終末の前兆
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- 説教
- 川栄智章 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 24章3節~14節
3イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」
4イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。
5わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
6戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
7民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
8しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。
9そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。
10そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。
11偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。
12不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
13しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる
14そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 24章3節~14節
ハングル語によるメッセージはありません。
日本の競馬の世界では、最も有名なレースであり頂上決戦として認められているのが、12月に行われる有馬記念と、5月に行われる日本ダービーです。このレースに勝利するために、競馬新聞を買ったり、テレビの解説を見ながら、データを収集します。出場する馬の過去の戦績はどうなのか、また、馬の騎手には誰が載るのか、東京競馬場と中山競馬場のそれぞれのコースの状態はどうか、集めたデータから、勝利の兆しを掴み、勝ちそうな馬を選んで馬券を買います。
年末ジャンボ宝くじの場合も同じですね。過去にこのチケット売り場から当選が出たのかどうかが、重要になってきます。普通一度、当選くじが出たら、また出る可能性があるということで、そこの売り場は、人気が出てきます。特に渋谷のハチ公前の宝くじ売り場には過去に1億円以上の当選者を24人も出した、ということで人気があり、常に行列ができるほどです。このように人は何か前兆とか兆しを掴み、その情報をもって勝負に出るのです。
イエスさまの弟子たちも、エルサレムが滅亡し神殿が崩壊するにあたって、そのことの前兆に大変、興味を持っていました。イエスさまが神殿を後にして、祭りの間、宿泊していたベタニアに帰るためにオリーブ山を登っています。オリーブ山からは夕日に照らされて美しい神殿を見下ろすことが出来ました。そこで腰を下ろしたときに弟子たちがひそかにイエスさまに質問をしました。3節をご覧ください。
イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」
弟子たちにとって、幼い時から、神殿というのは彼らの生活の中心であり、世の最後まで残っているに違いないという考え方が彼らには常識としてしみ込んでいましたので、この美しい神殿がまさか、一つの石も残らず崩壊するということは、考えもつかない想定外のことであり、従っていよいよ世の終わりが来るに違いないだろうと思い込んでいました。ダニエル書7:13-18(旧1393)には世の終わりについて次のように預言されています。
夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み
権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。
わたしダニエルは大いに憂い、頭に浮かんだこの幻に悩まされた。
そこに立っている人の一人に近づいてこれらのことの意味を尋ねると、彼はそれを説明し、解釈してくれた。
「これら四頭の大きな獣は、地上に起ころうとする四人の王である。
しかし、いと高き者の聖者らが王権を受け、王国をとこしえに治めるであろう。」
ですから弟子たちは、世の終わりに「人の子」であるメシアが、この世を速やかに統治することになれば、それこそ、全ての面において祝福を受け取ることになるだろうと考えていましたし、「世の終わり」と、「神殿の崩壊」を切っても切れない関係として考えていましたから、「世の終わり」と、「神殿崩壊」は、即ち、預言されている万物の回復を意味するのであり、混沌とした宇宙に回復がもたらされ、神の秩序がその姿を現し、自分たちは一気に安息の中に入れられ、キリストの弟子たちは、もはや何不自由もない幸いな人生が享受するのだろうという妄想を描いていたのです。ですから彼らが突然、目の色を変えながら、色々な質問を連発したのも、無理はありませんでした。
イエスさまは答えを通して、終末の前兆について数々の事を教えてくださいましたが、具体的ないつとか、どこで、というような内容は教えてくれませんでした。その代り、詐欺師のような者が現れて、自分がメシアであると名乗ったり、いよいよ終わりが来て審判が始まったと嘘を流すので彼らに注意しなさいということです。そして、弟子たちは迫害されることになるということです。それらのこと一切を忍耐し、最後までイエスさまにつながって、福音を証ししなさい。どんなことが起こっても驚かないで忍耐しなさいと、励ましの言葉をかけてくださいました。それでは具体的に見て参りましょう。4-5節をご覧ください。
イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。
わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
弟子たちの目をぎらぎらさせた質問に対し、イエスさまのお答えの中には、「惑わす」という言葉が二度も出てきます。つまり、イエスさまの返事は、弟子たちが期待した内容とは正反対でした。
旧約聖書を見ると、確かに人の子の到来によって平和、公義、喜び、すべての善なることに対する成就が約束されています。弟子たちはキリストが到来するその日になれば、戦争の恐怖、略奪、飢饉と災難から完全に解放されるだろうと信じていたのに、今、イエスさまは、律法の時代に、偽りの預言者や、偽善者であるファリサイ派の人々、律法学者たちと同じような部類の人たちが、新しい福音の時代においてもやはり猛威を振るうことになると警告しているのです。「何も変わらないではないか」と思ったかもしれません。このことは、旧約聖書に預言者によって書かれたメシア預言が成就されないということではなく、それらが一気に、完全に成就するのではないということです。
従ってキリスト者は一生を通じて、悪の迷宮を、キリストのたいまつを掲げて歩いていくようなものです。悪の迷宮を歩く中で、救いを確信することになりますが、試練が繰り返しやって来て、常に罪と悪との戦いが強いられるのです。
ところで、救いの教理に対する詐欺師が初代教会にたくさん現れました。所謂、異端とよばれる教えです。現在見ることが出来る異端の教えのすべてのルーツが、初代教会の時代に遡ります。神がこのように多くの異端の発生を初代教会において許されたのは、彼らが勝手に聖書を超えたり、勝手に聖書の一部分を削除して、自分たちの教理を作ることに対して、強い嫌悪感を抱かせることであり、また、聖書の内に留まらなければ、救いの確信は得られないということを御自身の民に教えるためでした。続いて6-8節をご覧ください。ここではまだ終末ではないこと、むしろそれは、始まりであることを教えられます。
戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。
ここでは、悲しい戦争や凄まじい事件を通して、弟子たちが苦難と恐れの中に置かれても、まだ世の終わりではないことが強調されています。むしろそれは、苦しみの始まりであるというのです。イエスさまは、この罪深い世が、どれくらい悪に対して粘り強く執着しているのか知っておられ、神の国に従順できない者たちが、やがてこの世を悲惨な殺戮によって満たしてしまうことを知っていました。ですから、御自身の民が、戦争や、そのような悲惨な状況に置かれても、決して困惑しないで、それらは神の許しの中で起こっているのであり、歴史は神の権威によって統制されていることを覚え、信仰を保ち忍耐するように励ましています。続いて9-10節をご覧ください。
そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。
そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。
イエスさまの弟子たちはイエスさまが、十字架に架けられたように、全く同じように迫害にあい、十字架に架けられたり、殺されたりします。最初キリスト者への迫害はユダヤ人からの迫害でしたが、次第に、ローマ帝国からの迫害に移っていきました。キリスト者はあらゆる民族から憎まれます。ネロ皇帝の時には、キリスト者がライオンの餌として殺されたり、火あぶりにされました。そのような中で、信仰から離れて行く人々も大勢出てきました。教会の中で愛が冷えて行きました。11-13節をご覧ください。
偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。
不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
偽預言者と偽キリストが出て来る理由の一つとして、主の日が既に到来したかのように教えるところにあります。2テサロニケ2:2には次のようにあります。
霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。
2世紀にはシメオン・バル・コクバという人が自称メシアとして現れ、ローマ帝国に対し兵を挙げました。6世紀、ムハンマドは、自分をイエスより偉大な預言者であると称して、イスラム教をおこしました。近代においても、19世紀にジョセフ・スミス・ジュニアという人が、預言者として啓示を受け、「モルモン経典」を書き、モルモン教という異端が起こりました。また、1914年にイエスキリストが再臨するという主張から、「エホバの証人」という異端起こりました。イエスさまは、このような惑わす者を注意しなさいと言っているのです。そして、最後まで信仰を守り、耐え忍ぶ者こそが救われるのです。イエスさまは、弟子たちの描いていた妄想を少しずつ取り除き、修正しようとされているのです。
当時の弟子たちだけでなく、私たちもそうですが、季節外れの、時期尚早の収穫をしようとします。旧約の預言者たちによって約束された神の国の到来の豊かな実だけを刈り取ろうとするのです。これは、戦争が始まっていないのに、戦争後の来るであろう勝利を眺めているようなものです。レースをする人がまだ走ってもいないのに金メダルやトロフィーを獲得したかのように、金メダルは重いかなとか、純粋な銀は純粋な金に比べてさらにやわらかいかなとか、トロフィーに口づけをする角度などを議論しているようなものです。
イエスさまは弟子たちのはやる気持ちを抑えながら、スタート地点に立った弟子たちに、むしろコースを外れないで最後まで走りぬきなさいと勧められます。信仰とは、天国に入るための入場券ではありません。それをタンスの引き出しに大事にしまっておいて、いざ、この肉体の寿命が尽きた時に入場券を持って天国に入ろうというのではないのです。信仰とはチケットではなく、プロセスです。人柄からにじみ出てくるものです。信仰とは毎日の「戦い」であり、自分の弱さと罪の性質から少しずつ解放され聖められるための「地道な歩み」なのです。ですから、神の国の豊かな約束を、私たちは、あくまで信仰の目で眺めるのであって、一気にそれらが完成されるのではないのです。私たちの信仰生活は、喜びは喜びであっても、それは信仰を背景として喜びであって、現実は、悪魔の惑わしと試練の中で、日々訓練され、鍛錬される過程であって、キリストにある勝利は約束されていますが、迫害され、死に渡されることもあり、見方によってそれは、葛藤であり、絶望的なのです。
私たちの内で、種を撒く者になることを望む人は誰もいません。みんなが自分が蒔いていないところから収穫しようと飛びつこうとするのです。しかし福音伝道とは、まさにこの地道な働きである、種を撒くことなのです。私たちの生活を通してキリストを証しすることなのです。私たちが、忍耐をもってこの世の生を全うし、福音が全世界に宣べ伝えられる時になって初めて終わりが来るのです。14節をご覧ください。
そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」
イエスさまは弟子たちから投げかけられた質問に対する答えを通して、弟子たちに悲しい迫害と混乱が長く続くことを警告されました。弟子たちが目をギラギラさせながら、直ちに天の栄光に移行するのだろうと性急に考えていたので、弟子たちの考えの誤りを修正することがイエスさまの目的だったと思われます。
キリストの贖いの道は、大きくて、人々を魅了する贅沢なエントランスによって迎え入れられる大通りではなく、小さな門から通じる細い道であり、数多くの坂を経なければならない小道なのです。聖徒は、終末の前兆である、戦争や地震などを分析し、前兆を正確に把握して、いよいよ時が迫ってきてから、備えるのではありません。偽預言者が現れ、偽キリストが現れてから、惑わされないよう注意するのでもありません。それらの前兆は、実は、初代教会の時から今に至るまで継続して起こっているのです。ですから、今がまさに終末であり、今、私たちは惑わされないよう信仰の戦いをあゆまなければなりません。私たちはゴールではなく、むしろ始まりであるスタート地点に立っており、数多くの苦しみと試練を通過することがなければ天の報いを得られることはないのです。