2024年05月19日「聖霊による洗礼 성령에 의한 세례」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千間台教会のホームページへ戻る

聖霊による洗礼 성령에 의한 세례

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
使徒言行録 2章1節~13節

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

2:1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2:2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
2:3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
2:4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
2:5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
2:6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
2:7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
2:8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
2:9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
2:10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、
2:11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
2:12人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
2:13しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 2章1節~13節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。(1:4-5)」主イエスは、このように約束され、弟子たちの前で天に挙げられました。そして天に挙げられてから十日目の五旬祭の日にこの約束が成就されます。「五旬祭」、ギリシア語で「ペンテコステ」と言いますが、この祭りはユダヤの三大祭りの一つでありました。過ぎ越しの祭りと仮庵の祭りが一週間続くのに対し、五旬祭は一日しか祝われませんでした。その日は必ず週の初めの日になるように設定されていました。なぜなら、ユダヤ人にとって毎週七日ごとに訪れる安息日が大変重要な意味を持ちますが、五旬祭とは、過ぎ越しの祭りを迎えて、最初の安息日を起点にして、七回の安息日を迎えた翌日、つまり、50日目の祭りであるためです(レビ23:15-16)。この祭りは、小麦の収穫をお祝いする祭りでもあり、過ぎ越し祭と違って、美味しい食事を食べることが許されており、その日は大変喜ばしく、陽気な祭りになったと言われています。本日はこの五旬祭の日に成就された出来事を通して、使徒言行録の御言葉から、共に恵みに与りたいと願います。2:1~2節をご覧ください。

【1】. 聖霊の降臨

“五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。”

「一同が一つになって」とあります。「一同」とは、15節にあるように、120人ほどの弟子たちを指していると考えられます。「家」とは、恐らく1:13で言及されている屋根裏部屋を指しているのでしょう。エルサレムで120人が一つに集まることができるほどの広い家ですから、この家の持ち主は裕福な弟子であったに違いありません。すると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえてきました。風とは普通、家の外で吹くものですが、ここでは、家の中で風のような音が聞こえたと言うのです。これは聖霊の降臨を表しています。ギリシア語で「風」、「息」、を意味するプノエーと、「聖霊」を意味するプニューマは、語源が同じだと言われており、また、聖書の中でも風は、聖霊を象徴するのに使用されています。例えば創世記2:7をご覧ください。

“主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。”

命の息とありますが、この「息」という言葉に、プノエーが使われています。続いてヨブ記32:8です。

“しかし、人の中には霊があり/悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。”

全能者の息吹とありますが、この「息吹」という言葉に、プノエーが使われています。最後にヨハネ福音書3:8をご覧ください。

“風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。”

「風」という言葉に、プノエーが使われています。このように、聖書の中で風(プノエー)、は聖霊を象徴するのに使用されているのが分かります。従いまして本日の「激しい風が吹いて来た」とは、五旬祭の日に、聖霊が天から降ったという事を意味しているのです。聖霊降臨の描写はさらに続きます。2:3~4をご覧ください。

“そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。”

今度は、「炎のような舌が別れ別れに現れた」とあります。なぜ舌の形が現れたのか不思議ですし、中々イメージがしにくい箇所でございます。火や炎は、神の臨在を表し、きよめと裁きの手段として、聖書の中に登場しますので、風と同じように、炎もやはり、聖霊を象徴する描写であると考えられます。また、舌(グローサ)という言葉ですが、4節において同じ言葉が出てきており、4節では「言葉」、「異言」と訳されています。ですから、ここで意味しているのは、聖霊が一同に臨み、聖霊に満たされた者たちは、他の国々の言葉で語り出す力が与えられたということなのだと思います。つまり2章1~4の記述は、主イエスが約束してくださった「聖霊の洗礼」が、「聖霊の満たし」が、五旬祭の日に成就されたということを意味しているのです。洗礼者ヨハネは次のように預言しました、「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、…その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。(ルカ3:16)」この御言葉が五旬祭の日に成就したのです。そして、それは、同時に、旧約聖書のヨエル書の御言葉の成就でもありました。ヨエル書3:1~2(ヨエル2:28-29)をご覧ください。

“その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。”

この預言は、終わりの日、終末の日の預言です。イエス・キリストの初臨によって、終末が始まり、すべての人に聖霊が注がれ、奴隷にも、男女にも、差別なく聖霊が注がれ、聖霊によって夢や幻を見るだろうという預言です。聖霊に満たされた弟子たちは、他の国々の言葉で語り出しました。ここで私たちが注意したいことは、所謂、「異言」というものは、コリント書第一に書かれているように、それは誰にも理解できない言語であり(1コリ14:2)、初心者が見ると、気が変になったと思うかもしれない現象(1コリ14:23)でありました。しかし、ここでは9節以降に国々のリストが挙げられているように、しっかり、聞き取ることのできる言葉で語られたということです。その点に注意を向けたいと思います。続いて2:5~8節をご覧ください。恐らく5節からは場所が変わり、家から神殿の庭に出て来たものと考えられます。

“さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。”

三大祭りの一つである五旬祭の日、エルサレムには、天下のあらゆる国々から帰って来たユダヤ人が滞在していました。当時、世界の様々な地域に離散していたユダヤ人は、その散らされた場所において共同体を形成していたのです。ディアスポラと呼ばれる人々です。その彼らの中で信心深い人々は、祭りのためにエルサレムにまで帰っていました。その彼らが、五旬祭に起こった出来事の証人となった訳です。今、目の前で、自分たちしか知らないはずの遠い国の言葉でしゃべっている弟子たちに遭遇したのです。まさかエルサレムで、自分たちの故郷の国の言葉を聞くとは、信じられなかったことでしょう。9節に挙げられている国々のリストは、エルサレムを中心に、東西南北のあらゆる地域に及ぶものでありました。そして語られた内容とは、11節にあるように、「神の偉大な御業について」語られたのです。人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言いました。一方で、「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と嘲る者もいたようです。この奇跡は、この時のみの、一回的なものでありました。つまり、この後、弟子たちが、それぞれしゃべれるようになった外国語を駆使して、それぞれの国々に伝道したということではありません。そういう意味で、ペンテコステの出来事とは、何か象徴的な意味を持っているのかもしれないのです。その象徴的な意味について、今日私たちは考えてみたいと思います。また、五旬祭に起こった聖霊の洗礼は、水の洗礼と何が異なるのかについても私たちは考えてみたいと思います。

【2】. ペンテコステの出来事の意味、水の洗礼と聖霊の洗礼の違い

五旬祭の出来事とは、一体何を象徴しているのでしょうか。私は、神の恵みによる回復を意味しているのだと思いました。そもそも人間は、最初一つの言語でありました。創世記11章にバベルの塔の物語が出てきますが、そこでは、人間が神に成り代わろうとし、天にまで届く塔を建設しようとした時に、神様は言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようにしたとあります。しかし、今、聖霊が臨み、回復が起こり、互いに通じないそれぞれの言葉の中で生まれ育った人々が、皆、同じことを聞いたのであります。その同じこととは、神の偉大な業についてでありました。即ちイエス・キリストの十字架と復活についてです。五旬祭に起こったこの出来事は、今後、イエス・キリストの福音が全世界に宣べ伝えられ、広められていくことの象徴ではないのでしょうか。

それでは、洗礼者ヨハネが言ったように、水の洗礼と聖霊の洗礼の違いとは何なのでしょうか。水の洗礼と聖霊の洗礼の違いを考える上で、最初に抑えておきたいこととして、聖霊の洗礼とは、他国の言葉を語るようにされること、或いは、恍惚状態になって異言を語るようにされることではありません。なぜなら、他国の言葉を語るようにされたのは、この時一回きりの出来事でありましたし、異言の賜物ですとか、弟子たちを通してなされた数多くの奇跡も、次第に止んでいったからであります。

水の洗礼と聖霊の洗礼の違いとは、恵みの外的手段と、恵みの内的手段の違いであります。どういうことかと申しますと、恵みの外的な手段とは、神様の御言葉である聖書であり、また、私たちが礼拝の中に行っている礼典であります。礼典の中には、水の洗礼と、聖餐式がありますね。神の恵みそれ自体は、イエス・キリストの従順による功労でありますが、その恵みを受け取るための外的な手段が、御言葉であり、礼典であるということです。しかし、その外的手段とは、あくまで外的なしるしや印に過ぎません。外的な手段を担保するのが、内的なしるしや印である聖霊の洗礼(エフェ1:13-14)であると言えるでしょう。この聖霊の洗礼は、五旬祭以降、信じる者、全てに与えられるようになりました。そして、聖霊の洗礼は、必ずしも、水の洗礼を受けた後に起こるということではありません。水の洗礼を受けていなくても、聖霊の洗礼を受けて、その後に、水の洗礼に導かれることもあります。例えば、ダマスカスの途上で、突然回心したパウロがその一例であり、また、異邦人のコルネリウスもその一例であります。

聖霊の洗礼により、弟子たちにおいて、誰の目にも明らかな、ある変化が内側からもたらされました。その変化とは何かと申しますと、イエス・キリストの十字架と復活の意味を正しく理解するようにされたという事です。これまで弟子たちは、十字架の事件の後に、イエス様が復活したという知らせを聞いても、その真の意味に到達することが出来ず、依然としてユダヤの当局者たちを恐れ、迫害を恐れていました。ところが、使徒言行録を見ると分かりますが、聖霊を注がれて以降、弟子たちにおいて、今までになかったような大胆さが与えられ、神の御業を語る者たちへと変えられたのです。イエス・キリストの十字架と復活を証言する者たちへと変えられ、神の愛を宣言する者に変えられました。さらに言えば、主の苦難に、共に与ることを喜びとさえ考えるように変えられたのです。聖霊が注がれた以降の彼らは、これ迄とは全く違う、新しい人に生まれ変わったのです。これまでの古い命は、聖霊によってキリストと共に十字架で葬られ、新しく生まれ変わったのです。弟子たちは聖霊の導きに従い、聖霊の事柄を考え、聖霊の臨在の中で祈り、聖霊を通じて、自分たちが神の子とされたこと、罪赦され、神と和解し、神の愛を知り、自分たちの未来に備えられている栄光を確信する者とされました。言い換えるなら、聖霊が注がれたことによって、イエス様との結びつきが、イエス様と共に生活していた時よりも、さらに緊密にされたということでありましょう。神の第三位格である聖霊は、私たちにとって、とても分かり難い神様でありますが、交わりの霊、コイノニアの霊であり、恵みの内的で、核心的な手段であると理解してください。私たちに、キリストとの交わりを与えてくださるのが聖霊の働きであります。私たちに、御父との交わりを与えてくださるのが、聖霊の働きであります。いずれにしても、聖霊の洗礼がなければ、教会の歩みは始まらず、聖霊の洗礼がなければ、私たちは、「父なる神よ」と祈ることもできず、聖霊の洗礼がなければ、真理であるイエス・キリストを知ることが出来ないのです。

【結論】

聖霊の洗礼を受けていない教会はございません。聖霊の洗礼を受けていない信仰生活は考えられません。イエス・キリストが初臨されて、終末の日が始まって以降、イエス様を信じるに者には誰にでも聖霊の洗礼が与えられ、聖霊が内住するようになるのです。教会の主はイエス様でありますね。私たちせんげん台教会は、牧師の教会でなければ、役員たちの教会でもありません。イエス様の教会であります。そのことをはっきり実感させてくださるのが、聖霊の働きなのです。教会の主であるイエス様は、この地に、せんげん台教会を立ててくださいました。これからも教会の主であるイエス様は、聖霊を通して、せんげん台教会の宣教の働きを導いてくださることでしょう。私たちは聖霊によって主のビジョンと夢と幻を頂き、聖霊によって主に仕え、聖霊によって神の偉大な御業を語る者とならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

성령에 의한 세례

2024년 5월19일 센겐다이교회 성령강림주일설교 카와에 토모아키목사

사도행전2장 1~13절

서론

「예루살렘을 떠나지 말고 내게서 들은 바 아버지께서 약속하신 것을 기다리라 요한은 물로 세례를 베풀었으나 너희는 몇 날이 못되어 성령으로 세례를 받으리라 하셨느니라(사도행전1장 4,5절)」주 예수님은 이렇게 약속하셨고 제자들 앞에서 하늘로 승천하셨습니다. 그리고 하늘로 승천하신지 열흘째인 오순절날에 이 약속이 성취됩니다. 「오순절」, 헬라어로 「펜테코스테」라고 하는데 이 절기는 유대의 3대 절기중 하나였습니다. 유월절 축제와 초막절이 일주일간 계속 되는 것에 비해서 오순절은 하루밖에 축하되지 못했습니다. 그날은 반드시 주 초하루가 되도록 설정되어 있었습니다. 왜냐하면, 유대인들에게 매주 7일마다 찾아오는 안식일이 매우 중요한 의미를 가지고 있는데, 오순절이란, 유월절을 맞아 첫 안식일을 기점으로 하여 일곱 번의 안식일을 맞이한 다음날, 즉, 50일째의 축제이기 때문입니다(레위기 23장 15,16절). 이 절기는 밀 수확을 축하하는 축제이기도 하고, 유월절과 달리 맛있는 식사를 하는 것이 허용되어 있어, 그날은 매우 기쁘고 쾌활한 축제가 되었다고 합니다. 오늘은 이 오순절 날에 성취된 일들을 통해, 사도행전의 말씀에서 함께 은혜를 얻었으면 합니다. 2장 1,2절을 보시겠습니다.

(1) 성령의 강림

1오순절 날이 이미 이르매 그들이 다같이 한 곳에 모였더니

2 홀연히 하늘로부터 급하고 강한 바람 같은 소리가 있어 그들이 앉은 온 집에 가득하며

「그들이 다같이 한 곳에 모였더니」라고 되어 있습니다. 「그들」이란, 사도행전 1장 15절에 나와 있는 것처럼 백이십 명 정도의 제자들을 가리키는 것으로 보입니다. 집이란 아마도 1장 13절에 언급된 다락방을 가리키는 것일 겁니다. 예루살렘에서 백이십 명이 한데 모일 수 있을 정도로 넓은 집이니 이 집의 주인은 부유한 제자였음에 틀림없습니다. 그러자 홀연히, 하늘로부터 급하고 강한 바람 같은 소리가 들려왔습니다. 바람이란 보통, 집 밖에서 부는 것인데, 여기서는 집 안에서 바람 같은 소리가 들렸다고 하는 것입니다. 이것은 성령의 강림을 나타냅니다. 헬라어로 「바람」 「숨」을 뜻하는 「푸노에」와 「성령」을 뜻하는 「푸뉴마」는, 어원이 같다고 알려져 있고, 성경에서도 바람은, 성령을 상징하는 데 사용되고 있습니다. 예를 들면 창세기 2장 7절을 보시기 바랍니다.

여호와 하나님이 땅의 흙(아다마)으로 사람(아담)을 지으시고 생기를 그 코에 불어넣으시니 사람이 생령이 된지라

생기라고 합니다만, 이 「생기」라는 말에 프노에가 사용되고 있습니다. 이어서 욥기 32장 8절입니다.

그러나 사람의 속에는 영이 있고 전능자의 숨결이 사람에게 깨달음을 주시나니

「전능자의 숨결」이라고 하는데, 이 「숨결」이라는 말에 프노에가 사용되고 있습니다. 마지막으로 요한복음 3장 8절을 보시기 바랍니다.

바람이 임의로 불매 네가 그 소리는 들어도 어디서 와서 어디로 가는지 알지 못하나니 성령으로 난 사람도 다 그러하니라

「바람」이라는 말에, 프노에가 쓰이고 있습니다. 이처럼 성경에서 「바람」은 성령을 상징하는데 사용되는 것을 알 수 있습니다. 따라서 오늘의 「강한 바람 소리가 있어」라는 것은 펜테코스테의 날 성령이 하늘에서 내려오셨다는 것을 의미합니다. 성령강림의 묘사는 계속해서 이어집니다. 2장 3,4절을 보시겠습니다.

3 마치 불의 혀처럼 갈라지는 것들이 그들에게 보여 각 사람 위에 하나씩 임하여 있더니

4 그들이 다 성령의 충만함을 받고 성령이 말하게 하심을 따라 다른 언어들로 말하기를 시작하니라

이번에는 「불의 혀처럼 갈라지는 것들이 그들에게 보여」라고 쓰여 있습니다. 왜 혀의 모양이 나타났는지 신기하고, 좀처럼 이미지를 떠올리기 어려운 부분입니다. 불이나 불꽃은, 하나님의 임재를 표현하고, 정결과 심판의 수단으로서, 성경 속에 등장하기 때문에 바람과 마찬가지로, 불꽃 역시, 성령을 상징하는 묘사라고 생각됩니다. 또 「혀」라는 말인데요, 4절에서 같은 말이 나오고 있고, 4절에서는 「말」, 「다른 언어들」이라고 번역되어 있습니다. 그래서 여기서 의미하는 것은 성령이 그들에게 임하고, 성령충만함을 받은 자들은, 다른 언어들로 말할 수 있는 능력이 주어졌다는 것이라고 생각합니다. 즉 2장 1~4절의 서술은, 주 예수님께서 약속하신 「성령으로 세례」가, 「성령충만」이, 오순절의 날에 성취되었다는 것을 의미하는 것입니다. 세례 요한은 다음과 같이 예언했습니다. 「요한이 모든 사람에게 대답하여 이르되 나는 물로 너희에게 세례를 베풀거니와 나보다 능력이 많으신 이가 오시나니 나는 그의 신발끈을 풀기도 감당하지 못하겠노라 그는 성령과 불로 너희에게 세례를 베푸실것이요(누가복음 3장 16절)」이 말씀이 오순절에 성취된 것입니다. 그리고 그것은, 동시에 구약성경의 요엘서 말씀의 성취이기도 했습니다. 요엘서 2장 28,29절을 참고하시기 바랍니다.

28 그 후에 내가 내 영을 만민에게 부어 주리니 너희 자녀들이 장래 일을 말할 것이며 너희 늙은이는 꿈을 꾸며 너희 젊은이는 이상을 볼 것이며

29 그 때에 내가 또 내 영을 남종과 여종에게 부어 줄 것이며

이 예언은, 마지막날, 종말의 날의 예언입니다. 예수・그리스도의 초림으로, 종말이 시작되고 모든 사람에게 성령이 부어지며, 남종과 여종에게도 차별 없이 성령이 부어질 것이며, 성령으로 인해 꿈과 환상을 볼 것이라는 예언입니다. 성령충만함을 받은 제자들은, 다른 언어로 말하기 시작했습니다. 여기서 우리가 주의하고 싶은 것은, 이른바 「다른 언어(방언)」라고 하는 것은 고린도서전서에 쓰여 있는 것처럼, 그것은 아무도 이해할 수 없는 언어이며, 믿지 아니하는 자들이 보면, 미쳤다고 생각할지도 모르는 현상(고린도전서 14장 23절)이었습니다. 하지만 여기서는 9절 이후에 나라들의 목록이 거론되고 있듯이, 잘 알아들을 수 있는 말로 이야기되었다고 합니다. 그 점에 주의를 기울이고 싶습니다. 이어서 2장 5~8절을 보시겠습니다. 아마도 5절부터는 장소가 바뀌어, 집에서 성전 마당으로 나온 것으로 보입니다.

5 그 때에 경건한 유대인들이 천하 각국으로부터 와서 예루살렘에 머물러 있더니

6 이 소리가 나매 큰 무리가 모여 각각 자기의 방언으로 제자들이 말하는 것을 듣고 소동하여

7 다 놀라 신기하게 여겨 이르되 보라 이 말하는 사람들이 다 갈릴리 사람이 아니냐

8 우리가 우리 각 사람이 난 곳 방언으로 듣게 되는 것이 어찌 됨이냐

3대 절기 중 하나인 오순절의 날, 예루살렘에는 천하의 모든 나라에서 돌아온 유대인들이 머물고 있었습니다. 당시, 세계 여러 지역에 흩어져 있던 유대인들은, 그 흩어진 곳에서 공동체를 형성하고 있었습니다. 「디아스포라」라고 불리는 사람들입니다. 그들 중 신앙심이 깊은 사람들은, 절기를 지키기 위해 예루살렘까지 왔습니다. 그들이, 오순절에 일어난 일의 증인이 된 셈입니다. 지금, 눈 앞에서, 자신들밖에 모를 먼 나라 말로 말하고 있는 제자들과 조우한 것입니다. 설마 예루살렘에서, 자신들의 고향 나라 말을 듣다니, 믿을 수 없었을 것입니다. 9절에 언급된 국가들의 목록은 예루살렘을 중심으로, 동서남북의 모든 지역에 걸쳐 있었습니다. 그리고 말한 내용은, 11절에 나와 있는 것처럼, 「하나님의 큰 일에 대하여 말함」인 것입니다. 사람들은 모두 놀라고, 당황하며, 도대체 이게 무슨 일이냐고 서로 말했습니다. 한편 「그들이 새 술에 취하였다」고 조롱하는 사람도 있었습니다. 이 기적은, 이 때뿐인, 일회성이었습니다. 즉, 그 후, 제자들이, 각자 말하 수 있게 된 외국어를 구사해서, 각 나라에 전도했다는 것은 아닙니다. 그런 의미에서, 펜테코스테의 사건이란, 무엇인가 상징적인 의미를 가지고 있을지도 모릅니다. 그 상징적인 의미에 대해서, 오늘 저희는 생각해보도록 하겠습니다. 또 오순절에 일어난 성령세례는, 물세례와 무엇이 다른가에 대해서도 우리는 생각해 보도록 하겠습니다.

(2) 오순절 사건의 의미, 물세례와 성령세례의 차이

오순절의 사건은, 도대체 무엇을 상징하고 있는 것일까요. 저는, 하나님의 은혜에 의한 회복을 의미하고 있다고 생각했습니다. 애초에 인간은, 처음에 하나의 언어였습니다. 창세기 11장에 바벨탑 이야기가 나오는데, 그곳에서는 인간이 신이 되려고 하늘까지 닿는 탑을 건설하려고 할 때, 하나님은 말을 혼란스럽게 하고, 서로의 말을 알아듣지 못하게 하셨다고 합니다. 그러나 지금, 성령이 임하고, 회복이 일어나, 서로 통하지 않는 각각의 언어 가운데에서 태어나고 자란 사람들이, 모두 같은 것을 들은 것입니다. 그 같은 일이란, 하나님의 큰 일에 관한 것이었습니다. 즉 예수・그리스도의 십자가와 부활에 대해서입니다. 오순절에 일어난 이 일은 앞으로 예수・그리스도의 복음이 전 세계에 널리 퍼지게 되는 것의 상징이 아닐까요?

그렇다면 세례 요한이 말한 것처럼, 물세례와 성령세례의 차이점은 무엇일까요? 물세례와 성령세례의 차이를 생각할 때, 가장 먼저 염두에 두고 싶은 것은, 성령세례란, 다른 나라의 말을 하게 되는 것, 혹은, 황홀한 상태가 되어 다른 언어, 방언을 말하게 되는 것이 아닙니다. 왜냐하면, 다른 언어로 말을 하게 된 것은, 이때 일회성으로 일어난 일이었고, 다른 언어의 은사라든가, 제자들을 통해 이루어진 수많은 기적들도, 점차 멈춰갔기 때문입니다.

물세례와 성령세례의 차이는, 은혜의 외적 수단과, 은혜의 내적 수단의 차이입니다. 무슨 말인지 말씀드리자면, 은혜의 외적인 수단이란, 하나님의 말씀인 성경이요, 또 우리가 예배 안에서 행하고 있는 성례전입니다. 성례전 중에는, 물세례와 성찬식이 있습니다. 하나님의 은혜 그 자체는, 예수 그리스도의 순종에 따른 공로인데, 그 은혜를 받기 위한 외적인 수단이, 말씀이요, 성례전이라는 것입니다. 그러나 그 외적 수단이란, 어디까지나 외적인 것이며, 외적인 표시와 인에 지나지 않습니다. 외적인 수단을 담보하는 것이, 내적인 표시나 표시인 성령의 세례(엡 1:13-14)라고 할 수 있습니다. 이 성령세례는 오순절 이후, 믿는 자, 모두에게 주어지게 되었습니다. 그리고 성령세례는, 반드시 물세례를 받은 후에 일어난다는 것은 아닙니다. 물세례를 받지 않았더라도, 성령세례를 받고, 그 후에 물세례에 이끌리기도 합니다. 예를 들면 다메섹 도상에서 갑자기 회심한 바울이 그 한 예이고, 또 이방인 코르넬리우스도 그 한 예입니다.

성령세례를 받은 제자들에게 있어서, 누구의 눈으로 보기에도 분명한, 어떤 변화가 안에서 야기됐습니다. 그 변화란 무엇이냐면, 예수 그리스도의 십자가와 부활의 의미를 바르게 이해하게 되었다는 것입니다. 그동안 제자들은, 십자가 사건 이후에, 예수님이 부활하셨다는 소식을 듣고도, 그 참뜻에 도달하지 못했고, 여전히 유대 당국자들을 두려워하며, 박해를 두려워했습니다. 그런데, 사도행전을 보면 알겠지만, 성령충만을 받은 이후, 제자들에게는 지금까지 없었던 담대함이 주어져, 하나님의 일을 말하는 자들로 바뀌었습니다. 예수・ 그리스도의 십자가와 부활을 증언하는 자들로 바뀌었고, 하나님의 사랑을 선언하는 자들로 바뀌었습니다. 더 말하면, 주님의 고난에, 함께 동참하는 것을 기쁨으로까지 생각하도록 바뀌어진 것입니다. 성령이 부어진 이후의 그들은, 지금까지와는 전혀 다른, 새로운 사람으로 거듭난 것입니다. 지금까지의 옛사람은, 성령에 의해 그리스도와 함께 십자가에 못 박혀, 새롭게 태어난 것입니다. 제자들은 성령의 인도에 따라, 성령의 일을 생각하고 성령의 임재 속에서 기도하며 성령을 통해 자신들이 하나님의 자녀로 여겨진 것, 죄 용서받고 하나님과 화해하여, 하나님의 사랑을 알고, 자신들의 미래에 준비된 영광을 확신하는 자로 여겼습니다. 바꿔 말하자면, 성령이 부어짐에 따라, 예수님과의 유대가, 예수님과 함께 생활할 때보다 더 긴밀해졌다는 것일 것입니다. 하나님의 제 3위격인 성령은, 우리에게 매우 이해하기 어려운 하나님이지만, 교제의 영, 코이노니아의 영이며 은혜의 내적이고, 핵심적인 수단으로 이해해 주시기 바랍니다. 우리에게, 그리스도와 교제할 수 있도록 도와 주시는 것이 성령의 기능입니다. 우리에게 아버지와의 교제를 주시는 것이 성령의 역사입니다. 어쨌든, 성령 세례가 없으면, 교회의 발걸음은 시작되지 않고, 성려의 세례가 없으면, 우리는, 「아버지 하나님」이라고 기도할 수도 없고, 성령의 세례가 없으면 진리이신 예수 그리스도를 알 수 없는 것입니다.

결론

성령세례를 받지 않은 교회는 없습니다. 성령세례를 받지 않은 믿음 생활은 생각할 수 없습니다. 예수・그리스도가 초림하시고, 종말의 날이 시작된 이후로, 예수님을 믿는 자에게는 누구에게나 성령세례가 주어져, 성령이 내주하게 되는 것입니다. 교회의 주인은 예수님이시네요. 우리 센겐다이교회는, 목사의 교회가 아니며 임원들의 교회도 아닙니다. 예수님의 교회입니다. 그것을 확실히 실감하게 해 주시는 것이 성령의 작용인 것입니다. 교회의 주인이신 예수님께서는, 이 땅에, 센겐다이교회를 세워주셨습니다. 앞으로도 교회의 주인이신 예수님께서는, 성령을 통해, 센겐다이교회 선교의 일을 이끌어 주실 것입니다. 우리는 성령님으로 인해 주님의 비젼과 꿈과 환상을 받고, 성령님안에서 주님을 섬기며, 성령님으로 하나님의 큰 일을 말하는 자가 되도록 합시다.

関連する説教を探す関連する説教を探す