2024年02月18日「エルサレムへの巡礼の道 우리가 예루살렘에 올라가노니」

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エルサレムへの巡礼の道 우리가 예루살렘에 올라가노니

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 10章32節~38節

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聖句のアイコン聖書の言葉

10:32一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。
10:33「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。
10:34異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」
10:35ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
10:36イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
10:37二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
10:38イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 10章32節~38節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

子供のようにイエス様に従うことによって神の国に入れられると、イエス様は弟子たちに教えられました。そして家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てて、従ってきた弟子たちに、この世において迫害も受けるが、捨てたものの百倍を受けること、そして後の世において永遠の命を受けることを、イエス様は「アーメン」という言葉によって保証してくださいました。「イエス様に従う」。この言葉が意味するところは、「エルサレムへ向かって行かれる主イエスに、従って行くこと」ということが、本日の箇所から明らかにされます。エルサレムにおいて受難をお受けになるイエス様に従って行くことです。主イエスと共に行くエルサレムへの巡礼の道を通して、今朝も御言葉から恵みに与っていきたいと思います。10:32節をご覧ください。

【1】. わたしたちはエルサレムへ上って行く。

“一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。”

ダビデの町エルサレムには、エルサレム神殿がありました。イスラエルでは、過ぎ越しの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りを献げる時期になると、多くのユダヤ人が巡礼のためにこの町に訪れました。この時もちょうど、過ぎ越しの祭りの時期に当たります。神殿が建てられているこの丘が、最も標高が高い訳ではありませんが、人々は必ずエルサレムに「上る」という表現を使います。それは、この場所が、神様が「わたしの名を置く」と言われた場所であり、実際の標高に関係なく、最も重要な場所、最も高い場所として認識されていたということなのでしょう。そのエルサレムへ上って行かれる途中で、イエス様が先頭に立って進んで行かれる姿を見て、「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」とあります。なぜ驚き恐れたのかは、はっきり分かりませんが、おそらく弟子たちは近づきつつある神の国を期待していたものの、いざエルサレムに上って行くならば大祭司や貴族階級との摩擦や、衝突を避けることができないと考えたと思われます。或いは、エルサレムの宗教指導者たちは信頼できたとしても、エルサレムに駐在しているローマ兵に対し恐れを抱いていたのかも知れません。先頭を進んで行かれるイエス様を見て、弟子たちは快諾できない気持ち、不安のような気持ちを感じたのだと思います。そこでイエス様は十二弟子を呼び寄せて、エルサレムでお受けになるご自身の受難について語り出しました。小見出しに「イエス、三度自分の死と復活を予告する」とありますように、この箇所はイエス様の三度目の受難告知です。33~34節をご覧ください。

“「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」”

語りだしの冒頭部分で、「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。」とあります。イエス様お一人ではなく、「私たち」がエルサレムに上って行くのです。これは「さあ一緒に私についてきなさい!」という掛け声のようにも聞こえてきます。一回目と二回目の受難告知にはなかったイエス様の掛け声が、響いて来るようです。イエス様はエルサレムへの巡礼の道を、弟子たちと共に歩みたい。そしてエルサレムで過ごすことになる最後の一週間を、弟子たちと共に過ごしたいと思われたのだと思います。一回目、二回目に比べると、今回の三回目は、より詳細に語られています。死刑宣告され、見物人から侮辱され、異邦人によって唾をかけられ、鞭打ちが起こる。誰によってどのように排斥され、殺されるのか、非常に生々しく語られています。主イエスはこれからエルサレムで起こることを、それほど的確に把握しておられました。その上で、エルサレムへ向けて、顔を上げて、先頭を切って進まれるのです。驚くことはない、恐れることはないと、主は語られるのです。エルサレムへの巡礼の道とは、十字架と復活の道であることを誰よりもイエス様はご存じでした。そして、この道をイエス様は弟子たちと共に歩みたいと願っておられるのです。

【2】. 弟子たちの無理解

一方、弟子たちの側では、自分たちが従っているイエス様がそのような仕方で殺されてしまうというのは大変なことであります。このまま従っていても、意味がないのではないか?我々に未来はないのではないか?という不安はなかったのでしょうか。弟子たちが、神の国の樹立を信じイエス様に従い続けることができたのは、主イエスが最終的には勝利することになると考えていたからだと思われます。死ぬほどの苦難を受けることはあっても、それはあくまで比喩であり、苦難を通して、神が遣わしてくださったメシアとしての復活の力と栄光が現わされ、結局は勝利するのだと思っていたに違いありません。三度の受難告知の中で、共通する言葉が使用されています。それは、「人の子」「殺す、殺される」、そして「三日の後に復活する」という言葉です。「人の子」という言葉は、イエス様がご自分を指す時に好んで使う呼称ですが、ダニエル書には、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み権威、威光、王権を受けた。(7:13-14)という御言葉があります。弟子たちがこの時点で「人の子」について、或いは「死と復活」について、正確に理解していたとは、到底考えることはできませんが、しかし、イエス様がこれから受けようとしている受難は、敗北で終わるものではなく、奇跡が起こり勝利するに違いない。権威、威光、王権を受けて、高く挙げられるに違いないと考えていたのです。イエス様の側近であるペトロとヨハネとヤコブの三人は、実際にイエス様が神的な栄光のお姿に変貌されたのを目撃したことがありました。ですから、十二弟子たちは主イエスがエレサレムへと先頭に立って進んで行かれるのを、単に、驚き恐れているだけではなかったと思われるのです。だからこそ、ヤコブとヨハネから次のような願いが出てきたのではないでしょうか。35~37節をご覧ください。

“ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」”

ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出てイエス様に言いました。非常に堂々としています。「イエス様に従っていく覚悟はできています。イエス様に従ってエルサレムの宗教指導者たちと最後まで戦い、或いはローマの兵士たちと最後まで戦闘を交える覚悟はできています。どうぞ神の国が樹立された暁には、最も重要なポストを我々に与えてください」ということです。この思いは、自らの力によって、自らの功労によって、永遠の命を手に入れようとした青年の思いと重なって見えてきます。もしかしたら10:28において、ペトロが「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。」と言ったのも、まったく同じ思いであったのかも知れません。イエス様は、この野心に満ちた弟子たちに優しく教え諭してくださいました。38節をご覧ください。

“イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」”

ここでイエス様の言われた「わたしの飲む杯」「わたしが受ける洗礼」とは、一体何なのでしょうか。杯と言えば、イエス様はこの後、ゲツセマネの園で「この杯をわたしから取りのけてください」と祈られます。また、旧約聖書を見ると「神の怒りの杯」という表現が何度も出てまいります(詩60:5、75:9、イザ51:17、51:22、エレ25:15-29、49:12哀4:21、ゼカ12:2など)。例えばエレミヤ25:15をご覧ください。

“それゆえ、イスラエルの神、主はわたしにこう言われる。「わたしの手から怒りの酒の杯を取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々にそれを飲ませよ。”

イエス様が飲まれる「杯」とは、神の怒りが並々と注がれた神の裁きのことであります。十字架上においてイエス様が飲み干される杯です。これを、聖餐式の「杯」と勘違いしてはなりません。次に、イエス様の受ける洗礼とありますが、この洗礼と訳されているギリシア語「バプティスマ」は、本来「水に沈められること」を意味します。ですから、これも大水に飲み込まれるような苦難を現しているということです。従ってイエス様の言われる「わたしの飲む杯」「わたしが受ける洗礼」とは、ご自身がエルサレムでお受けになる苦難と死を意味しているのです。その苦難と死を、あなた方が同じように受けることができるのかと聞いているのです。マルコ15章には、イエス様が十字架につけられる記事がございますが、この時、イエス様がユダヤ人の王であることが明らかにされました。15:25~27節を調べてみましょう。

“イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。”

十字架につけられたイエス様の頭の上には「ユダヤ人の王」という罪状書きが掲げられています。この言葉は、たとえ罪状書きではありますが、真実の言葉のように思われます。イエス様がユダヤ人の王であることは、十字架においてこそ、はっきり示されたのです。従って、イエス様にとって十字架こそが栄光の座であったと言えるでしょう。そして、その栄光の座に、二人の強盗が左右に十字架につけられました。実際、イエス様がユダヤの当局者たちに捕らえられると、ペトロをはじめ、12弟子は全員、一目散に逃げてしまいますが、ヤコブとヨハネが願い出た内容とは、文字通り捉えるなら、この左右に十字架に架けられた二人の強盗の場所であったということが、後に判明することになるのです。あの時、イエス様が「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」と言われたのは、このような自分たちの無理解を指摘していたのだと後で気づいたことでしょう。弟子たちがどんなに「覚悟はできております」と言ってみても、十字架と復活を通してでなければ、イエス様の受難の意味は決して弟子たちに理解されないのです。十字架と復活を通してでなければ、弟子たちは自分の力によってイエス様に従って行こうとすることを止めることができず、そして、そのような状態にいる限り、いつまでも、誰が大いなる者なのか、序列について互いに論じ合うことを止めることができないのです。弟子たちにおいて、後の者が先になり、先の者が後になるということをどうしても理解することができないのであります。

主イエスは、やがて弟子たちがつまずくことをよく知っておられました。その上で「あなた方とエルサレムへ向けて進むのだ。恐れることはない。」と語ってくださるのです。「後の者が先になり、先の者が後になる」、そのことを弟子たちが本当に学ぶために、十字架への道を、主イエスと共に歩む体験がどうしても必要でありました。そして、弟子たちはその道につまずき、文字通り、先にいたものであった彼らが、後の者にされるのです。しかし、主は後の者たち、小さき者たちを顧みてくださいます。散らされた弟子たちを、決して見捨てることはありません。「弟子たちが十字架の道に、従ってくることができなくても、一時散らされることはあっても、復活の私と出会うなら、必ず立ち直ることができる。」主イエスにそのような確信があったのだと思われます。だからこそ、エルサレムへの巡礼の旅を弟子たちと共に歩みたい、どのような形であれ、エルサレムへ向かう道を弟子たちと共に歩み、弟子たちの心に、その失敗体験を刻んでほしいと、イエス様は願っておられるのです。主イエスに従う道とは、実は、弟子たちの力で歩むのではなく、先を導き、案内して下さる羊飼いのような、主イエスと共に歩む道であるということを知らされるのであります。羊の群れように、ただその羊飼いの御声に従って行けばいいということを学ぶのであります。

【結論】

エルサレムへ向かう主イエスに従う道とは、十字架に架けられる道でありました。その道は、栄光の神の国に入れられる道であり、百倍の祝福を受ける道でありますが、同時に迫害を受ける道であり、弟子たちにおいて躓きであり、後の者にされる道でもありました。私たちの信仰生活も弟子たちが共に進んで行ったエルサレムへの巡礼の旅と同じです。そのプロセスにおいて必ず苦難があります。迫害があります。一時つまずくこともあるかもしれません。しかし、主イエスが私たちの羊飼いとして導いてくださる道であり、全責任を主イエスが負ってくださり、必ず幸いに至る道なのであります。苦難をスキップして、神の国の栄光だけ先取りすることはできませんが、苦難の先に復活の希望が輝いていることを信じ、羊飼いである主イエスの後ろ姿に子供のように、羊のように、従って行く私たちとならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

우리가 예루살렘에 올라가노니

2024년 2월 18일 센겐다이 교회 주일설교 카와에 토모아키목사

마가복음 10장 32~38절

서론

어린 아이처럼 예수님을 따름으로써 하나님 나라에 들어가게 된다라고 예수님은 제자들에게 가르치셨습니다. 그리고 집이나 형제나 자매나 어머니나 아버지나 자식이나 전토를 버리고 따라온 제자들에게 현세에서는 박해도 받지만 버린 것의 백 배를 받을 것, 그리고 내세에 영생을 받지 못할 자가 없다는 것을 예수님은 「아멘」이라는 말씀으로 보증해 주셨습니다. 「예수님을 따르라」이 말씀이 뜻하는 바는 「예루살렘을 향해 가시는 주 예수님을 따라가는 것」이라는 것이 오늘의 대목에서 밝혀집니다. 예루살렘에서 수난을 받으시는 예수님을 따라가는 것입니다. 주 예수님과 함께 가는 예루살렘 순례길을 통해 오늘 아침에도 말씀에서 은혜를 입고 싶습니다. 10장 32절을 보세요.

(1) 우리가 예루살렘에 올라가노니

예루살렘으로 올라가는 길에 예수께서 그들 앞에 서서 가시는데 그들이 놀라고 따른 자들은 두려워하더라 이에 다시 열두 제자를 데리시고 자기가 당할 일을 말씀하여 이르시되

다윗의 마을 예루살렘에는 예루살렘 성전이 있었습니다. 이스라엘에서는 유월절, 칠칠절, 장막절을 지킬 때가 되면 많은 유대인들이 순례를 위해 이 성읍을 방문했습니다. 이때도 마침 유월절 축제 시기에 해당합니다. 성전이 세워져 있는 이 언덕이 가장 높은 것은 아니지만 사람들은 반드시 예루살렘으로 「올라간다」는 표현을 씁니다. 그것은 바로 이 곳이 하나님께서 「내 이름을 두고자」라고 말씀하신 곳이며, 실제 고도에 관계없이 가장 중요한 곳, 가장 높은 곳으로 인식되고 있었다는 것일 것입니다. 그 예루살렘으로 올라오시는 길에 예수님이 앞장서서 나아가시는 모습을 보고 「그들이 놀라고 따른 자들은 두려워하더라」라고 합니다. 왜 놀라고 두려워했는지는 분명하게 알 수 없지만, 아마도 제자들은 다가오는 하나님의 나라를 기대하고 있었지만, 막상 예루살렘으로 올라간다면 대제사장이나 귀족계급과의 마찰이나 충돌을 피할 수 없을 것으로 생각했을 것입니다. 또는 예루살렘의 종교 지도자들은 신뢰할 수 있었다고 해도 예루살렘에 주재하고 있는 로마 병사들에 대해 두려움을 가지고 있었을지도 모릅니다. 앞장 서 가시는 예수님을 보며 제자들은 편치 않은 마음, 불안한 마음을 느꼈을 것입니다. 그래서 예수님은 열두 제자를 불러들여 예루살렘에서 받으실 자신의 수난에 대해 이야기했습니다. 소 제목에 「죽음과 부활을 세번째로 이르시다」라고 나와 있듯이 이 대목은 예수님의 세 번째 수난 고지입니다. 33,34절을 보시기 바랍니다.

33 우리가 예루살렘에 올라가노니 인자가 대제사장들과 서기관들에게 넘겨지매 그들이 죽이기로 결의하고 이방인들에게 넘겨 주겠고

34 능욕하며 침 뱉으며 채찍질하고 죽일 것이나 그는 삼 일 만에 살아나니라 하시니라

이야기의 첫머리 부분에서 「우리가 예루살렘에 올라가노니」라고 되어 있습니다. 예수님 혼자가 아니라 「우리가」예루살렘에 올라간다는 것입니다. 이것은 “자, 같이 나를 따르라!”라는 구호처럼 들려옵니다. 1,2차 수난 고지에는 없던 예수님의 구호가 울려 퍼지는 것 같습니다. 예수님은 예루살렘으로 가는 순례길을 제자들과 함께 걷고 싶으시고 예루살렘에서 보내게 될 마지막 한 주를 제자들과 함께 보내고 싶으셨던 것 같습니다. 첫 번째, 두 번째에 비하면 이번 세 번째는 좀 더 상세하게 이야기되고 있습니다. 사형 선고를 받고 구경꾼들로부터 모욕을 당하고 이방인들에 의해 침뱉음을 당하며 채칙찔을 받고 누구에 의해 어떻게 배척 당하고 죽임을 당하는 지 매우 생생하게 말씀하고 계십니다. 주 예수님은 앞으로 예루살렘에서 일어날 일을 그만큼 정확히 파악하고 계셨습니다. 그런 다음 예루살렘을 향해 고개를 들고 선두를 앞장서서 나아가시는 것입니다. 놀라지 말고 두려워하지 말라고 주님은 말씀하십니다. 예루살렘으로 가는 순례길이란 십자가와 부활의 길임을 누구보다 예수님은 알고 계셨습니다. 그리고 이 길을 예수님은 제자들과 함께 걷고 싶어 하십니다.

(2) 제자들의 몰이해

반면 제자들 편에서는 자신들이 따르는 예수님이 그런 식으로 죽임을 당하고 만다는 것은 큰일입니다. ‘이대로 따라가도 의미가 없는 것이 아닌가? 우리에게 미래는 없지 않은가?’ 라는 불안감을 없었던 것일까요? 제자들이 하나님의 나라의 수립을 믿고 예수님을 계속 따를 수 있었던 것은 주 예수님이 결국 승리하게 될 것이라고 생각했기 때문인 것으로 보입니다. 죽을 정도의 고난을 당하기는 해도 그것은 어디까지나 비유이며 고난을 통해 하나님께서 보내주신 메시아로서의 부활의 힘과 영광이 나타나 결국은 승리하는 것이라고 생각했을 것입니다. 세 번의 수난 고지 중에서 공통된 말이 사용되고 있습니다. 바로 「인자」,「죽이다, 죽임을 당하다」, 그리고 「사흘 후에 부활한다」라는 말입니다. 「인자」란 말은 예수님이 자신을 지칭하실 때 즐겨 쓰는 호칭인데 다니엘서에는 「내가 또 밤 환상 중에 보니 인자 같은 이가 하늘 구름을 타고 와서 옛적부터 항상 계신 이에게 나아가 그 앞으로 인도되매 그에게 권세와 영광과 나라를 주고(다니엘 7장 13,14절)」 라는 말이 있습니다. 제자들이 이 시점에서 인자에 대해 혹은 죽음과 부활에 대해 정확히 이해하고 있었다고는 도저히 생각할 수 없지만, 그러나 ‘예수님이 앞으로 받으려는 수난은 패배로 끝나는 것이 아니라 기적이 일어나 승리할 것임에 틀림 없다. 권위, 위광, 왕권을 받아서 높이 들릴 수 있을 것’이라고 생각했던 것입니다. 예수님의 측근인 베드로와 요한과 야곱 세 사람은 실제로 예수님이 신적인 영광스러운 모습으로 변모된 것을 목격 한 적이 있었습니다. 그래서 열두 제자들은 주 예수님이 예루살렘으로 앞장서서 가시는 것을 단순히 놀라고 두려워하고 있는 것만은 아니었던 것으로 생각됩니다. 그렇기 때문에 야곱과 요한에게서 다음과 같은 소원이 나온 것이 아닐까요. 35~37절을 보시죠.

35 세배대의 아들 야고보와 요한이 주께 나아와 여짜오되 선생님이여 무엇이든지 우리가 구하는 바를 우리에게 하여 주시기를 원하옵나이다

36 이르시되 너희에게 무엇을 하여 주기를 원하느냐

37 여짜오되 주의 영광중에서 우리를 하나는 주의 우편에, 하나는 좌편에 앉게 하여 주옵소서

세배대의 아들 야곱과 요한이 나서서 예수님께 말했습니다. 아주 당당합니다. 예수님을 따라갈 각오가 돼 있습니다. “예수님을 따라 예루살렘의 종교 지도자들과 끝까지 싸우거나 로마 병사들과 끝까지 전투를 벌일 각오가 되어 있습니다. 부디 하나님의 나라가 수립된 새벽에는 가장 좋은 자리를 우리에게 주십시오”라고 하는 것입니다. 이 생각은 스스로의 힘으로 스스로의 공로로 영원한 생명을 얻고자 했던 청년의 생각과 겹쳐 보입니다. 어쩌면 10장 28절에 배드로가 「우리가 모든 것을 버리고 주를 따랐나이다」라고 말한 것도 똑같은 생각이었을지도 모릅니다. 예수님은 이 야심찬 제자들에게 다정하게 가르쳐 주십니다. 38절을 보시겠습니다.

예수께서 이르시되 너희는 너희가 구하는 것을 알지 못하는도다 내가 마시는 잔을 너희가 마실 수 있으며 내가 받는 세례를 너희가 받을 수 있느냐

여기서 예수님이 말씀하신 「내가 마시는 잔」, 「내가 받는 세례」는 도대체 무엇일까요? 잔이라고 하면 예수님은 이 후에 겟세마네 동산에서 「이 잔을 내게서 지나가게 하옵소서」라고 기도하십니다. 또 구약성경을 보면 「하나님의 진노의 술잔」이라는 표현이 자주 나옵니다. 예를 들어 예레미야 25장 15절을 보시기 바랍니다.

이스라엘의 하나님 여호와께서 이같이 내게 이르시되 너는 내 손에서 이 진노의 술잔을 받아가지고 내가 너를 보내는 바 그 모든 나라로 하여금 마시게 하라

예수님이 마시시는「잔」은 하나님의 진노가 가득 담긴 하나님의 심판을 말합니다. 십자가에서 예수님이 다 마셔버리는 잔입니다. 이를 성찬식의 「잔」으로 착각해서는 안 됩니다. 그 다음에 예수님이 받는 세례라고 하는데, 이 세례라고 번역되어 있는 헬라어 「밥티스마」는 본래 「물에 잠기는 것」을 의미합니다. 그래서 이것도 큰 물에 휩쓸리는 듯한 고난을 나타내고 있다는 것입니다. 따라서 예수님께서 말씀하시는 「내가 마시는 술잔」, 「내가 받은 세례」란 자신이 예루살렘에서 받는 고난과 죽음을 의미하는 것입니다. 그 고난과 죽음을 너희가 똑같이 받을 수 있냐고 물으시는 것입니다. 마가복음 15장에는 예수님이 십자가에 못 박히는 기사가 있는데, 이때 예수님이 유대인의 왕임을 밝혀졌습니다. 15장 25~27절을 알아봅시다.

25 때가 제삼시가 되어 십자가에 못 박으니라

26 그 위에 있는 죄패에 유대인의 왕이라 썼고

27 강도 둘을 예수와 함께 십자가에 못 박으니 하나는 그의 우편에, 하나는 좌편에 있더라

십자가에 못박힌 예수님의 머리 위에는 「유대인의 왕」이라는 죄목이 걸려 있습니다. 이 단어는 비록 죄상이지만 진실된 말처럼 생각됩니다. 예수님이 「유대인의 왕」이라는 것은 십자가에 못 박혀서야 분명히 나타났던 것입니다. 따라서 예수님께 십자가야말로 영광의 자리였다고 할 수 있습니다. 그리고 그 영광의 자리에 두 명의 강도가 좌우로 십자가에 못 박혔습니다. 사실 예수님이 유대 당국자들에게 사로잡히자 베드로를 비롯한 열두 제자는 모두 쏜살같이 도망치는데, 야곱과 요한이 소원한 내용이란 말 그대로 파악한다면 이 좌우에 십자가에 못 박힌 두 강도의 장소였다는 것이 나중에 밝혀지게 되는 것입니니다. 그때 예수님이 「너희는 너희가 구하는 것이 무엇인지 알지 못하는도다」라고 말씀하신 것은 이러한 자신들의 몰이해를 지적하고 계셨던 것을 뒤늦게 깨달았을 것입니다. 제자들이 아무리 “각오는 되어 있습니다”라고 말해도 십자가와 부활을 통해서가 아니라면 예수님의 수난의 의미는 결코 제자들에게 이해되지 않는 것입니다. 십자가와 부활을 통해서가 아니면 제자들은 자신의 힘으로, 예수님을 따르고자 하는 것을 멈출 수 없고, 그리고 그런 상태에 있는 한 언제까지나 누가 큰 자인지 서열에 대해 서로 논쟁하는 것을 멈출 수 없는 것입니다. 제자들에게 있어서 먼저 된 자로서 나중 되고 나중 된 자로서 먼저 된다는 것을 도저히 이해할 수가 없는 것입니다.

주 예수님은 앞으로 제자들이 넘어질 것을 잘 알고 계셨습니다. 그럼에도 「우리가 예루살렘에 올라가노니 두려워할 것이 없다」라고 말씀해 주시는 것입니다. 「먼저 된 자가 나중 되고 나중 된 자가 먼저 된다」는 그것을 제자들이 진정으로 배우기 위해 십자가로 가는 길을 주 예수님과 함께 걷는 체험이 꼭 필요했습니다. 그리고 제자들은 그 길에 걸려 넘어지고, 말 그대로 먼저 된 자가 나중 된 자가 되는 것입니다. 그러나 주님은 나중 된 자들, 작은 자들을 보살펴 주십니다. 흩어진 제자들을 결코 저버리지 않습니다. “제자들이 십자가의 길을 따라오지 못하더라도 일시 흩어지기는 해도 부활한 나를 만난다면 반드시 다시 일어설 수 있다”, 주 예수님께 그런 확신이 있었던 것으로 보입니다. 그렇기 때문에 예루살렘 순례 여행을 제자들과 함께 걷고 싶은, 어떤 형태로든 예루살렘으로 가는 길을 제자들과 함께 걸어 제자들의 마음에 그 실패 체험이 새겨지기를 예수님은 바라시는 것입니다. 주 예수님을 따르는 길이란 사실 제자들의 힘으로 걷는 것이 아니라 선두에서 인도하고 안내해 주시는 목자와 같은 주 예수님과 함께 걷는 길임을 알게 되는 것입니다. 양떼처럼 그저 그 목자의 목소리를 따라가면 된다는 것을 배우는 것입니다.

결론

예루살렘으로 가는 주 예수님을 따르는 길은 십자가에 못 박히는 길이었습니다. 그 길은 영광스러운 하나님의 나라로 들어가는 길이요, 백 배의 복을 받는 길이지만, 동시에 박해받는 길이요, 제자들에게는 실패하는 길이요, 나중 되는 자가 되는 길이기도 했습니다. 우리의 믿음생활도 제자들이 함께 올라가던 예루살렘 순례 여행과 같습니다. 그 과정에서 반드시 고난이 있을 것입니다. 박해가 있습니다. 한 때 실패하고 넘어질지도 모릅니다. 그러나 주 예수님께서 우리의 목자로 인도해 주시는 길이고, 모든 책임을 주 예수님께서 져주시고 반드시 복에 이르는 길인 것입니다. 고난을 건너뛰고 하나님 나라의 영광만 선점할 수는 없지만 고난 끝에 부활의 희망이 빛나고 있음을 믿고, 목자이신 주 예수님의 뒷 모습을 아이처럼, 양처럼 따라가는 우리가 되도록 합시다.

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