2019年02月03日「神の喪失(律法主義という宗教) 율법주의라는 종교」

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神の喪失(律法主義という宗教) 율법주의라는 종교

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 23章23節~33節

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聖句のアイコン聖書の言葉

23律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。
24ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。
25律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。
26ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
27律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
28このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。
29律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。
30そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。
31こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。
32先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。
33蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 23章23節~33節

原稿のアイコン日本語メッセージ

私たちは、元来、罪人としてこの世に生まれてきました。従って最初から神さまなんて、いやしないという大前提のもとに生まれ育ち教育を受けてきました。ところが、人生に不可思議なことが起こり、以前の私たちからは、到底考え着くこともできないような価値観と考え方を持つようになりました。それは、私たちを愛してくださっている神さまが存在するという考え方であり、そして御子イエス・キリストの十字架を通して罪びとだった私を神と和解させてくださったという考え方です。これを私たちは「信仰」と呼んでいます。信仰とは決して私たちが自然に身に付けたものでもなく、私たちが理性的に賢くなった末に、たどり着いた結論でもありません。ただ神の恵みです。

しかし、いったんキリスト者になったら、いったん信仰を持ったら、それでゴールなのかというとそうでもなく、私たちの信仰生活に立ちはだかるものがあります。それは、私たちに日々、忍び寄る「律法主義」という価値観で、再び私たちを以前の不信仰へ、大前提として持っていた考え方へと引き戻そうとします。律法主義とは、何かといいますと、それは無価値な儀式的な行いとか聖化された行いによって自分の犯した間違いを贖罪しようとする試みです。

律法主義と似た考えとして、日本において「みそぎ」を挙げられます。つまり、罪や汚れを取り除くために川や滝にあたって体を洗い清める儀式です。これは、罪が赦され、清められる根拠を、自らの行ないに帰している訳ですが、究極的に言えば、神さましか成し得ない業を、人間の行いが成しえるかのように錯覚することです。そして、神さまを私たちの人生の中心から押しのけて、自分自身がそこに居座ることを意味しています。律法主義とは、神とは無関係な生き方であり、自分中心の生き方です。

本日は、律法主義の実際について、「災いなるかな、律法学者、ファリサイ人」というイエスさまの4番目から7番目までの叱責を通して見て行きたいと思います。23-24節をご覧ください。

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。

ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。

最初に、24節から説明しますと、レビ記によればぶよもラクダも汚れたものですが、ここにはダジャレが入っていまして、ぶよは、アラム語で「カルマ」です。一方、ラクダはアラム語で「ガムラ」です。似ていますね。「カルマは漉して除くけど、ガムラは飲み込んでいる」と言っています。つまり小さなことには無意味に几帳面なくせに、大きな汚れについては、まったく無頓着だと叱責しています。

23節を見ますと薄荷、いのんど、茴香とありますが、これは、庭でとれる薬草のようなものであり、少量しか収穫することはできません。普通、律法に定められている十一税とは、主に農作物として収穫される穀物のことを指していました。従ってファリサイ人がしていることは、「私はここまで注意深く十一税を支払っている」ということをアピールするために、薄荷、いのんど、茴香にいたるまで几帳面に1/10を適用させたということです。私たちも時々、十分の一献金を捧げるときに、税引き前か税引き後なのかと迷うことがあるかもしれません。注意深くに捧げるべきか、どうしようか迷ってしまいます。

これに対してイエスさまは「あなた方はそこまで意味もなく、几帳面に十分の一を献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている」と言われました。本来、十分の一税が規定されたもともとの理由とは、民の中での「公平さ」の実現であり、貧しいものへの「施し」の実現でした。民数記18:21には公平さが理由として挙げられています。ご覧ください。

見よ、わたしは、イスラエルでささげられるすべての十分の一をレビの子らの嗣業として与える。これは、彼らが臨在の幕屋の作業をする報酬である。

また、申命記26:12-13には施しが理由として挙げられています。

十分の一の納期である三年目ごとに、収穫物の十分の一を全部納め終わり、レビ人、寄留者、孤児、寡婦に施し、彼らが町の中でそれを食べて満ち足りたとき、

あなたの神、主の前で次のように言いなさい。「わたしは、聖なる献げ物を残らず家から取り出し、すべてあなたが命じられた戒めに従って、レビ人、寄留者、孤児、寡婦に施し、あなたの戒めからはずれたり、それを忘れたりしませんでした。

つまり十分の一を捧げる時に、神を恐れながら、特に隣人に対する、「正義と慈悲と誠実」をもって捧げなさいという意味です。十分の一を捧げる時に、神への愛とか儀式への忠実さよりも、隣人に対する憐れみを優先にさせなさいと言っているのです。それでは、神さまを愛することは最優先にはならないのでしょうか。以前、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という御言葉を通して、兄弟愛こそが神さまへの愛への試金石になるということを、教えられました。つまり、神さまは、ご自身に対する私たちの愛を点検するために、いちいち、この世を行き巡りながら、律法をきちんと守っているのかチェックされる方ではありません。しかし、十分の一を捧げものを捧げる時に、その心を見通されるお方です。律法を通して隣人愛の掟をどのように守っているのかご覧になられ、そして、隣人愛を通してご自身への愛をはかられるお方なのです。ですから、ただ十分の一を捧げるだけでは十分ではありません。この外的な儀式よりも、十分の一を捧げる時の私たちの心をご覧になられるのです。

一つ余談ですが、十一税が規定された理由として、さらに付け加えるなら、イエスさまはこの外的な部分も、決してないがしろには出来ないと言われます。それは、なぜかというと、それによって私たちが世から区別され、私たちのすべてが神の御前に聖とされ受け入れられるからです。マラキ書3:10と18節をご覧ください。

十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。

そのとき、あなたたちはもう一度/正しい人と神に逆らう人/神に仕える者と仕えない者との/区別を見るであろう。

つまり、私たちの収入とは、基本的にすべて神さまのものでありますが、十分の一を捧げる時に、それをしるしとして、私たちの全財産の献身として受け入れてくださり、聖なるものとして区別してくださるのです。マタイに戻りまして、25-26節をご覧ください。

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。

ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。

ここにおいても律法学者とファリサイ人たちの、偽善によって人々から名声と評判を買おうと一生懸命になっている姿を、杯と皿の譬えで批判しています。杯と皿の外側だけを綺麗に磨いて、内側は相変わらず汚れがついている状態で、その汚れをそのまま飲んでいるということです。イエスさまはまず、器の内側から、つまり心から、神さまによって清めてもらいなさいと勧めます。心の中心に神さまを正しく迎え入れなさいと勧めておられるのです。引き続き27-28節をご覧ください。同じ内容を違う譬えによって警告しています。

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。

このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。

今度は、律法学者とファリサイ人を墓に譬えています。これは強烈な譬えでした。確かに墓は定期的に漆喰によって白く塗られました。そのようにするのは、「美しさ」の標しではなく、ここは汚れているということを人々に注意喚起するためのものでした。ですから、墓が異様に白くなっているのは、人を引き付けるためではなく、目立つようにさせて嫌悪させるためでした。なぜなら通行人が、もしうっかりして、そこに触れてしまうなら、7日間汚れた者とされるからです。この異様な墓の白さこそ律法学者とファリサイ派の人々の律法主義の行いだと非難されているのです。28節では、外側は義人のように見えるが、実際、内側は偽善と不法に満ちていると宣告しています。ここで「不法」と言う言葉に注目しますと、律法という言葉に否定語がついている言葉です。彼らは表面的には律法を遵守して義とされていると飾りますが、所詮、人は自分の力によっては義とされることはありません。行いによって罪を贖うこともできません。恵みによらなければ義とされないのです。心の中心に神様を迎え入れるしかありません。次に第七の災いを見て行きましょう。29-31節をご覧ください。

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。

そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。

こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。

イエスさまは、律法学者とファリサイ派の人々の行為を指摘して、彼らをして、預言者を殺した者たちの子孫だと告発されています。その理由はなぜかと言いますと、その彼らの行いが偽善であると見抜かれたからです。つまり、彼らは預言者や義人の教えについては、心から反抗し、神を拒絶しているのにも関わらず、死んだ預言者や義人に対しては、その墓を建てたり、記念碑を建てながら、偽りの敬虔な姿を見せようとしているというのです。なぜ預言者や義人の教えには反抗していることが分かるのかと言うと、それは、今、現に神さまによって遣わされたメシアを拒否し、殺害しようとしているからです。このようにして、彼らは、先祖の罪の不足分を満たそうとしているのです。

イエスさまは、最後に彼らに対して「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。」と宣告します。この言葉は以前、洗礼者ヨハネがファリサイ派の人々使った同じ言葉遣いです。マタイ3:7をご覧ください。

ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。

この言葉を聞いたときに、律法学者とファリサイ派の人々は、以前、まだ洗礼者ヨハネが生きていた時、ヨルダン川で自分たちに警告し、悔い改めを迫ったことを、当然、思い浮かべるべきでした。そして当時、神から遣わされた預言者として誰もが疑わなかったヨハネの殺害に、まさに自分たちも、一枚噛んでいたことを、改めて思い返さなければなりませんでした。今からでも罪を悔い改めて、告白し、神をその心にお迎えするチャンスではありましたが、それが出来ませんでした。偽善者である彼らはどうしても心の中心にイエスさまを迎え入れることは出来ないのです。彼らが常に表面を繕って、外づらによって相手に応対することができると考えるのは、その相手を「うわべだけを見る」人間に過ぎないと考え、「心の中を見通す」神さまのことをまったく無視しているからです。彼らの考えの中から神さまを完全に締め出して、自らのその座に居座っているのです。

律法主義とは、このように神さまを締め出すことです。そしてすべての栄光と功績を、自分に帰せることです。私たちは小さなときから、自己責任ということを学んできました。「自分を信じなさい」と言い聞かせられ、私たちが自分で定めた目標に向かって、「自分の将来を決めるのは自分である」と学んできました。すべての行動の責任を自分自身が負ってきました。その結果、善い行いによって自分の過去の失敗や過ちを罪滅ぼしが出来るのではないか、律法という表面的な行いによって義とされるのではないかと錯覚してしまうのです。律法主義とは、私たちが救われる前に持っていた価値観です。罪びとである私たちが救われる道は神さま以外にはありません。ただ恵みによらなければ義とされません。ですから、決して再び律法主義に陥ることなく、日々キリストの贖いを心に刻み、ただ、神の恵みに心から感謝し、神の栄光のために、律法の中心である「正義と慈悲と誠実」という愛を持って隣り人と接していきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

율법주의라는 종교

2019년 2월3일 설교 카와에 토모아키 목사

마태복음 23장 23절~33절

우리는, 본래 죄인으로서 이 세상에 태어났습니다. 따라서 처음부터「하나님 따위는 존재하지 않는다」는 대전제 아래에서 자라나 교육을 받아왔습니다. 그런데 그런 인생에 불가사의한 일이 일어나, 예전의 우리로는 도저히 상상조차 할 수 없었던 가치관과 사고방식을 갖게 되었습니다. 그것은 우리를 사랑해 주시는 하나님이 존재하신다는 생각이며, 또한 그분의 아들 예수 그리스도의 십자가를 통해, 죄인이었던 나를 하나님과 화목하게 해 주셨다는 생각입니다. 우리는 이것을 「믿음」이라고 부릅니다. 믿음이란 결코 우리가 자연스럽게 몸에 익힌 것도 아니며, 우리가 이성적으로 현명해진 끝에 도달한 결론도 아닙니다. 오직 하나님의 은혜일 뿐입니다.

하지만 일단 그리스도인이 되었다고, 일단 믿음을 갖게 되었다고 해서 그것이 끝인 것은 아니며, 우리의 믿음 생활에 가로막히는 것이 있습니다. 그것은 우리에게 매일 스며드는 「율법주의」라는 가치관으로, 다시 우리를 이전의 불신앙으로, 대전제로 가지고 있던 사고방식으로 되돌리려 합니다. 율법주의란 무엇인가 하면, 그것은 무가치한 의식적인 행위나 성화된 행위를 통해 자신이 범한 잘못을 속죄하려는 시도입니다.

율법주의와 비슷한 생각으로, 일본에서는 「미소기」를 들 수 있습니다. 즉, 죄나 더러움을 씻어내기 위해 강이나 폭포에서 몸을 씻어 정화하는, 신도(神道)의 의식입니다. 이것은 죄가 용서받고 정화되는 근거를 자신의 행위에 돌리는 것이나, 궁극적으로 말하면 오직 하나님만이 이루실 수 있는 일을 인간의 행위가 이룰 수 있는 것처럼 착각하는 것입니다. 그리고 이는, 하나님을 우리 삶의 중심에서 밀어내고, 우리 자신이 그 자리에 자리 잡는 것을 의미합니다. 율법주의란, 하나님과는 무관한 삶의 방식이며, 자기 중심적인 삶의 방식입니다.

오늘은 율법주의의 실상에 대해,「화 있을진저 외식하는 서기관들과 바리새인들이여」라는 예수님의 네 번째부터 일곱 번째까지의 질책을 통해 살펴보고자 합니다. 23-24절을 보십시오.

23 화 있을진저 외식하는 서기관들과 바리새인들이여 너희가 박하와 회향과 근채의 십일조는 드리되 율법의 더 중한 바 정의와 긍휼과 믿음은 버렸도다 그러나 이것도 행하고 저것도 버리지 말아야 할지니라

24 맹인 된 인도자여 하루살이는 걸러 내고 낙타는 삼키는도다

먼저 24절부터 설명하자면, 레위기에는 하루살이도 낙타도 부정한 것으로 기록되어 있지만, 여기에는 말장난이 숨어 있습니다. 하루살이는 아람어로「갈마」입니다. 반면 낙타는 아람어로 「감라」입니다. 비슷하죠. 「갈마는 걸러내고 감라는 삼키는도다」라고 말씀하고 계십니다. 즉, 사소한 일에는 무의미하게 꼼꼼한 주제에, 큰 더러움에 대해서는 전혀 무관심하다고 질책하고 계시는 것입니다.

23절을 보면 박하, 회향, 근채 등이 나옵니다. 이것은 뜰에서 따는 약초 같은 것으로, 소량밖에 수확할 수 없습니다. 보통 율법에 정해진 십일조란, 주로 농작물로 수확되는 곡물을 가리켰습니다. 따라서 바리새인들이 하고 있는 일은, 「나는 이 정도로 꼼꼼하게 십일조를 바치고 있다」는 것을 어필하기 위해, 박하, 회향, 근채까지 꼼꼼하게 1/10을 적용시켰다는 것입니다. 우리도 가끔 십일조를 드릴 때, 세전인지 세후인지 망설일 때가 있을지 모릅니다. 꼼꼼하게 드려야 할지, 어떻게 해야 할지 망설이게 됩니다.

이에 대해 예수님께서는 「너희가 박하와 회향과 근채의 십일조는 드리되 율법의 더 중한 바 정의와 긍휼과 믿음은 버렸도다」라고 말씀하셨습니다. 본래 십일조가 규정된 원래 이유는 백성들 사이의 「공정함」을 실현하고, 가난한 자들에게 「구제」를 실천하기 위함이었습니다. 민수기 18장 21절에는 공정함이 그 이유로 제시되어 있습니다. 함께 보시겠습니다.

민수기 18장

21 내가 이스라엘의 십일조를 레위 자손에게 기업으로 다 주어서 그들이 하는 일 곧 회막에서 하는 일을 갚나니

또한 신명기 26:12-13에는 구제가 그 이유로 언급되어 있습니다.

신명기 26장

12 셋째 해 곧 십일조를 드리는 해에 네 모든 소산의 십일조 내기를 마친 후에 그것을 레위인과 객과 고아와 과부에게 주어 네 성읍 안에서 먹고 배부르게 하라

13 그리 할 때에 네 하나님 여호와 앞에 아뢰기를 내가 성물을 내 집에서 내어 레위인과 객과 고아와 과부에게 주기를 주께서 내게 명령하신 명령대로 하였사오니 내가 주의 명령을 범하지 아니하였고 잊지도 아니하였나이다

즉 십일조를 드릴 때, 하나님을 경외하는 마음으로, 특히 이웃에 대한 「정의와 긍휼과 믿음」을 가지고 드리라 하는 뜻입니다. 십일조를 드릴 때, 하나님에 대한 사랑이나 의식에 대한 충실함보다 이웃에 대한 긍휼을 우선시하라고 말씀하시는 것입니다. 그렇다면 하나님을 사랑하는 일은 최우선이 되지 않는 것일까요? 이전에 「내가 긍휼을 원하고 제사를 원치 아니하노라」라는 말씀을 통해, 형제애야말로 하나님을 향한, 사랑의 시금석이 된다는 것을 배웠습니다. 즉, 하나님께서는, 하나님께 대한 우리의 사랑을 점검하기 위해, 일일이 이 세상을 돌아다니시며 율법을 제대로 지키고 있는지 확인하시는 분이 아닙니다. 그러나 십일조를 드릴 때 그 마음을 꿰뚫어 보시는 분이십니다. 율법을 통해 이웃 사랑의 계명을 어떻게 지키고 있는지 보시고, 이웃 사랑을 통해 자신에 대한 사랑을 헤아리시는 분이십니다. 그러므로 단순히 십일조를 드리는 것만으로는 충분하지 않습니다. 이 외적인 의식보다, 십일조를 드릴 때 우리의 마음을 보시는 것입니다.

한 가지 덧붙이자면, 십일조가 규정된 이유로서, 예수님께서는 이 외적인 부분도 결코 소홀히 할 수 없다고 말씀하십니다. 그 이유는, 그것으로 인해 우리가 세상과 구별되고, 우리의 모든 것이 하나님 앞에서 거룩하게 되어 받아들여지기 때문입니다. 말라기 3장 10절과 18절을 보십시오.

말라기 3장

10 만군의 여호와가 이르노라 너희의 온전한 십일조를 창고에 들여 나의 집에 양식이 있게 하고 그것으로 나를 시험하여 내가 하늘 문을 열고 너희에게 복을 쌓을 곳이 없도록 붓지 아니하나 보라

18 그 때에 너희가 돌아와서 의인과 악인을 분별하고 하나님을 섬기는 자와 섬기지 아니하는 자를 분별하리라

즉, 우리의 수입은, 기본적으로 모두 하나님의 것이지만, 십일조를 드릴 때 그것을 표징으로 삼아, 우리의 전 재산의 헌신으로 받아주시고 거룩한 것으로 구별해 주시는 것입니다. 마태복음으로 돌아가서 25-26절을 보십시오.

25 화 있을지저 외식하는 서기관들과 바리새인들이여 잔과 대접의 겉은 깨끗이 하되 그 안에는 탐욕과 방탕으로 가득하게 하는도다

26 눈 먼 바리새인이여 너는 먼저 안을 깨끗이 하라 그리하면 겉도 깨끗하리라

여기서도 서기관들과 바리새인들이 위선을 통해, 사람들에게 명성과 평판을 얻으려고 애쓰는 모습을, 잔과 대접의 비유로 비판하고 있습니다. 잔과 대접의 겉면만 깨끗이 닦아 놓고, 안쪽은 여전히 더러움이 묻어 있는 상태로, 그 더러움을 그대로 마시고 있다는 것입니다. 예수님께서는 먼저 그릇의 안쪽, 즉 마음속부터, 하나님께 깨끗하게 씻김을 받으라고 권고하십니다. 마음의 중심에 하나님을 바르게 모시라고 권고하시는 것입니다. 이어서 27-28절을 보십시오. 같은 내용을 다른 비유로 경고하고 있습니다.

27 화 있을진저 외식하는 서기관들과 바리새인들이여 회칠한 무덤 같으니 겉으로는 아름답게 보이나 그 안에는 죽은 사람의 뼈와 모든 더러운 것이 가득하도다

28 이와 같이 너희도 겉으로는 사람에게 옳게 보이되 안으로는 외식과 불법이 가득하도다

이번에는 서기관들과 바리새인들을 무덤에 비유하고 있습니다. 이는 매우 강렬한 비유였습니다. 확실히 무덤은, 정기적으로 회반죽으로 하얗게 칠해졌습니다. 그렇게 한 것은「아름다움」을 나타내기 위함이 아니라, 이곳이 더럽다는 것을 사람들에게 경고하기 위함이었습니다. 그러므로 무덤이 유난히 하얗게 칠해진 것은, 사람들을 끌어들이기 위함이 아니라, 눈에 띄게 하여 혐오감을 주기 위함이었습니다. 왜냐하면 행인이 실수로 그곳을 만지게 되면, 7일 동안 부정하게 되기 때문입니다. 이 무덤이 지닌, 기이한 하얀색이야말로 서기관들과 바리새인들의 율법주의적 행태라고 비난받고 있는 것입니다. 28절에서는 겉으로는 의인처럼 보이지만, 실제로는 속이, 위선과 불법으로 가득 차 있다고 선포하고 있습니다. 여기서 「불법」이라는 말에 주목해 보면, 율법이라는 단어에 부정어가 붙어 있는 말입니다. 그들은 겉으로는 율법을 준수하여 의롭다고 여겨지는 척하지만, 결국 사람은 자신의 힘으로는, 의롭다 함을 받을 수 없습니다. 행위로 죄를 속죄할 수도 없습니다. 은혜가 아니면 의롭다 함을 받을 수 없는 것입니다. 마음의 중심에 하나님을 모시는 수밖에 없습니다. 다음으로 일곱 번째 화를 살펴보겠습니다. 29-31절을 보십시오.

29 화 있을진저 외식하는 서기관들과 바리새인들이여 너희는 선지자들의 무덤을 만들고 의인들의 비석을 꾸미며 이르되

30 만일 우리가 조상 때에 있었더라면 우리는 그들이 선지자의 피를 흘리는 데 참여하지 아니하였으리라 하니

31 그러면 너희가 선지자를 죽인 자의 자손임을 스스로 증명함이로다

예수님께서는 서기관들과 바리새인들의 행위를 지적하시며, 그들을, 선지자를 죽인 자들의 자손이라고 고발하셨습니다. 그 이유는 무엇이냐 하면, 그들의 행위가 위선임을 꿰뚫어 보셨기 때문입니다. 즉, 그들은 선지자들이나 의인들의 가르침에 대해서는, 마음속으로 반항하며 하나님을 거부하고 있음에도 불구하고, 죽은 선지자나 의인들에 대해서는 무덤을 세우거나 기념비를 세우면서, 거짓된 경건한 모습을 보이려 하고 있다는 것입니다. 왜 선지자들과 의인들의 가르침에 반항하고 있는지 알 수 있느냐 하면, 그것은 지금 실제로 하나님께로부터 보내심을 받은, 메시아를 거부하고, 살해하려 하고 있기 때문입니다. 이처럼 그들은, 조상들의 죄의 부족분을 채우려 하고 있는 것입니다.

예수님께서는 마지막에 그들에게「뱀들아 독사의 새끼들아 너희가 어떻게 지옥의 판결을 피하겠느냐」라고 선포하십니다. 이 말씀은 이전에 세례 요한이 바리새파 사람들에게 사용했던 것과 같은 표현입니다. 마태복음 3장 7절을 보십시오.

마태복음 3장

7 요한이 많은 바리새인들과 사두개인들이 세례 베푸는 데로 오는 것을 보고 이르되 독사의 자식들아 누가 너희를 가르쳐 임박한 진노를 피하라 하더냐

이 말씀을 들었을 때, 서기관들과 바리새인들은, 당연히 세례자 요한이 아직 살아있었을 때, 요단강에서 그들에게 경고하며 회개를 촉구했던 일을 떠올렸어야 했습니다. 그리고 당시 누구도 의심하지 않았던, 하나님께로부터 보내심을 받은, 선지자 요한을 죽이는 일에 자신들도 직접 가담했었다는 사실을 다시금 되새겨야 했습니다. 지금이라도 죄를 회개하고 고백하며, 하나님을 마음속에 모실 기회가 있었지만, 그들은 그렇게 하지 못했습니다. 위선자인 그들은, 도저히 마음의 중심에 예수님을 모실 수 없는 것입니다. 그들이 항상 겉모습을 꾸미고, 표면적으로 예수님을 대할 수 있다고 생각하는 것은, 예수님의「겉모습만 보고」 한 인간에 불과하다고 여기며, 「마음속을 꿰뚫어 보시는」 하나님을 완전히 무시하고 있기 때문입니다. 그들의 생각 속에서 하나님을 완전히 배제하고, 그 자리에 스스로를 앉혀 놓고 있는 것입니다.

율법주의란, 이처럼 하나님을 배제하는 것입니다. 그리고 모든 영광과 공로를 자신에게 돌리는 것입니다. 우리는 어릴 때부터 자기 책임이라는 것을 배워 왔습니다. 「자신을 믿으라」는 말을 듣고, 우리가 스스로 정한 목표를 향해 「자신의 미래를 결정하는 것은 자신이다」라고 배워 왔습니다. 모든 행동의 책임을 스스로 져 왔습니다. 그 결과, 선한 행실로 자신의 과거 실패나 잘못을 속죄할 수 있지 않을까, 율법이라는 표면적인 행위로 의롭다 함을 얻을 수 있지 않을까 하고 착각하게 되는 것입니다. 율법주의란 우리가 구원받기 전에 가지고 있던 가치관입니다. 죄인인 우리가 구원받을 길은, 하나님 외에는 없습니다. 오직 은혜로 말미암지 않고서는 의롭다 함을 얻을 수 없습니다. 그러므로 결코 다시 율법주의에 빠지지 말고, 날마다 그리스도의 속죄를 마음에 새기며, 오직 하나님의 은혜에 진심으로 감사하고, 하나님의 영광을 위해 율법의 핵심인 「정의와 긍휼과 믿음」이라는 사랑을 가지고 이웃을 대합시다.

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