2024年07月21日「主の晩餐 주의 만찬」

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聖句のアイコン聖書の言葉

14:22一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
14:23また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
14:24そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
14:25はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 14章22節~25節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

過ぎ越しの食事の主催者であり、過ぎ越しの食事の主人は、イエス様であられました。弟子たちは今、この食事に与っています。現代に伝えられている過ぎ越しの食事のように、恐らくイエス様の時代においても、この過ぎ越しの食事は儀式的に執り行われていたと考えられています。儀式的というのは、食事の節目、節目に一つの杯に入ったぶどう酒が飲まれた、ということであり、或いは子どもが食事の主催者に対し、この食事の意味を尋ね、主催者がこの食事の意味を伝えたりすること、或いは、詩編113~118編のハレルヤ詩編が讃美されることなどです。それは、現代に至るまでも、ユダヤ人の間で伝統として伝えられています。その過ぎ越しの食事の最中、イエス様は「主の晩餐」を制定されました。私たちが毎月第一週に執り行っている聖餐式のことです。本日は、この第一週の聖餐式で読まれる箇所である、マルコ14章の「主の晩餐」の制定の御言葉から、共に恵みに与りたいと思います。

【1】. 主の晩餐の制定

過ぎ越しの食事の由来とは、主ヤハウェがイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放してくださったことをお祝いすることにありました。出エジプト記12:18~27をご覧ください。少し長いですが、お読みいたします。

“正月の十四日の夕方からその月の二十一日の夕方まで、酵母を入れないパンを食べる。七日の間、家の中に酵母があってはならない。酵母の入ったものを食べる者は、寄留者であれその土地に生まれた者であれ、すべて、イスラエルの共同体から断たれる。酵母の入ったものは一切食べてはならない。あなたたちの住む所ではどこでも、酵母を入れないパンを食べねばならない。』」モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」民はひれ伏して礼拝した。”

イスラエルの民は、モーセの律法に従ってニサンの月の14日に子羊を屠り、そして夕方になってから、屠った子羊と、ぶどう酒と、苦菜を添えた種なしのパンを、過ぎ越しの食事として取りました。ぶどう酒は過ぎ越しの日に柱と鴨居に塗られた子羊の血を思い起こさせたことでしょう。苦菜を添えた種なしのパンは、あの夜、急いで食べて出エジプトを果たした、贖われる直前の状況を思い起こさせたことでしょう。今、イエス様も弟子たちと共に、エルサレム城内の、とある二階の広間で、この過ぎ越しの食事を取っている訳です。ちょうど食事が終盤に差し掛かり、メインディッシュとしての子羊を食べ終えた頃と思われます(参照ルカ22:20)。節目であるぶどう酒を回す時になりました。この時、イエス様は奇妙なことを言われました。14:22-24節の御言葉です。

“一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。”

イエス様はここで、パンを取ってそれを裂き、弟子たちに配ってから「取りなさい。これはわたしの体である」と言われました。即ち「私の体を食べなさい」と言われたのです。これまで、イエス様はご自分の死を予測し、何度も弟子たちにそれを語って来られました。今、弟子たちの前で裂かれたパンが、ユダヤ当局者たちに引き渡されるご自身の体であると言っているのです。御自身の十字架の死を、神に献げられる生贄だと説明しているのです。弟子たちは、まだ、イエス様の言われることを完全には理解できなかったものの、イエス様が奇妙なことを言われたことに、とても驚いたと思います。奇妙な言葉はさらに続きました。一つの杯のぶどう酒を、皆で分かち合って飲むのは、伝統的なものでありますが、その際にやはり奇妙なことを言われたのです。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」。先ほどの「これはわたしの体である」という宣言と「これは私の血である」という宣言が、並行関係にあります。そして血という言葉には、「契約の」ということばが修飾されています。イスラエルの民にとって「契約」とは特別な言葉でした。旧約時代、祭事において、動物の血を注ぐことは重要な要素とされています。血は命であり、血を注ぐことは、罪のきよめと命の贖いを意味したからです。この血を注ぎは、契約を締結する際にも必ず行われました。イスラエルの人々にとって契約とは、神の御前における約束であり、祭事であったと考えられていたのです。契約は、それほど重たい意味が含まれていました。今、イエス様は、弟子たちと共に飲んだぶどう酒が、御自身の血であり、多くの人のために流される、契約の血であると宣言されたのです。言い換えれば、イエス様は過ぎ越し祭の真の子羊であり、イエス様の肉を裂き、血を流すことによって、新しい契約を締結されると宣言されたのです。「主の晩餐」という言葉は、まさに、このイエス様の御言葉からから生まれてきました。

【2】. メシアの体と血を味わうこと

ところで、聖書の中で「主の晩餐」が制定されているのは、マタイ福音書、マルコ福音書、ルカ福音書、そして1コリント書の4つの書であります。4つの中で「パンを(取って)食べなさい」という表現があるのは、マタイによる福音書26:26だけであります。マルコによる福音書と、ルカによる福音書と、1コリント書には「取って食べよ」という言葉が出て来ないため、一部の神学者たちの間で疑問が提起されました。マタイ26:26「パンを食べよ」という言葉は、後の教会が、神学的な理由により挿入した言葉であって、イエス様は単にご自分の死が間近に迫っているということを言わんとしただけではないのか、と言うのです。現在、私たち教会が守っている主の晩餐は、本来イエス様の意図したものではない!そもそも、ユダヤ人の中に血を飲むという風習はなかったが、教会がヘレニズム化される中でそのような風習が儀式として取り入れられたのではないか、と主張するのです。

このような主張に対して私たちはきちんと弁証しなければなりません。果たして主の晩餐は、本当にメシアの体を食べ、メシアの血を飲むように制定されたのでしょうか。この問題を考える上で、まず、4つの文書の中で、最も古い年代に書かれたものは、1コリント書であるということを押さえなければなりません。このことは、主の晩餐が比較的早い時期から初代教会で執り行われていたことを示しています。そして、ルカ福音書(22:19)と1コリント書(11:24)では、「食べなさい」と命じる代わりに、「記念としなさい」となっていることを理解しましょう。早速調べてみたいと思います。ルカ福音書22:19をご覧ください。

“これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。”

次に1コリント11:24-26節をご覧ください。今度は「記念として」という言葉が二回も出てきます。

“「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。”

1コリント書を見ると、パウロは、記念とするという言葉の後に、補足説明をするかのように、「このパンを食べ、この杯を飲むごとに」と語っています。ですから「記念とする」という言葉は、「食べる」という言葉の言い換えではないかと推測できるのです。さらに言えば1コリント10:16では、主の晩餐の杯とパンは、キリストの血と体に与ることだとも言っています。ご覧ください。

“わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。”

従いまして「パンを食べ、ぶどう酒を飲むこと」は、まさに、イエス様の裂かれた体と、流された血を「記念とすること」だと考えられるのです。「食べること、飲むこと」と、「記念すること」を区別することは出来ないという結論に導かれるのです。イエス様はパンとぶどう酒を通して、御自身の十字架の御業を示されただけではなく、私たちにパンとぶどう酒を通して、その恵みを味わい、享受するようにと、それを楽しむようにと、主の晩餐を制定してくださったということになります。

確かに、疑問を提起する神学者たちが言うように、メシアの肉を食べ、メシアの血を飲むという考えは、ユダヤ人にとってそれまで全く馴染みのない考え方でありました。「メシアの肉を食べ、メシアの血を飲みなさい」と言われるのを聞いた時、カファルナウムの人々は、ひどい言葉だと言い、立ち去って行ったことも事実です。ヨハネ福音書6:56~60には次のように書かれています。

“わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」”

旧約時代の過ぎ越しの祭りが、イエス・キリストを指し示しているということでありますが、子羊の血は、祭壇の基に流されたのであって、決してそれを飲むことはありませんでした。新約の主の晩餐は、過ぎ越しの祭りと類似点が多くありますが、それら一つ一つの類似点が全て連続性を持っている訳ではないということは、確かにその通りであります。しかし、そのことは、キリストによる真実で、完全な、犠牲の供え物が献げられたことにより、旧い契約から新しい契約に移行した、その示す内容がはるかに豊かで、完全なものになったと考えることが出来るのです。主の晩餐とは古いものではなく、預言者エレミヤが預言した「新しい契約」なのです(エレ31:31)。

主の晩餐は、神が与えてくださった天からの賜物であるイエス様を無償で受け取ることであり、主の晩餐は、神とご自身の民の間の本質的な食事でもあります。それは、やがて私たちの救いが完成された時に与ることになる「子羊の婚宴」の前味でもあるのです。突然「子羊の婚宴」と申しましたが、これは黙示録に書かれています。簡単に説明しますと、ユダヤの結婚には 婚約期間と、そして、正式な結婚を迎える時の二つの段階があります。聖書には、最初の段階の婚約期間においても、男女は法的に、夫であり、また妻であると書かれています。例えばイエス様の誕生の時、ヨセフとマリヤはまだ婚約中でしたが、それぞれの夫であり、妻であると書かれていますね。たとえ婚約中でもユダヤにおいては夫婦なのです。このことは、私たち教会の地上における信仰生活に例えることが出来ます。イエス様と花嫁である教会は、まだ婚約期間でありますが、法的には夫婦であるという事です。その後、婚約期間を終了し、正式な結婚へと至ります。やがて時が満ち、イエス様が花嫁なる教会を迎えに来る再臨の時がやって来るのです。その時、花嫁は輝く清い麻の衣を着せられ、「子羊の婚宴」の席に導かれ、祝宴に与るのです(黙示録19:7~9)。これは救いの完成を意味しているのですが、主の晩餐とは、この子羊の婚宴の前味でもあるのです。最後にマルコ14:25をご覧ください。

“はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」”

イエス様は、「神の国で新たに飲むその日まで」とおっしゃっていますが、これは「子羊の婚宴」を意味します。イエス様はこの後すぐに十字架に引き渡され、葬られ、三日の後に復活し、その後、天に昇られます。そして、やがての日にイエス様は再び来られ、ご自身の民である教会を集め、御自身の民と共に「子羊の婚宴」の席に座ることになるでしょう。その時、新しい天と新しい地において、父なる神の王国が与える新しいぶどう酒を、共に飲むことになるのであります。

【結論】

私たちが守っている主の晩餐とは、イエス様が制定してくださった新しい礼典であり、それはメシアの肉を食べ、メシアの血を飲むことであります。それは神とご自身の民の間の本質的な食事であり、主イエスを天からの賜物として無償で受けることです。そして、それは同時に、やがての日に新しい天と新しい地において与ることになる子羊の婚宴の席を眺めるものでもあるのです。私たち教会は、この主の晩餐を救いが完成するとき迄、続けていくのです。

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주의 만찬

2024년 7월21일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

마가복음 14장 22~25절

서론

유월절 식사의 주최자이자 유월절 식사의 주인은, 예수님이셨습니다. 제자들은 지금, 이 식사에 참여하고 있습니다. 현대에도 전해진 유월절 식사처럼, 아마도 예수님 시대에도 이 유월절 식사는 의식적으로 행해졌을 것으로 생각됩니다. 의식적이라고 하는 것은, 식사 순서의 단락, 단락에 한 잔에 담긴 포도주(첫 번째 잔: 전식前食 두 번째 잔: 과거를 기억하며, 세 번째 잔: 현재를 축복하며, 네 번째 잔: 미래를 바라보며)를 마셨다는 것이고, 혹은 아이가 식사의 주최자에게, 이 식사의 의미를 묻고, 주회자가 이 식사의 의미를 전하거나 하는 것, 또는 시편 119~118편의 할렐루야 시편을 찬양 하는 것 등입니다. 그것은 현대에 이르기까지 유대인들 사이에서 전통으로 전해지고 있습니다. 그 유월절 식사 중 예수님게서는 「주의 만찬」을 제정하셨습니다. 우리가 매월 첫째 주에 거행하고 있는 성찬식을 말합니다. 오늘은 이 첫째 주 성찬식에서 낭독되는 구절인 마가복음 14장의 「주의 만찬」 제정의 말씀으로 부터, 함께 은혜를 얻고자 합니다.

(1) 주의 만찬의 제정

유월절 식사의 유래는, 주 여호와께서 이스라엘 백성들을 애굽의 노예 상태에서 해방시켜 주신 것을 축하하는 데 있었습니다. 출애굽기 12장 18~27절을 보시기 바랍니다. 조금 길지만 읽어드리겠습니다.

18 첫째 달 그 달 열나흗날 저녁부터 이십일일 저녁까지 너희는 무교병을 먹을 것이요

19 이레 동안은 누룩이 너희 집에서 발견되지 아니하도록 하라 무릇 유교물을 먹은 자는 타국인이든지 본국에서 난 자든지를 막론하고 이스라엘 회중에서 끊어지리니

20 너희는 아무 유교물이든지 먹지 말고 너희 모든 유하는 곳에서 무교병을 먹을 지니라

21 모세가 이스라엘 모든 장로를 불러서 그들에게 이르되 너희는 나가서 너희의 가족대로 어린 양을 택하여 유월절 양으로 잡고

22 우슬초 묶음을 가져다가 그릇에 담은 피에 적셔서 그 피를 문 인방과 좌우 설주에 뿌리고 아침까지 한 사람도 자기 집 문 밖에 나가지 말라

23 여호와께서 애굽 사람들에게 재앙을 내리려고 지나가실 때에 문 인방과 좌우 문설주의 피를 보시면 여호와께서 그 문을 넘으시고 멸하는 자에게 너희 집에 들어가서 너희를 치지 못하게 하실 것임이니라

24 너희는 이 일을 규레로 삼아 너희와 너희 자손이 영원히 지킬 것이니

25 너희는 여호와께서 허락하신 대로 너희에게 주시는 땅에 이를 때에 이 예식을 지킬 것이라

26 이 후에 너희의 자녀가 묻기를 이 예식이 무슨 뜻이냐 하거든

27 너희는 이르기를 이는 여호와의 유월절 제사라 여호와께서 애굽 사람에게 재앙을 내리실 때에 애굽에 있는 이스라엘 자손의 집을 넘으사 우리의 집을 구원하셨느니라 하라 하매 백성이 머리 숙여 경배하니라

이스라엘 백성들은, 모세의 율법에 따라 니산월 14일에 어린 양을 도살하고, 저녁이 되어서야 도살한 어린 양과 포두주와 쓴나물(양고추냉이)을 곁들인 누룩을 넣지 않은 떡을 유월절 식사로 먹었습니다. 포도주는 유월절에 문 인방과 문설주에 칠해진 어린 양을 피를 떠올리게 했을 것입니다. 쓴나물을 곁들인 누룩을 넣지 않은 떡은, 그날 밤, 서둘러 먹고 출애굽을 이룬, 속죄되기 직전의 상황을 상기시켰을 것입니다. 지금 예수님도 제자들과 함께, 예루살렘 성 안의, 어느 2층 큰방에서, 이 유월절 식사를 하고 있는 이유입니다. 마침 식사가 막바지에 이르러, 메인디쉬인 어린 양을 다 먹었을 무렵이라고 생각됩니다(참조 누가복음 22장 20절). 마무리를 짓는 포두주를 돌릴 때가 되었습니다. 이때 예수님은 기묘한 말씀을 하셨습니다. 14장 22~24절 말씀입니다.

22 그들이 떡을 먹을 때에 예수께서 떡을 가지사 축복하시고 떼어 제자들에게 주시며 이르시되 받으라 이것은 내 몸이니라 하시고

23 또 잔을 가지사 감사 기도 하시고 그들에게 주시니 다 이를 마시매

24 이르시되 이것은 많은 사람을 위하여 흘리는 나의 피 곧 언약의 피니라

예수님은 여기서, 떡을 가지사 그것을 떼어, 제자들에게 나눠준 다음에 「받으라 이것은 내 몸이니라」라고 말씀하셨습니다. 즉 「내 몸을 먹으라」라는 말을 들었습니다. 그동안 예수님은 자신의 죽음을 예측하며, 여러 차례 제자들에게 그것을 말씀하셨습니다. 이제 제자들 앞에서 찢어진 떡이, 유대 당국자들에게 넘겨지는 자신의 몸이라고 말씀하고 계시는 것입니다. 자신의 십자가 죽음을, 하나님께 바칠 수 있는 제물이라고 설명하고 있는 것입니다. 제자들은 아직, 예수님의 말씀을 완전히 이해하지는 못했지만, 예수님이 기묘한 말씀을 하신 것에 매우 놀랐을 것입니다. 기묘한 말씀은 더 이어졌습니다. 한 잔의 포도주를, 모두 함께 나눠 마시는 것은, 전통적인 것이지만, 그 때 역시「이것은 많은 사람을 위하여 흘리는 나의 피 곧 언약의 피니라」라는 기묘한 말씀을 하셨습니다. 아까, 「이것은 내 몸이니라」라는 선언과 「이것은 나의 피」라는 선언이 병행 관계에 있습니다. 그리고 「피」라는 말에는 「언약의」라는 말이 수식되어 있습니다. 이스라엘 백성들에게 「언약」이란 특별한 말이었습니다. 구약시대의 제사에서, 동물의 피를 붓는 것은 중요한 요소입니다. 피는 생명이고, 피를 쏟는 것은, 죄의 정결과 생명의 속죄를 의미했기 때문입니다. 이 피를 쏟는 것은, 언약을 체결할 때도 반드시 이루어졌습니다. 이스라엘 사람들에게 언약이란, 하나님 앞에서의 약속이자, 제사였다고 생각되었던 것입니다. 언약은, 그만큼 무거운 의미가 포함되어 있었습니다. 이제, 예수님은, 제자들과 함께 마신 포도주가 자신의 피요, 많은 사람을 위해 흘리는, 언약의 피라고 선언하신 것입니다. 다시 말해, 예수님은 유월절 축제의 진정한 어린 양이시고, 예수님의 살점을 찢고, 피를 흘림으로써, 새로운 언약을 체결하신다고 선언하신 것입니다. 「주의 만찬」이라는 말은, 바로 이 예수님의 말씀에서 나왔습니다.

(2) 메시아의 몸과 피를 맛보는 것

그런데, 성경 가운데 「주의 만찬」이 제정되어 있는 것은, 마태복음, 마가복음, 누가복음 그리고 고린도전서의 네 가지 책입니다. 네 가지 중에 「떡을(받아서) 먹으라」라는 표현이 있는 것은, 마태복음 26장 26절 뿐입니다. 마가복음과 누가복음과 고린도전서에는 「받아서 먹으라」는 단어가 나오지 않기 때문에, 일부의 신학자들 사이에서 의문이 일어났습니다. 마태복음 26장 26절의「받아서 먹으라」는 단어는, 후에 교회가 신학적인 이유에 의해 삽입한 단어이며, 예수님은 단순히 “자신의 죽음이 임박했음을 말씀하시고자 했던 것 만이 아니었나”라는 것입니다. 현재, 우리들 교회가 지키고 있는 주의 만찬, 성찬식은, 본래 예수님이 의도하신 것이 아니다! 애당초 유대인 중에 피를 마시는 풍습은 없었지만, 교회가 헬레니즘화 되는 가운데 그런 풍습이 의식으로 도입된 것이 아니냐고 주장하는 것입니다.

이러한 주장에 대해 우리는 제대로 변증해야 합니다. 과연 주의 만찬은, 정말 메시아의 몸을 먹고 메시아의 피를 마시도록 제정되었을까요? 이 문제를 생각할 때, 먼저 4개의 문서 중에서 가장 오래된 연대에 쓰인 것은, 고린도서전서라는 것을 염두에 두어야 합니다. 이는 주의 만찬이 비교적 이른 시기부터 초대 교회에서 거행되고 있었음을 보여줍니다. 그리고 누가복음(22장 19절)과 고린도전서(11장 24절)에서는 「먹으라」고 명하는 대신 「기념하라」고 되어 있음을 이해합시다. 바로 살펴보도록 하겠습니다. 누가복음 22장 19절을 보시기 바랍니다.

또 떡을 가져 감사 기도 하시고 떠어 그들에게 주시며 이르시되 이것은 너희를 위하여 주는 내 몸이라 너희가 이를 행하여 나를 기념하라 하시고

다음으로 고린도전서 11장 24~26절을 보시기 바랍니다. 이번에는 「기념하라」라는 말이 두 번이나 나옵니다.

24 축사하시고 떼어 이르시되 이것은 너희를 위하는 내 몸이니 이것을 행하여 나를 기념하라 하시고

25 식후에 또한 그와 같이 잔을 가지시고 이르시되 이 잔은 내 피로 세운 새 언약이니 이것을 행하여 마실 때마다 나를 기념하라 하셨으니

26 너희가 이 떡을 먹으며 이 잔을 마실 때마다 주의 죽으심을 그가 오실 때까지 전하는 것이니라

고린도전서를 보면, 바울은 「기념하라」라는 말 뒤에 보충 설명을 하듯 「이 떡을 먹으며 이 잔을 마실 때마다」라고 말하고 있습니다. 그래서 「기념하라」라는 말은, 「먹는다」라는 말의 다른 말이 아닐까 추측할 수 있습니다. 더 말하면 고린도전서 10장 16절에는, 주의 만찬의 잔과 떡은, 그리스도의 피와 몸에 참여하는 것이라고도 합니다. 보시기 바랍니다.

우리가 축복하는 바 축복의 잔은 그리스도의 피에 참여함이 아니며 우리가 떼는 떡은 그리스도의 몸에 참여함이 아니냐

따라서 「떡을 먹으며 포도주를 마시는 것」은, 바로 예수님의 찢어진 몸과 흘러내린 피를 「기념으로 삼는 것」이라고 생각할 수 있습니다. 「먹는 것, 마시는 것」과 「기념하는 것」을 구분할 수 없다는 결론에 이끌리는 것입니다. 예수님은 떡과 포도주를 통해 자신의 십자가의 대업을 보여주셨을 뿐만 아니라, 우리에게 떡과 포도주를 통해 그 은혜를 맛보고, 누리라고, 그것을 즐기라고, 주의 만찬을 제정해 주셨다는 것입니다.

분명히, 의문을 제기하는 신학자들이 말하는 것처럼, 메시아의 살을 먹고, 메시아의 피를 마신다는 생각은, 유대인들에게 그때까지 전혀 생소한 사고방식이었습니다. 「메시아의 살을 먹고 메시아의 피를 마시라」는 말을 들었을 때 가버나움 사람들은 어려운 말이라며 떠나간 것도 사실입니다. 요한복음 6장 56~60절에는 다음과 같이 적혀 있습니다.

56 내 살을 먹고 내 피를 마시는 자는 내 안에 거하고 나도 그의 안에 거하나니

57 살아 계신 아버지께서 나를 보내시매 내가 아버지로 말미암아 사는 것 같이 나를 먹는 그 사람도 나로 말미암아 살리라

58 이것은 하늘에서 내려온 떡이니 조상들이 먹고도 죽은 그것과 같지 아니하며 이 떡을 먹는 자는 영원히 살리라

59 이 말씀은 예수께서 가버나움 회당에서 가르치실 때에 하셨느니라

60 제자 중 여럿이 듣고 말하되 이 말씀은 어렵도다 누가 들을 수 있느냐 한대

구약시대의 유월절 축제가, 예수・그리스도를 가리키고 있다는 것인데, 어린 양의 피는 제단의 토대로 흐르게 한 것이지 결코 그것을 마시지 않았습니다. 신약시대의 주의 만찬은, 유월절의 축제와 유사한 점이 많지만, 그것들 하나하나의 유사점이 모두 연속성을 가지고 있는 것은 아니라는 것은, 분명 맞습니다. 그러나, 그 일은 그리스도에 의한 진실로, 완전한, 희생의 제물이 바쳐짐으로써, 옛 언약에서 새로운 언약으로 이행한, 그 보여주는 내용이 훨씬 풍부하고 완전한 것이 되었다고 생각할 수 있습니다. 주의 만찬이란 옛 언약이 아니라 선지자 예레미야가 예언한 「새 언약(예레미야31장 31절)」입니다.

주의 만찬은, 하나님께서 주신 하늘의 선물인 예수님을 무상으로 받는 것이고, 주의 만찬은, 하나님과 자신의 백성 사이의 본질적인 식사이기도 합니다. 그것은, 머지않아 우리의 구원이 완성되었을 때에 참여하게 될 「어린 양의 혼인 잔치」의 맛보기이기도 합니다. 갑자기 「어린 양의 혼인 잔치」라고 말씀드렸는데, 이것은 요한계시록에 적혀 있습니다. 간단히 설명하자면, 유대의 결혼에는 약혼 기간과 그리고 정식 결혼을 맞이할 때의 두 단계가 있습니다. 성경에는, 첫 단계의 약혼 기간에도, 남녀는 법적으로, 남편이자 아내라고 적혀 있습니다. 예를 들어 예수님 탄생 때, 요셉과 마리아는 아직 약혼 중이었지만, 서로 서로의 남편이자 아내라고 적혀 있습니다. 비록 약혼 중이라도 유대에 있어서는 부부인 것입니다. 이것은, 우리 교회의 지상에서의 신앙생활에 비유할 수 있습니다. 예수님과 신부인 교회는, 아직 약혼 기간이지만, 법적으로는 부부라는 것입니다. 그 후, 약혼 기간을 종료하고, 정식 결혼에 이르게 됩니다. 이윽고 때가 차면, 예수님이 신부인 교회를 맞이하러 오는 재림의 때가 오는 것입니다. 그 때 신부는 빛나고 깨끗한 세마포 옷을 입고 어린 양의 혼인 진치에 청함을 받고 참석합니다(요한계시록 19장 7~9절). 이것은 구원의 완성을 의미하고 있습니다만, 주의 만찬이란, 이 「어린 양의 혼인 잔치」를 미리 맛보는 것이기도 합니다. 마지막으로 마가복음 14장 25절을 보시기 바랍니다.

진실로 너희에게 이르노니 내가 포도나무에서 난 것을 하나님 나라에서 새 것으로 마시는 날까지 다시 마시지 아니하리라 하시니라

예수님은, 「하나님 나라에서 새 것으로 마시는 그날까지」라고 말씀하시는데, 이는 「어린 양의 혼인 잔치」를 의미합니다. 예수님은 곧 십자가에 넘겨져 장사되고 사흘 뒤에 부활하시고, 그 후에 하늘로 올라가십니다. 그리고 이윽고 어느 날 예수님은 다시 오시고, 자신의 백성인 교회를 모아, 자신의 백성들과 함께 「어린 양의 혼인 잔치」자리에 앉게 될 것입니다. 그 때 새 하늘과 새 땅에서, 아버지 하나님의 왕국이 주시는 새 포도주를 함께 마시게 되는 것입니다.

결론

우리가 지키고 있는 주의 만찬이란 예수님께서 제정해 주신 새로운 성례전이고, 그것은 메시아의 살을 먹고 메시아의 피를 마시는 것입니다. 그것은 하나님과 자신의 백성 사이의 본질적인 식사이며, 주 예수를 하늘이 주신 선물로 무상으로 받는 것입니다. 그리고 그것은 동시에, 머지않은 그 날의 새 하늘과 새 땅에서 참여하게 될 「어린 양의 혼인 잔치」자리를 바라보는 것이기도 합니다. 우리 교회는, 이 주의 만찬을 구원이 완성될 때까지, 이어가는 것입니다.

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