2024年06月02日「みせかけと本物 외식과 참된 것」

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みせかけと本物 외식과 참된 것

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 12章38節~44節

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聖句のアイコン聖書の言葉

12:38イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、
12:39会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、
12:40また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
12:41イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。
12:42ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。
12:43イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
12:44皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 12章38節~44節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

イエス様は「律法学者に気をつけなさい」と弟子たちに言われました。律法学者の、どのような点に気をつけなさいと言われたのでしょうか。また、貧しいやもめのわずかな献金を、だれよりもたくさん入れたと言われました。ここにおいて律法学者と貧しいやもめが見事に対比されています。本日はこの対比を通して、マルコによる福音書12章の御言葉から恵みに与っていきたいと思います。

【1】.律法学者に気をつけなさい

律法学者とは、ファリサイ派に属する者たちで、神様の戒めである律法を専門的に学び、民に教えることを職業としていました。38~41節でイエス様が言われるように、彼らは、「長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りを」していました。長い衣とは、自分たちの身分を現わすための一目で分かるような服を着ていたということです。その服は白い亜麻布で作った「長く、ゆるやかに垂れた服」で、神殿で奉仕する祭司長や祭司たちの服に似せて作られたようです。そうすることにより、特権階級である神殿当局者たちと、おつきあいをするためではなかったかと考えられています。また、「広場で挨拶される」とありますが、この広場とは、英語の聖書(KJV,RSV)や、韓国語の聖書では「市場」と訳されています。つまり、「多くの人々が生活物資を求めて集まる場所」という意味です。律法学者は、自分の長い衣を着て、そのような場所に行き、「先生」と呼ばれ、挨拶されることを望んだということなのでしょう。彼らは「会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み」ました。この上席、上座というのは、私たちの礼拝堂には、説教者と司式者の席が講壇の両脇に設置されていませんが、多くの教会の礼拝堂には、講壇の両脇に説教者と司式者の席が設けられています。そのような権威ある席を思い浮かべていただければと思います。彼らはそのような席に自ら進んで座ることを望んだということです。最後に、「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」とあります。やもめとは夫のいない未亡人のことですが、どのようにして、律法学者がやもめの家を食い物にしたのか、はっきりしたことは分かりません。律法には社会的弱者である、やもめと孤児には、経済的、法的保護が与えられるように定められていました。そのような戒めが無視されていたということだと思います。例えば、出エジプト記22:21~22をご覧ください。

“寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。”

このようなやもめと孤児たちの戒めは、申命記においてさらに具体化され、強調されていきます。続いて申命記10:18をご覧ください。

“孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。”

さらに、申命記26章を見ますと、十分の一の捧げものを、レビ人と共に受け取る資格も与えられました。申命記26:12~13をご覧ください。

“十分の一の納期である三年目ごとに、収穫物の十分の一を全部納め終わり、レビ人、寄留者、孤児、寡婦に施し、彼らが町の中でそれを食べて満ち足りたとき、あなたの神、主の前で次のように言いなさい。「わたしは、聖なる献げ物を残らず家から取り出し、すべてあなたが命じられた戒めに従って、レビ人、寄留者、孤児、寡婦に施し、あなたの戒めからはずれたり、それを忘れたりしませんでした。”

律法によってこのような経済的、法的保護が約束されていたにも拘わらず、実際にはやもめと孤児は搾取されていたようです。それは、イザヤ書10:1~2を見れば、推測できます。ご覧ください。

“災いだ、偽りの判決を下す者/労苦を負わせる宣告文を記す者は。彼らは弱い者の訴えを退け/わたしの民の貧しい者から権利を奪い/やもめを餌食とし、みなしごを略奪する。”

従いまして、イエス様が律法学者に対して指摘しているのは、やもめの窮状が明らかであったにも拘わらず、そのことに一切関心を持たず、自分のことだけを考えていたことなのだと思います。彼らが長く祈るのは、自分の評判と地位をさらに高めようとする意図からでありました。神の御言葉を大切にするユダヤの社会において、その神の御言葉を教えてくれる律法学者という職業は尊敬され、大切にされるのは自然であり、当然のことでございます。しかし、人々の御言葉への尊重が、いつの間にか、律法学者の間で、自分が尊重され、重んじられることを求めるようになってしまったということです。彼らの罪とは、御言葉を教え、弱者を助け、弱者の権利を守ることを指導する地位にありながら、自分の権利だけを考え、神の律法を後ろ盾とし、敬虔さを装いながら、虚栄と偽善にまみれていたという点ではないでしょうか。その罪は、人々から多く税金を取り立てていた徴税人の罪より、さらに悪いものとして聖書に描かれています。

私たちの心の中にも、他人から重んじられたい、他人から評価されたいという思いが、少しでもあるならば、「律法学者に気をつけなさい」というイエス様の御言葉は、他人事ではないということです。大変難しい警告でありますけれども、人々の自分に対する評価や、人々との比較の中で、生きてきた営みから、自由になりなさいとイエス様は言われるのです。偽りと虚栄に満ちた歩みを悔い改めなさいとイエス様は勧められるのであります。

【2】.乏しい中から

さて、41節からは場面が変わります。当時、「賽銭箱」、つまり、献金箱は神殿の「女子の庭」に13個、設置されていました。その形状はラッパの形をしていました。図の通りです。献金は貨幣ではなく、硬貨で捧げられましたので、金属の硬貨がラッパの中を転がっていく時に、大きな音が鳴り響いたようです。献金箱の周りには、献金箱を守る者と、見物人たちによって、見守られていました。イエス様も献金箱の向かいに座り、共にその様子を見守っていました。大勢の金持ちが、たくさんの硬貨を投げ入れました。当時経済的な豊かさは、神様の祝福のしるしとして考えられていましたから、群衆は金持ちがいかに神様から愛された人物であり、信仰深い人に違いないと思ったに違いありません。そこへ、一人の貧しいやもめがやって来て、レプトン銅貨二枚を捧げたと言うのです。やもめというだけで、貧しさを連想させますが、本日の41節から44節までにおいて、「貧しい」、「乏しい」という言葉が繰り返され、強調されています。レプトン銅貨とは、最も価値の小さな貨幣でありまして、レプトン硬貨二枚が、ローマの貨幣1クァドランスと等しかったために、著者のマルコはローマ人に説明するような仕方で書いています。因みにローマの1クァドランスは、ローマの公衆浴場の入浴料とされていました。一回の入浴料が、1クァドランスという事です。私たちの新共同訳聖書の巻末のp.53~55に、「度量衡および通貨」という表があります。そこを見ますと、レプトン銅貨は1デナリオンの1/128と書かれています。1デナリオンは、おおよそ一日の、日当とされていましたので、仮に日当を1万円としますと、レプトン一枚は78円、二枚で156円ということになります。ですから、貧しいやもめは、この時、156円くらいの献金を投げ入れたという事になります。その状況を見守っていた人々は、この献金額を見て、どのように思ったことでしょうか。しかし、イエス様はこのやもめの献金を人々が見るようにはご覧になられませんでした。弟子たちを呼び寄せて次のように語っています。43~44節をご覧ください。

“イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」”

イエス様によれば、誰よりも少ない額を捧げたはずの、このやもめが、誰よりもたくさん入れたと言われるのです。その理由は44節に書かれていますが、44節で、「余剰」という言葉と「欠乏」という言葉が対比されています。金持ちは、余剰つまり、有り余る中から捧げたのですが、やもめは欠乏、つまり乏しい中から捧げたと言うのです。「欠乏の中から」とは、本来なら、捧げるものが何もなかったという事ではないでしょうか。むしろ人々から補ってもらわなければならない状況です。イエス様はやもめにとって156円が生活費全てであったことを見抜いておられました。それにも拘わらず、やもめは生活費を全部捧げたため、だから、「誰よりもたくさん入れた」と言われるのです。私たちはこの箇所を読む時、一体どのように適用すればいいのか思い悩むと思います。聖書は決して、共有財産制を主張してはおりませんし、持っている財産をすべて神様に捧げなさいとは書かれていないからです。第一、やもめはなぜ、せめて半分の1レプトンを残しておかなかったのでしょうか。やもめはこの後、一体どうなったのでしょうか。聖書にはそれ以上書かれていないので、はっきりとは分かりませんが、注解書を見ますと、ユダヤ人の会堂において、貧しい人々のための食料配布がなされていたため、飢えることはなかっただろうと書かれていました(参考;使徒6:1~4)。現代の炊き出しのサービスのようなものです。

なぜ、イエス様は「この貧しいやもめはだれよりもたくさん入れた」と、言われたのか、この疑問に対し、それは自分の収入に対する割合が、やもめが高かったために、そのように言われたと、ある人は言います。しかし、割合に関して言えば、ファリサイ人や律法学者が日々人々にアピールしていた点でもありました。彼らは人々から賞賛や名声を得るために、私は、このような細かい収入の1/10でさえ捧げていると、声を大にしていました。ですから、恐らくイエス様は、ここで割合のことを言っているのではなさそうです。手がかりとして、第一に「生活費」と訳されているギリシア語「ビオス」という言葉に注目してみましょう。この「生活費」という言葉は、「生命」とか「人生」、「生活」という意味であります。ですからイエス様は、やもめの献金をご覧になって、「生命」を全て捧げた、「人生」を全て捧げた、即ち神様に献身したと、解釈されたのであります。神様に献身するというのは、何も神学校に行くということではもちろんありません。献身とは、神様に全てを委ねること、神様に人生を、生命を捧げるという事です。どうぞ神様が、この私を神様の御用のために用いてくださいと祈ることであります。もっと、分かりやすく言えば、その人の日々の営みが果たして神様に向いているのか、人に向いているのか、どちらなのか?という事です。金持ちは、自分たちの余剰の中から、人々の前で、たくさんの献金を捧げました。それは律法学者のように、人々の目を意識していた可能性があります。イエス様はまもなく十字架によってご自身の命を献げられます。イエス様が私たちのことを、命を捧げて愛してくださいました。その十字架の愛を忘れずに、私たちの日々の営みは、神に向かって捧げられるべきであります。

第二の手がかりとして、この教えが、弟子たちだけを呼び集めて言われたという事です。弟子たち。やがて教会の指導者となる弟子たちです。一方、38節の「律法学者に気をつけなさい」という教えは、誰に語られたのか限定されてはいません。一般群衆に対し語られたと思われます。「律法学者に気をつけなさい」この教えが群衆に向けて語られている反面、「この貧しいやもめはだれよりもたくさん入れた」という教えは、弟子たちだけに語られたのです。このことが意味することは、教会において、決して捧げられた額が注目を浴びてはならないということだと思います。単純に献金の額が、その人の神様への献身の度合いを表すのではない、ということです。仮に156円であっても、自分のすべてを捧げたやもめの献金こそ、神への全き献身を表すものであるとイエス様は教えておられるのです。将来の教会の指導者たちは、そのような献金を尊ばなければならない。決してこのような献金を見逃してはならないという事だと思います。時として教会では、賜物豊かな人の奉仕や、余剰からのおすそ分けのように捧げられた献金をした人々がもてはやされることがあるかもしれません。イエス様は教会で起こるそのような事態を見抜いておられたのです。弟子たちに対し、あなた方、教会の指導者は、金額や、賜物の豊かさに捕らわれることなく、神様に向けられた捧げもの、神様に向けられた奉仕、神様に向けられたその営みを、重んじなさいと言われているのです。

【結論】

律法学者と、貧しいやもめの対比の中で、浮彫にされたこと、それは、私たちの日々の営みが人に向いているのか、神に向かっているのかということでありました。もし、私たちの営みが神に向かっているのなら、私たちの日々の営みそれ自体が神への献身、神への献げ物として受け入れられることでしょう。そして、私たちの営みが神様に向けられているのなら、私たちは人との比較から自由になり、主の愛の眼差しの中で、喜んで生きる者とされるのです。やもめは、156円の献金をし、その金額が人々に知れられたら、本当に恥ずかしい思いを持ったかもしれません。しかし、やもめは神様に心を向けて、自分自身の人生を、自分の自身の生命を、神様に捧げることが出来たのです。欠乏は、自分自身を捧げることの障害には決してなりませんでした。私たちも日々の営みが、十字架によって愛を示してくださった、イエス様に向けられ、そして私たちの日々の営みがイエス様に献げられるように、歩む者とならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

외식과 참된 것

2024년 6월2일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

마가복음12장 38~44절

서론

예수님은 「서기관들을 삼가라」라고 제자들에게 말씀하셨습니다. 서기관들의 어떤 점을 삼가라고 하셨을까요? 또 가난한 과부의 얼마 안 되는 헌금을 누구보다 많이 넣었다고 하셨습니다. 여기서 서기관과 가난한 과부가 훌륭하게 대비되고 있습니다. 오늘은 이 대비를 통해 마가복음 12장 말씀에서 은혜를 얻고자 합니다.

(1) 서기관들을 삼가라

서기관이란, 바리새파에 속한 자들로, 하나님의 계명인 율법을 전문적으로 배우고 백성들에게 가르치는 것을 직업으로 삼고 있습니다. 38~41절에서 예수님이 말씀하신 것처럼, 그들은 「긴 옷을 입고 다니는 것과 시장에서 문안 받는 것과 회당의 높은 자리와 잔치의 윗자리를 원하고 과부의 가산을 삼키며 외식으로 길게 기도」했습니다. 긴 옷이란, 자신들의 신분을 나타내기 위해서, 한눈에 알아 볼 수 있는 옷을 입고 있었다는 것입니다. 그 옷은 흰 아마포로 만든 「길고 헐렁하게 늘어뜨린 옷」으로 성전에서 봉사하는 대제사장이나 제사장들의 옷을 본떠서 만든 것 같습니다. 그렇게 함으로써, 특권 계급인 성전 당국자들과 교제를 하기 위한 것이 아닐까 생각됩니다. 또 「시장(일본어 성경에는 광장으로 번역되어 있음)에서 문안 받는 것」이라고 되어 있는데, 이 「시장」은 영어 성경(KJV, RSV)이나 한국어 성경에서는 「시장」이라고 번역되어 있습니다. 즉 「많은 사람들이 생활물자를 찾아 모이는 장소」라는 뜻입니다. 서기관은, 자신의 긴 옷을 입고 그런 곳에 가서 「선생님」이라고 불리며 인사받기를 원했다는 것일 것입니다. 그들은 회당에서는 상석, 연회에서는 높은자리에 앉기를 바랐습니다. 이 상석, 높은자리라고 하는 것은 우리 예배당에는, 설교자와 사회자의 자리가 따로 마련되어 있지는 않습니다만, 많은 교회의 예배당에는, 설교강단의 양편에 설교자와 사회자의 자리가 마련되어 있습니다. 그런 권위 있는 자리를 떠올려 주시면 좋겠습니다. 그들은 그런 자리에 자진해서 앉기를 원했다는 것입니다. 마지막으로 「과부의 가산을 삼키며 외식으로 길게 기도 하는 이」라고 되어 있습니다. 과부는 남편이 없는 미망인을 말하는데, 어떻게 서기관이 과부의 가산을 삼켰는지 확실한 것은 알 수 없습니다. 율법에는 사회적 약자인, 과부와 고아에게는 경제적, 법적 보호가 주어지도록 정해져 있었습니다. 그런 교훈이 무시되고 있었다는 것이라고 생각합니다. 예를 들어 출애굽기 22장 21,22절을 보시기 바랍니다.

21 너는 이방 나그네를 압제하지 말며 그들을 학대하지 말라 너희도 애굽 땅에서 나그네였음이라

22 너는 과부나 고아를 해롭게 하지 말라

이러한 과부와 고아들에 대한 훈계는 신명기에서 더욱 구체화되고 강조됩니다. 이어서 신명기 10장 18절을 보시겠습니다.

고아와 과부를 위하여 정의를 행하시며 나그네를 사랑하여 그에게 떡과 옷을 주시나니

또한 신명기 26장을 보면, 십분의 일로 바치는 것을 레위인과 함께 받을 수 있는 자격도 주어졌습니다. 신명기 26장 12,13절을 참고하시기 바랍니다.

12 셋째 해 곧 십일조를 드리는 해에 네 모든 소산의 십일조 내기를 마친 후에 그것을 레위인과 객과 고아와 과부에게 주어 네 성읍 안에서 먹고 배부르게 하라

13 그리 할 때에 네 하나님 여호와 앞에 아뢰기를 내가 성물을 내 집에서 내어 레위인과 객과 고아와 과부에게 주기를 주께서 내게 명령하신 명령대로 하였사오니 내가 주의 명령을 범하지도 아니하였고 잊지도 아니하였나이다

율법에 따라 이 같은 경제적, 법적 보호가 약속됐음에도 불구하고 실제로는 과부와 고아는 착취당했던 것 같습니다. 그것은 이사야서 10방 1,2절을 보면 추측할 수 있습니다. 보시기 바랍니다.

1 불의한 법령을 만들어 불의한 말을 기록하며

2 가난한 자를 불공평하게 판결하여 가난한 내 백성의 권리를 박탈하며 과부에게 토색하고 고아의 것을 약탈하는 자는 화 있을진저

따라서 예수님이 서기관에 대해 지적하고 있는 것은, 과부의 궁핍이 분명했음에도 불구하고, 그 일에 일절 관심을 두지 않고 자기만을 생각하고 있었던 것이라고 생각합니다. 그들이 오래 기도하는 것은, 자신의 평판과 위상을 더욱 높이려는 의도에서였습니다. 하나님의 말씀을 소중히 여기는 유대의 사회에서 그 하나님의 말씀을 가르쳐주는 서기관이라는 직업이 존경받고 소중히 여겨지는 것은 자연스럽고 당연한 일입니다. 그러나 사람들의 말씀에 대한 존중이, 어느새 서기관 사이에서, 자신이 존중되고 중히 여겨지는 것을 요구하게 되어 버렸다는 것입니다. 그들의 죄란, 말씀을 가르치고, 약자를 돕고, 약자의 권리를 지키는 것을 지도하는 자리에 있으면서, 자신의 권리만을 생각하고 하나님의 율법을 뒷배로하여, 경건함을 가장하면서, 허영과 위선으로 가득 차 있었다는 점이 아닐까요. 그 죄는, 사람들로부터 세금을 많이 걷던 세금 징수인의 죄보다 더 나쁜 것으로 성경에 그려져 있습니다.

우리 마음속에도 남들로부터 중히 여김을 받고 싶고, 남들로부터 평가받고 싶은 마음이 조금이라도 있다면, 「서기관들을 삼가라」는 예수님의 말씀은 남의 일이 아니라는 것입니다. 매우 어려운 경고이지만, 사람들의 자신에 대한 평가나, 사람들과의 비교 속에서 살아온 영위로부터 자유로워지라고 예수님은 말씀하십니다. 거짓과 허영에 찬 걸음을 회개하라고 예수님은 권하시는 것입니다.

(2) 부족한 가운데

자, 41절부터는 장면이 바뀝니다. 당시 「새전함」, 즉 「헌금함」은 성전의 「여인의 뜰」에 13개가 설치되어 있었습니다. 그 형상은 나팔 모양이었습니다. 그림과 같습니다. 헌금은 화폐가 아니라, 주화로 바쳤기 때문에 금속 주화가 나팔 안을 굴러갈 때 큰 소리가 울렸던 것 같습니다. 헌금한 주위에는, 헌금함을 지키는 자와 구경꾼들에 의해 지켜지고 있었습니다. 예수님도 헌금함을 대하여 앉으사, 함께 그 모습을 지켜보고 계셨습니다. 많은 부자들이 많은 동전을 던졌습니다. 당시 경제적 풍요는, 하나님의 축복의 표시로 여겨졌으니 군중은 부자가 얼마나 하나님의 사랑을 받은 인물이며, 신앙심이 깊은 사람임에 틀림없다고 생각했을 것입니다. 거기에, 가나한 한 과부가 와서 두 렙돈을 바쳤다고 합니다. 과부라고 하는 것만으로도 가난을 연상시키지만, 오늘 41절부터 44절까지 「궁핍하다」, 「가난하다」라는 말이 반복되고 강조되고 있습니다. 렙돈 동전이란 가장 가치가 작은 화폐로, 렙돈 동전 두개가 로마 화폐 한 고드란트와 같았기 때문에 저자 마가는 로마인에게 설명하는 식으로 쓰고 있습니다. 덧붙여서 로마의 한 고드란트는 로마의 공중 목욕탕의 목욕료로 되어 있었습니다. 한 번의 목욕료가 한 고드란트라고 하는 것입니다. 우리 신공동번역성서(일본어 성경) 권말 페이지 53~55에 「도량형 및 통화」라는 표가 있습니다. 거기에 보면, 렙돈 동전은 한 데나리온의 1/128이라고 적혀 있습니다. 한 데나리온은 대략 하루의 일당으로 되어 있었기 때문에, 만일 일당을 1만엔이라고 하면, 한 렙돈은 78엔, 두 개에 156엔이라는 것이 됩니다. 그래서 가난한 과부는 이때 156엔 정도의 헌금을 했다는 것이 됩니다. 그 상황을 지켜보고 있던 사람들은, 이 헌금액수를 보고 어떻게 생각했을까요? 그러나 예수님은 이 과부의 헌금을 사람들이 보는 것처럼 보시지는 않으셨습니다. 제자들을 불러모아 다음과 같이 말씀하고 계십니다. 43,44절을 보시겠습니다.

43 예수께서 제자들을 불러다가 이르시되 내가 진실로 너희에게 이르노니 이 가난한 과부는 헌금함에 넣는 모든 사람보다 많이 넣었도다

44 그들은 다 그 풍족한 중에서 넣었거니와 이 과부는 그 가난한 중에서 자기의 모든 소유 곧 생활비 전부를 넣었느니라 하시니라

예수님에 따르면, 누구보다 적은 액수를 바쳤을 이 과부가 누구보다 많이 넣었다고 하십니다. 그 이유는 44절에 적혀 있는데, 44절에서 「풍족한 중에서」라는 말과 「가난한 중에서」라는 말이 대비를 이루고 있습니다. 부자는 「풍족한 중에서」, 즉 남아도는 가운데 바쳤는데, 과부는 「가난한」 가운데 바쳤다고 합니다. 「가난한 중에서」란 본래라면, 바칠 것이 아무것도 없었다는 것이 아닐까요? 오히려 사람들로부터 도움을 받아야 하는 상황입니다. 예수님은 과부에게 156엔이 생활비 전부임을 간파하셨습니다. 그럼에도 불구하고 과부는 생활비를 다 바쳤기 때문에 그래서 「모든 사람보다 많이 넣었도다」라고 말씀하신 것입니다. 우리들은 이 구절을 읽을 때, 어떻게 적용해야 하는지 고민을 할 것이라고 생각합니다. 성경은 결코, 공유재산제를 주장하지 않으며, 가진 재산을 모두 하나님께 바치라고 쓰여 있지 않기 때문입니다. 첫째, 과부는 왜 적어도 절반의 한 렙돈을 남겨 두지 않았던 것일까요? 이 후에 과부는 도대체 어떻게 된 것일까요? 성경에는 더 이상 기록되어 있지 않기 때문에 확실히는 알 수 없지만, 주해서를 보면, 유대인 회당에서, 가난한 사람들을 위한 음식 배포가 이루어졌으므로, 굶는 일은 없었을 것이라고 적혀 있었습니다(참고 사도행전 6장1~4절). 현대의 무료 급식 서비스 같은 것입니다.

왜 예수님은 「이 가난한 과부는 헌금함에 넣는 모든 사람보다 많이 넣었도다」라고 하셨는지, 이 의문에 대해 그것은 자신의 수입 대비 비율이 과분했기 때문에 그렇게 말씀하셨다고 어떤 사람은 말합니다. 그러나 비율에 관해서 말하자면, 바리새인이나 서기관이 날마다 사람들에게 어필하고 있던 점이기도 했습니다. 그들은 사람들로부터 칭찬과 명성을 얻기 위해 나는 이런 작은 수입의 1/10까지 바치고 있다고 목소리를 높였습니다. 그래서 아마도, 예수님은 여기서 비율을 말씀하시는 것은 아닌 것 같습니다. 단서로서 첫째, 「생활비」라고 번역되어 있는 헬라어 「바이오스」라는 말에 주목해 보겠습니다. 이 「생활비」라는 말은 「생명」이라든가 「삶」, 「생활」이라는 뜻입니다. 그래서 예수님은 과부의 헌금을 보시고 「생명」을 다 바친, 「삶」을 다 바친, 즉 하나님께 헌신한 것으로 해석하신 것입니다. 하나님께 헌신한다는 것은, 다 버리고 신학교에 간다는 것은 물론 아닙니다. 헌신이란 하나님께 모든 것을 맡기는 것, 하나님께 삶을, 생명을 바치는 것입니다. 아무쪼록 주님께, 이런 자신이라도 주님의 일에 사용해 달라고 기도하는 것입니다. 좀 더 알기 쉽게 말하면, “그 사람의 일상의 영위가 과연 하나님을 향하고 있는가, 사람을 향하고 있는가, 어느 쪽인가?”라는 것입니다. 부자들은, 자신들의 풍족한 중에서 사람들 앞에서 많은 헌금을 바쳤습니다. 그것은 서기관처럼 사람들의 눈을 의식했을 가능성이 있습니다. 예수님은 곧 십자가에서 자신의 목숨을 바치실 것입니다. 예수님은 우리를 목숨을 바쳐서 사랑해 주셨습니다. 그 십자가의 사랑을 잊지 말고, 우리의 하루하루의 영위는 하나님을 향해 바쳐져야 합니다.

두 번째 단서로, 이 가르침이, 제자들에게만 말씀하신 것이라는 것입니다. 제자들, 이윽고 교회의 지도자가 되는 제자들입니다. 반면 38절의 「서기관들을 삼가라」는 가르침은 누구에게 말했는지 한정 되어 있지는 않습니다. 일반 군중에 대해 이야기되었다고 생각합니다. 「서기관들을 조심하라」는 이 가르침이 군중을 향해 회자되고 있는 반면, 「이 가난한 과부는 그 가난한 중에서 자기의 모든 소유 곧 생활비 전부를 넣었느니라」는 가르침은 제자들에게만 회자된 것입니다. 이것이 의미하는 바는, 교회에서 결코 바쳐진 액수가 주목을 받아서는 안 된다는 것이라고 생각합니다. 단순히 헌금의 액수가, 그 사람의 하나님에 대한 헌신의 정도를 나타내는 것이 아니라는 것입니다. 비록 156엔일지라도, 자신의 모든 것을 바친 과부의 헌금이야말로 하나님에 대한 모든 헌신을 나타내는 것이라고 예수님은 가르치시는 것입니다. 미래의 교회 지도자들은, 그러한 헌금을 존중해야 합니다. 결코 이러한 헌금을 간과해서는 안 된다는 것이라고 생각합니다. 경우에 따라서 교회에서는, 은사가 풍부한 사람의 봉사나, 풍족한 중에서의 분배처럼 바쳐진 헌금을 한 사람들이 대접받는 일이 있을지도 모릅니다. 예수님께서는 교회에서 일어나는 그런 사태를 꿰뚫어 보고 계셨던 것입니다. 제자들에게 너희들, 교회 지도자는 금액이나 은사의 풍부함에 사로잡히지 말고 하나님을 향한 헌물, 하나님을 향한 봉사, 하나님을 향한 그 영위를 존중하라고 말씀하시고 있습니다.

결론

서기관과 가난한 과부의 대비 속에서 분명하게 나타난 것, 그것은 우리의 일상적인 삶이 사람을 향해 있는가, 하나님을 향해 있는가 하는 것이었습니다. 만약 우리의 영위가 하나님을 향하고 있다면, 우리의 일상의 영위 그 자체가 하나님에 대한 헌신, 하나님에 대한 헌물로 받아들여질 것입니다. 그리고 우리의 영위가 하나님을 향한 것이라면, 우리는 사람과의 비교에서 자유로워져, 주님의 사랑의 눈빛 속에서 가운데, 기뻐하며 사는 자가 됩니다. 과부는 156엔의 헌금을 했고, 그 금액이 사람들에게 알려졌다면 정말 부끄러운 생각을 했을지도 모릅니다. 하지만, 과부의 마음은 하나님을 향했고, 자기 자신의 삶을, 자기 자신의 생명을, 하나님께 바칠 수 있었던 것입니다. 가난은, 자기 자신을 바치는 데 결코 장애가 되지 않았습니다. 우리도 하루하루의 영위가 십자가에 의한 사랑을 보여주신 예수님을 향해, 그리고 우리의 하루하루의 영위가 예수님께 바쳐지는 삶이 될 수 있도록 걷는 자가 되도록 합시다.

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