2024年08月04日「居眠りする番人 졸고 있는 파수꾼」

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居眠りする番人 졸고 있는 파수꾼

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 14章32節~42節

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聖句のアイコン聖書の言葉

12:32一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
12:33そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、
12:34彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
12:35少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
12:36こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
12:37それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。
12:38誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
12:39更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。
12:40再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。
12:41イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
12:42立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 14章32節~42節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

イエス様と弟子たちは過ぎ越しの食事を終え、祈るためにエルサレムの城外のオリーブ山に向かったのは、夜が完全に更けてからでありました。間もなく、イスカリオテのユダに手引きされた者たちがやってきてイエス様は捕らえられます。未明の内から不当な裁判が行われ、その日のうちにイエス様は十字架に掛けられ殺されます。この苦しみと死を目前にして、イエス様はオリーブ山の一画にあるゲツセマネという所で祈られました。この時、イエス様はご自分がどのように殺されようとしているのか、はっきり知っておられました。十字架によってです。父なる神様がそのためにこそ自分をこの世にお遣わしになったことを、イエス様ははっきり意識しておられました。それでは、本日のゲツセマネでの祈り格闘は一体何を意味しているのでしょうか。本日は、マルコ14章のイエス様がゲツセマネで祈られた箇所を通して、共に恵みに与りたいと願います。

【1】. わたしは死ぬばかりに悲しい

32~34節をご覧ください。

“一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」”

イエス様が、オリーブ山の一画であるゲツセマネという所に来ると、ペトロとヤコブとヨハネの三人に、ここを離れず、目を覚ましていなさいと命じられました。「目を覚ましていなさい」つまり、番人として見張っていなさいという事です。そろそろ、ユダに手引きされた者たちが御自分を捕らえにやって来ることが分かっていました。祈りが邪魔されないよう、三人の弟子に「目を覚ましていなさい」、「見張っていなさい」と命じているのです。イエス様は祈りに入り、ひどく恐れ、悶え始めました。そして、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と弱々しくおっしゃいました。これまでイエス様は悪霊を追い出し、あらゆる病を癒され、自然に命じてガリラヤ湖の嵐を一言で静め、死人さえもよみがえらせる威厳に満ちたお姿を弟子たちに見せてきましたが、今、目の前にお姿は、今までに見たこともないお姿です。神の栄光からかけ離れたこの姿は、一体どういうことでしょうか。

迫害の中にあっても、死を恐れずに、平然と死を受け入れた賢者は、歴史上たくさんいました。例えば、哲学者ソクラテスは、アテネの権力者から妬みと恨みを買い、毒殺刑を宣告されてしまいましたが、ソクラテスは最後まで自らの精神の自由を説き、進んで毒杯を飲み干して死んでいったと言われています。また、使徒言行録に出て来るステファノは、ユダヤ人からの迫害の中で、石打の刑とされながらも、主を讃美しながら殉教していったとあります。ですから、神の御子であられるイエス様がこのような臆病な態度をされるのはおかしい、これは何かの間違いではないのかと思ってしまい、本日の聖書箇所を私たちはどのように理解したらいいのか戸惑ってしまうのです。

ここで、イエス様が恐れているのは単なる十字架の死ではありません。ご自分の前に置かれている神の怒りをご覧になられ、同時に死の深い淵をご覧になられて、恐れていると考えられます。それでは、なぜ父なる神様の怒りが御子であるイエス様に向けられているのでしょうか。それは、イエス様が世の全ての人の罪を担われ、代表として神の審判の前に立たされているからです。私たち人間の罪とは、それほどまでに恐ろしく重いのであります。35~36節をご覧ください。

“少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」”

ここでイエス様は地面にひれ伏して祈っています。当時の人々は立ちながら、天を仰いで、声を上げて祈るのが一般的でありましたが、イエス様はこの時、悩みと悲しみが、あまりにも大きかったためにひれ伏して祈られたのでしょう。「アッバ」とは、アラム語で「お父さん」という意味で、幼い子供が父親に用いる親しい呼びかけです。たとえ、旧約聖書に、主なる神のことを、「我らの父」という言葉で説明されている箇所がいくつかあるとしても、イエス様の時代に、神様に対し「アッバ」と祈る人はいませんでした。そのように祈るのは、不遜だと考えられていたと思われます。しかし、イエス様は神の独り子として「アッバ」と呼びかけて祈られたのです。その父と子の信頼関係の上で、「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られました。「杯」とは何でしょうか。杯は、血と、そして、死そのものを意味します。旧約聖書には「神の怒りの杯」という意味で頻繁に使用されています。例えばイザヤ51:17をご覧ください。

“目覚めよ、目覚めよ/立ち上がれ、エルサレム。主の手から憤りの杯を飲み/よろめかす大杯を飲み干した都よ。”

これは、主の手から憤りの杯を飲んだとあります。エルサレムの民が破壊と破滅、飢饉と剣によって殺されたということを意味しています。また、エレミヤ25:15をご覧ください。

“それゆえ、イスラエルの神、主はわたしにこう言われる。「わたしの手から怒りの酒の杯を取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々にそれを飲ませよ。”

ここでは、恐るべき神の審判が、エルサレムから取り上げ、今度はエルサレムを苦しめた国々に、つまりアッシリアやバビロンに審判が下されるという意味です。ですからイエス様は今、人類の罪に対する「神の怒りの杯」が、御自身の上に一挙に注がれようとしている中で、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈っておられるのです。この後、実際に神の怒りの杯が注がれることによって、イエス様と父なる神様との関係が一瞬ではありますが、断ち切られることになります。永遠の昔から御父と共に生きて来られた御子が、父なる神に見捨てられ、暗黒の、死の谷へ捨てられるのです。ですからマルコ15:34に書かれているように、イエス様は十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。

【2】.祈りの格闘の意味

イエス様が一人で苦しんでいる中、弟子たちは祈りによってその重荷を共に担うことも、イエス様の苦しみに寄り添うこともせず、居眠りをしてしまいました。イエス様はこの時「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」とおっしゃっています。本来、弟子たちは、番人として見張りをするため、目覚めていなければなりませんでした。また、過ぎ越しの夜は、慣例的に遅くまで起きて神の贖いについて語り合うものでありました。ところが、なぜかこの日は、弟子たちに強い睡魔と誘惑が襲ってきたようです。イエス様が二回目に戻ってご覧になると、弟子たちはやはり居眠りしている姿を見られてしまいました。弟子たちとしては、何度も「目を覚ましているように」と命じられていたため、大変気まずかったと思います。40節には、「彼らはイエスにどう言えばよいのか、分からなかった」とありますが、もはや弁解の余地がなかったのでしょう。今度こそは「きちんと、目を覚ましていなければ」と猛省したに違いありません。しかし、二度あることは三度あるとも言います。三度目にイエス様が戻って来ると、またもや、弟子たちは居眠りしている姿を見られてしまいました。この三度の居眠りは、この後ペトロの身に起こる、三度のイエス様の否認を予告しているようにも見ます。続いて41~42節をご覧ください。

“イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」”

41節は、新改訳聖書や、新しく出た聖書協会共同訳聖書で訂正されているように、疑問文で読む方がいいと思います。つまり、「あなたがたはまだ眠っているのですか?休んでいるのですか?」という読み方です。また、42節の「私を裏切る者が来た」という箇所ですが、「裏切る」という言葉は、41節の「引き渡される」と同じ動詞παραδιδόναιが使われています。イエス様がいよいよ罪人たちの手に引き渡される時が来たのです。ここで私たちが注目したいのは、イエス様は、まるでご自分が番人であるかのように、「時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。」と弟子たちを、眠りから起こしている点です。立場が逆転しています。ユダを先頭にした群衆の近づく足音が聞こえてきたのでしょうか。或いは近づく松明の明かりがうっすらと見えてきたのでしょうか。いよいよ捕らえられようとするこの場面において、イエス様は慌てて逃げようとする訳でもなく、むしろ、恐れはなく、落ち着きを見せながら敵を迎え入れ、この状況を能動的に主管しておられます。この変わりようは何なのでしょうか。はっきりとは分かりませんが、ゲツセマネの祈りの格闘を通して、御父から祈りの答えを頂いたからだと思います。祈りの答えとは、何かと言いますと、肉において、人の子として死に勝利する約束であり、肉において、人の子として永遠の命が与えられる約束だったと思います。ヘブライ人の手紙5:7をご覧ください。

“キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。”

ヘブライ書のここに書かれている内容は、イエス様のゲツセマネの祈りを連想させますが、続く8~10節には次のように書かれています。

“キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。”

ヘブライ書に書かれているように、イエス様は神の御子であるにもかかわらず、肉を取り、人となられ、僕として仕える生涯を通し、信仰の従順を学ばれました。そして、その信仰の従順を通して、アダムが達することができなかった、「完全な者」になられたのです。それは神の御子だからという理由で最初から与えられたり、或いは簡単に手に入れることができるものではありませんでした。僕としてこの世に来られ、試みを受けながら格闘し、闘争して、ついに到達することができたのです。いつものパネルをご覧ください。この図は、アダムの堕落の後、キリストの受肉と十字架によって何がなされたのかが示されています。エデンの園においてアダムが堕落して、その後イエス様の受肉と十字架によって何がなされたのかということです。聖書にはイエス様は、復活後に初めて天と地のあらゆる権威を与えられたと書かれていますが(フィリピ2:9、ヘブル2:7-8)、アダムが堕落したため到達することができなかった段階に、ついにイエス様が人の子として到達されたのです。このイエス様の信仰の従順によって、獲得されたものの全てが何の功もない私たち教会に恵みとして与えられるのです。キリストは私たちのために罪と呪いになられましたが、それは私たち教会がキリストの中で神の義とされるためでありました。ところで、そこに至る途上において、弟子たちによる助けが、介入する余地が一切なかったということを私たちは見てきました。彼らはただ居眠りしていただけです。「イエス様がお一人で成し遂げられた」、と言えるでしょう。そのことから明らかにされるのは、救いとは、人間の側の功績に少しでも依存するものではなく、無償で、ただ恵みとして与えられるという事です。従いましてもう一度、整理いたしますと、私たちが与えられている救いとは、罪を犯す前のアダムの状態が回復されるということではありません。アダムの状態は罪を犯すことも犯さないこともできる状態でした。私たちに与えられている救いとはそれ以上であります。信仰によって、イエス様に結合されることにより、アダムが到達することができなかった完全な状態、罪を犯すことが出来ない状態、義の状態に至る恵みを与えられているということです。私たちの仲保者イエス様は、闘争と格闘の中で信仰の従順を学ばれ、死に勝利され、人として完全な者となられたのです。ゲツセマネの祈りは、まさにそのことを象徴する出来事でありました。

【結論】

番人の働きを任されたペトロとヤコブとヨハネは、三度も居眠りをしている状況をイエス様に見られてしまい、何の弁解もすることは出来ませんでした。しかし、そのことが明らかにしていることは、救いは、少しでも私たち人間の側の功労によるのではないということです。いくら自分に依り頼み、大きなことを豪語しても、肉に頼るなら失敗するだけでしょう。救いはイエス・キリストの信仰の従順によって、打ち立てられました。アダムが到達できなかった完全な状態に、イエス様が到達され、その扉を開いてくださいました。教会はこのキリストを信じ、キリストに結合されることによって、イエス様の獲得された有益を、無償で、恵みとして受け取ることが出来るのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

졸고 있는 파수꾼

2024년 8월4일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

마가복음 14장 32~42절

서론

예수님과 제자들이, 유월절 식사를 마치고 기도하기 위해 예루살렘 성 밖, 감람 산으로 향한 것은, 밤이 완전히 깊어진 후였습니다. 곧, 이스카리옷 유다에게 인도된 자들이 찾아오고 예수님은 사로잡힙니다. 새벽 가운데 부당한 재판이 이루어지고, 그날 안에 예수님은 십자가에 못 박혀 죽습니다. 이 고통과 죽음을 목전에 두고, 예수님은 감람 산 기슭에 자리잡고 있는 겟세마네라는 곳에서 기도하고 계셨습니다. 이때, 예수님은 자신이 어떻게 죽임을 당하려고 하는지 분명히 알고 계셨습니다. 십자가에 의해서 입니다. 아버지 하나님께서 그것 때문에 자신을 이 세상에 보내신 것을, 예수님은 분명히 의식하고 계셨습니다. 그렇다면, 오늘의 겟세마네에서의 기도의 격투는 도대체 무엇을 의미하는 것일까요? 오늘은 마가복음 14장 예수님이 겟세마네에서 기도하신 것을 통해 함께 은혜를 얻고자 합니다.

(1) 내 마음이 심히 고민하여 죽게 되었으니

32~34절을 보시겠습니다.

32 그들이 겟세마네라 하는 곳에 이르매 예수께서 제자들에게 이르시되 내가 기도할 동안에 너희는 여기 앉아 있으라 하시고

33 베드로와 야고보와 요한을 데리고 가실새 심히 놀라시며 슬퍼하사

34 말씀하시되 내 마음이 심히 고민하여 죽게 되었으니 너희는 여기 머물러 깨어 있으라 하시고

27 예수께서 제자들에게 이르시되 너희가 다 나를 버리리라(원어에는 나를 이라는 단어도 없으며 버리리라 보다는 실족하리라가 원어의 뜻임) 이는 기록된 바 내가 목자를 치리니 양들이 흩어지리라 하였음이니라

28 그러나 내가 살아난 후에 너희보다 먼저 갈릴리로 가리라

예수님이 감람 산의 산기슭에 있는 겟세마네라는 곳에 오시고, 베드로와 야곱과 요한 세 사람에게 「너희는 여기 머물러 깨어 있으라」고 명하셨습니다. 「깨어 있으라」, 즉 파수꾼으로서 망을 보고 있으라는 것입니다. 슬슬, 유다의 인도로 사람들이 자신을 잡으러 올 것을 알고 계셨습니다. 기도가 방해받지 않도록 세 제자에게 「깨어 있으라」, 「망을 보고 있으라」 고 명하고 계신 것입니다. 예수님은 기도를 시작하시고 심히 두려워 하시며 번민하시기 시작했습니다. 그리고 「내 마음이 심히 고민하여 죽게 되었으니」라고 나약하게 말씀하셨습니다. 그동안 예수님은 악령을 몰아내고, 온갖 병을 치유하시고, 자연에 명하여 갈릴리 호수의 폭풍을 한마디로 잠재우고, 죽은 사람마저 되살리는 위엄 있는 모습을 제자들에게 보여주셨지만, 지금 눈앞의 모습은, 지금까지 본 적도 없는 모습입니다. 하나님의 영광에서 동떨어진 이 모습은 대체 무슨 일일까요?

박해 속에서도 죽음을 두려워하지 않고 태연하게 죽음을 받아들인 현자는, 역사상 많이 있습니다. 예를 들어 철학자 소크라테스는 아테네의 권력자로부터 질투와 원한을 사서 독살형을 선고받고 말았지만, 소크라테스는 끝까지 자신의 정신의 자유를 설파하고 나아가 독배를 들이키고 죽었다고 합니다. 또 사도행전에 나오는 스데반은 유대인들의 박해 속에서 돌팔매질형을 당하면서도 주님을 찬양하면서 순교했다고 합니다. 그래서 하나님의 독생자이신 예수님께서 이런 소심한 태도를 하시는 것이 이상하다, 이게 뭔가 잘못된 것이 아닌가 하는 생각이 들어, 오늘의 성경 부분을 우리는 어떻게 이해해야 할지 당황하게 됩니다.

여기서, 예수님이 두려워하신 것은 단순한 십자가 죽음이 아닙니다. 자신 앞에 놓인 하나님의 노여움을 보시면서 동시에 죽음의 그 깊은 소멸의 구렁텅이를 보시게 되어 두려워하신 것으로 생각됩니다. 그렇다면 왜 아버지 하나님의 노여움이 독생자이신 예수님께 향하고 있을까요? 그것은 예수님이 세상 모든 사람의 죄를 짊어지고 대표로서 하나님의 심판 앞에 서 있기 때문입니다. 우리 인간의 죄란, 그만큼 무섭고 무거운 것입니다. 35,36절을 보시기 바랍니다.

35 조금 나아가서 땅에 엎드리어 될 수 있는 대로 이 때가 자기에게서 지나가기를 구하여

36 이르시되 아바 아버지여 아버지께는 모든 것이 가능하오니 이 잔을 내게서 옮기시옵소서 그러나 나의 원대로 마시옵고 아버지의 원대로 하옵소서 하시고

여기서 예수님은 땅에 엎드려 기도하고 있습니다. 당시 사람들은 서서 하늘을 우러러 소리 높여 기도하는 것이 일반적이었는데, 예수님은 이때 고민과 슬픔이 너무 컸기 때문에 엎드려 기도하셨을 것입니다. 「아바」는, 아람어로 「아버지」라는 뜻으로, 어린 아이가 아버지에게 사용하는 친근한 호칭입니다. 비록 구약성서에, 여호와 하나님을 「우리 아버지」라는 말로 설명된 곳이 몇 군데 있지만, 예수님 시대에 하나님께 「아바」라고 기도하는 사람은 없었습니다. 그렇게 기도하는 것은 불손하다고 여겨졌던 것 같습니다. 그러나 예수님은 하나님의 독생자로 「아바」라고 부르시며 기도하신 것입니다. 그 아버지와 독생자의 신뢰 관계 위에서, 「이 잔을 내게서 옮기시옵소서 그러나 나의 원대로 마시옵고 아버지의 원대로 하옵소서」라고 기도하셨습니다. 「이 잔」이란 무엇일까요? 「이 잔」은, 피와 그리고 죽음 그 자체를 의미합니다. 구약성경에는 「하나님의 분노의 잔」이라는 의미로 자주 사용되고 있습니다. 예를 들어 이사야 51장 17절을 보시기 바랍니다.

여호와의 손에서 그의 분노의 잔을 마신 예루살렘이여 깰지어다 깰지어다 일어설지어다 네가 이미 비틀걸음 치게 하는 큰 잔을 마셔 다 비웠도다

이것은, 여호와의 손에서 분노의 잔을 마셨다고 합니다. 예루살렘 백성들이 파괴와 파멸, 기근과 칼에 의해 죽었다는 것을 의미합니다. 또 예레미야 25장 15절을 봐 주시기 바랍니다.

이스라엘의 하나님 여호와께서 이같이 내게 이르시되 너는 내 손에서 이 진노의 술잔을 받아가지고 내가 너를 보내는 바 그 모든 나라로 하여금 마시게 하라

여기서는, 가공할 하나님의 심판이, 예루살렘에서 거론되고, 이번에는 예루살렘을 괴롭힌 나라들에게, 즉 앗시리아와 바빌론에게 심판이 내려진다는 뜻입니다. 그래서 예수님은 지금, 인류의 죄에 대한 「하나님의 분노의 잔」이, 자신 위에 한꺼번에 쏟아지려 하는 가운데 「나의 원대로 마시옵고 아버지의 원대로 하옵소서」라고 기도하시는 것입니다. 이후, 실제로 하나님의 분노의 잔이 쏟아짐에 따라, 예수님과 아버지 하나님과의 관계가 한 순간이지만, 끊어지게 됩니다. 영원 전부터 아버지와 함께 살아오신 독생자가, 아버지 하나님께 버림받아, 암흑의, 죽음의 계곡에 버려지는 것입니다. 그래서 마가복음 15장 34절에 쓰인 것처럼, 예수님은 십자가상에서「나의 하나님, 나의 하나님 어찌하여 나를 버리셨나이까」라고 부르짖으신 것입니다.

(2) 격투하는 기도의 의미

예수님이 홀로 힘들어 하시는 가운데, 제자들은 기도 가운데 그 짐을 함께 짊어지지도, 예수님의 고통을 나누지도 않고, 졸고 있었습니다. 예수님은 이때 「시몬아 자느냐 네가 한 시간도 깨어 있을 수 없더냐 시험에 들지 않게 깨어 있어 기도라하 마음에는 원이로되 육신이 약하도다」라고 말씀하십니다. 원래 제자들은 파수꾼으로서 망을 보기 위해 깨어 있어야 했습니다. 또 유월절 밤은, 관례적으로 늦게까지 일어나 있어 하나님의 구속에 대해 이야기를 나누는 것이었습니다. 그런데 왠지 이날은 제자들에게 강한 수마(睡魔)와 유혹이 찾아온 것 같습니다. 예수님이 두 번째로 돌아 와 보시자, 제자들은 역시나 졸고 있는 모습을 보이고 말았습니다. 제자들로서는, 여러 번 「깨어 있으라」는 명령을 받았기 때문에 매우 어색했을 것입니다. 40절에는 「그들이 예수께 무엇으로 대답할 줄을 알지 못하더라」라고 되어 있는데, 더 이상 변명의 여지가 없었을 것입니다. “이번에야말로 제대로 눈을 뜨고 있지 않으면 안된다”라고 반성 했었음에 틀림이 없습니다. 하지만 “두 번 이 세 번이 된다”라는 말이 있습니다. 세번 째에도 예수님이 돌아와서 보시니, 또다시 제자들이 졸고 있는 모습을 보게 되었습니다. 이 세 번의 졸음은, 이후 베드로에게 일어날 예수님에 대한 세 번의 부인을 예고하는 것처럼 보이기도 합니다. 이어서 41~42절을 보시겠습니다.

41 세 번째 오사 그들에게 이르시되 이제는 자고 쉬라 그만 되었다 때가 왔도다 보라 인자가 죄인의 손에 팔리느니라

42 일어나라 함께 가자 보라 나를 파는 자가 가까이 왔느니라

41절은 신개역 성경이나 새로 나온 성경협회 공동역 성경(일본어 성경)에서 정정되어 있듯이 의문문으로 읽는 것이 좋을 것 같습니다. 즉, 「너희들은 아직도 자고 있는 것이냐? 쉬고 있는 것이냐?」로 읽는 방법입니다. 또 42절의 「나를 파는 자가 가까이 왔느니라」라고 하는 부분인데 「판다」라는 말은, 41절의 「팔리느니라」와 같은 동사 παραδιδόναι가 사용되고 있습니다. 예수님이 드디어 죄인들의 손에 넘겨질 때가 된 것입니다. 여기서 우리가 주목하고 싶은 것은, 예수님은 마치 자신이 파수꾼인 것처럼 「때가 왔도다 보라 인자가 죄인의 손에 팔리느니라 일어나 함께 가자」라고 제자들을 잠에서 깨우고 있다는 점입니다. 입장이 역전되고 있습니다. 유다가 선두인, 한 무리의 다가오는 발소리가 들려온 것일까요? 혹은 다가오는 횃불의 불빛이 희미하게 보이기 시작한 것일까요. 드디어 잡히려는 이 장면에서 황급히 도망치려는 것도 아니고 오히려 두려움 없이 침착하게 적을 맞이하여 이 상황을 능동적으로 주관하고 계십니다. 이 변화는 무엇일까요? 명확하게는 모르겠지만, 겟세마네의 기도의 격투를 통해 아버지로부터 기도의 응답을 받았기 때문이라고 생각합니다. 기도의 응답이란 무엇인가 하면, 육체에 계실 때 인자로서 죽음에 승리할 약속이요, 육체에 계실 때 인자로서 영원한 생명이 주어지는 약속이었다고 생각합니다. 히브리서 5장 7절을 봐 주시기 바랍니다.

그는 육체에 계실 때에 자기를 죽음에서 능히 구원하실 이에게 심한 통곡과 눈물로 간구와 소원을 올렸고 그의 경건하심으로 말미암아 들으심을 얻었느니라

히브리서의 여기에 적혀 있는 내용은 예수님의 겟세마네 기도를 연상시키는데, 이어지는 8~10절에는 다음과 같이 적혀 있습니다.

8 그가 아들이시면서도 받으신 고난으로 순종함을 배워서

9 온전하게 되셨은즉 자기에게 순종하는 모든 자에게 영원한 구원의 근원이 되시고

10 하나님께 멜기세덱의 반차를 따른 대제사장이라 칭하심을 받으셨느니라

히브리서에 적혀 있듯이 예수님은 하나님의 독생자임에도 불구하고 육체를 입어 사람이 되시고 종으로 섬기는 생애를 통해 믿음의 순종을 배웠습니다. 그리고 그 믿음의 순종을 통해, 아담이 도달하지 못한 「온전하게 된 자」가 되신 것입니다. 그것은 하나님의 독생자이기 때문에 처음부터 주어지거나 쉽게 구할 수 있는 것이 아니었습니다. 종으로서 이 세상에 오셔서 시험을 받으시면서 격투하시며, 투쟁하시며 마침내 도달하실 수가 있었던 것입니다. 저번에도 보신 적이 있는, 이 판넬을 봐 주시기 바랍니다. 이 그림은 아담의 타락 이후 그리스도의 성육신과 십자가에 의해서 무엇이 이루어졌는지를 보여줍니다. 에덴동산에서 아담이 타락했고, 그 후 예수님의 성육신과 십자가에 의해서 무엇이 이루어졌는가 하는 것입니다. 성경에는 예수님이, 부활 후에야 비로서 하늘과 땅의 모든 권위를 부여받았다고 적혀 있는데 (빌립보서 2장 9절, 히브리서 8장 7,8절) 아담이 타락하여 도달하지 못한 단계에, 마침내 예수님이 인자로 도달하신 것입니다. 이 예수님의 믿음의 순종에 의해, 획득된 모든 것이 아무런 공도 없는 우리 교회에 은혜로 주어지는 것입니다. 그리스도는 우리 때문에, 죄와 저주가 되셨는데, 그것은 우리 교회가 그리스도 안에서 하나님께 의롭게 여겨지기 위해서입니다. 그런데 거기에 이르는 길에 있어서 제자들에 의한 도움이 개입할 여지가 일절 없었다는 것을 우리는 보아 왔습니다. 그들은 그저 졸고 있었을 뿐입니다. 「예수님이 혼자서 이루셨다」라고 말씀드릴 수 있겠습니다. 그 일에서 드러나는 것은, 구원이란, 인간 측의 공적에 조금이라도 의존하는 것이 아니라, 무상으로, 단지 은혜로 주어진다는 것입니다. 따라서 다시 정리하자면, 우리가 부여받은 구원이란 죄를 짓기 전 아담의 상태가 회복되는 것이 아닙니다. 아담의 상태는 죄를 지을 수도, 저지르지 않을 수도 있는 상태였습니다. 우리에게 주어진 구원은 그 이상입니다. 믿음으로 예수님께 연합됨으로서, 아담이 도달하지 못한 온전한 상태, 죄를 지을 수 없는 상태, 의 상태에 이르는 은혜를 부여받고 있다는 것입니다. 우리 중보자 예수님은, 투쟁과 격투 속에서 믿음의 순종을 배웠고, 죽음에서 승리하시고, 사람으로서 온전한 자가 되셨습니다. 겟세마네의 기도는 바로 그 일을 상징하는 사건이었습니다.

결론

파수꾼의 역할을 맡은 베드로와 야고보와 요한은 세 번이나 졸고 있는 상황을 예수님께 보여졌기에, 아무런 변명도 할 수 없었습니다. 그러나 그 일이 분명하게 밝히고 있는 것은, 구원은 조금이라도 우리 인간 편의 공로에 의한 것이 아니라는 것입니다. 아무리 자기를 믿고 큰소리를 쳐도, 욱체에 의지한다면 실패할 뿐입니다. 구원은 예수 그리스도의 믿음의 순종에 의해 세워졌습니다. 아담이 도달하지 못한 온전한 상태에, 예수님이 도달하셔서 그 문을 열어주셨습니다. 교회는 이 그리스도를 믿고, 그리스도와 결합됨으로써, 예수님이 획득하신 유익을, 무상으로, 은혜로 받을 수 있는 것입니다.

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