2019年02月10日「ああ、エルサレム、エルサレム」

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ああ、エルサレム、エルサレム

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 23章34節~24章2節

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聖句のアイコン聖書の言葉

34だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。
35こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。
36はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」
37「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
38見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。
39言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」
1イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。
2そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 23章34節~24章2節

原稿のアイコン日本語メッセージ

「災いなるかな、律法学者たち、ファリサイ派の人々」ということで23章を学んできました。彼らの偽善とは何だったかと言いますと、文字の上では「仮面をかぶる」とか「演技をする」という意味ですが、実際は神さまを心の中心から追い出し、自分自身が代わりにその座に着くことを意味しました。彼らは、ついには預言者たちを殺すまでに至り、神さまの御心にことごとく反逆する姿を見せるようになります。普段から聖書を読み親しみ、神さまに最も近いと思われていた彼らが、なぜこのように道を外してしまうのでしょうか。彼らは、神の御心とは全く関係ないことを行い、神の宮を築き上げているかのように見えて、実は自分たちのバベルの塔を築き上げていたのです。

イエスさまは律法学者とファリサイ人に対し、「先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。」という辛辣な言葉を投げかけられました。これは、つまり、「どうぞご自由にやりたいことをして、悪事の升目を満たしてください」ということです。私たちに与えられている自由というものが、悪事を行うことの機会になっていないかよくよく注意しなければなりません。34節をご覧ください。

だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。

「預言者、知者、学者」とは、キリストの弟子たちを指しています。なぜそう言えるかというと、遣わされる弟子たちに対する悪事について、以前にも語らたことがあるからです。例えば、マタイ10:17、23節をご覧ください。(p18)

"人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。"

"一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。"

イエスさまがご自分の弟子たちを彼らに派遣するのは、彼らが遣わされた者を殺し、そしてある者を十字架につけ、ある者を会堂でむち打ちにして、町から町へと迫害することによって、ついに、自分たちの悪事の升目を満たすためだというのです。偽善者である律法学者とファリサイ人たちは、表面では預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしていますが、このようにイエスさまとイエスさまによって遣わされる弟子たちを迫害することによって、自分たちが、先祖たちがしたことと全く同じことをしていることを証明しているのです。

少し、話がそれますが、それでは、イエスさまが遣わすのであれば普通「使徒たちや弟子たちを遣わす」と言うふうになりそうなのですが、そうではなく、なぜ「預言者たち、知者たち、律法学者たち」を遣わすという言葉を使っているのでしょうか。特に34節の新共同訳には省略されていますがギリシャ語を直訳しますと、「だから、見よ、私こそ、預言者たち、知者たち、律法学者たちをあなたたちに遣わす」となっていて、「私が遣わす」ということが強調されています。この謎は、平行箇所のルカ福音書11:49を見れば解けます。(p130)

"だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』"

ルカでは、神の知恵が、つまり知恵なるお方が、預言者たち、知者たちを遣わすと書かれています。ですから、マタイ福音書において、神の知恵とは、まさに私、イエスさまご自身であると言っているのです。神の知恵が旧約の時代送り続けてきた預言者たちを殺し、そして、新約の時代弟子たちを殺してきたその罪悪が升目を満たしているということです。35節では彼らに対する審判が預言されています。

"こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。"

アベルの血と、ゼカルヤの血というのは、ヘブライ語聖書における最初と最後の殉教者という意味です。二人とも正しい人だったのですが、殺されて、彼らの無辜の血が地面に注がれることになり、その血が神さまに復讐を訴えています。創世記4:10をご覧ください。(p5)

"主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。"

続いて歴代誌下24:21-22(p703-704)

"ところが彼らは共謀し、王の命令により、主の神殿の庭でゼカルヤを石で打ち殺した。ヨアシュ王も、彼の父ヨヤダから寄せられた慈しみを顧みず、その息子を殺した。ゼカルヤは、死に際して言った。「主がこれを御覧になり、責任を追及してくださいますように。」"

ゼカルヤという人は神殿で仕える祭司でした。預言者ゼカリヤではありません。彼は驚くことに神殿の庭で、つまり、聖所と祭壇の間で殺されました。大胆にもイスラエルの指導者たちは、神の家で、聖なる場所で神様から遣わされた者を殺害することに、何の恐れを感じていなかったのです。このようにして旧約聖書において、神によって預言者が何度も何度も繰り返し列をなして順番に遣わされましたが、ことごとく殺されて、その地面に注がれた殉教の血が復讐を叫び求めているのです。そして特に升目が満たされたこの時代、律法学者たちとファリサイ派の人々に流された血の責任がふりかかってくるだろうと預言しているのです。

ここで、実際にはアベルを殺したのは彼らではなく、カインですが、彼らとカインの邪悪さとが大変似ていて、そして、あたかもカインを手本として預言者たちを次々と殺害してきたように見えるのです。これは、決して先祖たちの犯した罪の報いが今の時代だけに報いられるということではなく、先祖も当然、罰を受けますが、この時代には、特に偽善と反逆の升目が満たされたために、更に先祖からの罪も精算されて報いを受けるということです。イエスさまは「ああ、エルサレム、エルサレム」と嘆きつつも神の燃えるような怒りを吐露しています。エルサレムという名前の「平和の町」という意味ですが、平和の町どころか、泥棒の巣窟となってしまい、預言者の血を流す場所となり、神の教えが抹殺される町となってしまいました。37をご覧ください。

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」

私たちは普段気づかないかもしれませんが、イエスさまは私たちを、ひよこを集めるめんどりのような母性愛を持って私たちを、御自身の懐に集めてくださっているのです。これに対して罪びとは常に我が道を行こうとして、イエスさまの懐から抜け出すように頑強に、御心に反した行動をとるわけです。37節はイエスさまが何度も集めようと「欲する」のですが、お前たちは応じることを「欲しなかった」というふうに対句で書かれています。常に神の御心に反逆してしまうのです。少し余談ですが、ここの箇所は、救いが人間の自由意志にかかっているということではありません。彼らがイエスさまに反逆しなければ救いを得られ、反逆するなら遺棄されるということではなく、ただ神さまの「願い」が示されているということです。つまり、神さまは全ての人が救われることを欲しておられるということです。しかし、実際、私たちを有効に召し出そうとするためには、御言葉による外的な召しだけでは、私たちは神さまに正しく応答することはできません。つまり、私たちが自分で聖書を読んで、御言葉を理性によって理解するだけでは、決して悔い改めと信仰には導かれることはありません。そこには必ず聖霊を通した内的な導きが必要となり、聖霊を通して始めて有効な召命、つまり憐れみによる神の選びがなされるのです。ですから、37節の御言葉をもって神の永遠の計画が人間の自由意志によって変更されたり、左右されると考えてはなりません。続いて38節をご覧ください。

"見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。"

イエスさまが「お前たちの家」と語られるのは、もうこれ以上、神殿が「神の家」ではないということを暗示しています。そして神が神殿から離れてしまった事実を宣告しています。このような厳しい裁きは、律法学者とファリサイ人が豪華絢爛の神殿を無敵の要塞として見做し、そこで表面的な儀式だけを執り行い、不信仰と罪悪と暴虐によって、彼らの目は完全にくらんでしまったにも関わらず、自分たちは神様をしっかり捕まえていると勘違いしていたからです。もはや、彼らの信仰生活と、彼らの宗教は、神様とは全く関係のないものとなってしまいました。彼らの献身は神様への献身ではなく、自分の欲望に対する献身だったのです。そして神の宮を建て上げるのではなく、いよいよ、バベルの塔を高く積み上げるだけだったのです。39節をご覧ください。

"言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。"

「主の名によって来られる方に、祝福があるように」という言葉は、棕櫚の日曜日に巡礼者たちが子ロバに乗ったイエスさまに叫んだ言葉です。しかし、エルサレムの住民はこれはいったい何者だといぶかって、この群衆の讃美に一緒に加わることはありませんでした。しかし、そんな彼らもこの讃美を捧げざるを得ない時が来るのです。それは、イエスさまが再臨される時、今度は白馬に乗って来られるのですが、同じように棕櫚の葉を持って人々から迎えられる時です。その時、群衆は同じようにイエスさまに叫びますが、律法学者とファリサイ人たちは、あまりにも威厳あるイエスさまのお姿に、恐怖におののき震えながら「まことにあなたは神の子であられます」と泣き叫ぶことになるのです。つまり最後の審判の時までは、キリストは彼らのところへはもう来られないということです。

律法学者とファリサイ人たちは、当時においても神の救済を熱心に待望していました。毎日、詩編の言葉である、「ヤハウェの御名によって来られる方に祝福あれ」と讃美していました。しかし一方では、自分たちに提示された贖い主をあざけり、嘲弄し、十字架にかけてしまったのです。私たちも口先だけでそのお方に栄光を帰すのではなく、心から、イエスさまを王として、世のすべての権威をご自分の足元に置かれるようなお方として迎え入れなければならないということです。イエスさま一行が境内から出て行かれる時、弟子たちが振り向きざまに神殿の立派な建物を指さしました。この神殿とは、ヘロデ王によって大改修工事がなされたばかりです。歴史家ヨセフスの記録によれば、神殿の石一つの大きさが、横6.75m、縦3.6 m、高さ5.4 mもあったと言います。遠くから見ても誰もが感心するような立派な神殿です。それが破壊されるとは、まさか考えることは出来なかったでしょう。ところがイエスさまは、この神殿の破壊を預言されるのです。

「このすべての物に目を見張っているのでしょう。まことにあなた方に告げます。一つの石もここで崩されずに残ることはない。」

イエスさまがここから立ち去られてから、この神殿は、二度とイエスさまを迎え入れることはありませんでしたし、そして、紀元70年には、預言の通りローマによって完全に破壊されてしまいました。このようにして、神殿から、神の臨在も、キリストも、天使たちも去って行き、まったく廃墟と化してしまいました。今ではイスラム教の会堂となっています。以前、神の大きな恩寵によって絶頂を極め、一般の場所とは比較もできないほど、神の栄光を享受した場所が、忘恩背徳によって堕落することになれば、単純にその派手さを奪われるだけでなく、より一層、恥と非難を受けることになるのです。そして、神の恩寵と神の憐れみを台無しにしてしまい、かえって神さまに泥を着せることになってしまうのです。

私たちは、このことを通して与えられた自由の中で、わが道を歩いていき、気づいたときにはバベルの塔を築きあげていたということにならないよう気を付けなければなりません。そのために神の御心は何なのか常に祈ることが大事ですし、そして神によって贖われたこの人生を、御心を知らずに無駄にすることなく、さらにこの身体を通して神さまに献身していくことができるようにお祈りしていきましょう。

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