2024年06月16日「人の子の再臨 인자의 재림」

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人の子の再臨 인자의 재림

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 13章14節~27節

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聖句のアイコン聖書の言葉

13:14「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
13:15屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。
13:16畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。
13:17それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。
13:18このことが冬に起こらないように、祈りなさい。
13:19それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。
13:20主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。
13:21そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。
13:22偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。
13:23だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」
13:24「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、
13:25星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。
13:26そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
13:27そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 13章14節~27節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」主イエスのこのお言葉を聞いた時、弟子たちは大変な衝撃を受けました。弟子たちにとって、エルサレム神殿こそ、神聖な場所であり、神が臨在するに相応しい特別な場所だったからです。そのエルサレム神殿が崩壊すると言われたからです。弟子たちはひそかにイエス様に尋ねました。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」この弟子たちの質問で、二つのことが尋ねられています。第一に、そのことはいつ起こるのかということ、第二に、そのことが全て終わりを迎える時、つまり終末において、どんな徴があるのかということです。先週の説教では、終末に弟子たちの上に臨むであろう苦難についてお話しさせていただきました。本日は、その苦難が頂点に達した時の状況でございます。この世の権勢は、キリストが再臨される時、その権勢の絶頂において、突然崩れることになるでしょう。確かに、神は地上においてサタンの統治を終わらせ、ご自身の被造物を回復させて、「新天新地」という形で、揺るぎない天の王国を完成されますが、それは、キリスト者の緩やかな聖化によって、ついに新天新地に至るのではありません。或いは、この世の被造物が少しずつ回復されていくことにより、ついに新天新地に至るというのでもありません。天の王国の完成は、キリストの再臨によって、突然発生するのであります。本日もマルコ13章の「小黙示録」と呼ばれている御言葉から恵みに与りたいと思います。

【1】. 憎むべき破壊者とは誰か

「それらの日には」という言葉が、17節、19節、そして24節の冒頭に書かれています。「それらの日には」、この言葉は、終末的預言の導入句として知られていました。弟子たちの質問を受けて、イエス様は終末に起こることを語っておられるのです。世の終わりに向けて「苦難・艱難」が頂点に至るだろうとおっしゃっています。19節には「神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難」とありますが、そのような、苦難は一体何によってもたらされるのでしょうか。それは、「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」時であります。「憎むべき破壊者」が現れることによって、空前絶後の苦難がもたらされるのです。この「憎むべき破壊者が立つ」という表現は、実は旧約聖書のダニエル書の預言と関係しています。ダニエル書には繰り返し「憎むべき破壊者」について描写されていますが(ダニ9:27、12:11)、ダニエルの預言は、その後、セレウコス朝シリアの王である、アンティオコス四世・エピファネスにおいて成就されたと考えられていました。紀元前168年にセレウコス朝シリアが、エルサレムに攻め上り、エルサレム神殿にゼウスの祭壇を築いたのです。そして、ユダヤ人に対し、ゼウスに礼拝を捧げるよう強要しただけではなく、ユダヤ人に対し、あろうことか豚肉を食べるようにも強要しました。ユダヤ人は大変な屈辱を味わいました。ですから、イエス様の弟子たちにとって「憎むべき破壊者」とは、アンティオコス四世・エピファネスのことを指していると考えていたと思われます。ところが、今、イエス様はダニエル記の預言を引用しつつ、「憎むべき破壊者」が、これから後、立ってはならない所に立つだろうと語っているのです。つまり、イエス様が言わんとしていることは、ダニエル書の預言は、紀元前168年の出来事ですべて終わったのではないということです。事実、イエス様がこの言葉を語ってから約10年後に、ローマ皇帝カリグラが、自分の彫像をエルサレムの神殿に安置させようとする事件が起こりました。また、AD.70年にはローマの将軍ティトスによってエルサレム神殿が放火され、陥落させられました。イエス様はそれらのことを見越して、次のように語っておられます。14節途中~19節をご覧ください。

“「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい。それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。」”

万一、エルサレムが敵に攻め込まれた時、神殿に逃げ込めば神様が守ってくれるだろうという考えを捨てなさいと言っているのです。神殿は破壊されるため、山へ逃げなさい!と言うのです。山に逃げて一体どうしろというのでしょうか?山に逃げて、山の神様に頼るとか、何か目に見える物に頼るということではなく、このように言われた主のお言葉に信頼し、神の守りの御手の中に自分を置きなさいという事なのだと思います。実際は、ローマのティトスの軍隊は夏に攻め込んできました。その時、身重の女と乳飲み子を持つ女は逃げるのが大変だったと思われます。もし、仮に、冬に攻め込んで来たなら、夏には乾燥し、冬には川となる「ワジ」と呼ばれる流域が、ユダヤ人の避難を困難にさせたことでしょう。それでは、この「憎むべき破壊者」とは、アンティオコス四世・エピファネスではなく、カリグラでもなく、将軍ティトスのことを指しているのでしょうか。AD.70年ユダヤ戦争において、神殿を破壊したティトスを指しているのでしょうか。しかし、実際、ティトスが立ってはならない神殿の聖所の中に入って見て回ったのは、既に神殿が徹底的に燃やされ、破壊された後のことでありました。従って、正確には13:14のイエス様の御言葉とは合致しないのであります。それでは一体「憎むべき破壊者」とは誰なのでしょうか。「憎むべき破壊者」とは、新約聖書の中で、終末に現れることになる不法な者(2テサ2:8)、或いは、反キリスト(1ヨハ2:18)として言い換えることもできるでしょう。2テサロニケ2:8をご覧ください。

“その時が来ると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます。”

御覧のように、その時が来ると「不法の者」が現れるとあります。続いて、1ヨハ2:18をご覧ください。

“子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。”

終末に現れることになる「反キリスト」が来ている。ヨハネはそのように証言します。終末に現れることになる「憎むべき破壊者」、「不法な者」、「反キリスト」とは一体誰なのか?エピファネス四世なのか、カリグラなのか、ティトスなのか、或いは、近現代史の中でユダヤ人を大虐殺したナチスであり、ヒットラーなのか…。私たちは、聖書の御言葉を、実際の歴史の出来事に関連させようとする誘惑を受けますが、この「憎むべき破壊者」、つまり「反キリスト」とは、ある特定の人物や、ある特定のグループとして、見做されてはならないということだと思います。恐らくこの反キリストの勢力は、歴史の中で多様な形で現れてくるのだと思います。この、反キリストの勢力によって背教が進み、やがて地上のほとんどの人々がキリスト教信仰を捨てるようになるでしょう。その時、人々の不道徳は甚だしく、愛は冷め、まるでノアの時のように、人々は情欲におぼれ、無法となり、快楽、貪欲に走ることでしょう。傲慢、誹謗中傷、嘲りが蔓延することでしょう。そして、その絶頂において、偽メシアが現れ、自らを神格化する事態が起きるのです。しかし、このような反キリストによる、この世の権勢の大規模な繁栄は、全て無駄になるでしょう。なぜなら、その繁栄の絶頂において、権勢の絶頂において、キリストが再臨し、反キリストの勢力は突然崩れることになるからです。このことから、私たちが教えられることは、キリストの教会がこの地上において、権勢と統治権を握ることになる、そういった希望を一切持つことができないということです。教会が世の中でイニシアティブを取り、メジャーな存在になるという期待を持つことはできないということです。せいぜい、この世の為政者と王たちの下で、教会が敬虔で平穏な生活を送ることができるようになるぐらいでありましょう。1テモテ2:1~2には次のような御言葉がございます。

“そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。”

教会が栄光を受けるのは、教会が冠を与えられ、キリストと共に王として統治するのは、この世においてではなく、天において、或いはキリストの再臨においてなのであります。続いてマルコ13:24~27節をご覧ください。

【2】. 人の子の再臨

“それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。”

24、25節に「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。」とあります。終末において、いよいよ世が暗くなり、暗闇の権勢が増すことを意味するのかもしれません。或いは、文字通り天変地異が起こり、宇宙の秩序の変革がもたらされ、空前絶後の苦難が到来するのかもしれません。いずれにせよ、教会が信仰を守り、敬虔に歩もうとしても、キリストに逆らうこの世の権勢は、そのことを困難にさせ、この世をさらに、深い闇へ陥れるよう、その力を増大させるのです。そのとき、人の子が、大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見ることになります。「雲」とは、神の栄光と力の臨在を現わします。モーセがシナイ山で十戒を授けられた時、密雲がシナイ山の上にありました。荒れ野を旅したイスラエルは、昼は雲の柱によって導かれました。また、モーセが幕屋を建設した時に(出40:34)、ソロモンが神殿を奉献した時にも(列王8:11)、雲が現れました。そしてペトロとヤコブとヨハネを連れてイエス様が変貌の山に登った時も、イエス様のお姿が突然、真っ白に光り輝き、エリヤとモーセが現れ、雲が臨在しました(マルコ9:7)。最後に、復活の主イエスが、天に昇天される際にも、やはり雲に覆われて見えなくなりました(使徒1:9)。この栄光と力の臨在を現わす「雲」に乗って、イエス様は再び来られると言うのです。

26節の「人々は見る」とありますが、これは、再臨が誰にでも認識できる、間違いようのない出来事として起こるという事を意味します。人の子の再臨は、イエス様の初臨のように、人々に気づかれずに、処女マリアから生まれ、世の片隅に現れるような仕方ではありません。また、初臨の時は、エルサレムにノバの子に乗って入城されましたが、再臨の時には、栄光のメシア、勝利のメシアとして、まるで白馬に乗って来られるように、「大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」のであります。最後の敵を裁くために来られるからです。「見よ、ここにメシアがいる!」「見よ、実は聖書に書かれている再臨のメシアは、既に来ておられるのです!」などと言われても、決してそれを信じてはなりません。間違いなく偽メシアだからです。偽メシアたち、偽預言者たちは、しるしや不思議な業を行い、惑わそうとするでしょう。しかし、決して惑わされてはなりません。どんなに驚くべき奇跡を行う者が現れたとしても、奇跡それ自体がメシアの徴ではないからです。メシアの再臨は、ある人に認識できて、ある人に認識できなかったというような再臨の仕方ではありません。誰にでもはっきりと認識されるのです。イエス様は審判のために再臨されるからです。最後の審判とは、被造物全体が創造の時から、渇望していた要求でもありました。殉教者たちの魂は、天から大きな声で、最後の審判を要請しています。教会はこの恐ろしいイエス様の再臨を待ち望むのです。なぜなら、その時、イエス様は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集めるからです。27節の「地の果てから天の果てまで」とは、世界中のどこにいても、天のどこにいても、必ずご自身の民を探し出され、呼び集められるということでしょう。何のために呼び集められるのでしょうか。それは、新しい天と新しい地に、ご自身の民を住まわせるためであります。キリストの花嫁である教会を、神様との永遠の愛の交わりの中に入れるためであります。教会はそのために、この世で耐え忍びながら、目を覚まして、イエス様の再臨を待ち望むのであります。

【結論】

やがての日に、教会は栄光と誉れを受けることが約束されています。教会がキリストと共に天の御座に着座し、冠を与えられ、キリストと共に王として、祭司として、統治することになることも約束されています。いや、それは、目に見えませんが、イエス・キリストの十字架と復活によって、既に霊的に成就されているのです。しかし、それが目に見える形で現れるのは、この世においてではなく、天において、或いはキリストの再臨においてであります。私たちは「主よ、来たりませ」と祈りながら、日々イエス様の再臨を待ち望む者として、地上の営みを歩ませていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

인자의 재림

2024년 6월16일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

마가복음13장 14~27절

서론

「네가 이 큰 건물들을 보느냐 돌 하나도 돌 위에 남지 않고 다 무너뜨려지리라」주 예수님의 이 말씀을 들었들 때, 제자들은 엄청난 충격을 받았습니다. 제자들에게 예루살렘 성전이야말로 신성한 곳이었고 하나님이 임재하시기에 적합한 특별한 곳이었기 때문입니다. 그 예루살렘 성전이 무너진다고 말씀하셨기 때문입니다. 제자들은 조용히「어느 때에 이런 일이 있겠사오며 이 모든 일이 이루어지려 할 때에 무슨 징조가 있사오리이까」라고 물었습니다. 이 제자들의 질문으로, 두 가지가 질문되고 있습니다. 첫째, 그 일은 언제 일어날 것인가 하는 것, 둘째, 그 일이 모두 끝을 맞이할 때, 즉 종말에는 어떤 징조가 있는가하는 것입니다. 지난주 설교에서는, 종말에 제자들 위에 임할 고난에 대해 이야기했습니다. 오늘은 그 고난이 극에 달했을 때의 상황입니다. 이 세상의 권세는, 그리스도가 재림하실 때, 그 권세의 절정에서 갑자기 무너지게 될 것입니다. 확실히 하나님은 지상에서 사탄의 통치를 끝내고, 자신의 피조물을 회복시켜 「신천신지」라는 형태로, 흔들림 없는 하늘의 왕국을 완성시키시지만, 그것은 그리스도인의 완만한 성화로 인해 마침내 신천신지에 이르는 것은 아닙니다. 또는, 이 세상의 피조물이 조금씩 회복되어 마침내 신천신지에 이르는 것도 아닙니다. 하늘왕국의 완성은, 그리스도의 재림으로 인해 갑자기 발생하는 것입니다. 오늘도 마가복음 13장의 「소묵시록」이라고 불리는 말씀에서 은혜를 얻고자 합니다.

(1) 멸망의 가증한 것은 누구인가

「그 날에는」라는 단어가, 17절, 19절, 그리고 24절의 첫 머리에 적혀 있습니다. 「그 날에는」, 이 말은 종말적 예언의 도입구로 알려져 있습니다. 제자들의 질문을 받고 예수님은 종말에 일어날 일을 말씀하시는 것입니다. 세상의 종말을 향해 「고난・환난」이 정점에 이를 것이라고 말씀하십니다. 19절에는 「하나님께서 창조하신 시초부터 지금까지 이런 환난이 없었고 후에도 없으리라」라고 쓰여 있는데, 그런 환난은 도대체 무엇에 의해 오는 것일까요? 바로 「멸망의 가증한 것이 서지 못할 곳에 선 것」을 볼 때입니다. 「멸망의 가증한 것」이 나타남으로써 전무후무한 환난이 초래되는 것입니다. 이 「멸망의 가증한 것이 선다」라는 표현은, 사실 구약성경 다니엘서의 예언과 관련이 있습니다. 다니엘서에는 반복적으로 「포악하여 가증한 것, 멸망하게 할 가증한 것」에 대해 묘사되어 있지만(다니엘 9장 27절, 12장 11절) 다니엘의 예언은 이후 셀레우코스 왕조 시리아의 왕인 안티오코스 4세 에피파네스에서 성취된 것으로 여겨졌습니다. 기원전 168년에 셀레우코스 왕조 시리아가 예루살렘으로 쳐올라가, 예루살렘 성전에 제우스의 제단을 쌓았습니다. 그리고 유대인들에게 제우스에게 예배를 드리라고 강요했을 뿐만 아니라, 유대인들에게 어처구니 없게도, 돼지고기를 먹도록 강요했습니다. 유대인들은 엄청난 굴욕을 맛보았습니다. 그렇기 때문에 예수님의 제자들에게 「멸망의 가증한 것」이란 안티오코스 4세 에피파네스를 가리킨다고 생각했던 것 같습니다. 그런데 이제 예수님은 다니엘서의 예언을 인용하면서 「멸망의 가증한 것」이 앞으로, 서지 못 할 곳에 설 것이라고 말씀하시는 것입니다. 즉 예수님이 말씀하시려고 하시는 것은, 다니엘서의 예언은, 기원전 168년의 일로 모두 끝난 것이 아니라는 것입니다. 사실, 예수님이 이 말씀을 하신 지 10년 후에, 로마 황제 칼리굴라가 자신의 조각상을 예루살렘 성전에 안치시키려는 사건이 일어났습니다. 또한 AD. 70년에는 로마 장군 티투스에 의해 예루살렘 성전이 방화되고 함락되었습니다. 예수님은 그것들을 예상하고 다음과 같이 말씀하십니다. 14절 중간부터 19절을 보시기 바랍니다.

14 ...그 때에 유대에 있는 자들은 산으로 도망할지어다

15 지붕 위에 있는 자는 내려가지도 말고 집에 있는 무엇을 가지러 들어가지도 말며

16 밭에 있는 자는 겉옷을 가지러 뒤로 돌이키지 말지어다

17 그 날에는 아이 밴 자들과 젖먹이는 자들에게 화가 있으리로다

18 이 일이 겨울에 일어나지 않도록 기도하라

19 이는 그 날들이 환난의 날이 되겠음이라 하나님께서 창조하신 시초부터 지금까지 이런 환난이 없었고 후에도 없으리라

만일 예루살렘에 적이 쳐들어 왔을 때 성전으로 도망치면 하나님이 지켜주실 것이라는 생각을 버리라고 하시는 것입니다. 성전은 파괴되기 때문에 「산으로 도망할지어다」라고 말씀하시는 것입니다. 산으로 도망해서 도대체 어떻게 하라는 것입니끼? 산으로 도망쳐 산신령에게 의지한다거나, 뭔가 눈에 보이는 것에 의지하라는 것이 아니라, 이렇게 말씀하신 주님의 말씀을 신뢰하고, 하나님의 보호의 손 안에 자신을 두라는 것이라고 생각합니다. 실제로는 로마의 티투스군대는 여름에 쳐들어왔습니다. 그 때 임신한 여자와 젖먹이를 가진 여자는 도망치기가 힘들었을 것으로 생각됩니다. 만일 겨울에 쳐들어왔다면 여름에는 건조하고 겨울에는 강이 되는 「와지」라고 불리는 유역이 유대인의 피난을 어렵게 했을 것입니다. 그렇다면 이 「멸망의 가증한 것」이란 안티오코스 4세 에피파네스가 아니라 칼리굴라도 아니고 장군 티투스를 가리키는 것일까요? AD.70년 유대전쟁에서 성전을 파괴한 티투스를 말하는 것일까요? 그러나 사실 티투스가 서지 못 할 성전의 안으로 들어가 둘러본 것은, 이미 성전이 철저히 불태워지고 파괴된 뒤의 일이었습니다. 따라서 정확히는 13장 14절의 예수님의 말씀과 일치하지 않습니다. 그렇다면 도대체 「멸망의 가증한 것」이란 누구일까요? 「멸망의 가증한 것」이란 신약 성경에서 종말에 나타나게 될 「불법한 자(데살로니가후서 2장 8절)」혹은 「적그리스도(요한일서 2장 18절)」로 바꾸어 말할 수도 있을 것입니다. 데살로니가후서 2장 8절을 보시죠.

데살로니가후서 2장 8절

그 때에 불법한 자가 나타나리니 주 예수께서 그 입의 기운으로 그를 죽이시고 강림하여 나타나심으로 폐하시리라

보시다시피 그 때가 오면 「불법한 자가」나타난다고 합니다. 이어서 요한일서 2장 18절을 만나보겠습니다.

요한일서 2장 18절

아이들아 지금은 마지막 때라 적그리스도가 오리라는 말을 너희가 들은 것과 같이 지금도 많은 적그리도가 일어났으니 그러므로 우리가 마지막 때인 줄 아노라

종말에 나타나게 될「적그리스도가 오리라」라고 요한은 증언합니다. 종말에 나타나게 될 「멸망의 가증한 것」, 「불법한 자」, 「적그리스도」란 도대체 누구인가요? 에피파네스 4세인지 칼리굴라인지 티투스인지 아니면 근현대사에서 유대인을 대학살한 나치이자 히틀러인지 우리는 성경의 말씀을 실제 역사의 사건과 연관시키려는 유혹을 받는데, 이 「멸망의 가증한 것」즉, 「적그리스도」란 어떤 특정 인물이나 어떤 특정 그룹으로 간주되어서는 안 된다는 것이라고 생각합니다. 아마 이 적그리스도는 역사 속에서 다양한 형태로 나타날 것이라고 생각합니다. 이 적그리스도에 의해서 배교가 진행되고, 이윽고 지상의 대부분의 사람들이 기독교 신앙을 버리게 될 것입니다. 그 때 사람들의 부도덕은 심해지고 사랑은 식어, 마치 노아의 때처럼 사람들은 정욕에 빠져 무법이 되고, 쾌락 탐욕을 향해 달려갈 것입니다. 오만, 비방, 중상, 조롱이 만연할 것입니다. 그리고 그 절정에서 가짜 메시아가 나타나 스스로를 신격화하는 사태가 일어납니다. 그러나 이러한 적그리스도로 인한 이 세상 권세의 대규모 번영은 모두 헛수고가 될 것입니다. 왜냐하면 그 번영의 절정에서, 권세의 절정에서 그리스도가 재림하시고 적그리스도는 갑자기 무너지게 되기 때문입니다. 이로부터 우리가 배울수 있는 것은 그리스도의 교회가 이 지상에서 권세와 통치권을 쥐게 될 그런 희망은, 일절 가질 수 없다는 것입니다. 교회가 세상에서 주도권을 잡고 메이저한 존재가 될 것이라는 기대를 가질 수 없다는 것입니다. 기껏해야 이 세상 임금들과 높은 지위에 있는 모든 사람 밑에서 교회가 경건하고 평온한 생활을 할 수 있게 될 정도일 것입니다. 디모데전서 2장 1,2절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다.

1 그러므로 내가 첫째로 권하노니 모든 사람을 위하여 간구와 기도와 도고와 감사를 하되

2 임금들과 높은 지위에 있는 모든 사람을 위하여 하라 이는 우리가 모든 경건과 단정함으로 고요하고 평안한 생활을 하려 함이라

교회가 영광을 받는 것은, 교회가 면류관을 받고, 그리스도와 함께 왕으로 통치하는 것은, 이 세상에서가 아니라 하늘에서, 혹은 그리스도의 재림에서입니다. 이어서 마가복음 13장 24~27절을 보시겠습니다.

(2) 인자의 재림

24 그 때에 그 환난 후 해가 어두워지며 달이 빛을 내지 아니하며

25 별들이 하늘에서 떨어지며 하늘에 있는 권능들이 흔들리리라

26 그 때에 인자가 구름을 타고 큰 권능과 영광으로 오는 것을 사람들이 보리라

27 또 그 때에 그가 천사들을 보내어 자기가 택하신 자들을 땅 끝으로부터 하늘 끝까지 사방에서 모으리라

24,25절에 「해가 어두워지며 달이 빛을 내지 아니하며 별들이 하늘에서 떨어지며 하늘에 있는 권능들이 흔들리리라」라고 기록되어 있습니다. 종말에 있어서 드디어 세상이 어두워지고 어둠의 권세가 강해지는 것을 의미하는지도 모릅니다. 또는 말 그대로 천재지변이 일어나고, 우주 질서의 변혁이 초래되어, 전무후무한 환난이 도래할지도 모릅니다. 어쨌든 교회가 믿음을 지키고, 경건하게 걸어가려고 해도 그리스도를 거스르는 이 세상의 권세는, 그 일을 어렵게 만들고, 이 세상을 더 깊은 어둠에 빠뜨리도록 그 힘을 증대시키는 것입니다. 그때 인자가 「구름을 타고 큰 권능과 영광으로 오는 것」을 사람들이 보게 됩니다. 「구름」이란 하나님의 영광과 능력의 임재를 나타냅니다. 모세가 시내산에서 십계명을 받았을 때 구름이 시내 산 위에 있었습니다. 광야를 지나온 이스라엘 백성은 낮에는 구름 기둥에 의해 인도돼었습니다. 또 모세가 장막을 지었을 때(출애굽기 40장 34절), 솔로몬이 성전을 봉헌했을 때(열왕기상 8장 11절) 구름이 나타났습니다. 그리고 베드로와 야곱과 요한을 데리고 예수님이 변화산에 올랐을 때도 예수님의 모습이 갑자기 하얗게 빛나고 엘리야와 모세가 나타나 구름이 임재했습니다(마가복음 9장 7절). 마지막으로 부활하신 주 예수님이 하늘로 승천하실 때에도 역시 구름에 가려 보이지 않게 되었습니다(사도행전 1장 9절). 이 영광과 큰 권능의 임재를 나타내는 구름을 타고 예수님은 다시 오신다고 말씀하시는 것입니다.

26절의 「사람들이 보리라」라고 기록되어 잇는데, 이것은 재림이 누구나 인식할 수 있는 틀림없는 사건으로 일어난다는 것을 의미합니다. 인자의 재림은, 예수님의 초림처럼 사람들이, 눈치 채지 못하고 동정녀 마리아에게서 태어나 세상의 변방에서 나타나는 그런 방법이 아닙니다. 또 초림 때는 예루살렘에 나귀새끼를 타고 입성하셨지만, 재림 때는 영광의 메시아, 승리의 메시아로서 마치 백마를 타고 오듯이 「구름을 타고 큰 권능과 영광으로 오는 것」입니다. 최후의 적을 심판하러 오시기 때문입니다. 「그리스도가 여기 있다 보라 저기 있다」「사실 성경에 적혀 있는 재림의 메시아는 이미 와 계십니다!」등의 말을 들어도 결코 그것을 믿어서는 안 됩니다. 틀림없이 가짜 메시아이기 때문입니다. 가짜 메시아들, 가짜 선지자들은 표적이나 이상한 이적을 보여 주며 현혹하려 할 것입니다. 그러나 결코 현혹되어서는 안 됩니다. 아무리 놀라운 기적을 행하는 자가 나타난다고 해도 기적 그 자체가 메시아의 징표가 아니기 때문입니다. 메시아의 재림은, 어떤 사람은 인식할 수 있고, 어떤 사람은 인식할 수 없는 것과 같은 재림의 방법이 아닙니다. 누구에게나 분명하게 인식되는 것입니다. 예수님은 심판을 위해 재림하시기 때문입니다. 최후의 심판이란 피조물 전체가 창조 때 부터, 갈망하고 있던 요구이기도 했습니다. 순교자들의 영혼은, 하늘에서 큰 소리로 최후의 심판을 요청하고 있습니다. 교회는 이 무서운 예수님의 재림을 고대합니다. 왜냐하면, 그 때 예수님은 천사들을 보내시고 땅 끝으로부터 하늘 끝까지 그에 의해 선택된 사람들을 사방에서 불러모으시기 때문입니다. 27절의 「땅 끝으로부터 하늘 끝까지」란 세상 어디에 있든, 하늘 어디에 있든 반드시 자신의 백성을 찾아내고 불러 모을 수 있으시다는 것입니다. 무엇 때문에 불러 모으시는 걸까요? 그것은 새 하늘과 새 땅에 자신의 백성을 살게 하기 위해서입니다. 그리스도의 신부인 교회를 하나님과의 영원한 사랑의 교제 가운데 참여하게 하기 위해서입니다. 교회는 이를 위해, 이 세상에서 참고 견디며 깨어서 예수님의 재림을 고대해야 하는 것입니다.

결론

이윽고 교회는 영광과 명예를 받을 것이 약속되어 있습니다. 교회가 그리스도와 함께 하늘의 보좌에 앉아, 면류관을 받고 그리스도와 함께 왕으로서, 제사장으로서 통치하게 될 것도 약속되어 있습니다. 그것은, 눈에 보이지 않지만 예수 그리스도의 십자가와 부활로 이미 영적으로 성취된 것입니다. 그러나, 그것이 눈에 보이는 형태로 나타나는 것은, 이 세상에서가 아니라 하늘에서, 혹은 그리스도의 재림에서입니다. 우리는 “주여 오시옵소서” 라고 기도하면서 날마다 예수님의 재림을 기다리는 자로서 지상의 영위를 걷는 자가 됩시다.

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