2024年06月30日「目を覚ましていなさい 깨어 있으라」

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目を覚ましていなさい 깨어 있으라

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 13章28節~37節

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聖句のアイコン聖書の言葉

13:28「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
13:29それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
13:30はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
13:31天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
13:32「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。
13:33気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
13:34それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
13:35だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
13:36主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
13:37あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 13章28節~37節

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【序】

いちじくの木は、イスラエルの人々にとって大変馴染のある木でありました。パレスティナ地方の季節は、春と秋がほとんどないと言っても言い過ぎではなく、冬と、そして長い夏の二つの季節しかありません。まだ寒いと思っていたら、夏が急激にやって来るのです。ですから、いちじくが枝から芽を出して葉が伸びてきたら、それはイスラエルの人々に、夏の訪れを知らせるものでありました。これと同じように、終末に起こる出来事を見たなら、人の子の再臨が間近であると、イエス様は言われるのです。「目を覚ましていなさい」という警告は、弟子たちに再臨の緊迫感を持たせました。現在、私たち教会もキリストの再臨の緊迫感の中に置かれています。そのような中、どのような姿勢で再臨を待ち望むべきか、そのことを念頭に置きつつ、本日もマルコ13章の「小黙示録」と呼ばれている御言葉から恵みに与りたいと思います。

【1】. 再臨は戸口まで来ている

29~30節をご覧ください。

“それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。”

29~30節については、神学者の間で少し議論があるので、丁寧に解釈したいと思います。まず、「人の子が戸口に近づいている」とありますが、ギリシア語の聖書を見ますと、「人の子」という言葉はなく、直訳すると「彼が戸口に近づいている」或いは、「それが戸口に近づいている」となっています。しかし13章の26節、27節に、人の子の到来について書かれていますので、ここは「人の子」と意訳しても差し支えないと思います。次に、29節と30節に「これらのこと」とありますが、「これらのこと」とは、何を指しているのでしょうか。文脈から考えますと、イエス様が4人の弟子たち(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ)に語り始めた、5節から直前の28節までの内容と考えられます。ただ、人の子の再臨そのものは含まれず、再臨に先立って起こる、地震、戦争、飢饉、迫害、偽メシア・偽預言者の出現、そして、神殿崩壊の出来事だと考えられます。イエス様は弟子たちが生きている「この時代」に、まさに終末の前兆である「これらのことがみな起こる」と預言されたのであります。実際、AD.64年にローマの大火災が起こった時、皇帝ネロは、キリスト者にその罪を帰せたため、初代教会はローマから大迫害を受けることになりました。さらにAD.70年には、エルサレム神殿が将軍ティトスによって破壊されました。神殿崩壊という惨たらしい預言の成就を見て、弟子たちは今まさに、主イエスが再臨されるに違いないと考えたことでしょう。しかし、中々再臨は起こりませんでした。再臨の前に一人、また、一人と、兄弟姉妹が死んでいくのを見て、初代教会は混乱したことと思われます。教会を嘲る者たちは、次のように当時のキリスト者をからかいました。2ペトロ3:4をご覧ください。

“主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。”

恐らく、この嘲る言葉を聞いて、弟子たちは心を痛め、落ち込んだことでしょう。実に、約二千年の時が経過した現代においても、未だにキリストの再臨は来ていないのです。これは一体どういうことなのでしょうか。マルコ福音書に戻りまして31節をご覧ください。

“天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。”

このイエス様のお言葉は、再臨が必ず来ることを確証する約束です。最後の審判のゆえに、やがて天地が滅びることになるでしょう。しかし、主イエスのお言葉、主イエスの約束は、決して滅びることはありません。「主が再び来られること」、この約束は、何かの間違いではなく、或いは弟子たちが聞き間違えたということでもなく、必ず御言葉の通り成就されます。しかし、イエス様はその再臨の具体的な時期に関しては、一切語ろうとはなさいませんでした。イエス様は再臨の時期と、再臨の前兆である終末に起こる出来事とを区別しながら語っているのです。32~33節をご覧ください。

【2】. 再臨の時期をめぐって

“「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。”

32節と33節で「その時」という言葉がありますが、それぞれ異なる言葉が使われています。32節の「その時」は、ホラというギリシア語が使われています。「その時間」という意味です。「その日、その時間は誰も知らない」ということです。一方、33節の「その時」は、カイロスというギリシア語が使われていて、「定められた時」という意味です。カイロス(定められた時)という言葉は、例えば「季節の時」を表す場合に用いられます。いちじくの木の枝が柔らかくなり、葉が伸びると、必ず夏が来ることが、定められていますね。或いは、「出産の時」を表す場合にもカイロス(定められた時)が用いられます。十月十日という期間を経て、必ず赤ちゃんが出産されることが定められています。イエス様は、再臨は確かに定められているけれど、再臨の具体的な時期については、それは誰も知らない、「天使たちも子も知らない」と言っているのです。この言葉から、イエス様本人も、再臨の具体的な時期については知らなかったということが見て取れます。場合によっては、イエス様は「父なる神は怒るのに遅いお方だから、そんなには早く再臨は来ないだろう!焦ることはないよ。」と言うことができたのかもしれませんが、しかし、そのようには言われませんでした。なぜなら「目を覚ましていなさい」という警告が意味をなさなくなるからです。イエス様は、エルサレム神殿崩壊を、世の審判とキリストの再臨に関連付けて語られたのであります。このことは大変重要なことだと思います。ここから、浮彫りにされることは、イエス様の目的とは、弟子たちに再臨の正確な時期を教えることではなく、今、まさに終末であることを覚え、常に目覚めているように促すことであったということではないでしょうか。時代のしるしを悟り、弟子たちが常に目覚めていることが勧められている反面、再臨の正確な時期を計算することは、禁止されているのであり、また、それは、天使にも子にも分からないこと、それを割り出すことは、弟子たちにとっても不可能なことなのです。実際、終末のしるしは、初代教会の時から現れました。エルサレム神殿はイエス様の預言通り、AD.70年に崩壊されます。使徒パウロも自分が生きている間に再臨が来ることを信じていました。1テサロニケ4:14-15をご覧ください。

“イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。”

ここでは、将来の再臨の状況が語られていますが、パウロは「主が来られる日まで生き残るわたしたち」と語っていますので、自分たちが生きている間の再臨を確信していることがわかります。つまり、初代教会の時から、まさに終末の時が始まっていたのであります。そして、その終末は、二千年の時を超えて、現在に至るまで続いているということです。その中で私たちは、使徒たちが「目を覚ましていなさい」と警告されたのと同じように、私たち自身も「目を覚ましていなさい」と警告を受けているのです。

少し余談になりますが、このように聖書を読み進める時、歴史の中でイエス様を神と認めない陣営から一つの問題が提起されることになりました。その問題提起とは、「そもそもイエス様の知識は父と同等ではなく、知識において限界があるわけだから、三位一体の教理というのはどうなのか?」「父なる神は、神として認められるけれど、子や聖霊は、神と同等ではなく、神より劣る存在であったり、或いは神によって造られた被造物に過ぎないのではないか?」という問題提起です。現在では、ユニテリアンと呼ばれるグループが、このような主張をいたします。ただ、父なる神だけが唯一の神であると主張するのです。私たち改革派教会は、彼らの問題提起に対して次のように考えます。イエス様はこの地上に来られた時、全き神として来られたのですが、同時に全き人としても来られました。そして、イエス様の受肉においては、神の力を制限されて、この世に生まれてきたと理解しています。つまり、罪は別にして、私たち人間と全く同じ弱さを持つ者として、マリアからお生まれになり、その知識においては、私たちと同様、成長と共に後天的な知識の発達があったと理解しています(マルコ5:30、6:38、9:21、11:13)。ですから、イエス様は先天的な知識を持っていて、全てをお見通しの「全知のお方」としてではなく、知らないことも多くあったということです。飼い葉桶に生まれた瞬間から、神童のように何もかも見通す、神のような知恵があったという訳ではありませんでした。私たちと全く同じように、イエス様も幼少期を、両親からの愛と保護を受けて、成長しながら過ごしたのであります。そして、公的生涯を始められたのも、神の子としての絶対的な能力、絶対的な知恵、将来を完全に見通すことのできる予知能力によって始められたのではなく、私たちと同じように祈りの中で、見えない神への信仰と従順によって、公生涯の働きを始められたのです。神の子イエスは、全き神でありながら、その神の身分に固執することはなく、肉をお取りになり、全き人となって、僕のようにこの世に来て下さったのです。

【3】. 目を覚ましていなさい

さて、少し話が逸れてしまいました。元に戻しますが、それでは目を覚ましているとはどういう意味なのでしょうか。それは、決して「寝ずの番をして」起きているということではありません。目を覚ましていなさいとは、信仰によって目覚めていることを意味します。目を覚ましているとはどのような意味なのかについて、34~37節に語られていますので、ご覧ください。

“それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」”

34節の「旅に出た主人」とは、イエス様のことを指しています。そして、僕たちや門番とは、イエス様の弟子たち、つまり私たち教会を指しています。「僕たちに…責任を持たせ」とありますが、この「責任」と訳されている言葉は、聖書の他の箇所では「権威、権能」と訳されています。権能と言えば、かつて、イエス様が十二弟子を派遣する際に、お与えになった「悪霊を追い出す権能(3:15)」を思い起こさせます。或いは、権能という言葉は教会に与えられている「鍵の権能」を思い起こす方もいらっしゃるのではないでしょうか。マタイ16:19をご覧ください。

“わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」”

この御言葉において、解くこととは、具体的に言えば洗礼を授けることです。つなぐこととは、試問の結果、洗礼を授けるのを拒否することです。イエス様は、教会に洗礼を授けたり、洗礼を授けるのを拒否する「鍵の権能」を与えられました。ですから、イエス様が弟子たちに、そして教会に権能を持たせ、割り当てられている仕事、それは、即ち、福音宣教の働きであると解釈することが出来ます。終末に生きる私たち教会にあって、福音宣教の働きにいそしむことこそ、目を覚ますことに他ならないということです。それでは「福音宣教」とは何でしょうか。求道者向けの伝道礼拝を献げたり、伝道チラシを刷って配ること、電柱に公告を打つこともそうかもしれませんが、福音宣教の本質的な部分とは、教会のお一人お一人が、神様から与えられている使命に対し、忠実に生きることだと思います。言い換えるなら、自分の負うべき十字架を負うことであります。それぞれが、主から与えられている使命とは何か、自分の負うべき十字架とは何か、祈りながら聞いてみてください。ある人は、家庭の中で、子育てと、子どもへの信仰継承を、使命として与えられているかもしれません。ある人は、礼拝の奏楽の奉仕を、使命として与えられているかもしれません。ある人は長老・執事など、役員としての使命を与えられているかもしれません。人それぞれでありますが、私たちは、絶えず祈らなければ、この与えられた使命に生きることは出来ないのです。そこにはイエス様に対する献身が求められているからです。いつ主人が帰って来るのか分かりません。夕方なのか、夜中なのか、鶏のなく頃か、明け方か分かりませんが、主人は泥棒が夜に来るように、突然来て、驚かせることでしょう。キリストの再臨は、あたかも、稲妻が空のこちら側から向こう側に光るようなものであり、天使の声とラッパの音によって、全地の全ての人に宣言されるのであります。

【結論】

キリストの再臨は近づいています。人の子は、戸口に近づいています。私たちは、今、まさに初代教会の弟子たちが体験した終末の時を過ごしているのです。賢い人は、未来のために万全の準備をいたします。しかし、本当に賢い人は、永遠の世界のために準備することでありましょう。私たちは目を覚まし、主の復活の証人として、割り当てられている責任を全うしていく者たちとならせていただきましょう。

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깨어 있으라

2024년 6월30일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

마가복음13장 28~37절

서론

무화과나무는 이스라엘 사람들에게 매우 친숙한 나무였습니다. 팔레스타인 지방의 계절은, 봄과 가을이 거의 없다고 해도 지나치지 않고, 겨울과 그리고 긴 여름 두 계절밖에 없습니다. 아직 춥다고 생각을 하고 있으면, 여름이 급격하게 찾아오는 것입니다. 그래서 무화과가지가 연하여지고 잎사귀를 내면, 그것은 이스라엘 사람들에게, 여름이 왔음을 알리는 것입니다. 이와 마찬가지로, 종말에 일어나는 일을 본다면, 인자의 재림이 임박했다고 예수님은 말씀하십니다. 「깨어 있으라」는 경고는, 제자들에게 재림의 긴박감을 갖게 했습니다. 현재, 우리들 교회도 그리스도의 재림의 긴박감 속에 놓여 있습니다. 그런 가운데, 어떤 자세로 재림을 기다려야 하는지, 이 점을 염두에 두면서 오늘도 마가복음 13장의 「소묵시록」이라고 불리는 말씀에서 은혜를 얻고자 합니다.

(1) 문 앞에 이른 재림

29,30절을 보시기 바랍니다.

29 이와 같이 너희가 이런 일이 일어나는 것을 보거든 인자가 가까이 곧 문 앞에 이른 줄 알라

30 내가 진실로 너희에게 말하노니 이 세대가 지나가기 전에 이 일이 다 일어나리라

29절과 30절에 대해서는, 신학자들 사이에 조금 논의가 있기 때문에, 조심스럽게 해석하고자 합니다. 먼저, 「인자가 가까이 곧 문 앞에 이른 줄 알라」라고 되어 있는데, 헬라어로 된 성경을 보면 「인자」라는 말은 없고, 직역하면 「그가 문 앞으로 다가오고 있다」혹은 「그것이 문 앞으로 다가오고 있다」라고 되어 있습니다. 하지만 13장의 26,27절에, 인자의 도래에 대해 쓰여져 있기 때문에 여기는 「인자」라고 의역해도 무방할 것 같습니다. 그 다음에, 29절에「이런 일」과 30절에「이 일」이라고 되어 있는데 「이런 일, 이 일」 이라고 하는 것은 무엇을 가리키고 있을까요? 문맥상 예수님이 네 제자들(베드로, 야곱, 요한, 안드레)에게 말씀하기 시작한, 5절부터 직전의 28절까지의 내용으로 생각됩니다. 다만 인자의 재림 자체는 포함되지 않고, 재림에 앞서 일어나는 지진, 전쟁, 기근, 박해, 가짜 메시아・가짜 선지자의 출현, 그리고 성전 붕괴의 사건이라고 볼 수 있습니다. 예수님께서는 제자들이 살고 있는 「이 세대」에, 바로 종말의 전조인 「이 일이 다 일어나리라」고 예언하신 것입니다. 실제로 AD.64년 로마에 대화재가 일어났을 때 황제 네로는, 그리스도인들에게 그 죄를 뒤집어 씌웠기 때문에, 초대교회는 로마로부터 큰 박해를 받게 되었습니다. 게다가AD.70년에는, 예루살렘 성전이 장군 티투스에 의해 붕괴되었습니다. 성전 붕괴라는 참혹한 예언의 성취를 보고, 제자들은 이제 곧, 주 예수님이 재림하실 것이 틀림없다고 생각했을 것입니다. 그러나, 좀처럼 재림은 일어나지 않았습니다. 재림 전에 한 사람, 또 한 사람, 형제자매가 죽어가는 것을 보고 초대교회는 혼란스러웠을 것으로 생각됩니다. 교회를 비웃는 자들은 다음과 같이 당시 그리스도인들을 조롱했습니다. 베드로후서 3장 4절을 보시기 바랍니다.

이르되 주께서 강림하신다는 약속이 어디 있느냐 조상들이 잔 후로부터 만물이 처음 창조될 때와 같이 그냥 있다 하니

아마 이 조롱하는 말을 듣고, 제자들은 마음이 아프고 침울했을 것입니다. 실제로, 약 이천 년의 시간이 경과한 현대에도, 아직 그리스도의 재림은 성취되지 않았습니다. 이게 도대체 어떻게 된 일일까요? 마가복음으로 돌아가서 31절을 보시기 바랍니다.

천지는 없어지겠으나 내 말은 없어지지 아니하리라

이 예수님의 말씀은, 재림이 반드시 올 것임을 확증하는 약속입니다. 최후의 심판에 의해서, 곧 천지가 없어지게 될 것입니다. 그러나 주 예수님의 말씀, 주 예수님의 약속은 결코 없어지지 않습니다. 「주께서 다시 오실 것,」이 약속은 뭔가 잘못된 것이 아니고, 또는 제자들이 잘못 들었다는 것이 아니라, 반드시 말씀대로 성취됩니다. 그러나 예수님은 그 재림의 구체적인 시기에 관해서는, 일절 말씀하려고 하시지 않으셨습니다. 예수님은 재림의 시기와, 재림의 전조인 종말에 일어나는 사건을 구별하시면서 말씀하시는 것입니다. 32,33절을 보시기 바랍니다.

(2) 재림의 시기를 두고

32 그러나 그 날과 그 때는 아무도 모르나니 하늘에 있는 천사들도, 아들도 모르고 아버지만 아시느니라

33 주의하라 깨어 있으라 그 때가 언제인지 알지 못함이라

32절과 33절의 「그 때」라는 말이 있는데, 각각 다른 말이 쓰이고 있습니다. 32절의 「그 때」는 「호라」라는 헬라어가 쓰이고 있습니다. 「그 시간」이란 의미입니다. 「그 날과 그 시간은 아무도 모른다」는 것입니다. 한편 33절의 「그 때」는 「카이로스」라는 헬라어가 쓰이고 있는데 「정해진 때」라는 의미입니다. 카이로스(정해진 때)라는 말은, 예를 들면 「계절의 때」를 나타내는 경우에 이용됩니다. 무화과가지가 연하여지고 잎사귀를 내면, 반드시 여름이 오는 것으로 정해져 있습니다. 또는 「출산의 때」를 나타내는 경우에도 카이로스(정해진 때)가 쓰여집니다. 280일 즉, 40주를 거쳐 반드시 아기가 출산되는 것으로 정해져 있습니다. 예수님은, 재림은 분명해 정해져 있지만, 재림의 구체적인 시기에 대해서는 그것은 「아무도 모르나니 하늘에 있는 천사들도, 아들도 모르고」라고 말씀하시는 것입니다. 이 말에서 예수님 본인도 재림의 구체적인 시기에 대해서는 모르셨다는 것을 알 수 있습니다. 경우에 따라서는, 예수님은 「하나님은 노하시기에 더디시니 그렇게 빨리 재림이 오지 않을 것 같으니 조급해 할 것은 없다」라고 말하실 수 있었을지도 모르지만, 그러나 그렇게는 말씀하시지 않았습니다. 왜냐하면 「깨어 있으라」는 경고가 의미가 없게 되기 때문입니다. 예수님은 예루살렘 성전의 붕괴를 세상의 심판과 그리스도의 재림과 연관지어 말씀하셨습니다. 이 일은 매우 중요한 일이라고 생각합니다. 여기서 부각되는 것은 예수님의 목적이란 제자들에게 재림의 정확한 시기를 가르치는 것이 아니라, 지금 바로 종말임을 기억하고, 늘 깨어 있도록 독려하는 것이 아니었을가요? 시대의 표적을 깨닫고 제자들이 늘 깨어 있는 것이 권장되는 반면, 재림의 정확한 시기를 계산하는 것은 금지되어 있고, 또 그것은 천사도 아들도 모른는 것, 그것을 밝혀내는 것은 제자들에게도 불가능한 일입니다. 사실 종말의 표적은 초대교회 때부터 나타났습니다. 예루살렘 성전은 예수님의 예언대,로 AD. 70년에 붕괴됩니다. 시도 바울도 자신이 살아 있는 동안 재림이 올 것을 믿었습니다. 데살로니가전서 4장 14,15절을 보시기 바랍니다.

14 우리가 예수께서 죽으셨다가 다시 살아나심을 믿을진대 이와 같이 예수 안에서 자는 자들도 하나님이 그와 함게 데리고 오시리라

15 우리가 주의 말씀으로 너희에게 이것을 말하노니 주께서 강림하실 때까지 우리 살아 남아 있는 자도 자는 자보다 결코 앞서지 못하리라

여기서는, 장래의 재림 상황이 이야기되고 있는데, 바울은 「주께서 강림하실 때까지 우리 살아 남아 있는 자」라고 말하고 있기 때문에, 자신들이 살아 있는 동안의 재림을 확신하고 있음을 알 수 있습니다. 즉, 초대교회 때부터 바로 종말의 때가 시작되었던 것입니다. 그리고 그 종말은, 이천 년이라는 때를 넘어, 현재에 이르기까지 계속되고 있다는 것입니다. 그 안에서 우리들은, 사도들이 「깨어 있으라」고 경고를 받은 것과 마찬가지로, 우리들 자신도 「깨어 있으라」는 경고를 받고 있는 것입니다.

조금 여담이 되지만, 이렇게 성경을 읽어 나갈 때 역사 속에서 예수님을 하나님으로 인정하지 않는 진영에서 하나의 문제가 제기되게 되었습니다. 그 문제제기란 “애초에 예수님의 지식은 아버지와 동등하지 않고 지식에 한계가 있으니 삼위일체 교리라는 것은 어떻게 되는가?”, “아버지이신 하나님은, 하나님으로 인정하지만 아들이나 성령은 하나님과 동등하지 않고 하나님보다 못한 존재이거나 혹은 하나님에 의해 만들어진 피조물에 지나지 않는 것이 아닌가?”라는 문제제기입니다. 현재는, 유니테리언이라고 불리는 그룹이 이런 주장을 합니다. 오직 아버지 하나님만이 유일한 하나님이라고 주장하는 것입니다. 우리 개혁파 교회는, 그들의 문제 제기에 대해 다음과 같이 생각합니다. 예수님은 이 지상에 오셨을 때. 완전한 하나님으로서 오셨지만, 동시에 완전한 사람으로서 오셨습니다. 그리고 예수님의 성육신에 있어서는, 하나님의 능력이 제한을 받고, 이 세상에 태어나신 것으로 이해하고 있습니다. 즉 죄는 없으나, 우리 인간과 똑같은 나약함을 가진 자로서 마리아에게서 태어났으며, 그 지식에 있어서는, 우리와 마찬가지로, 성장과 함께 후천적인 지식의 발달이 있었던 것으로 알고 있습니다(마가복음 5장 30절, 6장 38절, 9장 21절, 11장 13절). 그러므로 예수님은 선천적인 지식을 가지고 계셔서, 모든 것을 꿰뚫어 보시는 「전지한 분」으로서가 아니라, 모르는 것도 많으셨다는 것입니다. 구유에 태어난 순간부터 신동처럼 모든 것을 꿰뚫어 보는, 하나님과 같은 지혜가 있었다는 것은 아니었습니다. 우리와 똑같이 예수님께서도, 어린 시절을, 부모님의 사랑과 보호를 받으며, 성장하며 보내신 것입니다. 그리고 공적 생애를 시작할 수 있었던 것도, 하나님의 아들로서의 절대적인 능력, 절대적인 지혜, 미래를 완전히 내다볼 수 있는 예지 능력에 의해 시작된 것이 아니라, 우리와 마찬가지로 기도 하는 가운데에서, 보이지 않는 하나님에 대한 믿음과 순종에 의해, 공생애의 사역을 시작하실 수 있었던 것입니다. 하나님의 아들 예수님은, 완전한 하나님이시면서도 그 하나님의 신분을 고집하지 않으시고, 성육신하시어, 완전한 사람이 되셔서 종과 같은 모습으로서 이 세상에 오셨습니다.

(3) 깨어 있으라

자, 조금 이야기가 벗어나버렸습니다. 다시 본론으로 돌아오겠습니다. 그럼 「깨어 있으라」는 것은 어떤 의미인 것입니까? 그것은 결코 「불침번을 서고 깨어 있다」는 것이 아닙니다. 「깨어 있으라」는 것이, 어떤 의미인지에 대해서 34~37절에 이야기되어 있기 때문에 살펴보시기 바랍니다.

34 가령 사람이 집을 떠나 타국으로 갈 때에 그 종들에게 권한을 주어 각각 사무를 맡기며 문지기에게 깨어 있으라 명함과 같으니

35 그러므로 깨어 있으라 집 주인이 언제 올는지 혹 저물 때일는지, 밤중일는지, 닭 울 때일는지, 새벽일는지 너희가 알지 못함이라

36 그가 홀연히 와서 너희가 자는 것을 보지 않도록 하라

37 깨어 있으라 내가 너희에게 하는 이 말은 모든 사람에게 하는 말이니라 하시니라

34절의 「사람이 집을 떠나 타국으로 갈 때에」의 「사람」은 예수님을 가리킵니다. 그리고 「종들」「문지기」란 예수님의 제자들, 즉 우리들, 교회를 가리킵니다. 「그 종들에게 권한을 주어 각각 사무를 맡기며」라고 되어 있지만, 이 「권한」이라고 번역되어 있는 말은 성경의 다른 부분에서는 「권위, 권능」이라고 번역되어 있습니다. 권능이라고 하면 과거 예수님이 열두 제자를 파견할 때, 주셨던 「더러운 귀신을 내쫓는 권능(3장 15절)」을 떠올리게 합니다. 혹은, 권능이라는 말은 교회에 주어져 있는 「열쇠의 권세」를 상기시키는 분도 계시지 않을까요? 마태복음 16장 19절을 보시기 바랍니다.

내가 천국 열쇠를 네게 주리니 네가 땅에서 무엇이든지 매면 하늘에서도 매일 것이요 네가 땅에서 무엇이든지 풀면 하늘에서도 풀리리라 하시고

이 말씀에서, 푸는 것은 구체적으로 말하면 세례를 주는 것입니다. 매는 것은 시문의 결과 세례를 거부하는 것입니다. 예수님은 교회에 세례를 주거나, 세례 주기를 거부하는 「열쇠의 권세」를 주셨습니다. 그래서, 예수님이 제자들에게, 그리고 교회에 권한을 주어 갖게 하고 맡겨진 사무, 그것은 곧 「복음선교」의 일이라고 해석할 수 있습니다. 종말에 사는 우리 교회에 있어, 복음선교의 일에 힘쓰는 것이야말로 깨어 있는 것이나 다름없다는 것입니다. 그렇다면 「복음선교」는 무엇일까요? 구도자를 위한 전도예배를 드리거나, 전도 전단지를 찍어 나눠 주는 것, 전봇대에 광고를 붙이는 것도 그렇지만, 복음선교의 본질적인 부분이란, 교회의 한 분 한 분이, 하나님이 주시는 사명에 충실하게 사는 것이라고 생각합니다. 달리 말하면, 자신이 져야 할 십자가를 지는 것입니다. 각자가 주님께 받은 사명이란 무엇인지, 자신이 져야 할 십자가란 무엇인지, 기도하며 물어보시기 바랍니다. 어떤 사람은 가정 안에서, 자녀양육과 자녀에 대한 신앙계승을, 사명으로 부여 받고 있을지도 모릅니다. 어떤 사람은, 예배의 반주의 봉사를, 사명으로서 받았는지도 모릅니다. 어떤 사람은 장로・집사 등, 임원으로서의 사명을 부여받고 있을지도 모릅니다. 사람마다 다르지만, 우리는, 늘 끊임없이 기도하지 않으면 이 주어진 사명에 살 수 없습니다. 거기에는 예수님에 대한 헌신이 요구되기 때문입니다. 언제 「집 주인」이 돌아올지 모릅니다. 저물 때일는지, 밤중일는지, 닭 울 때일는지, 새벽일는지 모르지만, 집 주인은 도둑이 밤에 오듯이, 갑자기 와서 놀라게 할 것입니다. 그리스도의 재림은, 마치 번개가 동편에서 나서 서편까지 번쩍임 같이, 천사의 음성과 나팔소리에 의해, 온 땅의 모든 사람에게 선포되는 것입니다.

결론

그리스도의 재림은 다가오고 있습니다. 인자는, 문 앞에 이르러 있습니다. 우리는 지금 바로 초대교회 제자들이 겪은 종말의 때를 보내고 있는 것입니다. 현명한 사람은, 미래를 위해 만반의 준비를 합니다. 하지만, 정말 지혜로운 사람은 영원한 세계를 위해 준비할 것입니다. 우리는 깨어 있어서, 주님의 부활의 증인으로, 맡겨진 권한으로 사명을 감당해가는 자들이 됩시다.

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