2024年03月03日「見えるようになりたいのです 보기를 원하나이다」

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見えるようになりたいのです 보기를 원하나이다

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 10章46節~52節

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聖句のアイコン聖書の言葉

10:46一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。
10:47ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。
10:48多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
10:49イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
10:50盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
10:51イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
10:52そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 10章46節~52節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

イエス様の一行がエルサレムを見据えて、確固たる歩みで向かっていたその時、その歩みを中断する者が現れました。バルティマイという盲人の物乞いです。この男の告白によって、エルサレムへと向かう歩みが停止させられたのです。かつて、イエス様は「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。」(マルコ9:19)と嘆かれたことがありました。本日、見るバルティマイの信仰を通して、イエス様はどんなに力づけられたことでしょうか。ご自身の十字架へと向かう足取りを、きっと勇気づけられたに違いないと思います。本日の箇所は、マルコによる福音書に書かれている最後の癒しの奇跡となります。いつも申し上げていることですが、イエス様のなされる奇跡とは、単に病の癒しだけを目的とするのではなく、奇跡を通して神の啓示を私たちに現してくださいます。そのことに注意を向けながら、本日もマルコによる福音書10章から御言葉の恵みに与りたいと思います。

【1】. ダビデの子

イエス様の一行はエリコに入り、その町を通り過ぎようとしていました。エリコという町はエルサレムから約25~30キロ離れたところにあり、古代都市の中でも特に古い町でありました。この町はヘロデ大王によってリゾート地として再建され、にぎやかになりました。また、エルサレムへ向かう巡礼者のための宿場町として栄えた町でもありますから、物乞いをするには打ってつけの場所であったと考えられます。46~48節をご覧ください。

“一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。”

イエス様を取り巻く人々は、弟子たちと大勢の群衆によって構成されていました。この時期はちょうど過ぎ越しの祭りの時期でしたので、エリコの町は巡礼者によって大変混雑していたと思われます。そんな時「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」という叫び声が聞こえてきました。「主よ、憐れんでください」という言葉は、ギリシア語で「キリエ エレイソン」という言葉です。70人訳の詩編の中にこの言葉は多く登場いたします。また、「ダビデの子」という呼称は、マルコ福音書の中で初めて登場する言葉ですが、神学的に言えば、とても重要な、イエス様を指し示す称号でした。ペトロが「あなたはキリストです」と告白したのに匹敵するほどであります。この声の叫び主は、祈り心から、切なる思いで、ナザレ人イエスに叫んだと思われます。今、まさにダビデの町エルサレムに入ろうとしていたイエスに対し「ダビデの子よ」という正しい信仰の告白が、ティマイの子、バルティマイの口から出てきたのです。イエス様はその信仰の告白を口止めすることなく、喜んで受け入れられました。

しかし神学的にどれほど大切な称号であっても、当時の一般のイスラエルの人々にとって、「ダビデの子」とは、来るべき王様だと信じられていましたので(キリストという称号もそうですが)、この称号には、どちらかと言えば政治的な響き、革命的な響きが、含まれていました。つまり、ローマの支配を打倒し、イスラエルの民に政治的な救いをもたらしてくれる解放者(或いは革命家)として理解されていたということです。イエス様を取り巻く多くの人々は盲人バルティマイを冷遇し、叱りつけ、黙らせようとしました。しかし、バルティマイは黙るよう強いられれば強いられるほど、ますます「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と、叫び続けたのであります。このようにして、「ダビデの子よ」という称号が何度も何度も繰り返され、エリコの町にその言葉が響き渡りました。バルティマイの粘り強い叫び声により、ナザレのイエスは、ダビデの子として公然とダビデの町に入って行く者として、人々の記憶に刻まれることになったのです。

【2】. バルティマイの信仰

イエス様がエルサレムに向かう理由は、ご自分の命を献げるためでありました。身代金として十字架に架けられるためであります。恐らく、この時イエス様は孤独と恐怖と緊張の中にあったに違いありません。そんな中、イエス様に対し、旧約聖書に照らして正しく告白する者が現れたのです。このバルティマイの告白によって、イエス様はどれほど勇気づけられ、励まされたことでしょうか。イエス様は、歩みを止めて「あの男を呼んで来なさい」と言われました。人々はバルティマイに「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」と言うと、彼は、上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエス様の所に来ました。50節以降には、イエス様に呼ばれたバルティマイが、直ちにその召しに応答した信仰的な態度が描かれています。50~51節をご覧ください。

“盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。”

バルティマイの信仰的な態度とは、第一に、上着を脱ぎ捨てたということです。「上着」というのは、英語の聖書(RSV)でマントと訳されています。これは、昼には物乞いをするための風呂敷として用いられ、夜には防寒具と布団の役割を担っていたことを意味します。バルティマイにとってこの上着は、彼が持っている唯一の財産であったと考えられます。それを放り捨てて、イエス様の召しに応答したのです。このことは、ペトロやヨハネやヤコブが自分たちの網をその場において、イエス様の召しに従ったのと通じるものがあるのではないでしょうか。第二に、バルティマイが躍り上がって、イエス様のところに来たということです。まだ癒しの奇跡がなされていないのに、彼は確信に満ちて躍り上がりました。驚くべき信仰を見て取れます。イエス様はバルティマイに「何をしてほしいのか」と語りかけてくださいました。「何をしてほしいのか」、この質問は、ちょうど先週見た箇所にも出てきました。10章36節です。ゼベダイの子ら、ヤコブとヨハネは、この質問に対し、イエス様の右と左の座を求めましたが、その願いは聞き入れられませんでした。残りの弟子たちも、ゼベダイの子らと同じことを考えていました。一方、バルティマイは、この質問に対し何と答えたでしょうか。「お金をいくらか恵んでくれないでしょうか」とは言いませんでした。或いは、「土地を少し分けてもらえないでしょうか」とも言いませんでした。「ラボニ、目が見えるようになりたいのです」と言ったのです。「ラボニ」という言葉は、「ラビ」という言葉の尊敬語だと言われています。因みにマリアが復活のイエス様にお会いした時にも、イエス様に「ラボニ(先生)」と言っています(ヨハネ20:16)。ここにもバルティマイの信仰を見て取れます。ところで、旧約聖書の中で、預言者が行った奇跡の中に、目の見えない人が癒されるという奇跡は一度も出てきませんが、目の見えない人が癒され、慰められる奇跡は、メシアの到来のしるしであるということが書かれています。イザヤ書35:5-6をご覧ください。

“そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。”

このイザヤの預言が明らかにするように、2,000年前、イエス様がダビデの子として来られたことにより、確かに「そのとき」が、「終末の時」が到来したと言えるでしょう。そして、その日以来、イエス様にあって、目の見えない人の、癒しと慰めが起こっていると聖書は語るのです。聞こえない人の耳が開き、歩けなかった人が鹿のように踊り上がると聖書は語るのです。続いてエレミヤ書31:7-9をご覧ください。

“主はこう言われる。ヤコブのために喜び歌い、喜び祝え。諸国民の頭のために叫びをあげよ。声を響かせ、賛美せよ。そして言え。「主よ、あなたの民をお救いください/イスラエルの残りの者を。」見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し/地の果てから呼び集める。その中には目の見えない人も、歩けない人も/身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。彼らは大いなる会衆となって帰って来る。彼らは泣きながら帰って来る。わたしは彼らを慰めながら導き/流れに沿って行かせる。彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。わたしはイスラエルの父となり/エフライムはわたしの長子となる。”

このエレミヤの預言が明らかにするように、2,000年前、イエス様がダビデの子として来られたことにより、確かに「救いの日」が到来したと言えるでしょう。私たちが現在、生きているこの終末の時にも、今まさにイエス様にある癒しと、慰めが起こっていると言えるのではないでしょうか。たとえ、その成就を私たちが肉的には確認できなくても、私たちは信仰によって、霊的に、そのことを確認することができるのです。「見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。」というリアリティを、霊的に確認することができるのです。そして、私たちがやがて天に迎え入れられる時に、信仰によって見たことをはっきり確認することになるでしょう。天国にはもはや病や、悲しみや、障碍は存在しないからです。

さて、バルティマイの目が開かれると、興味深いことが起こりました。それは道を進まれるイエスに従ったということです。52節をご覧ください。

“そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。”

なぜ、道に従ったことが興味深いのかと言いますと、バルティマイの目が開かれた時、彼は自分の生活のため、町の中心部に行き、仕事を求め始めたのではなく、「道」を進まれるイエス様に、自発的に従って行ったからです。そしてその事こそ、バルティマイという名が聖書に記された理由の一つだと考えられます。つまり、彼は一定期間、弟子たちと共にいたけれど、その後、共同体から姿を消したというのではなく、恐らく、その後も初代教会の中でイエス様の弟子として歩み続けたのであり、バルティマイという名前を聞けば、「あー、以前、目が不自由だった、あのバルティマイおじさんのことだね」と、誰にでもその名が知られるようになったということなのでしょう。そのために名前が記されたのです。もう一つ興味深い理由として、マルコによる福音書の中で、これまで、奇跡によって癒された者たちが、イエス様の行かれる道にお供するのを許された者は一人もいなかったという点です。お供したいと願い出る者はいましたが、イエス様はそれをお許しになりませんでした(マルコ5:18)。ところが不思議にも、本日の箇所ではバルティマイに「道」に従って行くことを許しています。ここでの「道」とは、エルサレムへの道、十字架への道でありますが、今回は許されました。これは一体どういうことでしょうか。なぜバルティマイだけが許されたのでしょうか。解釈は分かれると思いますが、私は、盲人バルティマイの上に起こった奇跡とは、まさに弟子たちにこれから起こることを象徴しているからではないかと思いました。使徒言行録を見ると、イエス様の十字架と復活の後、弟子たちは聖霊によって強められ、キリストが歩まれた道を、後から従っていく者として変えられていきます。弟子たちの目から、うろこが落ちて見えるようになり、弟子たちはそれぞれ、キリストの飲む杯を受け、キリストの受ける洗礼を受ける者へと変えられるのであります。盲人バルティマイの奇跡とは、まさにその姿を暗示しているのではないでしょうか。それは「まだ、分からないのか、悟らないのか、心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」と、忍耐強く待ち続けたイエス様が、とりなしの祈りを通して見た、弟子たちの将来の姿でありました。

【結論】

私たちはバルティマイの信仰を通して、「目が見えるようになりたいのです」という願いがどれほど大切な願いであるのかを学びました。今この時、イエス様から「何をしてほしいのか」と問われるなら、「目が見えるようになりたいのです」「イエス様のことをもっと知る者となりたいのです」「イエス様の御足に従う者となりたいのです」と答えるべきであります。本日この後に主の晩餐がもたれますが、聖礼典に臨在する聖霊の恵みを通して、私たちの心の目が開かれ、私たちに注がれている主の癒しと慰めをはっきりと見る者とならせてくださいと祈り求めていきましょう。また、教会の兄弟姉妹との交わりを通して、十二弟子が変えられたように、私たちの価値観が根本から変えられ、主の御足に従っていく者とならせてくださいと祈り求めていく私たちとならせていただきましょう。愛する兄弟姉妹に仕え、僕として奉仕する者とならせていただき、私たちは主イエスのくびきを共に負う者となるのであります。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

보기를 원하나이다

2024년 3월3일 센겐다이 교회 주일설교 카와에 토모아키목사

마가복음 10장 46~52절

서론

예수님 일행이 예루살렘을 내다보고 확고한 걸음걸이로 가고 있을 때, 그 걸음을 멈추게 하는 자가 나타났습니다. 바디매오라는 맹인 거지입니다. 이 남자의 고백으로 예루살렘으로 향하는 발걸음이 정지되었습니다. 과거 예수님은 「믿음이 없는 세대여 내가 얼마나 너희와 함께 있으며 얼마나 너희에게 참으리요(마가봅음 9장 19절)」라고 탄식하신 적이 있습니다. 오늘 살펴 보는 바디매오의 믿음을 통해 예수님은 얼마나 힘을 얻으셨을까요? 자신의 십자가로 향하는 발걸음에, 분명 용기를 얻으셨을 것이라고 생각합니다. 오늘은 마가복음서에 적혀 있는 마지막 치유의 기적이 될 것입니다. 항상 말씀드리는 것이지만, 예수님이 행하시는 기적이란, 단순히 병의 치유만을 목적으로 하는 것이 아니라, 기적을 통해 하나님의 계시를 우리에게 나타냅니다. 그 일에 주의를 기울이면서, 오늘도 마가복음 10장으로부터 말씀의 은혜를 얻고자 합니다.

다윗의 자손

예수님의 일행은 여리고에 들어가, 그 성읍을 지나치려고 했습니다. 여리고라는 성읍은 예루살렘에서 약 25~30km 떨어진 곳에 있으며, 고대 도시 중에서도 특히 오래된 성읍이었습니다. 이 성읍은 헤롯 대왕에 의해 휴양지로 재건되어 활기차졌습니다. 또한 예루살렘으로 향하는 순례자들을 위한 숙박 마을로 번창한 성읍이기도 하니 구걸하기에는 안성맞춤인 곳이었다고 생각됩니다. 46~48절을 보시죠.

46 그들이 여리고에 이르렀더니 예수께서 제자들과 허다한 무리와 함께 여리고에서 나가실 때에 디매오의 아들인 맹인 거지 바디매오가 길 가에 앉았다가

47 나사렛 예수시란 말을 듣고 소리 질러 이르되 다윗의 자손 예수여 나를 불쌍히 여기소서 하거늘

48 많은 사람이 꾸짖어 잠잠하라 하되 그가 더욱 크게 소리 질러 이르되 다윗의 자손이여 나를 불쌍히 여기소서 하는지라

예수님을 둘러싼 사람들은 제자들과 많은 무리로 구성되어 있습니다. 이 시기는 마침 유월절 축제의 시기였기 때문에, 여리고 성읍은 순례자로 인해 매우 혼잡했을 것으로 생각됩니다. 그럴 때 「다윗의 자손 예수여 나를 불쌍히 여기소서」라는 크게 외치는 소리가 들려왔습니다. 「나를 불쌍히 여기소서」라는 말은 헬라어로 「키리에 엘레이손」이라는 말입니다. 70인역의 시편안에 이 말이 많이 등장합니다. 또 「다윗의 자손」이라는 호칭은 마가복음서 안에서는 처음 등장하는 말인데 신학적으로 말하면 아주 중요한, 예수님을 가리키는 칭호였습니다. 베드로가 「주는 그리스도시니이다」라고 고백한 것과 맞먹을 정도입니다. 이 부르짖음의 주인공은 기도하는 마음으로, 절절한 마음으로, 나사렛 예수께 부르짖었다고 생각됩니다. 지금, 바로 다윗의 성읍 예루살렘에 들어가려던 예수님께 「다윗의 자손이여」라는 바른 믿음의 고백이 디매오의 아들인 바디매오의 입에서 나온 것입니다. 예수님은 그 믿음의 고백을 막지 않으시고 기꺼이 받아 들이셨습니다.

그러나 신학적으로 아무리 중요한 칭호라도, 당시 일반 이스라엘 사람들에게 「다윗의 자손」이란 「오실 왕」이라고 믿었기 때문에(그리스도라는 칭호도 그렇지만), 이 칭호에는, 어느 쪽인가 하면 정치적 울림, 혁명적 울림이 포함되어 있습니다. 즉 로마의 지배를 타도하고, 이스라엘 백성들에게 정치적인 구원을 가져다주는 해방자(혹은 혁명가)로서 이해되었다는 것입니다. 예수님을 둘러싼 많은 무리들은 맹인 바디매오를 푸대접하고, 꾸짖고 입을 다물게 하려고 했습니다. 그러나 바디매오는 잠잠하라고 강요당하면 강요당할수록 점점 「다윗의 자손이여 나를 불쌍히 여기소서」라고 계속 외쳤던 것입니다. 이렇게 해서 「다윗의 자손이여」라는 칭호가 여러 번 반복되면서, 여리고 성읍에 그 단어가 울려 퍼졌습니다. 바디매오의 끈질긴 부르짖음으로 인해 나사렛 예수는 다윗의 자손으로 공공연히, 다윗의 성읍으로 들어가는 자로, 사람들의 기억에 새겨지게 된 것입니다.

바디매오의 믿음

예수님이 예루살렘으로 향하시는 이유는, 자신의 목숨을 바치기 위해서였습니다. 대속물로 십자가에 못박히기 위해서 입니다. 아마도, 이때 예수님은 고독과 공포와 긴장 속에 계셨을 것입니다. 그러던 중 예수님에 대해서, 구약성경에 근거해서 바르게 고백하는 자가 나타난 것입니다. 이 바디매오의 고백으로, 예수님은 얼마나 용기를 얻고 격려 받으셨을까요? 예수님은, 걸음을 멈추시고 「그를 부르라」고 하셨습니다. 사람들은 바디매오에게 「안심하고 일어나라 그가 너를 부르신다」고 말하자 그는 겉옷을 내버리고, 뛰어 일어나 예수님께 나아왔습니다. 50절 이후에는 예수님께 부르심을 받은 바디매오가 즉각 그 부르심에 응답한 믿음적인 태도가 그려져 있습니다. 50,51절을 보시기 바랍니다.

50 맹인이 겉옷을 내버리고 뛰어 일어나 예수께 나아오거늘

50예수께서 말씀하여 이르시되 네게 무엇을 하여 주기를 원하느냐 맹인이 이르되 선생님이여 보기를 원하나이다

바디매오의 믿음적인 태도란 첫째, 겉옷을 내버렸다는 것입니다. 「겉옷」이라는 것은 영어 성경(RSV)에서 망토라고 번역되어 있습니다. 이것은, 낮에는 구걸을 하기 위한 보자기로 사용되었고, 밤에는 방한구와 이불의 역할을 담당했다는 것을 의미합니다. 바디매오에게 이 겉옷은 그가 가진 유일한 재산이었다고 생각됩니다. 그것을 내버리고 예수님의 부르심에 응답한 것입니다. 이 일은 베드로나 요한이나 야곱이 자신들의 그물을 그 자리에서 버리고 예수님의 부르심에 따랐던 것과 통하는 것이 아닐까요? 둘째, 바디매오가 뛰어 일어나 예수님께 왔다는 것입니다. 아직 치유의 기적이 이루어지지 않았는데도 그는 확신에 차 뛰어 일어났습니다. 놀라운 믿음을 볼 수 있습니다. 예수님은 바디매오에게 「무엇을 하여 주기를 원하느냐」고 말씀하셨습니다. 「무엇을 하여 주기를 원하느냐」라는, 이 질문은 바로 지난 주에 봤던 성경구절에도 나왔습니다. 10장 36절입니다. 세배대의 아들들, 야곱과 요한은 이 질문에 예수님의 오른쪽과 왼쪽 자리를 구했으나 그 소원은 들어주시지 않으셨습니다. 나머지 제자들도 세배대의 아들들과 같은 생각을 하고 있었습니다. 한편, 바디매오는 이 질문에 무엇이라고 대답했을까요? “돈을, 조금 적선 해 주시지 않겠습니까?”라고는 말하지 않았습니다. 아니면 “땅을 좀 나눠주시면 안 될까요?”라는 말도 안 했습니다. 「랍오니 보기를 원하나이다」라고 말한 것입니다. 「랍오니」라는 말은 「랍비」라는 말의 존댓말이라고 합니다. 덧붙여서 마리아가 부활의 예수님을 만났을 때도 예수님께 「랍오니(선생님)」라고 말하고 있습니다(요한복음 20장 16절). 여기에서도 바디매오의 믿음을 살펴볼 수 있습니다. 그런데 구약성경에서, 선지자가 행한 기적 중에, 눈먼 사람이 치유된다는 기적은 한 번도 나오지 않지만, 눈먼 사람이 치유되고, 위로받는 기적은 메시아의 도래의 증표라고 기록되어 있습니다. 이사야서 35장 5,6절을 보시기 바랍니다.

5 그 때에 맹인의 눈이 밝을 것이며 못 듣는 사람의 귀가 열릴 것이며

6 그 때에 저는 자는 사슴 같이 뛸 것이며 말 못하는 자의 혀는 노래하리니 이는 광야에서 물이 솟겠고 사막에서 시내가 흐를 것임이라

이사야의 예언이 밝히듯이, 2000년 전 예수님이 다윗의 자손으로 오심에 따라 분명 「그 때」, 「종말의 때」가 도래했다고 할 수 있을 것입니다. 그리고, 그날 이후 예수님을 만나, 눈먼 사람의 치유와 위로가 일어나고 있다고 성경은 말하는 것입니다. 못 듣는 사람의 귀가 열리고, 저는 자는 사슴 같이 뛸 것이라고 성경은 말하는 것입니다. 이어서 예레미야서 31장 7~9절을 보시기 바랍니다.

7 여호와께서 이와 같이 말씀하시니라 너희는 여러 민족의 앞에 서서 야곱을 위하여 기뻐 외치라 너희는 전파하며 찬양하며 말하라 여호와여 주의 백성 이스라엘의 남은 자를 구원하소서 하라

8 보라 나는 그들을 북쪽 땅에서 인도하며 땅 끝에서부터 모으리라 그들 중에는 맹인과 다리 저는 사람과 잉태한 여인과 해산하는 여인이 함께 있으며 큰 무리를 이루어 이 곳으로 돌아오리라

9 그들이 울며 돌아오리니 나의 인도함을 받고 간구할 때에 내가 그들을 넘어지지 아니하고 물 있는 계곡의 곧은 길로 가게 하리라 나는 이스라엘의 아버지요 에브라임은 나의 장자니라

이 예레미야의 예언이 밝히듯이, 2000년 전, 예수님이 다윗의 자손으로 오심에 따라 분명 「구원의 날」이 도래했다고 할 수 있을 것입니다. 우리가 현재, 살고 있는 이 종말의 때에도 지금 바로 예수님께 있는 치유와 위로가 일어나고 있다고 말할 수 있지 않을까요. 비록, 그 성취를 우리가 육적으로는 확인할 수 없더라도, 우리는 믿음으로, 영적으로, 그 일을 확인할 수 있는 것입니다. 「맹인의 눈이 밝아지고 못 듣는 사람의 귀가 열릴 것이며」라는 리얼리티를, 영적으로 확인할 수 있는 것입니다. 그리고, 우리가 곧 하늘로 들어갈 때, 믿음으로 본 것을 분명히 확인하게 될 것입니다. 천국에는 더 이상 병이나, 슬픔이나, 장애가 존재하지 않기 때문입니다.

자, 바디매오의 눈이 열리자 흥미로운 일이 일어났습니다. 그것은 길을 가시는 예수님을 따랐다는 것입니다. 52절을 보시겠습니다.

예수께서 이르시되 가라 네 믿음이 너를 구원하였느니라 하시니 그가 곧 보게 되어 예수를 길에서 따르니라

왜, 길에서 따른 것이 흥미로운가 하면, 바디매오의 눈이 열렸을 때 그는 자신의 생활을 위해 성읍 중심부로 가서, 일을 구하기 시작한 것이 아니라 「길」을 가시는 예수님을 자발적으로 따라갔기 때문입니다. 그리고 그것이야말로, 바디매오라는 이름이 성경에 기록된 이유 중 하나라고 생각됩니다. 즉, 그는 일정 기간, 제자들과 함께 있었지만, 그 후, 공동체에서 사라졌다는 것이 아니라, 아마도 그 후에도 초대교회 안에서 예수님의 제자로 계속해서 걸음을 걸었던 것이고, 바디매오라는 이름을 들으면 “아! 예전에 눈이 안 보였던 그 바디매오 아저씨 말이죠?”라고 누구에게나 그 이름이 알려지게 되었다는 것이겠지요. 그 때문에 이름이 적힌 것입니다. 또 한 가지 흥미로운 이유는, 마가복음서 가운데 지금까지 기적에 의해 치유된 자들이, 예수님이 가시는 길에 함께 하도록 허락받은 자는 한 명도 없었다는 점입니다. 함께 있기를 간구하는 자는 있었지만, 예수님은 그것을 허락하시지 않으셨습니다(마가복음 5장 18,19절). 그런데 기이하게도, 오늘 바디매오게는「길」을 따라가는 것을 허락하십니다. 여기서의 「길」이란 예루살렘으로 가는 길, 십자가로 가는 길인데 이번에는 허락하셨습니다. 이게 대체 무슨 일일까요? 왜 바디매오에게만 허락하셨을까요? 해석은 엇갈리겠지만, 저는 맹인 바디매오 위에 일어난 기적이란, 바로 제자들에게 앞으로 일어날 일을 상징하고 있기 때문이 아닌가 생각했습니다. 사도행전을 보면 예수님의 십자가와 부활 후, 제자들은 성령에 의해 강해지고 그리스도가 걸어간 길을, 뒤에서 따라가는 자로 변해갑니다. 제자들의 눈에서, 비늘이 떨어져 보이게 되고, 제자들은 각자, 그리스도가 마신 술잔을 받고, 그리스도가 받는 세례를 받는 자로 바뀌어질 수 있었습니다. 맹인 바디매오의 기적이란, 바로 그 모습을 암시하는 것이 아닐까요? 그것은 「아직 모르겠느냐, 깨닫지 못하겠느냐, 마음이 둔해져 있는 것이냐, 눈이 있어도 보이지 않느냐, 귀가 있어도 들리지 않는 것이냐」라고 인내심을 가지고 기다리시던 예수님이, 중보기도를 통해서 보신, 제자들의 장래의 모습이었습니다.

결론

우리는 바디매오의 믿음을 통해 「보기를 원하나이다」라는 소망이 얼마나 소중한 소망인지 배웠습니다. 지금 이 때, 예수님께서 「무엇을 하여 주기를 원하느냐」라고 물으신다면 “눈이 보기를 원하나이다”, “예수님을 더 아는 자가 되고 싶습니다”, “예수님의 길을 따르는 자가 되고 싶습니다”라고 대답해야 할 것입니다. 설교 후에 주님의 성찬이 있는데, 성례전에 임재하는 성령의 은혜를 통해, 우리 마음의 눈이 열리고 우리에게 부어지는 주님의 치유와 위로를 똑똑히 보는 자가 되게 해달라고 기도합시다. 또한 열두 제자가 바뀐 것처럼, 교회의 형제자매들과의 교제를 통해, 우리의 가치관이 근본부터 바뀌어, 주님의 발자취를 따라가는 자가 되게 하여 주시기를 기도하고 찾아가는, 우리가 되게 하여 달라고 기도합시다. 사랑하는 형제자매를 섬기며, 종으로 봉사하는 자가 되게 하시고, 우리는 주 예수님의 멍에를 함께 지는 자가 되도록 합시다.

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