2024年07月14日「イエスを引き渡す 예수를 넘기다」

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イエスを引き渡す 예수를 넘기다

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 14章10節~21節

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聖句のアイコン聖書の言葉

14:10十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。
14:11彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。
14:12除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
14:13そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。
14:14その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』
14:15すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
14:16弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
14:17夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。
14:18一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
14:19弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
14:20イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。
14:21人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 14章10節~21節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

ユダヤの当局者たちが計略によってイエスを亡き者にしようと考えていたところ、願ってもない機会がやって来ました。それは他でもなく、イエスの側近の十二弟子の一人が、祭司長たちの手にイエスを引き渡すことを約束するために、やって来たからでありました。時は過ぎ越しの食事の、二日前の日であります。イエス様が引き渡され、十字架に掛けられるその時が、いよいよ近づきつつあります。本日は、マルコ14章10~21節の御言葉から共に恵みに与りたいと思います。

【1】. 過ぎ越しの食事の準備

ユダが祭司長のところへ行ったその翌日、すなわち過ぎ越しの子羊を屠る日となりました。この日は、夕暮れ時に過ぎ越しの食事を取るために、子羊を神殿で屠る日であります。巡礼者は祭司に屠殺した子羊を渡し、祭司は家畜の血を、金や銀でできた器で受け取って、その血を祭壇の基に注ぎます。それから、祭司から子羊を受け取った巡礼者は、夕方、エルサレムの城内で過ぎ越しの食事を取ることが定められていました。この日は、一日で数千頭の子羊が屠殺されたと考えられています。エルサレムの住民は、エルサレムに家のない地方からの巡礼者のために、食事のための場所を提供することが聖なる義務とされていました。12節をご覧ください。

“除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。”

当時のユダヤ人の時間は、日が沈んだ時に日付が新しく変わりました。過ぎ越しの食事は、日没後、つまり日付が変わって15日になってから取るように定められています。12節の冒頭に、「除酵祭の第一日、すなわち過越しの子羊を屠る日」とあります。この日は、ニサンの月の14日を指しています。「ニサンの月」とはイスラエルの暦で第一の月という意味です。第一の月の14日は子羊を屠る日であり、過ぎ越しの食事と共に除酵祭が始まりました(出12:18、レビ23:5-6)。弟子たちは、エルサレムの城内で過ぎ越しの食事を取るため、どこで、食事の用意をしたらいいのか、イエス様に尋ねました。イエス様は次のように言われ、二人の弟子を使いに出されました。13節途中から15節までお読みします。

“都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。”

注解書によると、当時、水がめを運ぶのは女性であり、男性が水を運ぶ場合は、革袋に入れて運んだそうです。ですから、男が水がめを運ぶのは珍しく、それが目印となったと考えられます。二人の弟子は、その水がめをもった男を見つけ、彼についていきました。そして家の主人に問い合わせました。するとイエス様が言われた通り、男は二階の広間に案内してくれました。この不思議な出来事は、イエス様ご自身が奇跡によって予知能力を働かせたのか、或いは、前もってイエス様が弟子たちには内緒で家の主人と打ち合わせしていたのか、聖書に書かれていないため、はっきりしたことは分かりません。しかし、弟子たちはただ、イエス様の指示通りに動けばよかったという事がここに書かれているのだと思います。すべてのことがイエス様によってコントロールされていたということです。14節で「わたしの部屋はどこか」と尋ねるよう、イエス様が命じていることもそうですが、この過ぎ越しの食事の主催者であり、過ぎ越しの食事の主人は、イエス様であるということが、ここで強調されているのだと思います。イエス様は主催者として、主人として過ぎ越しの食事を十二弟子とどうしても一緒に取る必要があったのであります。

【2】. イエスを引き渡す者

さて、夕方になり、イエス様は十二人と一緒にその場所に行き、過ぎ越しの食事を開始されました。18~20節をご覧ください。

“一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。”

18節の「一同が席についているとき」という言葉は、直訳すると「一同が横たわっているとき」となります。つまり、肩肘をつきながら、上半身だけを起こし、食事を取っているという状況です。その状況で、イエス様は重大発言をなさいました。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは、メシアであるイエス様によって「神の国」がまもなく樹立されるだろうと思っていた、その矢先でありましたから、イエス様のお言葉に大変なショックを受けたことでしょう。「わたしを裏切ろうとしている」という言葉は、直訳しますと、「わたしを引き渡そうとしている」であります。つまり11節の「引き渡そうとして」と同じ言葉が使われています。「裏切るπροδίδόναι」という言葉と「引き渡すπαραδιδόναι」という言葉は、同じ系列の言葉であり、ほんの少ししか違いはありませんが、正確に言えば、ここでは「引き渡すπαραδιδόναι」という言葉、パラディドナイが使われています。後で出てきます21節の「裏切るその者は」という言葉もやはり、「引き渡す」という言葉が使われています。「引き渡す」、この言葉は、まさにイエス様のご自身の三度の受難告知の中で使われていた言葉でありました。マルコ福音書9:31と10:33をご覧ください。

“それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。”

イエス様はご自身の二回目の受難告知において、「人の子は、人々の手に引き渡される」と預言されました。続いて10:33をご覧ください。

“「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。”

三回目の受難告知においてもやはり、「人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される、異邦人に引き渡す」と預言されました。つまりユダのした行ないとは、イエス様の預言の成就であったという事が分かります。弟子たちは、心を痛めながら、代わる代わる「まさかわたしのことでは」と言い始めました。果たして、神の国の樹立は、一人の弟子の裏切りによって台無しになってしまうのでしょうか。イエス様の神妙なお言葉は、弟子たちの神の国に対する期待と意気込みに、影を落としたのであります。イエス様はさらに続けて言われました。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。」

このお言葉は裏切り者を特定している、ということではありません。日本の食卓で例えるなら、鍋を家族で食べる時、一つの鍋を皆で囲んで食べますね。「一つの鍋を囲んだ者たちのその一人が、私を裏切る」と言っているのです。「同じ釜の飯から食べた親密な関係にある者たちの一人が、私を裏切る」と言っているのです。そのように親密な関係にありながら、自分のお仕えするラビ(先生)を売るという、その極悪非道さが語られているのです。詩編41:10をご覧ください。

“わたしの信頼していた仲間/わたしのパンを食べる者が/威張ってわたしを足げにします。”

イエス様のお言葉は、おそらくこの詩編41:10の引用だと考えられています。詩編の言葉通り、イエス様も最も信頼していた十二弟子の中の一人によって、足蹴にされ、ないがしろにされるのです。その一人とは、読み進んで行けば分かりますが、イスカリオテのユダのことであります。

【3】. ユダの動機

それでは、ユダがイエス様を裏切った動機とは一体何だったのでしょうか。その動機については聖書にはっきり書かれていないため、私たちは推測することしかできません。ユダは会計係をしていました。ユダが裏切る直前に、ベタニアのある女が、イエス様に対し300デナリオン以上するナルドの香油を全て注ぎました。それは弟子たちの目に、明らかに浪費、無駄使いとして映りました。しかしイエス様はそのことを注意することもなく、「私の埋葬のための準備をしてくれた」と言われたのです。神の国の樹立が目前にあるのに、あとは、ユダヤの当局者たちの前で奇跡や病の癒しなどを行い、メシアであることを公に認めさせ、当局者たちと力を合わせ、打倒ローマに向けて前進していくべき時でありました。…それなのに、イエス様はご自身の口から、三度も受難告知をされ、引き渡され殺されるだろうと預言し、また、女の浪費を「埋葬のための準備」だと言われたのです。ユダはそのことに対してがっかりしたのかもしれません。また、ある人は次のように推測します。「ユダは、決してお金目当てにイエスを引き渡したのではない。神の国の樹立のため、イエスが一向に立ち上がろうとしないので、捕らえられる、という、この切羽詰まった状況を作り出し、そのような危機的な状況に置かれれば、先生もいよいよ腹を決めて決起なさるだろう」そのように考え、あえてイエス様を祭司長たちに引き渡すことにより、そういった状況を演出したのではないかと言うのです。そうかもしれません。いずれにしても、本日の箇所で注目したいことは、「引き渡した」という言葉です。ユダがイエス様に対して行ったことは、救い主であるイエス様を引き渡したという事です。このことを深く考えてみましょう。私たちに賜物として与えられているイエス様を引き渡したという事ですから、ユダにとって、イエス様という賜物は価値がなかった、或いはイエス様にある救いは必要なかったという事になります。それでは、イエス様が賜物として私たちに与えられているとはどういうことでしょうか。それは、イエス様にある永遠の命が信じる人々に与えられているということです。イエス様にある義が信じる人々に与えられている、イエス様にある罪の赦しが信じる人々に与えられている、イエス様にある神の子としての特権が信じる人々に与えられている、王であり、頭であるイエス様が、教会に与えられているということです。この方に結び合わせられる時に、教会は初めてこの方の有益を受け取ることが出来るのです。

天からの賜物であるイエス様の価値は、信仰によってでしか理解することは出来ません。この賜物に多くの価値を認める人は、その分、イエス様に献身し、頭であるイエス様に従順します。イエス様にたくさんの罪を赦されたと認める人は、イエス様を多く愛するのです。しかし、あたかもエサウがヤコブに長子権を売り渡したように、ユダはこの天からの賜物を簡単に引き渡してしまいました。その賜物の真の意味を理解することができず、自分の考え通り物事を進めようとして、自分の王国を樹立させるために、イエス様を利用しようとしたのです。

確かにメシアが引き渡され、殺されることは、神様の御心でありました。私たち罪びとの代わりに、イエス様が十字架上で、神の審判を受けることが、まさに贖いの御業でありました。そうであるなら、イスカリオテのユダは、神様の定められた永遠のご計画に用いられたので、その働きを担ったと言えるのではないか?結果的に見れば、十字架の御業を成就させるために、必要なことをしてくれたのではないか?と考える人もいるかもしれません。しかし聖書は、そのようには語らないのです。たとえ預言の成就ために人間の罪が用いられたとしても、その罪の責任は全面的にその人にあるのです。21節をご覧ください。

“人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」”

先ほども言いましたが、裏切るという言葉は、引き渡すという言葉が使われています。イエス様という天からの賜物を、イエス様という聖なるお方を、簡単に引き渡すその者は不幸である、生まれなかった方が良かったとイエス様は言われます。もし、私たちが、神様を利用して、自分の願い、自分の考えを成就しようと考えるならば、このイエス様のお言葉の前に、私たちは直ちに悔い改めなければならないのです。

【適用】

イエス様は、過ぎ越しの食事を弟子たちと共に取られることを切に願われました。なぜなら、屠られた子羊とはイエス様ご自身であることをはっきりと弟子たちに啓示するためであります。出エジプトをしたあの夜、イエス様の血を門の柱と鴨居に塗り、イエス様の肉を急いで食べたイスラエルに、神の解放と救いがもたらされたのです。それは今でも変わりありません。罪を清めるイエス様の血と、いのちをもたらすイエス様の肉は、賜物として私たち教会に与えられています。それは信仰によってでしか受け取ることは出来ませんが、信仰によって、その賜物の価値を理解させていただき、信仰によってすべてをお委ねし、信仰によってこの方に献身するという仕方で、感謝の応答を捧げていく者とさせていただきましょう。私たちは神の御心を完全には理解することはできません。この世は、人間の罪によって、暗くされ、いよいよ混とんの中に巻き込まれていくように見えますが、その中にあって、私たち人間の罪さえ、御自身の摂理の中でお用いなられ、永遠の御心を成し遂げられる神の支配が光り輝いているのであります。そのことに私たちは目を留めて、すべてのことを主にお委ねし、イエス様と共に歩ませていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

예수를 넘기다

2024년 7월14일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

마가복음 14장 10~21절

서론

유대 당국자들이 흉계에 따라 예수를 죽이려고 생각하던 중 뜻밖의 기회가 찾아왔습니다. 그것은 다른 것도 아니고, 예수님의 측근인 열두 제자 중 한 명이, 대제사장들의 손에 예수님을 넘길 것을 약속하기 위해 찾아왔기 때문이었습니다. 시간은 유월절 식사의 이틀 전 이었습니다. 예수님이 넘겨 지고, 십자가에 못 박히는 그 때가, 드디어 다가오고 있습니다. 오늘은, 마가복음 14장 10~21절의 말씀에서 함께 은혜를 받고자 합니다.

(1) 유월절 식사의 준비

유다가 대제사장들에게 간 그 다음날, 곧 유월절의 어린 양을 잡는 날이 되었습니다. 이 날은, 해질녘에 유월절 식사를 하기 위해, 어린 양을 성전에서 도살하는 날입니다. 순례자는 제사장에게 도살한 어린 양을 주고, 제사장은 가축의 피를, 금이나 은으로 된 그릇으로 받아, 그 피를 제단 밑에 붓습니다. 그리고 제사장으로부터 어린 양을 받은 순례자는, 저녁에 예루살렘 성안에서 유월절 식사를 하도록 정해져 있었습니다. 이날은 하루 동안 수천 마리의 어린 양이 도살된 것으로 생각됩니다. 예루살렘 주민들은, 예루살렘에 집이 없는 지방 에서 온 순례자들을 위해 식사를 위한 장소를 제공하는 것이 거룩한 의무로 여겨졌습니다. 12절을 보시겠습니다.

무교절의 첫날 곧 유월절 양 잡는 날에 제자들이 예수께 여짜오되 우리가 어디로 가서 선생님께서 유월절 음식을 잡수시게 준비하기를 원하시나이까 하매

당시 유대인들의 시간은, 해가 질 때 날짜가 새롭게 바뀌었습니다. 유월절 식사는 일몰 후, 즉 날짜가 바뀌어 15일이 된 후 취하도록 정해져 있습니다. 12절 첫머리에 「무교절의 첫날 곧 유월절 양 잡는 날」이라고 되어 있습니다. 이날은 니산월 14일을 가리키고 있습니다. 「니산월」은 이스라엘 달력에서 첫 번째 달이라는 뜻입니다. 첫째 달 14일은 어린 양을 잡는 날이요, 유월절 식사와 함께 무교절이 시작되었습니다(출애굽기 12장 18절, 레위기 23장 5,6절). 제자들은, 예루살렘 성안에서 유월절 식사를 하기 위해, 어디서 식사를 준비해야 하는지 예수님께 물었습니다. 예수님은 다음과 같이 말씀하시며 두 제자를 심부름 보내셨습니다. 13절 중간부터 15절까지 읽겠습니다.

13 .. 성내로 들어가라 그리하면 물 한 동이를 가지고 가는 사람을 만나리니 그를 따라가서

14 어디든지 그가 들어가는 그 집 주인에게 이르되 선생님의 말씀이 내가 내 제자들과 함께 유월절 음식을 먹을 나의 객실이 어디 있느냐 하시더라 하라

15 그리하면 자리를 펴고 준비한 큰 다락방을 보이리니 거기서 우리를 위하여 준비하라 하시니

주해서에 따르면, 당시, 물 동이를 운반하는 것은 여성이었고, 남성이 물을 운반할 경우는, 가죽 부대에 넣어 운반했다고 합니다. 그래서, 남자가 물 동이를 운반하는 것은 드물고, 그것이 표식이 되었다고 생각됩니다. 두 제자는, 그 물 한 동이를 가지고 가는 남자를 발견하고 그를 따라갔습니다. 그리고 집 주인에게 문의했습니다. 그러자 예수님이 말씀하신 대로, 남자는 이층 큰방으로 안내해 주었습니다. 이 불가사이한 사건은, 예수님 자신이 기적에 의해 예지 능력을 발휘했는지, 아니면 미리 예수님이 제자들 몰래 집 주인과 협의했는지 성경에 적혀 있지 않기 때문에, 확실한 것은 알 수 없습니다. 그러나 제자들은 그저 예수님의 지시대로만 움직이면 된다는 것이 여기에 적혀 있는 것이라고 생각합니다. 모든 일이 예수님에 의해 통제되고 있다는 것입니다. 14절에서 「나의 객실이 어디 있느냐」고 묻도록, 예수님이 명하신 것도 그렇지만, 이 유월절 식사의 주최자이자, 유월절 식사의 주인은, 예수님이라는 것이, 여기서 강조되고 있는 것 같습니다. 예수님은 주최자로서, 주인으로서 유월절 식사를 열두 제자와 꼭 함께 하셔야만 할 필요가 있었기 때문입니다.

(2) 예수를 파는 자

자, 저녁이 되자 예수님은 열두 제자와 함께 그 장소로 가셔서 유월절 식사를 하셨습니다. 18~20절을 보시기 바랍니다.

18 다 앉아 먹을 때에 예수께서 이르시되 내가 진실로 너희에게 이르노니 너희 중의 한 사람 곧 나와 함께 먹는 자가 나를 팔리라 하신대

19 그들이 근심하며 하나씩 하나씩 나는 아니지요 하고 말하기 시작하니

20 그들이 먹을 때에 예수께서 떡을 가지사 축복하시고 떼어 제자들에게 주시며 이르시되 받으라 이것은 내 몸이니라 하시고

18절의 「다 앉아 먹을 때에」라는 말은 직역하면 「다 누워 있을 때에」가 됩니다. 즉, 팔꿈치로 몸을 받치고 상체만 일으키고 식사를 하고 있는 상황입니다. 그 상황에서, 예수님은「내가 진실로 너희에게 이르노니 너희 중의 한 사람 곧 나와 함께 먹는 자가 나를 팔리라」라고 중대 발언을 하셨습니다. 제자들은, 메시아인 예수님에 의해 「하나님의 나라」가 곧 수립될 것이라고 생각했던 그 순간이었으니, 예수님의 말씀에 큰 충격을 받았을 것입니다. 「나를 팔리라」는 말은 직역하면 「나를 넘기려 한다」는 것입니다. 즉 11절의 「넘겨 줄까」와 같은 말이 쓰이고 있습니다. 「팔다 προδίδόναι」라고 하는 단어와 「넘기다παραδιδόναι」라는 말은, 같은 계열의 말로 별차이가 없지만, 정확하게 말하면, 여기서는 「넘기다παραδιδόναι」라는 말, 파라디도미가 사용되고 있습니다. 나중에 나오는 21절의 「파는 그 사람」이라는 말 역시, 「넘기다」라고 하는 단어가 사용되고 있습니다. 「넘기다」 , 이 단어는, 역시 예수님 자신의 세 번의 수난 고지 안에서 쓰이던 말씀이었습니다. 마가복음 9장 31절과 10장 33절을 보시기 바랍니다.

이는 제자들을 가르치시며 또 인자가 사람들의 손에 넘겨져 죽임을 당하고 죽은지 삼 일만에 살아나리라는 것을 말씀하셨기 때문이더라

예수님은 자신의 두 번째 수난 고지에서 「인자가 사람들의 손에 넘겨져」라고 예언하셨습니다. 이어서 10장 33절을 읽어보겠습니다.

보라 우리가 예수살렘에 올라가노니 인자가 대제사장들과 서기관들에게 넘겨지매 그들이 죽이기로 결의하고 이방인들에게 넘겨 주겠고

세 번째 수난고지에서도 역시 「인자가 대제상들과 서기관들에게 넘겨지매」라고 예언하셨습니다. 즉 유다가 한 행동은, 예수님의 예언의 성취였음을 알 수 있습니다. 제자들은, 마음 아파하며 번갈아 가며 「나는 아니지요」라고 말하기 시작했습니다. 과연 하나님 나라의 수립은, 한 제자의 배신으로 엉망이 되고 마는 것일까요. 예수님의 신묘한 말씀은, 제자들의 하나님 나라에 대한 기대와 패기에, 그림자를 드리운 것입니다. 계속해서 예수님은「나와 함께 먹는 자가 나를 팔리라」라고 말씀하셨습니다.

이 말씀은 배신자를 특정하고 있다는 것이 아닙니다. 일본의 식탁으로 비유하자면 냄비를 가족끼리 먹을 때, 한 냄비를 다 같이 둘러서 먹습니다. “한 냄비를 둘러싼 자들 중 한 명이 나를 팔려 한다”라고 말씀하고 계십니다. 그렇게 친밀한 관계에 있으면서, 자신이 섬기는 랍비(선생님)를 판다는, 그 극악무도함이 이야기되고 있는 것입니다. 시편 41편 9절을 봐 주십시오.

내가 신뢰하며 내 떡을 나눠 먹던 나의 가까운 친구도 나를 대적하여 그의 발꿈치를 들었나이다

예수님의 말씀은 아마도 이 시편 41편 9절의 인용이라고 생각됩니다. 시편의 말씀대로, 예수님도 가장 신뢰했던 열두 제자 중 한명에 의해, 발길질 당하고 홀대를 받는 것입니다. 그 나와 함께 먹는자란, 읽어보시면 알겠지만 이스카리옷의 유다입니다.

(3) 유다의 동기

그러면, 유다가 예수님을 팔아 넘긴 동기는 도대체 무엇이었을까요? 그 동기에 대해서는 성경에 명확하게 적혀 있지 않기 때문에 우리는 추측할 수밖에 없습니다. 유다는 회계 담당을 하고 있었습니다. 유다가 배신하기 직전에, 베다니의 한 여자가, 예수님께 300데나리온이 넘는 나르드 향유를 모두 쏟아 부었습니다. 그것은 제자들의 눈에 분명히 낭비, 허비로 비쳤습니다. 그러나 예수님은 그 일을 주의를 주시지도 않으셨고 「내 장례를 미리 준비하였느니라」는 말씀을 하셨습니다. 하나님의 나라 수립이 눈앞에 있었고, 이제는 유대 당국자들 앞에서 기적과 병 치유 등을 행하며, 메시아임을 공개적으로 인정하게 하고, 당국자들과 힘을 합쳐 타도 로마를 향해 전진해야 할 때였습니다. 그런데도 예수님은 자신의 입으로, 세 번이나 수난 고지를 하시고, 넘겨져 죽임을 당할 것이라고 예언했고, 또 여자의 허비를, 「장례를 미리 준비하였느니라」라고 말씀하셨습니다. 유다는 그 일에 대해 실망했을지도 모릅니다. 또 어떤 사람은 다음과 같이 추측합니다. ‘유다는 걸코 돈을 목적으로 예수를 넘긴 것이 아니다. 하나님 나라의 수립을 위해 예수님이 도무지 일어서지 않으시니, 붙잡히는 이 절박한 상황을 만들어내고, 그런 위기 상황에 처하면 선생님도 드디어 분노하여 궐기하실 것이다’그런 생각을 하고, 굳이 예수님을 대제사장들에 넘김으로써, 그런 상황을 연출하지 않았나 하는 것입니다. 그럴 수도 있습니다. 어쨌든, 오늘의 구절에서 주목하고 싶은 것은 「넘겼다」라는 말입니다. 유다가 예수님에게 행한 일은, 구원자이신 예수님을 넘겼다는 것입니다. 이 일에 대해 깊이 생각해 봅시다. 우리에게 선물로 주어져 있는 예수님을 넘겼다고 하니, 유다에게, 예수님이라는 선물은 가치가 없었다거나, 혹은 예수님께 있는 구원은 필요하지 않았다는 말이 됩니다. 그렇다면, 예수님이 선물로 우리에게 주어져 있다니 무슨 말일까요? 그것은 예수님께 있는 영원한 생명이 믿는 사람들에게 주어져 있다는 것입니다. 예수님께 있는 의가 믿는 사람들에게 주어져 있다는, 예수님께 있는 죄의 용서가 믿는 사람들에게 주어져 있다는, 예수님께 있는 하나님의 자녀로서의 특권이 믿는 사람들에게 주어져 있다는, 왕이자 머리 되신 예수님이 교회에 주어져 있다는 것입니다. 이분에게 연합될 때, 교회는 비로소 이분의 유익을 받을 수 있는 것입니다.

하늘로 부터의 선물인 예수님의 가치는, 믿음을 통해서만 이해할 수 있습니다. 이 선물의 큰 가치를 인정하는 사람은, 그만큼, 예수님께 헌신하고, 머리 되신 예수님께 순종합니다. 예수님께 많은 죄를 용서받았다고 인정하는 사람은, 예수님을 많이 사랑하는 것입니다. 그러나 마치 에서가 야곱에게 장자권을 팔아 넘긴 것처럼, 유다는 이 하늘로 부터의 선물을 쉽게 넘겨 버리고 말았습니다. 그 선물의 진정한 의미를 이해하지 못하고, 자신의 생각대로 일을 진행하려 했고, 자신의 왕국을 수립시키기 위해, 예수님을 이용하려 했던 것입니다.

분명 메시아가 넘겨지고, 죽음을 당하는 것은 하나님의 뜻이었습니다. 우리의 죄악 대신, 예수님이 십자가 위에서, 하나님의 심판을 받는 것이, 바로 십자가의 대속이었습니다. ‘그렇다면, 이스카리옷의 유다는, 하나님의 정해진 영원한 계획에 사용되었기에, 그 일을 떠맡았다고 할 수 있지 않습니까?’ ‘결과적으로 보면 십자가의 대속을 성취하기 위해 필요한 일을 해주지 않았습니까?’라고 생각하는 사람도 있을 수 있습니다. 하지만 성경은, 그렇게 말하지 않습니다. 비록 예언의 성취를 위해 인간의 죄가 사용되었다 하더라도, 그 죄의 책임은 전적으로 그 사람에게 있습니다. 21절을 보시겠습니다.

인자는 자기에 대하여 기록된 대로 가거니와 인자를 파는 그 사람에게는 화가 있으리로다 그 사람은 차라리 나지 아니하였더라면 자기에게 좋을 뻔하였느니라 하시니라

좀전에도 말했지만, 「파는」이라고 하는 단어는, 「넘겨주다」라는 단어가 사용되고 있습니다. 예수님이라고 하는 하늘로부터의 선물을, 예수님이라고 하는 거룩한 분을, 간단하게 파는 그 사람에게는 「화가 있으리로다 그 사람은 차라리 나지 아니하였더라면 자기에게 좋을 뻔하였느니라」라고 예수님은 말씀하십니다. 만약 우리가 하나님을 이용하여 자신의 소망, 자신의 생각을 성취하고자 한다면, 이 예수님의 말씀 앞에 우리는 즉시 회개하여야 하는 것입니다.

적용

예수님게서는, 유월절 식사를 제자들과 함께 하시기를 간절히 바라셨습니다. 왜냐하면, 도살된 어린 양은 예수님 자신임을 분명히 제자들에게 계시하시기 위함이었습니다. 출애굽을 하던 그날 밤, 예수님의 피를 문설주와 인방에 바르고, 예수님의 살을 급히 먹은 이스라엘에게, 하나님의 해방과 구원이 주어진 것입니다. 그것은 지금도 변함이 없습니다. 죄를 깨끗하게 하는 예수님의 피와, 생명을 가져다 주는 예수님의 살은, 선물로 우리들 교회에 주어져 있습니다. 그것은 믿음에 의해서만 받을 수 있지만, 믿음에 의해서 그 선물의 가치가 이해되고, 믿음에 의해서 모든 것을 맡기고, 믿음에 의해서 이 분에게 헌신하는 방식으로, 감사의 응답을 바쳐 가는 사람이 됩시다. 우리는 하나님의 마음을 완전히는 이해할 수 없습니다. 이 세상은, 인간의 죄로 인해 어두워져, 마침내 혼비백산 속에 휘말려 들어가는 것처럼 보입니다만, 그 속에서, 우리 인간의 죄조차, 자신의 섭리 가운데 사용하시고, 영원한 뜻을 성취시켜 가시는 하나님의 통치가 빛나고 있는 것입니다. 그 일에 우리의 눈을 두고, 모든 것을 주께 의탁하고, 예수님과 함께 걸어 가도록 합시다.

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