なのか判別出来たそうです。ペトロの訛りを聞いた、そこに居合わせた人々は「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」と言いました。するとペトロはどうしたでしょうか。71節をご覧ください。

“すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。”

何と、ペトロは神の前に誓い始めたのです。ユダヤ人が誓うことと、私たち日本人が誓うことでは、その言葉の重みが全く違います。それは旧約聖書を見ればよく理解できることですが、ユダヤ人は神様を信じる民として、神の前に本当に命を懸けて誓うからです。ペトロは単にイエス様を否認しただけではありません。「イエス」という名前さえ使わずに、関係を完全に否定しています。しかも呪いの言葉さえ口に出し、イエス様との関係を、そして教会との関係を、誓いながら否定したのです。私たちは、かつて、イエス様が弟子たちに教えられた次のような御言葉を思い起こすかもしれません。マルコ8:38をご覧ください。

“…わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」”

マタイ福音書にもこれと同じようなことが記されています。10:33をご覧ください。

“しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」”

福音書以外でも、弟子たちの手紙の中に次のような御言葉が書かれています。1ヨハネ2:23をご覧ください。

“御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。”

最後にヨハネの黙示録3:8をご覧ください。

“「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。”

ペトロは一回目の女中の質問で、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った時、恐らくイエス様との関係を完全に否認しようと思っていた訳ではなかったでしょう。ところが回を重ねるごとに否認の仕方が強くなり、三度目には、取り返しのつかないことを神の前で誓ってしまったのです。最初ペトロは、自分自身のことを過大評価し、自分が他の弟子たちとは違う事を証明しようとしたのかもしれませんが、結果的にはゲツセマネの園で、他の弟子たちが逃げたことより、もっとひどい裏切りをしてしまったのです。

【2】. 十字架に付けたのは私です

さて、ペトロが三度イエス様のことを否認すると、すぐに鶏が鳴きました。二回目です。そしてその瞬間、「鶏が二度泣く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエス様のお言葉を思い出し、ペトロはいきなり泣き出しました。その場で泣き崩れたのだと思います。この時、ペトロは自分の知らなかった醜い本当の自分の姿を、初めて直視させられたのだと思います。最初は、自分が一番弟子であるというおごりもあったに違いありません。ところが、二度の鶏の鳴き声を聞いて、はっきりと自分自身の醜い姿に気づかされたのです。イエス様の命の心配など一切気にかけていない自分、むしろ自分の命を救うために、いざとなれば何でもする自分、そのような醜い自分の姿です。この時、自分が全き罪びとであることをはっきりと示されたのです。この後、イエス様はユダヤの最高法院の宗教裁判において死刑が言い渡され、ローマの裁判においても死刑が確定し、その日の昼頃には十字架刑が執行されることになりますが、ペトロはイエス様を十字架に引き渡したのは、他でもなく、まさに自分であったと考えるようになったと思います。そして、この時ペトロは深い悲しみと絶望に突き落とされ、彼の信仰は挫折しました。主イエスを否認し、教会を否認した、このペトロのことを私たちは決して断罪することは出来ません。なぜなら、ペトロの姿とは、私たちの姿をそのまま映し出していると思えてならないからです。本日の箇所は、むしろ私たちが自分自身の力に依り頼んで、イエス様に従う事なんか、決してできないということを示しているのだと思います。マルコの福音書には、この後ペトロの姿が消えてしまい、その後、ペトロがどうなったかについては記されていませんが、ヨハネの福音書には、ガリラヤの湖畔で復活の主が現れてくださり、ペトロに赦しと回復が与えられたことが記されています。また、使徒言行録には、聖霊を受けた後、ペトロは以前のような、自分を誇り、自己過信し、自分の力に依り頼む歩みではない姿が記されています。自分の力に依り頼むとは、即ち神様に頼らないということです。例えば祈りをせず、自分で良かれと思ったことをそのまま行動に移してしまうということです。女中の言葉に恐れたペトロが、自分の力にではなく神に依り頼み、大祭司の前でも恐れずに、主イエスを証しする姿が使徒言行録4:5~12に記されていますので、お読みします。そのままお聞きください。

“次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」”

ペトロの取り返しのつかない失敗を犯してしまった、その事実は決して消えることはありません。しかし、自分の隠されていた罪が明らかにされた後、ペトロは自分の力に完全に死んで、聖霊によってイエス様と共に蘇らされ、イエス様と共に歩む者に変えられたのです。このことこそ、ペトロの変化とペトロの回復の要因であります。このペトロの三度の否認の恥ずかしいエピソードは、間違いなくペトロ自身の証言による伝承と考えられるでしょう。しかしこの恥ずかしいエピソードは、キリスト者の信仰生活とは自分の力による歩みではなく、神の恵みによる歩みであるということを、はっきりと示してくれているのです。

【結論】

本日の内容をまとめます。私たちは、誰も自分の力でイエス様に従って行くことは出来ません。ペトロが自分自身を課題評価し、自分の罪について全く気づいていなかったように、私たちも、自分では気づくことができない、たくさんの罪を抱えています。神様は御言葉と聖霊の光によって、私たちの罪を照らしてくださり、それを明らかにしてくださり、そして、主イエスを十字架に引き渡したのは、まさにこの私であるという事に気づかせてくださいます。しかし、神様はイエス・キリストの十字架によって、私たちの罪と死の問題を解決してくださいました。取り返しのつかない過去の失敗から、私たちを解放してくださいました。私たちは、赦しと回復を与えられ、この十字架の福音を信じて、自分の力によって生きる者ではなく、祈りながら、神の恵みによって、生きる者へと変えられるのです。私たち教会も現在、様々な問題を抱えていますが、それらの問題は私たちの力では解決することが出来ません。私たち教会の歩みが、聖霊の光に照らされて、常に聖霊によって導かれていくように祈り求めてまいりましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

베드로의 세 번의 부인

2024년 9월1일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

마가복음 14장 66~72절

서론

「다 버릴지라도 나는 그리하지 않겠나이다」이 말은 조금 전 제자들을 대표하여 베드로가 한 말입니다. 그러나 그 몇 시간 후 베드로는 예수님을 세 번 부인하고 말았습니다. 이 몇 시간 사이에 베드로에게 무슨 일이 일어났다는 것입니까? 그것은 베드로가 자기 자신이 생각하는 것과 같은 사람이 아니었다는 것이 밝혀지는 일이 일어난 것입니다. 오늘도 마가복음 14장 말씀을 통해 함께 은혜를 얻기를 바랍니다.

(1) 베드로의 세 번의 부인

예수님이 잡혀서 대제사장 가야바의 집으로 끌려 갔을 때 베드로도 멀리서 예수님의 뒤를 따라갔습니다. 마가복음 14장 54절을 보시기 바랍니다.

베드로가 예수를 멀찍이 따라 대제사장의 집 뜰 안까지 들어가서 아랫사람들과 함께 앉아 불을 쬐더라

다른 제자들은 모두 그 자리에서 도망쳤지만, 베드로만은 예수님을 걱정해서 대제사장의 집 뜰 안까지 들어갔습니다. 당시, 귀족 중에서도 최상위였던 대제사장의 집은 상당히 컸고, 그곳에서 고용된 하역들이나 하녀들은 일반 사람들보다 큰 권력을 가지고 있었던 것 같습니다. 베드로는 거기서 「불을 쬐더라」라고 되어 있는데, 이 부분의 헬라어를 직역하면 「빛을 쬐고 있었다」라고 되어 있습니다. 참고로 67절에도 다시 「불 쬐고」라는 말이 나오는데, 이 말은 또 다른 말이고, 직역하자면 「(따뜻하게) 불을 쬐고 있다」가 됩니다. 둘 다 의역하면 「불을 쬐고 있다」가 되는데 54절에서는 「빛」이라는 말이 쓰이고 있습니다. 베드로는 이때, 빛에 비춰지고 있었던 것입니다. 빛에 비추어져 자기 자신의 진짜 모습이 비춰지는 것입니다. 빛이라는 말은, 매우 상징적이라고 생각했습니다. 베드로가 예수님을 따르는 방식에 주목해보면, 멀찍이 따랐다고 합니다. 즉, 만일 위험이나 어려움이 자신의 몸에 닥친다면, 언제든지 도망칠 수 있도록 하는 것입니다. 하역들 틈에 섞여 들어가 있으면서, 자신의 신변안전을 최우선으로 하고, 예수님을 따라 가고 있는 것입니다. 저택 안에서는, 예수님이 대제사장을 비롯해 권력을 가진 의원들에게 둘러싸여, 그야말로 일방적인 재판이 진행 중이었습니다. 예수님은 능욕을 당하고, 침 뱉음을 당하고, 주먹으로 맞고, 손바닥으로 맞고 있습니다. 자신의 스승이 이런 취급을 받는 것을 베드로는 지금까지 본 적이 없었을 것입니다. 이 상황 속에서, 어떻게 해서든 스승을 구해낼 수 없을까하고 베드로는 눈치를 보고 있었을 것입니다.

이때 베드로의 모습은, 어떤 의미에서, 우리의 모습을 비추고 있다고 할 수 있지 않을까요? 우리는 예수님을 믿고 예수님을 따라 가려고 하는데, 사실 자신의 몸에 어려움이나 괴로움이 닥치지 않도록 「멀찍이 따라」가고 싶은 것입니다. 「카쿠레키리스탄(17세기 초반부터 19세기 중반까지 밀교 형식으로 신앙을 유지해온 일본의 로마 가톨릭교회 신자들을 말한다)」이라고 할 정도는 아니더라도, 가능하면 자신이 그리스도의 제자임을 공언하지 않고, 세상 사람들 사이에 섞여 들어가, 세상 사람들과 아무것도 다르지 않은 척 하면서, 주 예수님을 따라가고 싶은 마음이 우리 마음 어딘가에 있지 않을까요? 이 세상을 향해, 자신이 그리스도의 제자라고 공언하는 것은, 분명히 큰 위험을 수반합니다. 왜냐하면, 이 세상은 예수・그리스도를 받아들이지 않을 것이기 때문입니다. 그러나, 우리는 하나님과 이 세상 두 주인을 동시에 섬길 수 없습니다. 그리스도인이 복음을 사람들에게 전하려면, 오직 예수님만을 섬기며, 자신이 그리스도의 제자임을 공언해야 하는 것입니다.

그러자 다음 순간, 여종 하나가 베드로에게 「너도 나사렛 예수와 함께 있었도다」라고 말을 걸었습니다. 베드로는 횡설수설하며 그것을 부인하지만, 이 여종과의 사소한 대화가 베드로의 믿음에 큰 위기를 가져오게 됩니다. 67,68절을 보시기 바랍니다.

67 베드로가 불 쬐고 있는 것을 보고 주목하여 이르되 너도 나사렛 예수와 함께 있었도다 하거늘

68 베드로가 부인하여 이르되 나는 네가 말하는 것이 무엇인지 알지도 못하고 깨닫지도 못하겠노라 하며 앞뜰로 나갈새 (닭이 울었다라는 문장이 일본어 성경에는 첨부되어 있다)

대제사장의 여종은, 베드로를 잡아서 넘길려는 것이 아니라, “어?”하는 가벼운 마음으로 말을 걸었던 것 같습니다. 그러나 이 여종의 아무것도 아닌 한 마디가, 베드로를 몹시 동요시켰습니다. 필요 이상으로「네가 말하는 것이 무엇인지 알지도 못하고 깨닫지지도 못하겠노라」이렇게 강하게 부정하는 베드로의 대답은, 오히려 여종의 의심을 받게 됩니다. 베드로는 뜰 안에서, 앞뜰로 도망쳐 가는데, 그때 닭이 울었습니다. 여종이 다시 베드로를 보고 주위 사람들에게 「이 사람은 그 도당이라」라고 말을 했습니다. 이 여종의 두 번째 말은, 핵심을 찌른 말이라고 생각합니다. 「그 도당이라」라는 말은, 곧, “나사렛 예수의 공동체에 속한 자군요”, “예수님의 교회에 속한 자군요”, “그리스도인이군요”라고 질문하고 있기 때문입니다. 베드로는 이 말도 부인했습니다. 그런데, 그 때 갈릴리 사투리가 나와 버린 것입니다. 갈릴리 사람들의 아람어와 유대 사람들의 아람어는, 분명히 발음과 악센트가 달랐습니다. 그 사투리에 의해, 바로 그 사람이 유대 출신인지, 갈릴리 출신이지 판별할 수 있었다고 합니다. 베드로의 사투리를 들은, 거기에 있던 사람들은 「너도 갈릴리 사람이니 참으로 그 도당이니라」라고 말했습니다. 그러자 베드로는 어떻게 했을까요? 71절을 보시겠습니다.

그러자 베드로가 저주하며 맹세하되 나는 너희가 말하는 이 사람을 알지 못하노라 하니

무려, 베드로는 하나님 앞에서 맹세하기 시작했습니다. 유대인이 맹세하는 것과 우리 일본인이 맹세하는 것은 그 말의 무게가 전혀 다릅니다. 그것은 구약성서를 보면 잘 이해할 수 있는 일이지만, 유대인은 하나님을 믿는 백성으로, 하나님 앞에 정말 목숨을 걸로 맹세하기 때문입니다. 베드로는 단순히 예수님을 부인한 것만이 아닙니다. 「예수」라는 이름조차 사용하지 않고, 관계를 완전히 부정하고 있습니다. 심지어 저주의 말까지 꺼내며 예수님과의 관계를, 그리고 교회와의 관계를, 맹세하며 부인했습니다. 우리는 일찍이 예수님께서 제자들에게 가르치셨던 다음과 같은 말씀을 상기할지도 모릅니다. 마가복음 8장 38절을 보시기 바랍니다.

누구든지 이 음란하고 죄 많은 세대에서 나와 내 말을 부끄러워하면 인자도 아버지의 영광으로 거룩한 천사들과 함께 올 때에 그 사람을 부끄러워하리라

마태복음에도 이와 비슷한 내용이 적혀 있습니다. 10장 33절을 보시기 바랍니다.

누구든지 사람 앞에서 나를 부인하면 나도 하늘에 계신 내 아버지 앞에서 그를 부인하리라

복음서 이외에도 제자들의 서신서 가운데 다음과 같은 말씀이 적혀 있습니다. 요한일서 2장 23절을 보시기 바랍니다.

아들을 부인하는 자에게는 또한 아버지가 없으되 아들을 시인하는 자에게는 아버지도 있느니라

마지막으로 요한계시록 3장 8절을 보시기 바랍니다.

볼지어다 내가 네 앞에 열닌 문을 두었으되 능히 닫을 사람이 없으리라 내가 네 행위를 아노니 네가 작은 능력을 가지고서도 내 말을 지키며 내 이름을 배반하지 아니하였도다

베드로는 여종의 첫 번째질문에서, 「네가 말하는 것이 무엇인지 알지도 못하고 깨닫지지도 못하겠노라」고 했을 때, 아마도 예수님과의 관계를 완전히 부인하려고 했던 것은 아니었을 것입니다. 그런데 회를 거듭할수록 부인의 태도가 강해졌고, 세 번째에서는, 돌이킬 수 없게 되어 하나님 앞에서 맹세까지 해버리고 말았습니다. 처음 베드로는, 자기 자신을 과대평가 하여, 자신이 다른 제자들과는 다르다는 것을 증명하려 했을지도 모르지만, 결과적으로는 겟세마네 동산에서, 다른 제자들이 도망쳐 버린 것보다 더 심한 배신을 하고 말았습니다.

(2) 십자가에 못 박은 것은 접니다

그런데, 베드로가 세 번 예수님을 부인하자 바로 닭이 울었습니다. 두 번째입니다. 그리고 그 순간, 「닭이 두 번 울기 전에 네가 세 번 나를 부인하리라」라고 하셨던 예수님의 말씀이 생각나, 베드로는 갑자기 울음을 터뜨렸습니다. 그 자리에서 쓰러져 울음이 터져버린 것 같습니다. 이때, 베드로는 자신이 몰랐던 추악한 진짜 자신의 모습을, 처음으로 직시하게 된 것 같습니다. 처음에는, 자신이 수제자라는 교만함이 있었음에 틀림없습니다. 그런데, 두 번의 닭 울음소리를 듣고서는, 분명하게 자기 자신의 추악한 모습을 깨닫게 된 것입니다. 예수님의 생명에 대한, 걱정 따위는 일절 신경쓰지 않는 자신, 오히려 자신의 생명을 구하기 위해, 여차하면 무엇이든 하는 자신, 그런 추악한 자신의 모습니다. 이 때, 자신이 완전한 죄인에 불과하다는 것을 확실하게 깨달은 것입니다. 이 후, 예수님은 유대 대법원의 종교재판에서 사형이 선고되었고, 로마의 재판에서도 사형이 확정되어 그날 점심 무렵에는 십자가형이 집행되게 되는데, 베드로는 예수님을 십자가로 넘긴 것은, 다름 아닌 바로 자신이었다고 생각하게 되었을 것입니다. 그리고 이때 베드로는 깊은 슬픔과 절망에 빠졌고, 그의 믿음은 좌절되었습니다. 주 예수를 부인하고, 교회를 부인한, 이 베드로를 우리는 결코 단죄할 수 없습니다. 왜냐하면 베드로의 모습이란, 우리의 모습을 그대로 비추고 있다고 생각할 수 있기 때문입니다. 오늘의 구절은, 오히려 우리가 자기 자신의 힘에 의지해 예수님을 따르는 일 따위는 결코 할 수 없다는 것을 보여주는 것이라고 생가합니다. 마가복음서에는, 이후 베드로의 모습이 사라져 버리고, 그 후 베드로가 어떻게 되었는지에 대해서는 적혀 있지 않지만, 요한복음서에는 갈릴리 호숫가에서 부활의 주님이 나타나 주셔서, 베드로에게 용서와 회복이 주어졌음이 적혀 있습니다. 또한 사도행전에는 성령을 받은 후, 베드로는 이전과 같이, 자신을 자랑하고 자기과신을 하며 자신의 힘에 의해 자랑하지 않는 모습이 담겨 있습니다. 자신의 힘을 의지한다는 것은, 곧 하나님을 의지하지 않는다는 것입니다. 예를 들어 기도를 하지 않고, 스스로 좋다고 생각한 것을 그대로 행동에 옮겨 버리는 것입니다. 여종의 말에 두려워 했던 베드로가, 자기 힘이 아니라 하나님께 의뢰하여, 대제사장 앞에서도 두려워하지 않고, 주 예수를 증거하는 모습이 사도행전 4장 5~12절에 기록되어 있으니 읽어드리겠습니다. 그냥 들어주시기 바랍니다.

5 이틀날 관리들과 장로들과 서기관들이 예루살렘에 모였는데

6 대제사장 안나스와 가야바와 요한과 알렉산더와 및 대제사장의 문중이 다 참여하여

7 사도들을 가운데 세우고 묻되 너희가 무슨 권세와 누구의 이름으로 이 일을 행하였느냐

8 이에 베드로가 성령이 충만하여 이르되 백성의 관리들과 장로들아

9 만일 병자에게 행한 착한 일에 대하여 이 사람이 어떻게 구원을 받았느냐고 오늘 우리에게 질문한다면

10 너희와 모든 이스라엘 백성들은 알라 너희가 십자가에 못 박고 하나님이 죽은 자 가운데서 살리신 나사렛 예수 그리스도의 이름으로 이 사람이 건강하게 되어 너희 앞에 섰느니라

11 이 예수는 너희 건축자들의 버린 돌로서 집 모퉁이의 머릿돌이 되었느니라

12 다른 이로서는 구원을 받을 수 없나니 천하 사람 중에 구원을 받을 만한 다른 이름을 우리에게 주신 일이 없음이라 하였더라

베드로의 돌이킬 수 없는 실패를 범해 버린, 그 사실은 결코 사라지지 않습니다. 그러나, 자신의 감춰져 있던 죄가 밝혀진 후, 베드로는 자신의 힘에 완전히 죽고, 성령에 의해 예수님과 함께 되살아나 예수님과 함께 걷는 자로 변하게 된 것입니다. 이것이야말로, 베드로의 변화와 베드로의 회복의 요인인 것입니다. 이 베드로의 세 번 부인의 부끄러운 일화는, 틀림없이 베드로 자신의 증언에 의한 전승이라고 생각됩니다. 그러나 이 부끄러운 일화는, 그리스도인의 믿음생활이란 자신의 힘을 의지하는 걸음이 아니라, 하나님의 은혜에 의한 걸음임을 분명히 보여주고 있습니다.

결론

오늘의 내용을 정리하겠습니다. 우리는 누구도 스스로의 힘으로 예수님을 따라갈 수 없습니다. 베드로가 자신을 과대평가하고, 자신의 죄에 대해 전혀 깨닫지 못했던 것처럼, 우리도 스스로는 깨닫지 못하는 많은 죄를 안고 있습니다. 하나님께서는 말씀과 성령의 빛으로, 우리의 죄를 비추어 주시고, 그것을 명백하게 해 주시고, 그리고 주 예수님을 십자가에 넘긴 것은 바로 자신임을 깨닫게 해 주십니다. 그러나, 하나님께서는 예수・ 그리스도의 십자가로, 우리의 죄와 죽음의 문제를 해결해 주셨습니다. 돌이킬 수 없는 과거의 실패로부터, 우리를 해방시켜 주셨습니다. 우리는, 용서와 회복을 받고, 이 십자가 복음을 믿고, 자기 힘으로 사는 자가 아니라, 기도하면서, 하나님의 은혜로 사는 자로 바뀔 수 있습니다. 우리 교회도 현재, 여러 가지 문제를 안고 있지만, 그 문제들은 우리 힘으로는 해결할 수 없습니다. 우리 교회의 발걸음이, 성령의 빛에 비추어져, 항상 성령에 의해 인도되어 갈 수 있도록 기도해 갑시다.

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