2024年06月09日「産みの苦しみの始まり 산고의 고통의 시작」

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産みの苦しみの始まり 산고의 고통의 시작

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 13章1節~13節

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聖句のアイコン聖書の言葉

13:1イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
13:2イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
13:3イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。
13:4「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」
13:5イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
13:6わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
13:7戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
13:8民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。
13:9あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。
13:10しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。
13:11引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
13:12兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。
13:13また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 13章1節~13節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

教会とこの世は、平行線をたどるように同時進行いたします。「平行線」とは、何かといいますと、神の国は既に到来し、神の統治は既に始まっていますが、同時にこの世におけるサタンの支配も依然として存在し、最後の抵抗を続けているということであります。神の支配とこの世の支配、この二つの権勢は平行線をたどり、決して互いに一致することはありません。決して互いに調和することもありません。

皆様もご存じのように神の恵みには、特別恩寵と一般恩寵(或いは自然恩寵)がございます。特別恩寵とは、救いに至らせる恩寵であり、一方一般恩寵とは、この世全体に等しく注がれている恩寵です。信じる人にも信じない人にも注がれています。しかし、一般恩寵だけでは、決して神様を正しく知ることは出来ません。聖霊による特別恩寵が注がれない限り、主イエスを救い主として告白し、神様を正しく知ることは出来ないのです。神の国は、イエス・キリストを頭とし、イエス・キリストを王として彼に服従しますが、神を知ることが出来ないこの世は、この世の権勢を頭とし、この世の権勢を王とするのです。ですから、教会とこの世は、平行線をたどることになるのです。この世にあって教会は、常にサタンの攻撃に合い、迫害を経験することになるでしょう。しかし、それは時限的であり、永遠ではありません。やがての日に、つまりイエス・キリストが再臨される日に、私たち教会が信じたことが目に見える形で現れます。やがての日に、それぞれの行いに応じ報いが与えられ、全ての口がイエスは主であると告白する日が訪れます。やがての日に、天で裁きが行われ、新しい天と新しい地が到来します。この、やがての日に備えて、教会は「産みの苦しみ」を経験するように導かれるのです。教会のこの世での営みにおいて、「産みの苦しみ」は決して避けることのできないものであります。

【1】. 神殿崩壊と世の終わり

イエス様が神殿の境内から出て行かれる時、弟子の一人がこう言いました。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」オリーブ山からキドロンの谷の向こうに荘厳なエルサレム神殿の全貌を見下ろすことが出来ました。ヘロデ大王によって始められた第二神殿の改修工事は、大変大規模なものであり、46年経った当時も継続していたと言われています。また、積み上げられた石一つの大きさは資料によりますと、長さが15メートル、高さは2.5メートルにも及び、その重さは420トンから600トンであったと推定されています。この神殿の石一つ一つに、誰もが圧倒されたことでしょう。その神殿の全貌は、誰もが感嘆するような美しい姿であったに違いありません。ところがイエス様は、この神殿の崩壊を預言されたのです。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」この言葉に、弟子たちはびっくり仰天したと思います。恐らく弟子たちが「神殿崩壊」という言葉を耳にした時、約600年前に、バビロン捕囚によって、ソロモンの第一神殿が破壊されたことを思い浮かべたのではないでしょうか。バビロン捕囚によって、神殿は破壊され、宮の中の宝物や、金で覆われた器具は運び出されました。ユダヤの民は散らされ、主だった者たちはバビロンに連行されました。バビロン捕囚とは、ユダヤ人であれば忘れたくても、忘れることのできない悲惨で、辛い出来事であったのです。「神殿崩壊」という言葉を耳にした時、まさにバビロン捕囚を思い浮かべたに違いありません。弟子たちは驚きのあまり、イエス様に尋ねています。3~4節をご覧ください。

“イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」”

ここで、弟子たちは、「ひそかに」イエス様に尋ねました。「ひそかに」とは、こっそりという事です。つまり、あまり人には聞かれたくないということです。神殿当局者たちがこのことを聞いたなら、またひと悶着あると思ったのでありましょう。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」

弟子たちはここで、二つのことをイエス様に尋ねています。第一に、そのことがいつ起こるのか、第二に、そのことが全て実現される時には、或いは、そのことが全て終わりを迎える時には、どんな徴があるのですかということです。ここから分かることは、弟子たちは「神殿崩壊」の予告を、世の終わりの出来事として聞いていたということです。そして、イエス様ご自身も神殿崩壊と、終末と関連させて語られました。弟子たちの質問に対し、イエス様はご自身の口から、終末について一連の恐ろしい出来事について黙示的に開示されたのです。それらの出来事は、時のしるしでもあり、迫りつつある世界の終りの予兆でもありました。そのため、マルコ福音書の13章は「小黙示録」とも呼ばれています。その日がいつ起こるのか、それは父なる神がお決めになることであり、私たちには依然として隠されていますが、その徴は与えられるのです。5~8節をご覧ください。

【2】. 終わりの徴

“イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。”

イエス様は、終末を迎えるにあたり起こってくる一連の出来事について一気に語られました。この御言葉は、当時の弟子たちだけに語られたのではなく、現代に生きる私たちに対しても語られているものとして読み進めていきたいと思います。第一に、偽メシアが現れると語りました。イスラエルにおいて、自称「救い主」を名乗る人物は、今も昔も多く現れました。そのことは日本においても同じです。様々なカルト教団の教祖は、自分を「救い主」として公言しています。従いまして、偽メシアの出現は、世の終わりが迫っていることを説明しますが、その世の終わりがいつかについて、具体的に知る手がかりにはなりません。第二に、戦争の騒ぎや戦争の噂を聞いても、慌ててはならない。そのようなことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない、と語ります。実際、イエス様が来られる前にもバレスティナ地方の至るところで戦争は起こっていました。イエス様が来られた後も、さらに言えば、今日においても、私たちを取り巻く世界では戦争が常に起こっています。ロシアとウクライナが戦争を始め、イスラエルとパレスティナが戦争を始めました。戦争がもたらす命の奪い合いは、不条理なものです。今や地球を滅ぼしかねない、核戦争の脅威も現実問題として私たちの前に立ちはだかり、私たちは混乱と不安の中に置かれているのです。このことから分かることは、戦争は、歴史上、常に存在するのであって、具体的に世の終わりがいつかについて知る手がかりにはならないということです。第三に、民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こると語ります。つまり、世界の方々に地震が起こり、大きな艱難が襲ってきて、世界はいよいよ混とんの中に入れられます。しかし、この艱難でさえ、「終わり」そのものではなく、「産みの苦しみの始まり」であると言っています。言い換えるなら、まだ、世の終わりではない。終わりの日がいつなのか、誰も知ることは出来ない、という事でしょう。イエス様はそのような中で弟子たちに対し、惑わされることなく、慌てずに、地に足をつけて歩みなさいと言っておられるのです。日常の営みを、今まで通り忠実に歩みなさいと言っておられるのです。続いて9~13節をご覧ください。今度は、終末が迫る中にあって、弟子たちの運命について語っていきます。

【3】. 教会の宣教の営み

“あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」”

9節の「地方法院」という言葉は、ギリシア語を見ますと、サンヘドリン議会の複数形となっています。つまり、ユダヤの公会議であるサンヘドリンも含まれ、それ以外にもローマの議会や、あらゆる議会を指しているということです。そして、「わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる」とありますが、実際、使徒パウロは、ローマの総督フェリクスとフェストゥスの前に立たされ(使徒24:10~27、使徒25:1~12)、また、アグリッパ二世の前にも立たされました(使徒25:23~26:32)。使徒言行録26:19~23をご覧ください。パウロが鎖につながれた状態でヘロデ大王のひ孫であるアグリッパ二世の前に立たされて弁明している内容です。

“「アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。そのためにユダヤ人たちは、神殿の境内にいた私を捕らえて殺そうとしたのです。ところで、私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」”

パウロはこのように王の前で大胆に復活の主イエスを証ししていますが、万一、私たちがこのような場合に置かれたとしても、心配することはないとイエス様は言われるのです。なぜなら、その時、教えられたことをそのまま話せばよいのであり、聖霊がキリストの弟子たちを通して語ってくださるからだと言うのです。このようにして、迫害の中、初代教会の弟子たちによる宣教の働きは、前進していったのであります。

また、マルコ13章13節を見ると “わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる”とあります。キリスト者、キリスト信徒、クリスチャン、いろいろな呼び方をされていますが、その呼び名が何であれ、キリスト者は、キリストの名のゆえに人々から憎まれます。なぜでしょうか。キリスト者とはイエス・キリストを信じ受け入れたことによって、聖霊を注がれ、新しく生まれ変わった人たちのことです。新しく生まれ変わり、天の王国に国籍を持ち、神の家族とされた人たちです。しかし、この世はそのような神の王国を理解することは出来ません。聖霊の導きを理解することは出来ないのです。ですから、この世の権勢は必ず、キリスト者を憎み、教会を憎み、何らかの形で、抑圧や迫害を加えるようになるのです。この世の権勢とは具体的に言えば、この世の王であり、この世の政府であり、或いは富や、お金であります。この世から、教会が聖別されているからこそ、教会に対するこの世の攻撃と迫害は絶えないのです。ですから、教会のこの世での営みは、必然的に耐え忍ぶ営みとなります。しかし、教会の耐え忍ぶ営みとは、まさに教会が福音を宣教する営みであり、イエス・キリストの十字架と復活を証しする営みであり、神の国の到来を弁明する営みとなるでしょう。教会は、そのような使命のためにこの世に遣わされているからです。私たちはそのことを覚えつつ、終わりの日が迫っている中で、慌てずに地に足をつけながら、忠実な歩みを重ねていく者たちとならせていただきましょう。

【結論】

イエス様の弟子たちは、イエス・キリストの御足に従いゆく歩みを重ねていきます。イエス様が苦難を通して栄光に入れられたように、教会も苦難を通して栄光に入れられることになるでしょう。そして教会の受ける苦難とは、苦難それ自体が宣教であり、キリストを世に証しする営みとなり、キリストの十字架と復活の力を証しする営みとして用いられます。ですから突然、神殿が崩れるかのように、私たちの大切にしていたものが突然崩れるような経験をすることになっても、突然、襲って来る試練や、悲しい出来事の中に置かれても、決して気を落とさないでください。そんな時、「教会なんか通っているからこんな苦難を受けるのだ」という言葉に惑わされてはなりません。それは、産みの苦しみの始まりであり、神様の摂理の中で、教会が苦難を通して栄光に入れられるのです。私たちの信仰の営みを最後まで耐え忍ぶ者として日々の営みを重ねてまいりましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

산고의 고통의 시작

2024년 6월9일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

마가복음13장 1~13절

서론

교회와 이 세상은 평행선을 달리며 동시에 진행합니다. 「평행선」이란 무엇인가 하면, 하나님의 나라는 이미 도래했고, 하나님의 통치는 이미 시작되었지만, 동시에 이 세상에 있어서는 사탄의 지배도 여전히 존재하여, 최후의 저항을 계속하고 있는 것입니다. 하나님의 지배와 이 세상의 지배, 이 두 권세는 평행선을 달리며, 결코 서로 일치하지 않습니다. 결코 서로 조화되지도 않습니다.

여러분도 아시다시피 하나님의 은총에는, 특별은총과 일반은총(또는 자연은총)이 있습니다. 특별은총이란 구원에 이르게 하는 은총이고, 반면에 일반은총이란, 이 세상 전체에 고루 부어져 있는 은총입니다. 믿는 사람에게도 안 믿는 사람에게도 부어져 있습니다. 그러나 일반 은총만으로는 결코 하나님을 바르게 알 수 없습니다. 성령에 의한 특별은총이 부어지지 않는 한, 예수님을 구세주라고 고백하고, 하나님을 바르게 아는 것은 불가능한 일입니다. 하나님의 나라는, 예수・그리스도를 머리로 하고, 예수・그리스도를 왕으로 받아들이고 예수님께 복종합니다만, 하나님을 알지 못하는 이 세상은, 이 세상의 권세를 머리로 하고, 이 세상의 권세를 왕으로 삼는 것입니다. 그래서 교회와 이 세상은 평행선을 달리게 됩니다. 이 세상에 있어서 교회는, 항상 사탄의 공격을 받고, 박해를 겪게 될 것입니다. 그러나 그것은 한시적이며 영원하지 않습니다. 이윽고 그 날에, 즉 예수・그리스도가 재림하시는 날에, 우리 교회가 믿었던 것이 눈에 보이는 형태로 나타납니다. 이윽고 그 날에 각자의 행실에 상이 주어지고, 모든 입이 예수님이 주님이라고 고백하는 날이 찾아옵니다. 이윽고 그 날에 하늘에서 심판이 이루어지고 새로운 하늘과 새로운 땅이 도래합니다. 이 머지않아 올 날을 대비하여 교회는 「산고의 고통」을 경험하도록 인도됩니다. 교회의 이 세상에서의 영위에 있어서「산고의 고통」은 결코 피할 수 없는 것입니다.

(1) 성전 붕괴와 세상의 종말

예수님이 성전 경내에서 나가실 때에 제자 중 하나가 「선생님이여 보소서 이 돌들이 어떠하며 이 건물들이 어떠하니이까」라고 말했습니다. 올리브 산에서 기드론 계곡 너머로 장엄한 예루살렘 성전의 전모를 내려다 볼 수 있었습니다. 헤롯 대왕에 의해 시작된 제 2성전의 개수 공사는, 매우 대규모였고 46년이 지난 당시에도 계속 되고 있었다고 합니다. 또한 쌓아올린 돌 하나의 크기는 자료에 따르면, 길이가 15미터, 높이는 2.5미터나 되고 그 무게는 420톤에서 600톤이었을 것으로 추정되고 있습니다. 이 성전의 돌 하나하나에 누구나 압도당했을 것입니다. 그 성전의 전모는, 누구나 감탄할 만한 아름다운 모습이었음에 틀림없습니다. 그런데 예수님은,「네가 이 큰 건물들을 보느냐 돌 하나도 돌 위에 남지 않고 다 무너뜨려지리라」라고 이 성전의 붕괴를 예언하신 것입니다. 이 말을 들은 제자들은 깜짝 놀랐을 것입니다. 아마도 제자들이 이 「성전 붕괴」라는 말을 들었을 때, 약 600년전 바빌론 유수에 의해, 솔로몬의 제 1성전이 파괴된 것을 떠올리지 않았을까요? 바빌론 유수에 의해, 성전은 파괴되고, 궁 안의 보물과 금으로 덮힌 기구는 운반되었습니다. 유대 백성들은 흩어졌고, 중심인물들은 바빌론으로 끌려갔습니다. 바빌론 유수란, 유대인이라면 잊고 싶어도 잊을 수 없는 비참하고 괴로운 사건이었습니다. 「성전 붕괴」라는 말을 들었을 때, 바로 바빌론 유수를 떠올렸을 것입니다. 제자들은 놀란 나머지, 예수님께 묻고 있습니다. 3,4절을 보시겠습니다.

3 예수께서 감람 산에서 성전을 마주 대하여 앉으셨을 때에 베드로와 야고보와 요한과 안드레가 조용히 묻되

4 우리에게 이르소서 어느 때에 이런 일이 있겠사오며 이 모든 일이 이루어지려 할 때에 무슨 징조가 있사오리이까

여기서, 제자들은 조용히 예수님께 물었습니다. 「조용히」는 몰래라는 것을 말합니다. 즉, 별로 사람들이 알게 하고 싶지 않았다는 것입니다. 성전 당국자들이 이 말을 들었다면, 또 한바탕 소동이 있을 것이라고 생각했을 것입니다. 「우리에게 이르소서 어느 때에 이런 일이 있겠사오며 이 모든 일이 이루어지려 할 때에 무슨 징조가 있사오리이까」

제자들은 여기서 두 가지를 예수님께 묻고 있습니다. 첫째, 그 일이 언제 일어날 것인가, 둘째 그 일이 모두 실현될 때에는, 혹은 그 일이 모두 끝에 이를 때에는 어떤 표적이 있는가 하는 것입니다. 여기서 알 수 있는 것은 제자들은 「성전 붕괴」의 예고를, 세상의 마지막 에 일어날 사건으로 들었다는 것입니다. 그리고 예수님 자신도 성전 붕괴와 종말과 관련지어 말씀하셨습니다. 제자들의 질문에 대해서, 예수님은 자신의 입을 통해, 종말에 대한 일련의 끔찍한 사건들에 대해 묵시적으로 공개하신 것입니다. 그 사건들은 시간의 표시이기도 하고, 다가오고 있는 세계의 종말의 전조이기도 했습니다. 그 때문에 마가복음 13장은 「소묵시록」이라고도 불립니다. 그날이 언제 일어날지, 그것은 아버지 하나님께서 결정하시는 것이고, 우리에게는 여전히 감춰져 있지만, 그 표적은 주어지는 것입니다. 5~8절을 보시기 바랍니다.

(2) 종말의 징조

5 예수께서 이르시되 너희가 사람의 미혹을 받지 않도록 주의하라

6 많은 사람이 내 이름으로 와서 이르되 내가 그라 하여 많은 사람을 미혹하리라

7 난리와 난리의 소문을 들을 때에 두려워하지 말라 이런 일이 있어야 하되 아직 끝은 아니니라

8 민족이 민족을, 나라가 나라를 대적하여 일어나겠고 곳곳에 지진이 있으며 기근이 있으리니 이는 재난의 시작이니라

예수님은, 종말을 맞이하면서 일어나는 일련의 사건들에 대해 단번에 말씀하셨습니다. 이 말씀은, 당시 제자들에게만 하신 것이 아니라, 오늘을 사는 우리에게도 하신 말씀으로 읽어 나가도록 하겠습니다. 첫째, 가짜 메시아가 나타난다고 말했습니다. 이스라엘에서 자칭 「구세주」를 자칭하는 인물은 예나 지금이나 많이 나타났습니다. 그 일은 일본에서도 마찬가지입니다. 여러 컬트 교단의 교주는, 자신을 「구세주」로 공언하고 있습니다. 따라서 가짜 메시아의 출현은, 세상의 종말이 임박했음을 설명하지만, 그 세상의 종말이 언제인지에 대해 구체적으로 알 수 있는 단서가 되지는 않습니다. 둘째, 전쟁의 소동이나 전쟁의 소문을 듣고도 당황해서는 안 됩니다. 그런 일은 일어나기 마련이지만 「아직 끝은 아니니라」라고 말씀하십니다. 사실 예수님이 오시기 전에도 팔레스타인 지방 곳곳에서 전쟁은 일어나고 있었습니다. 예수님이 오신 후에도, 더 말하면 오늘날에도 우리를 둘러싼 세계에서는 전쟁이 항상 일어나고 있습니다. 러시아와 우크라이나가 전쟁을 시작하고 이스라엘과 팔레스타인이 전쟁을 시작했습니다. 전쟁이 가져오는 생명의 쟁탈전은 부조리한 것입니다. 이제 지구를 멸망시킬지도 모르는 핵전쟁의 위협도 현실적인 문제로 우리 앞에 서 있고, 우리는 혼란과 불안 가운데 놓여 있는 것입니다. 이를 통해 알 수 있는 것은 전쟁은 역사상 항상 존재하는 것이지, 구체적으로 세상의 종말이 언제인지에 대해 알 수 있는 단서가 될 수 없다는 것입니다. 셋째, 「민족이 민족을, 나라가 나라를 대적하여 일어나겠고 곳곳에 지진이 있으며 기근이 있으리니」라고 말합니다. 즉 여기저기서 지진이 일어나고 큰 가난이 덮쳐 세계는 드디어 혼돈 속에 들어갑니다. 그러나 이 재난조차 「끝」그 자체가 아니라 「산고의 고통의 시작」이라고 합니다. 다시 말하면, 아직 세상의 끝은 아닙니다. 마지막 날이 언제인지 아무도 알 수 없다는 거죠. 예수님은 그런 가운데 제자들에게, 현혹되지 말고, 당황하지 말고, 땅에 발을 붙이고 살아라라고 말씀하시는 것 입니다. 일상의 삶을 지금까지와 같이 충실하게 살아가라고 말씀하시는 것입니다. 이어서 9~13절을 보시겠습니다. 이번에는 종말이 다가오는 가운데 제자들의 운명에 대해 이야기하십니다.

(3) 교회 선교의 영위

9 너희는 스스로 조심하라 사람들이 너희를 공회에 넘겨 주겠고 너희를 회당에서 매질하겠으며 나로 말미암아 너희가 권력자들과 임금들 앞에 서리니 이는 그들에게 증거가 되려 함이라

10 또 복음이 먼저 만국에 전파되어야 할 것이니라

11 사람들이 너희를 끌어다가 넘겨 줄 때에 무슨 말을 할까 미리 염려하지 말고 무엇이든지 그 때에 너희에게 주시는 그 말을 하라 말하는 이는 너희가 아니요 성령이시니라

12 형제가 형제를, 아버지가 자식을 죽는 데에 내주며 자식들이 부모를 대적하여 주게 하리라

13 또 너희가 내 이름으로 말미암아 모든 사람에게 미움을 받을 것이나 끝까지 견디는 자는 구원을 받으리라

9절의 「공회」라는 말은 헬라어를 보면 산헤드린 의회의 복수형으로 되어 있습니다. 즉, 유대의 공회의인 산헤드린도 포함되고, 그 이외에도 로마의 의회나 모든 의회를 가리킨다는 것입니다. 그리고 「나로 말미암아 너희가 권력자들과 임금들 앞에 서리니 이는 그들에게 증거가 되려 함이라」라고 말씀하셨는데, 사실 사도 바울은 로마의 총독 벨릭스와 베스도 앞에 섰고(사도행전 24장 10~27절, 사도행전 25장 1~12절), 또 아그립바 2세 앞에도 섰습니다(사도행전 25장 23~26장 32절). 사도행전 26장 19~23절을 참고하시기 바랍니다. 바울이 쇠사슬에 묶인 상태에서 헤롯 대왕의 증손자인 아그립바 2세 앞에 서서 변명하고 있는 내용입니다.

사도행전 26장 19~23절

19 아그립바 왕이여 그러므로 하늘에서 보이신 것을 내가 거스르지 아니하고

20 먼저 다메섹과 예루살렘에 있는 사람과 유대 온 땅과 이방인에게까지 회개하고 하나님께로 돌아와서 회개에 합당한 일을 하라 전하므로

21 유대인들이 성전에서 나를 잡아 죽이고자 하였으니

22 하나님의 도우심을 받아 내가 오늘까지 서서 높고 낮은 사람 앞에서 증언하는 것은 선지자들과 모세가 반드시 되리라고 말한 것밖에 없으니

23 곧 그리스도가 고난을 받으실 것과 죽은 자 가운데서 먼저 다시 살아나사 이스라엘과 이방인들에게 빛을 전하시리라 함이니이다 하니라

바울은 이처럼 왕 앞에서 담대하게 부활의 주 예수를 증언하고 있지만, 만일 우리가 이런 경우에 놓인다 하더라도 걱정할 것이 없다고 예수님은 말씀하십니다. 왜냐하면 그때 가르쳐주신 것을 그대로 말하면 되고 성령께서 그리스도의 제자들을 통해 말씀해 주시기 때문이라고 말하는 것입니다. 이렇게 박해 속에서, 초대 교회 제자들의 선교 활동은 전진해 나갔습니다.

또 마가복음 13장 13절을 보면 「내 이름으로 말미암아 모든 사람에게 미움을 받을 것이나」라고 쓰여 있습니다. 그리스도인, 기독교 신자, 크리스챤, 여러 가지 호칭이 있는데, 그 호칭이 무엇이든 간에 그리스도인은 그리스도의 이름 때문에 사람들로부터 미움을 받습니다. 왜 그럴까요? 그리스도인은 예수 그리스도를 믿고 받아들임으로써 성령을 받고 새로 태어난, 거듭난 사람들을 말합니다. 새롭게 태어나 하늘의 왕국에 국적을 가진, 하나님의 가족으로 여겨진 사람들입니다. 그러나 이 세상은 그런 하나님의 왕국을 이해할 수 없습니다. 성령의 인도를 이해할 수 없습니다. 그래서 이 세상의 권세는 반드시 그리스도인을 미워하고, 교회를 미워하며, 어떤 방식으로든, 억압과 박해를 가하게 되는 것입니다. 이 세상의 권세란 구체적으로 말하면, 이 세상의 왕이고, 이 세상의 정부이고, 혹은 부나, 돈입니다. 이 세상에서 교회가 성별되어 있기 때문에, 교회에 대한 이 세상의 공격과 박해는 끊이지 않습니다. 그래서 교회의 이 세상에서의 영위는, 필연적으로 견디는 영위가 됩니다. 그러나, 교회의 감내하는 영위이란 바로 교회가 복음을 선교하는 영위이요, 예수・그리스도의 십자가와 부활을 증명하는 영위이요, 하나님 나라의 도래를 변명하는 영위가 될 것입니다. 교회는, 그런 사명을 위해 이 세상에 보내지기 때문입니다. 우리는 그것을 기억하면서, 마지막 날이 다가오고 있는 가운데, 당황하지 않고 땅에 발을 붙이면서, 충실한 걸음을 거듭해 가는 자들이 되도록 합시다.

결론

예수님의 제자들은 예수・그리스도의 발자취를 따라가는 발걸음을 거듭합니다. 예수님이 고난을 통해 영광으로 들어가셨듯이, 교회도 고난을 통해 영광으로 들어가게 될 것입니다. 그리고 교회가 받는 고난이란, 고난 그 자체가 선교이며, 그리스도를 세상에 증거하는 영위가 되고, 그리스도의 십자가와 부활의 힘을 증거하는 영위로 쓰임받습니다. 그러니 갑자기 성전이 무너지듯, 우리가 소중히 여기던 것이 갑자기 무너지는 듯한 경험을 하게 되더라도, 갑자기 닥치는 시련이나, 슬픈 사건 속에 놓이게 되더라도, 결코 낙심하지 마시기 바랍니다. 그럴 때 “교회 같은 데 다니니까 이런 고난을 받는 거다”라는 말에 현혹되어서는 안 됩니다. 그것은 출산 산고의 시작이며, 하나님의 섭리 안에서, 교회가 고난을 통해 영광으로 들어가는 것입니다. 우리는 믿음의 영위를 끝까지 견디는 자로서 일상의 영위를 거듭해 나갑시다.

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