2024年05月05日「愛の教え 사랑의 가르침」

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愛の教え 사랑의 가르침

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 12章28節~34節

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聖句のアイコン聖書の言葉

12:28彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
12:29イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
12:30心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
12:31第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
12:32律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
12:33そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
12:34イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 12章28節~34節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

モーセの律法には、613個の戒めが書かれているとユダヤのラビたちは主張していました。そのうち、248個は「~せよ」という肯定的な命令であり、残りの365個は「~するな」という否定的な命令でした。それでは、この613個の戒めの中で、最も重要な戒めは何か?という質問に対してイエス様は何と答えられたでしょうか。イエス様は「神を愛すること、そして隣人を自分のように愛すること」とお答えになりました。つまり、律法には愛の教えという一本の筋道がはっきり示されているとお答えになったのです。本日もマルコによる福音書12章の御言葉から、共に恵みに与りたいと思います。

【1】. シェマの御言葉と黄金律

12:28節をご覧ください。

“彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」”

一人の律法学者が進み出ました。この日、イエス様のもとにやって来た第三の質問者であり、そして最後の質問者であります。「彼らの議論を聞いて」とありますが、彼らの議論とは、第一に、ファリサイ派とヘロデ派の数人による質問で、皇帝へ税金を納めるべきかどうかについての議論でした。第二は、サドカイ派の人々による質問で、復活したときレビラート婚をした女は、一体誰の妻になるのかについての議論でした。そして、第三の質問者である律法学者が「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と尋ねているのです。「どれが第一か」という言葉は、「どれが最も重要か」という意味です。これまでの罠に陥れるような質問者とは異なり、おそらく彼は純粋な動機から質問しているようです。イエス様は彼の質問に対して、単刀直入に次のように答えられました。29~31節をご覧ください。

“イエスはお答えになった。「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めはこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる戒めはほかにない。」”

ここでイエス様のお答えは、二つの御言葉を組み合わせています。二つの御言葉とは、申命記6章の御言葉とレビ記19章の御言葉であり、両方とも愛の教えでありました。これらの教えは、実はユダヤ人にとって大変馴染のある御言葉であり、そして大変ユダヤ的な教えでもありました。最初に申命記6:4-5を調べてみましょう。

“聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。”

この御言葉は皆様もご存じの有名な御言葉です。「聞け、イスラエルよ」という言葉で始まっていて、ヘブライ語では、「シェマ イスラエル」となっています。その後に「ヤハウェ エロヘヌー ヤハウェ エハード(私たちの神ヤハウェ、ただ一人のヤハウェ)」という言葉が続いています。この有名な申命記の御言葉とイエス様のお答えを細かく比べてみますと、申命記の方は「①心を尽くし、②魂を尽くし、③力を尽くして」となっています。この単語は英語の聖書では、「①心を尽くしheart、②魂を尽くしsoul、③力を尽くしてstrength」となっています。ところが、イエス様の教えは、「①心を尽くしheart、②魂を尽くしsoul、思いを尽くしmind、③力を尽くしてstrength」となっていて、「思いを尽くしてmind」という言葉が付け加えられています。神様を愛する方法において、「思いを尽くして」が付け加えられているのです。この「思い」という言葉は、考えて、理解する理性的な働きを指していますが、人間の知識や科学、学問なども、神を愛することのために用いられるべきだという事なのでしょう。私たちが御言葉をよく調べ、学問として研究することによって、神様のことをさらに愛することが勧められているということです。当時、ユダヤ人であれば、誰でもこの申命記6章のシェマの御言葉を、朝と夕に繰り返し唱えていました。現在においてもユダヤ人は、この御言葉を入れた黒い小箱を、腕や額に結わえて忘れないようにしたり、或いは玄関の脇に小さな筒を設置して、その中にこの御言葉を入れて、大切にしているほどです。ですから、ユダヤ人であれば、このお答えに異議を唱える者はいなかったことでしょう。続いてレビ記19:18をご覧ください。

“復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。”

このレビ記の御言葉の後半部分である「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という箇所を、イエス様は引用していますが、この御言葉は、所謂「黄金律」と呼ばれる格言を、少し違う言葉に言い換えたものでありました。黄金律は何かといいますと、マタイによる福音書7:12や、ルカによる福音書6:31にも出てきます。マタイによる福音書7:12をお読みします。そのままお聞きください。

“だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。”

「他人からしてもらいたいと思うことは何であれ、あなたがたも人に対してそれを行いなさい!」或いは、「あなたが嫌なことを、隣人に対して行うな!」これが、黄金律という格言です。日本では、「他人に迷惑をかけるな」という言葉が、黄金律のようになっていますね。このユダヤの黄金律を違う言葉で表現したものが、イエス様引用されたレビ記の御言葉です。即ち、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」であります。黄金律も、シェマの御言葉と同じように、ユダヤ人であれば、誰でも常識として守っていた御言葉でありました。ですから、イエス様が、このシェマの御言葉と、黄金律を変形させた御言葉の二つにまさるものは他にないと、おっしゃった時、つまり、神を愛する戒めと、隣人を愛する戒めにまさるものはないと、おっしゃった時、律法学者は賛同する他なかったのです。ここにおいて、私たちが心に留めたいことは、イエス様の律法の理解が、大変ユダヤ的であり、律法学者も認める内容であったということです。イエス様は禁欲主義者ではなく、ご自分の弟子たちに結婚を禁じたり、食べ物・飲み物を断つことを教えたりはしませんでしたが(ファリサイ派は週に二度断食をしていた)、それは、決してモーセ律法を廃止するためではありませんでした。或いは、時折、安息日についても普通のユダヤ人とは異なる見解を持っていて、モーセの律法を独特に解釈するということがありましたが、それもやはり、律法を廃止するためではありませんでした。むしろ、イエス様はご自身を律法の下に置かれ、律法全体を堅持され、律法を霊的に理解することによって、律法学者やファリサイ派の人々にまさる義を熱望されたのであります。イエス様は、まさに律法の一点、一画を、一つも違わずに、ご自身において成就されるために来られたのでありました。

【2】. よく、答えてくださいました

さて、イエス様のお答えに賛同した律法学者は、ただ賛同するだけではなく、積極的に支持し、イエス様を喜んでいるようにも見えます。32節の「先生、おっしゃるとおりです」という言葉は、「先生、よく、おっしゃいました。」「先生、よく、答えてくださいました」と翻訳することができるからです。さらに彼は、御言葉を補充しながら、イエス様のお答えに賛同しましたが、この時、律法学者が喜びながら首を縦に振って相槌を打っているような様子が私たちに容易に想像されるのです。32~33節をご覧ください。

“律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」”

律法学者が、補充している御言葉は、サムエル記上15章22節の御言葉か、ホセア書6章6節の御言葉であると思われます。最初にサムエル記15:22です。そのままお聞きください。

“サムエルは言った。「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。”

続いてホセア6:6です。そのままお聞きください。

“わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。”

律法学者いずれの御言葉を引用したにせよ、ここでイエス様と律法学者の波長がピッタリとあっているということに注目してください。イエス様と律法学者の双方において、愛が重要であること、律法とは究極的に「愛の教え」である事に一致しているのです。イエス様は、適切な答えをした律法学者をご覧になり、34節において「あなたは神の国から遠くない」と言われました。普段、ファリサイ派や律法学者に対して辛辣な言葉で叱責をされるのとは、大違いです。この律法学者に限っては、「あなたは神の国から遠くない」と言われたのです。あと一歩だ!という事なのでしょう。職業上、律法学者とは聖書の御言葉を学問的に研究しています。御言葉を科学的に研究すれば研究するほど、神の御言葉が真理であるということに悟りが与えられるということなのだと思います。日々、聖書の御言葉から新しい発見が与えられ、驚きと共に、これまで持っていた御言葉に対する見方が変えられて、今まで以上に、御言葉を敬うようになり、今まで以上に、御言葉を愛するようになり、信仰へ導かれるのだと思います。34節の最後には「もはや、あえて質問する者はなかった」と書かれています。これまで、イエス様の批判者たちが次々と現れてきましたが、イエス様の驚くべき知恵によって全て論破され、今やイエス様が完全に主導権を握ったということが明らかにされているのです。

【適用】

さて、本日の御言葉から私たちは何を適用することができるでしょうか。イエス様のお答えにより、律法の中で最も重要な戒めとは、「神を愛することと、隣人を愛すること」であることが分かりました。律法全体は、「神を愛し、隣人を愛しなさい」という教えに要約されるということです。しかし、罪びとである私たちは、この戒めを前にして、一つのシミもなく、潔白に立ち続けることは出来ないのであります。なぜなら、私たちは、誰もが利己的であり、どうしても自分を愛することを優先させてしまうからです。私たちは、死ぬまで自分のことだけしか考えられないからです。例えば、有名なスポーツ選手が慈善活動のために大きな寄付金を捧げたと仮定いたしましょう。その行い自体は、立派で、大変素晴らしいことですが、その行いは、果たして、神の前に義の行い、義しい行いとして受け入れられるでしょうか。決して受け入れられることはありません。なぜなら、寄付金を捧げたその動機を調べるなら、隣人を愛するという動機から完全に出たものではなく、自分自身がスポットを浴びるため、注目を受けるため、或いは自分が所属している業界を盛り上げるためなど、律法の教える「神の愛と隣人愛」以外の様々な動機が入り混じっているからです。そして、それらの様々な動機とは、結局のところ、自己愛と結びついているのです。ですから私たち罪びとの捧げる良き行いというのは、それ自体では、決して義の行いとして神の御前に受け入れられるものではないのです。それでは一体私たちはどうしたらいいのでしょうか。

世界中で唯一、モーセの律法を、即ち「愛の教え」を守り通された方がおられます。イエス・キリストです。イエス様は完全に自己否定され、私たち罪びとのために十字架に掛かられ、命を捧げられました。神の子であられるイエス・キリストこそ、「愛の教え」を全うされ、私たちにその模範を示してくださったのです。

“「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(1ヨハネ4:9)”

私たちは悔い改めて、信仰によって主イエスにあって新しく生まれ変わることにより、キリストの獲得された義が私たちに転嫁され、私たちは永遠の命に入れられるのです。キリストにあって新しく生まれ変わった者たちは、心のきよめをいただき、キリストの御足に従い行く、キリストの弟子へと変えられるのです。そうしますと、聖霊の働きにより、これまで、私たちは自己否定できないものでありましたが、信仰によって自己否定できるものへと変えられるのであります。不思議なことに、これまで、私たちはイエス様に信頼し、イエス様に献身することは出来ませんでしたが、信仰によってイエス様に献身する者へと変えられるのです。これまで、私たちは自分の十字架を負うことなど、とても出来ない者でしたが、信仰によって自分の十字架を負う者へと変えられるのです。これまで、私たちは自分の財産や、自分の結婚のこと、家族に対する愛などを決して放棄することなど、決してできませんでしたが、信仰によってそれらを放棄し、神に捧げることができる者へと変えられるのです。私たちはこれまでできなかった愛を、キリストにあって実践できるようにされるのです。そして、イエス様と共に信仰によってなされたすべての愛の御業は、天に蓄えられ、やがての日に、信仰の行いの報いとして、何十倍、何百倍にもなって分配されるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

사랑의 가르침

2024년 5월5일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

마가복음 12장 28~34절

서론

모세의 율법에는, 613개의 계명이 적혀 있다고 유대 랍비들은 주장하고 있습니다. 그 중에, 248개는 “~하라”는 긍정적인 명령이었고, 나머지 365개는 “~하지 말라”는 부정적인 명령이었습니다. 그렇다면 이 613개의 계명 중에, 「첫째가 무엇이니이까」라는 질문에 예수님은 뭐라고 대답하셨을까요? 예수님께서는 「주 너의 하나님을 사랑하라, 네 이웃을 네 자신과 같이 사랑하라」고 응답하셨습니다. 즉 율법에는 「사랑의 가르침」이라는 하나의 큰 줄기가 분명히 나타나 있다고 대답하신 것입니다. 오늘도 마가복음 12장의 말씀으로부터 은혜를 얻고자 합니다.

(1) 쉐마의 말씀과 황금률

12장 28절을 보시기 바랍니다.

서기관 중 한 사람이 그들이 변론하는 것을 듣고 예수께서 잘 대답하신 줄을 알고 나아와 묻되 모든 계명 중에 첫째가 무엇이니이까

한 명의 서기관이 앞으로 나왔습니다. 이날, 예수님께 온 세 번째 질문자이자 마지막 질문자입니다. 「그들이 변론하는 것을 듣고」라고 했는데, 그들의 변론이란 첫째, 바리새인과 헤롯당 몇 사람의 질문으로, 황제에게 세금을 내야 하는지에 대한 변론이었습니다. 둘째는, 사두개인들의 질문으로, 부활했을 때 레비라트혼을 한 여자는, 도대체 누구의 아내가 될 것인가에 대한 논의였습니다. 그리고 세번째의 질문자인 서기관이 「모든 계명 중에 첫째가 무엇이니이까」라고 묻고 있는 것입니다. 「첫째가 무엇이니이까」하는 말은 어느 것이 가장 중요한가? 라는 뜻입니다. 지금까지의 함정에 빠뜨리는 듯한 질문자와는 달리, 아마 그는 순수한 동기에서 질문하고 있는 것 같습니다. 예수님은 그의 질문에 대해서, 단도직입적으로 다음과 같이 대답하셨습니다. 29~31절을 보세요.

29 예수께서 대답하시되 첫째는 이것이니 이스라엘아 들으라 주 곧 우리 하나님은 유일한 주시라

30 네 마음을 다하고 목숨을 다하고 뜻을 다하고 힘을 다하여 주 너의 하나님을 사랑하라 하신 것이요

31 둘째는 이것이니 네 이웃을 네 자신과 같이 사랑하라 하신 것이라 이보다 더 큰 계명이 없느니라

여기서 예수님의 대답은, 두 가지 말씀을 조합하고 있습니다. 두 가지 말씀이라는 것은, 신명기 6장의 말씀과 레위기 19장의 말씀으로, 둘 다 「사랑의 가르침」이었습니다. 이러한 가르침은, 사실 유대인들에게 매우 친숙한 말씀이었고, 그리고 매우 유대적인 가르침이기도 했습니다. 먼저 신명기 6장 4,5절을 살펴보겠습니다.

4 이스라엘아 들으라 우리 하나님 여호와는 오직 유일한 여호와이시니

5 너는 마음을 다하고 뜻(뜻이라는 단어는 오역으로 영혼, 목숨으로 번역해야 함)을 다하고 힘을 다하여 네 하나님 여호와를 사랑하라 → NIV영어성경 Love the LORD your God with all your heart and with all your soul and with all your strength.

이 말씀은 여러분도 아시는 유명한 말씀입니다. 「이스라엘아 들으라」라는 말로 시작했고 히브리어로는 「쉐마 이스라엘」이라고 되어 있습니다. 그 후에 「야훼 엘로힘 야훼 에하드(우리의 하나님 야훼, 단 한 분의 야훼)」라는 말이 이어지고 있습니다. 이 유명한 신명기의 말씀과 예수님의 대답을 세세하게 비교해보면, 「신명기는 ①마음을 다하고 ②뜻을 다하고→목숨을 다하고 (한국어 성경의 신명기의 뜻이라고 번역 된 부분은 오역임. 영어 성경에는, 영혼[목숨]이라고 번역되어 있음)을 다하고 ③힘을 다하여」라고 되어 있습니다. 이 단어는 영어 성경에서는, 「①마음을 다하고 heart ②목숨(한국어 성경의 뜻은 오역으로 영어 성경에는, 영혼[목숨]이라고 번역되어 있음)을 다하고 soul ③힘을 다하여 strength」라고 되어 있습니다. 그런데 예수님의 가르침은 「①마음을 다하고 heart ②목숨을 다하고soul, 뜻을 다하고(영어 성경에는mind로 번역되어 있음), ③힘을 다하여 strength」라고 되어 있습니다. (참고 NIV영어성경 마가복음 12장 30절Love the Lord your God with all your heart and with all your soul and with all your mind and with all your strength.) 뜻을 다하고 (한국어 성경의 뜻이라는 단어는 영어성경에는mind라고 되어 있음. 영어로 비교해 보면 이해가 쉬움)라는 말이 덧붙여져 있습니다. 하나님을 사랑하는 방법에 있어서 mind가 덧붙여져 있는 것입니다. 이 「mind」라는 말은 생각하고 이해하는 이성적인 기능을 가리키고 있지만, 인간의 지식이나 과학, 학문 등도, 하나님을 사랑하는 일에 이용되어야 한다는 것입니다. 우리가 말씀을 잘 알아보고, 학문으로 연구함으로써, 하나님을 더욱 사랑할 것이 권면되고 있다는 것입니다. 당시, 유대인이라면, 누구나 이 신명기 6장의 쉐마의 말씀을, 아침과 저녁에 반복적으로 소리내어 읽었습니다. 현재도 유대인들은, 이 말씀을 담은 검은 작은 상자를, 팔이나 이마에 묶어, 잊지 않도록 하거나, 아니면 현관 옆에 작은 통을 설치해서, 그 안에 이 말씀을 넣어, 소중히 하고 있을 정도입니다. 그래서, 유대인이라면, 이 대답에 이의를 제기하는 사람은 없었을 것입니다. 이어서 레위기 19장 18절을 보시겠습니다. 18 원수를 갚지 말며 동포를 원망하지 말며 네 이웃 사랑하기를 네 자신과 같이 사랑하라 나는 여호와이니라

이 레위기 말씀의 뒷부분인 「네 이웃 사랑하기를 네 자신과 같이 사랑하라」는 대목을 예수님은 인용하고 있는데, 이 말씀은 이른바 「황금율」이라 불리는 격언을, 조금 다른 말로 바꾸어 표현한 것이었습니다. 황금률이 뭐냐면, 마태복음 7장 12절이나, 누가복음 6장 31절에도 나옵니다. 마태복음 7장 12절을 읽겠습니다. 그냥 들어보시죠.

그러므로 무엇이든지 남에게 대접을 받고자 하는 대로 너희도 남을 대접하라 이것이 율법이요 선지자니라

「남에게 대접을 받고자 하는 대로 너희도 남을 대접하라」혹은 “당신이 싫어하는 것을 이웃에게 행하지 말라!” 이것이 황금률이라는 격언입니다. 일본에서는 “남에게 폐를 끼치지 말라”는 말이 황금률처럼 되어 있지요. 이 유대의 황금률을 다른 말로 표현한 것이, 예수님이 인용하신 레위기의 말씀입니다. 즉 「자기 자신을 사랑하는 것처럼 이웃을 사랑하라」입니다. 황금률도, 쉐마의 말씀과 마찬가지로, 유대인이라면. 누구나 상식으로 지키던 말씀이었습니다. 그러므로, 예수님께서, 이 쉐마의 말씀과 황금률을 변형시킨 말씀의, 이 두 가지보다 나은 것은 없다고 말씀하셨을 때, 즉 하나님을 사랑하는 계명과 이웃을 사랑하는 계명보다 나은 것은 없다고 말씀하셨을 때, 서기관은 찬동할 수밖에 없었습니다. 여기서, 우리가 마음에 두고 싶은 것은, 예수님의 율법 이해가, 매우 유대적이며 서기관들도 인정하는 내용이었다는 것입니다. 예수님은 금욕주의자가 아니었고, 자신의 제자들에게 결혼을 금하거나 금식을 적극적으로 가르치시지는 않았지만 (바리새인들은 일주일에 두번 금식을 했다), 그것은, 결코 모세 율법을 폐지하기 위한 것이 아니었습니다. 또는 가끔 안식일에 대해서도 보통 유대인들과는 다른 견해를 가지고 있어서, 모세의 율법을 독특하게 해석하는 경우가 있었지만, 그것 역시 율법을 폐지하기 위해서는 아니었습니다. 오히려 예수님은 자신을 율법 아래에 두고, 율법 전체를 견지하시고, 율법을 영적으로 이해함으로써, 서기관이나 바리새인들에게 더 많은 의를 열망하신 것입니다. 예수님은 바로, 율법의 한 점, 한 획을 하나도 틀리지 않고, 자신이 성취하기 위해 오신 것이었습니다.

(2) 옳소이다

그런데 예수님의 대답에 찬동한 서기관은, 단지 찬동하는 것만이 아니라, 적극적으로 지지하고, 예수님을 기뻐하는 것처럼 보이기도 합니다. 32절의 「선생님이여 옳소이다」라는 말은 “선생님, 잘 말씀하셨습니다.” “선생님 잘 대답해 주셨습니다.” 라고 번역할 수 있기 때문입니다. 더욱이 그는, 말씀을 보충하면서, 예수님의 대답에 찬동했는데, 이때 서기관이 기뻐하며 고개를 끄덕이며 맞장구를 치는 듯한 모습이 우리에게 쉽게 상상이 되는 것입니다. 32,33절을 보세요

32 서기관이 이르되 선생님이여 옳소이다 하나님은 한 분이시요 그 외에 다른 이가 없다 하신 말씀이 참이니이다

33 또 마음을 다하고 지혜를 다하고 힘을 다하여 하나님을 사랑하는 것과 또 이웃을 자기 자신과 같이 사랑하는 것이 전체로 드리는 모든 번제물과 기타 제물보다 나으니이다

서기관이, 보충하고 있는 말씀은, 사무엘상 15장 22절 말씀과 호세아서 6장 6절 말씀일 것입니다. 첫 번째 사무엘상 15장 22절입니다. 그냥 들어주시기 바랍니다.

사무엘이 이르되 여호와께서 번제와 다른 제사를 그의 목소리를 청종하는 것을 좋아하심 같이 좋아하시겠나이까 순종이 제사보다 낫고 듣는 것이 숫양의 기름보다 나으니

이어서 호세아 6장 6절입니다. 그냥 들어보세요.

나는 인애를 원하고 제사를 원하지 아니하며 번제보다 하나님을 아는 것을 원하노라

서기관이 두 말씀을 인용했다고 하더라도, 여기서 예수님과 서기관의 장단이 딱 맞아떨어진다는 것에 주목하십시오. 예수님과 서기관 쌍방이, 사랑이 중요하다는 것, 율법이란 궁극적으로 「사랑의 가르침」이라는 것에 일치하는 것입니다. 예수님은, 적절한 대답을 한 서기관을 보시고, 34절에서 「네가 하나님의 나라에서 멀지 않도다」는 말씀을 하셨습니다. 이제 한 걸음 남았다라는 것이죠. 직업상, 서기관이란 성경의 말슴을 학문적으로 연구하고 있습니다. 말씀을 과학적으로 연구할수록 하나님의 말씀이 진리라는 것에 깨달음이 주어진다는 것이라고 생각합니다. 날마다, 성경의 말씀에서 새로운 발견이 주어지고, 놀라움과 함께, 지금까지 가지고 있던 말씀에 대한 시각이 바뀌어, 그 어느 때보다, 말씀을 공경하게 되고, 그 어느 때보다, 말씀을 사랑하게 되고 믿음으로 인도되는 것이라고 생각합니다. 34절 끝에는 「그 후에 감히 묻는 자가 없더라」라고 적혀 있습니다. 그동안, 예수님의 비판자들이 차례로 나타났지만, 예수님의 놀라운 지혜에 의해 모두 논파되어, 이제 예수님이 완전히 주도권을 잡았다는 것이 밝혀지고 있는 것입니다.

적용

자, 오늘 말씀에서 우리는 무엇을 적용할 수 있을가요? 예수님의 응답으로, 율법에서 가장 중요한 교훈은, 「하나님을 사랑하는 것과 이웃을 사랑하는 것」임을 알게 되었습니다. 율법 전체는, 「하나님을 사랑하고 이웃을 사랑하라」는 가르침으로 요약된다는 것입니다. 그러나, 죄인인 우리는 이 교훈 앞에서, 단 하나의 얼룩도 없이, 결백하게 계속 서 있을 수 없습니다. 왜냐하면, 우리는, 모두가 이기적이고, 어떻게 해서든 자신을 사랑하는 것을 우선시하게 만들 것이기 때문입니다. 우리는, 죽을 때까지 자기 일만 생각할것이기 때문입니다. 예를 들어, 유명한 스포츠 선수가 자선 활동을 위해 큰 기부금을 바쳤다고 가정합시다. 그 행위 자체는 더할 나위 없고, 매우 훌륭한 일이지만, 그 행위는, 과연, 하나님 앞에 의로운 행위로 받아들여질까요? 결코 용납될 수 없습니다. 왜냐하면, 기부금을 바친 그 동기를 조사하면, 이웃을 사랑하겠다는 동기에서 완전히 나온 것이 아니라, 나 자신이 스포트라이트를 받기 위해, 주목을 끌기 위해, 혹은 자신이 몸담고 있는 업계를 띄우기 위해 등, 율법이 가르치는 「하나님의 사랑과 이웃 사랑」이외의 다양한 동기가 뒤석여 있기 때문입니다. 그리고, 그들의 다양한 동기와는, 결국, 자기애와 연결되어 있는 것입니다. 그래서 우리들 죄인이 바치는 좋은 행동이라는 것은, 그 자체로는 결코 의로운 행동으로 하나님 앞에 받아들여지는 것이 아닙니다. 그럼 도대체 우리는 어떻게 해야 할까요?

세상에서 유일하게, 모세의 율법을, 즉 「사랑의 가르침」을 지키신 분이 계십니다. 예수 그리스도입니다. 예수님은 완전히 자기 부정을 하셨고, 우리 죄인을 위해 십자가에 못 박히시고, 목숨을 바치셨습니다. 하나님의 아들이신 예수・그리스도야말로 「사랑의 가르침」을 다하셨고 우리에게 그 모범을 보여주셨던 것입니다.

하나님의 사랑이 우리에게 이렇게 나타난 바 되었으니 하나님이 자기의 독생자를 세상에 보내심은 그로 말미암아 우리를 살리려 하심이라 요한일서 4장 9절

우리는 회개하고, 믿음으로 주 예수님을 만나 새롭게 태어남으로써, 그리스도께서 획득하신 의로움이 우리에게 전가되고, 우리는 영원한 생명으로 들어가는 것입니다. 그리스도를 만나 새롭게 태어난 자들은, 마음의 정결함을 받고, 그리스도의 발을 따라가는, 그리스도의 제자로 바뀔 수 있습니다. 그러면 성령의 역사하심에 의해, 지금까지 우리는 자기 부정을 할 수 없는 자였지만 믿음에 의해 자기 부정을 할 수 있는 자로 바뀔 수 있는 것입니다. 신기하게도, 그동안, 우리는 예수님을 신뢰하고, 예수님께 헌신하지는 못했지만, 믿음으로 예수님께 헌신하는 자로 바뀔 수 있습니다. 그동안, 우리는 자기 십자가를 지는 일은, 도저히 할 수 없는 자였지만, 믿음으로 자기 십자가를 지는 자로 바뀔 수 있습니다. 지금까지, 우리는 자신의 재산이나 자신의 결혼, 가족에 대한 사랑 등을, 결코 포기할 수 없었지만, 믿음으로 그것들을 포기하고, 하나님께 바칠 수 있는 자로 바뀔 수 있습니다. 우리는 그동안 하지 못했던 사랑을, 그리스도를 만나서 실천할 수 있게 되는 것입니다. 그리고, 예수님 과 연합하여, 믿음으로 이루어진 모든 사랑의 행위는, 하늘에 저장되어, 이윽고 믿음의 행실에 대한 보답으로, 수십 배, 수백 배가 되어 분배되는 것입니다.

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