2024年01月21日「火で塩味を付けられる 불로써 소금 치듯 함을 받으리라」

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火で塩味を付けられる 불로써 소금 치듯 함을 받으리라

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 9章42節~50節

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聖句のアイコン聖書の言葉

9:42「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
9:43もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
9:45もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。
9:47もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。
9:48地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:49人は皆、火で塩味を付けられる。
9:50塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 9章42節~50節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

「誰が一番大いなる者なのか」という弟子たちの議論をきっかけに、イエス様の教えが始まりました。神の国において、大きさを追求することは、危険の伴うことであります。例えば、宣教が拡大し、人々が教会に来るようになることは、大変喜ばしいことですが、しかし、悔い改めを後回しにして、キリスト教文化だけを根付かせようとすること、或いは、キリスト教をマイナーな領域から、よりメジャーな領域へ移行させようとし、世に迎合しながら、より身近に受け入れられよう努力することは、常に危険が伴います。そこには、信仰の躓きがあるからです。初代教会における異端の問題、あるいは現代における教会のカルト化の問題は、まさにそのことを表しているのではないでしょうか。本日の箇所では、イエス様に属する者は、大きさを追求するのではなく、火で塩味を付けられることが大切であるということが書かれています。本日も与えられた御言葉から恵みに与っていきたいと思います。

【1】. 命にあずかるため

9:42~47節には、共通するフレーズが出てきます。それは「つまずかせる」という言葉と、「~する方がよい」という言葉です。途中で数節抜けている節がありますが42~47節をご覧ください。

“「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。”

ご覧のように「つまずかせる」という言葉と、そして「~する方がよい」が反復して出てまいりました。最初に42節には、大きな石臼とあります。これは、脱穀するために、ロバに挽かせるための大きな円盤の形をした石のことです。もし、イエス様を信じる小さな者の一人をつまずかせるなら、この大きな石臼を首にかけられて海に沈められた方が良いと語っているのです。大変過激な発言ですね。これは事の重大性を強調するための、誇張された表現であると考えられます。「つまずかせる」ことが、それほど深刻であるということです。それでは、この「つまずき」とは一体何なのでしょうか。「躓き」とは、英語のスキャンダルの語源にあたりますが、ただ、教会での信仰生活を「一時停滞させる」というような意味ではありません。私たちは普段、そのような意味で使用していますが、本日の箇所でイエス様が使用している「つまずき」という言葉は、もっと重たい意味が込められています。それは、信仰のつまずきには違いありませんが、「完全に信仰を失わせること」、「永遠の滅びに追いやること」を指しているようです。この、つまずかせるという態度は、イスラエルの民にイエス様を信じることを妨げたファリサイ派の人々と律法学者たちの態度に典型的に見られるものだと思います。当時、彼らはイスラエルの民から尊敬されていましたが、イエス様の働きについて、悪霊の頭の力で悪霊を追い出していると冒涜しました。そのために彼らは聖書の中で、イエス様から辛辣に批判されていると考えられるのであります。

さて、43節からは、今度は自分自身をつまずかせることに対する警告が書かれています。私たちは、この箇所に書かれている警告を文字通り受け入れることはできませんが、イエス様がここで語られた内容は、イエス様の時代から約200年過去に遡った事件を念頭に置かなければならないと注解書は指摘しています。約200年前、セレウコス朝シリアが、パレスティナ地域を支配していた時のことです。セレウコス朝シリアの王、アンティオコス4世エピファネスは、エルサレムに攻め上り、エルサレム神殿にゼウスの祭壇を築くという暴挙を働きました。それだけではありません。第二マカバイ書7章に詳しく書かれていますが、ある時、エピファネス王が、あるユダヤ人の家族を捉え、そして律法で禁じられている豚肉を口にするよう強要しました。しかし、捉えられた家族の長男は、次のように言っています。旧約続編の第二マカバイ7:2をご覧ください。抜粋のプリントをご覧ください。

“…いったいあなたは、我々から何を聞き出し、何を知ろうというのか。我々は父祖伝来の律法に背くくらいなら、いつでも死ぬ用意はできているのだ。”

このように、豚肉を食べることを拒否しました。この言葉に王は激怒し、彼の手足を切断するよう命じ、彼の母親の前で舌を切り、頭の皮をはぎ、その上、からだのあちらこちらをそぎ落とし、見るも無残になった彼を、息のあるうちに煮立ったかまどに投げ入れ、殺してしまいました。続いて、二男、三男と次々に殺されていきました。最後に七人目の子供がまだ生きていた時に、王は「もし先祖の慣習を捨てるなら、富と最高の幸福を保障し、王の友人として遇し、仕事も与えよう」と約束しました。ところがこの七人目の息子も、次のように言い残しています。第二マカバイ7:34~38をご覧ください。

“不信心で、人類のうち最も汚れた者よ、あなたは天の子らの上に手を振り上げ、むなしい望みを掲げてしたいほうだいのことをしているが、思い上がりも程々にしたらどうか。あなたはまだ、全能にしてすべてを見通される神の裁きから逃れおおせたわけではない。わたしたち兄弟は、永遠の命のために、つかの間の苦痛を忍び、神の契約の下に倒れたのだ。だがあなたは、神に裁かれ、その高慢さに似合った罰を受けるがいい。わたしも、兄たちに倣って、この肉体と命を、父祖伝来の律法のために献げる。神が一刻も早く、わが民族に憐れみを回復し、また、あなたには苦しみと鞭を与えて、この方こそ神であるとあなたが認めるよう、わたしは願っている。わたしたち一族の者全員に、正しくも下された全能の神の怒りが、どうかわたしとわたしの兄弟たちをもって終わるように。”

彼らは律法を愛し、そして律法に約束されている神の国に入れられ、命に与るために、片方の手が切られも、片方の足が切られも、片方の目がえぐられながらも、殉教の道を選んでいったのです。私たちに同じようなことをせよということでは決してありませんが、旧約の時代、神様のみ言葉である律法を愛することは、私たちがイエス様を愛することと同義であったと言えるでしょう。詩編などを見るとダビデがどれほど律法を愛していたのかが分かります。つまり、彼らは律法を愛することを通して、イエス・キリストを愛し、イエス・キリストの約束を信じ、苦難と試練に甘んじたということなのです。どんなに犠牲が大きくても、地獄ではなく神の国に入れられること、そして復活の命に与ることが、いかに価値があるのかを、思わずにはいられません。

【2】. 永遠の火の刑罰

続いて、9:48節をご覧ください。

“地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。”

「地獄」という言葉が何度も出てきておりますが、ギリシア語ではゲヘンナと書かれています。ゲヘンナとは、アラム語の「ゲ ヒンナムגֵֽי־הִנֹּם֙(即ち、ヒノムの谷)」という言葉から由来していて、エルサレム神殿の南西側に位置した、谷の名前でありました。この場所は、かつてアハズ王やマナセ王が、偶像の神モレクに、人身御供として子供たちを捧げた場所でもありました。しかし、その後、マナセの孫であるユシヤ王が、宗教改革を起こして、この忌まわしい場所をごみの焼却炉としてしまいました。それ以来、ヒノムの谷、ゲヘンナでは、火が絶えず燃え続けるようになり、ゴミを焼却した煙がモクモクと立ち上がる場所となりました。ヒノムの谷、ゲヘンナという名前は、その後、終末の裁きの象徴となったということです。消えることのない火は、神の怒りを象徴し、最後の審判を意味しているのです。因みに現在、サタンや悪霊がとどめられている場所は、陰府ハデスἁδηςとか、監獄φυλακη、或いは、深淵ἀβυσσοςと呼ばれ、この場所はゲヘンナとは区別されます。ゲヘンナとは終末論的な意味を持っていて、現在はまだ現れていないということです。主の日、最後の審判の後、主に背いた者たち、サタンや悪霊たち、イエス様に結ばれていない者たちが、このゲヘンナで、蛆が絶えず、火が消えることないその場所で、永遠の火の刑罰を受け、そこで泣いて歯ぎしりすることになるのです。その場所は、第二の死の場所とも呼ばれています。黙示録21:8をご覧ください。

“しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。”

近年、死刑廃止論が叫ばれ、人道主義的な思想が持てはやされる中で、この「地獄の刑罰」の教理に対し、まったく異なる見解が登場してきました。これまでの伝統的な教理に修正が加えられ、「地獄(ゲヘンナ)なんて存在しない!」と主張する人々が出て来たのです。しかし聖書には、いつか、すべての人が、即ち、万民が救われるだろうとは教えていません。聖書はいつか、サタン、悪霊たちまで救われるだろうとは教えていません。イエス・キリストがご自身の贖いの死によって成就した天国とは、私たちをそこから解放しなければならない地獄を前提にしているのであります。イエス様が私たちに与えられた永遠の命は、私たちをそこから救い出さなければならない永遠の死、第二の死を前提にしているのです。私たちが永遠に享受することになる神の慈しみは、罪人である私たちが本来受けるべき神の御怒りを前提にしているのです。ですから、私たちは決して、最後の審判そのものを否定したり、ゲヘンナ(つまり、永遠の火の刑罰)を否定することはできないのであります。

【3】. 塩味を付けられる

続いて49~50節をご覧ください。ここでは塩気を持つことの大切さが書かれています。

“人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。”

この箇所は、少し意味が飛躍したような感じを受けますが、永遠の火の刑罰とは、火による清めであるということをしっかりおさえるなら、全体が理解できると思います。ヒノムの谷の焼却炉からモクモクと立ち上った煙とは、清めを表しているということです。塩は昔から、大変貴重なものでありました。古代ローマでは、兵隊に対する給料を塩で支払ったことがあるようです。そのため、英語のサラリーという言葉は、ソールトに由来しているとのことです。また、塩には腐敗を防ぐ働きがありまして、今日においても野菜を塩漬けにしたり、魚を塩漬けにしたりいたしますね。塩は清めるために用いられるのです。旧約聖書を見ますと神様に供え物を献げる際、塩が一振り掛けられていたというみ言葉もございます(レビ記2:13)。聖別するために塩が用いられたということです。

私たちの生活の中で、腐るという現象はありふれた現象ですが、実は神さまの目から見た時に、腐るということは、異常現象であり、それは罪と関係しています。本来、神さまが創造された被造物は、それ自体で美しく、それ自体で完全で、良かったのですが、アダムとエバを通して罪が入ってきたために、神の被造物に腐敗が進行するようになったのです。神様は最終的に、この腐敗に終止符を打たれ、火による清めの働きをされるのですが、その火が、キリストに属さない者に対しては、最後の審判の後、ゲヘンナの火によってなされるのです。キリストに属するものは、キリストの清めの火に服従し、塩味を付けられるために、ゲヘンナの火を避けることになります。つまり、「火で塩味を付けられる」とは、イエス様の御足に従う弟子たちが、この世で体験する苦難であり、狭い道、いばらの道から進んでいった者たちに降りかかる、試練のことを指しているのだと思います。キリストの御足に従う者とは、この世にあって、栄光と勝利の道を歩んでいくのではなく、自分の十字架を負いながら、小さき者として、辱めと嘲りの道を歩んで行きます。その道は、まさにキリストの清めの火によって塩味を付けられた歩みとなるのです。しかし、その道は平和をもたらし、相手を自分より優れていることを認め、謙遜な歩みへと導かれる道なのです。

【結論】

大きさを追求する問題、世に迎合し、受け入れられるようとする問題は、初代教会の異端や、現代の教会のカルト化に直結しています。傲慢な思い、自分第一で物事を考えること、他人への無関心と、人を自分に支配させようとする態度は、すべて、自分が大いなる者になろうとする思いから出てまいります。この大きさを追求することは、つまずきをもたらし、つまずきは、地獄の火へと至らしめるのであります。私たちは普段、あまりにもこの世で自明な価値感とこの世で常識とされている考え方に捕らわれていて、それをそのまま受け入れてしまいがちであります。私たちは常に大いなる者になろうとし、拡大、成長に心が奪われてしまうのです。人々から無視されたくない、大変な思いをしたくないという気持ちはだれにでもあるでしょう。しかし私たちは、拡大、成長それ自体を目標に掲げるのではなく、キリストの清めの火によって、塩味を持つことを目標に掲げながら、歩ませていただきたいと思います。イエス様の語られた、み言葉によって弟子たちが大変な衝撃を受け、価値観がパラダイムシフトされたように、私たちもみ言葉によって心を新たにさせていただきたいと願う者であります。

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불로써 소금 치듯 함을 받으리라

2024년 1월 21일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

마가복음 9장 42~50절

서론

「누가 가장 큰 자인가」라는 제자들의 논의를 계기로, 예수님의 가르침이 시작되었습니다. 하늘 나라에 있어서 크기를 추구하는 것은 위험이 따르는 일입니다. 예를 들어 선교가 확대되고 사람들이 교회에 오게 되는 것은 매우 기쁜 일이지만, 그러나 회개를 뒤로 하고 기독교 문화만을 뿌리내리려는 것, 혹은 기독교를 마이너한 영역에서 더 메이저한 영역으로 이행시키려 하고, 세상에 영합하면서 더 친근하게 받아들여지도록 노력하는 것은 항상 위험이 따릅니다. 거기에는 믿음의 실족이 있기 때문입니다. 초대 교회에서의 이단의 문제, 혹은 현대교회의 컬트화의 문제는 바로 그것을 나타내고 있는 것이 아닐까요. 오늘의 본문은 예수님께 속한 사람은 크기를 추구하는 것이 아니라 불로써 소금 치듯 함을 받는 것이 중요하다는 것이 적혀 있습니다. 오늘도 주어진 말씀에서 은혜를 얻도록 하겠습니다.

(1) 영생에 들어가는 것

9장 42~47절에는 공통된 문구가 나옵니다. 그것은 「실족하게 하면, 범죄하게 하거든」이라는 단어와 「~것이 나으니라, ~것보다 나으니라」라는 단어입니다. 도중에 몇구절 빠진 절이 있는데 42~47절을 보시기 바랍니다.

42 또 누구든지 나를 믿는 이 작은 자들 중 하나라도 실족하게 하면 차라리 연자맷돌이 그 목에 매여 바다에 던져지는 것이 나으리라

43 만일 네 손이 너를 범죄하게 하거든 찍어버리라 장애인으로 영생에 들어가는 것이 두 손을 가지고 지옥 곧 꺼지지 않는 불에 들어가는 것보다 나으니라

44 (없음)

45 만일 네 발이 너를 범죄하게 하거든 찍어버리라 다리 저는 자로 영생에 들어가는 것이 두 발을 가지고 지옥에 던져지는 것보다 나으니라

46 (없음)

47 만일 네 눈이 너를 범죄하게 하거든 빼버리라 한 눈으로 하나님의 나라에 들어가는 것이 두 눈을 가지고 지옥에 던져지는 것보다 나으니라

보시는 것처럼 「실족하게 하면, 범죄하게 하거든」이라는 말과 「~것이 나으니라, ~것보다 나으니라」가 반복해서 나옵니다. 처음에 42절에서는 「연자맷돌」이라는 단어가 나옵니다. 이것은 탈곡을 하려고 곡식을 갈기 위해 나귀에게 돌리게 하는 큰 원반 모양의 돌을 말합니다. 만약 예수님을 믿는 작은 자 한 사람을 실족하게 한다면 이 큰 멧돌이 목에 매여 바다에 던져지는 것이 낫다고 말하는 것입니다. 굉장히 과격한 발언입니다. 이것은 일의 중대성을 강조하기 위한 과장된 표현이라고 생각됩니다. 「실족하게 하는 것」이 그만큼 심각하다는 것입니다. 그렇다면 이 「실족하게 하는 것」은 도대체 무엇일까요? 「실족」이란 영어의 스캔들의 어원에 해당하지만, 단지 교회에서의 신앙생활을 「일시 정체시킨다」는 의미는 아닙니다. 우리는 평소에 그런 의미로 사용하는데 오늘 예수님이 말씀하시는 「실족하게 하는 것」이라는 말은 더 무거운 의미를 담고 있습니다. 그것은 믿음을 실족시킴에는 틀림없지만, 「완전히 믿음을 잃는 것」, 「영원한 멸망으로 몰아가는 것」을 가리키는 것 같습니다. 이 실족하게 하는 태도는 이스라엘 백성들에게 예수님을 믿는 것을 방해한 바리새인들과 서기관들의 태도에서 전형적으로 볼 수 있는 것이라고 생각합니다. 당시 그들은 이스라엘 백성들의 존경을 받았는데, 예수님의 사역을 귀신의 왕 바알세블을 힘입어 귀신을 쫓아낸다고 모독했습니다. 그렇기 때문에 그들은 성경 속에서 예수님으로부터 신랄하게 비판을 받고 있다고 생각되는 것입니다.

자 43절부터는 이번에는 자기 자신을 범죄하게 하는 것에 대한 경고가 적혀 있습니다. 우리는 이 대목에 적혀 있는 경고를 문자 그대로 받아들일 수 없지만, 예수님이 여기서 말씀하신 내용은 예수님의 시대에서 약 200년전 과거로 거슬러 올라간 사건을 염두에 두어야 한다고 주해서는 지적하고 있습니다. 약 200년 전 셀레우코스 왕조의 시리아가 팔레스타인 지역을 지배하고 있을 때의 일입니다. 셀레우코스 왕조 시리아의 왕 안티오코스 4세 에피파네스는 예루살렘으로 처들어가 예루살렘 성전에 제우스의 신상을 세우고 번제단 위에 돼지고기 제물을 바치는 폭거를 했습니다. 그 뿐만이 아닙니다. 제2 마카베오 7장에 자세히 적혀 있는데, 어느 날 에피파네스 왕이 한 유대인 가족을 붙잡아서 율법으로 금지된 돼지고기를 입에 담도록 강요했습니다. 그러나 붙잡힌 가족의 장남은 다음과 같이 말하고 있습니다. 구약 외경의 제 2 마카베오 7장 2절을 보시기 바랍니다. 발췌한 프린트를 봐 주세요.

“..우리를 심문하여 무엇을 알아내려 하시오? 우리는 조상들의 법을 어기느니 차라리 죽을 각오가 되어 있소.”

이렇게 돼지고기를 먹는 것을 거부했습니다. 이 말에 왕은 격분하여, 그의 손발을 절단하라고 명령하고 그의 모친의 앞에서 혀를 자르고, 머리의 피부를 벗기고, 더 나아가서 몸의 여기저기를 떼어내, 보기에도 끔찍해진 그를 숨이 붙어 있을 때 뜨겁게 달군 솥에 던져 죽이고 말았습니다. 이어 둘째, 셋째가 차례로 죽임을 당했습니다. 마지막으로 일곱째 아들이 아직 살아있을 때 왕은 “만일 조상들의 관습을 버린다면 재물을 많이 주어 행복스럽게 해줄 뿐 아니라 왕의 친구로 삼고 높은 관직까지 주겠다”고 하면서 말로 타이르기도 하고 맹세로써 약속까지 하였습니다. 그런데 이 일곱 번째 아들도 다음과 같은 말을 남기고 있습니다. 제 2 마카베오 7장 34~38절을 보시기 바랍니다.

34 그러나 당신은 불경스럽고 모든 사람 중에서 가장 더러운 인간이오. 하느님의 아들들에게 손을 대며 공연히 우쭐대거나 터무니없는 망상으로 자만하지 마시오.

35 당신은 모든 것을 보시는 전능하신 하느님의 심판하시는 손길에서 벗어나지 못합니다.

36 우리 형제들은 잠깐 동안 고통을 받은 후에 하느님께서 약속해 주신 영원한 생명을 실컷 누리겠지만 당신은 그 교만한 죄에 대한 하느님의 심판을 받아서 응분의 벌을 받게 될 것이오.

37 나는 형들과 마찬가지로 우리 선조들이 전해 준 율법을 지키기 위해 내 몸과 내 생명을 기꺼이 바치겠소. 나는 하느님께서 우리 민족에게 속히 자비를 보여주시고, 당신에게는 시련과 채찍을 내리시어 그분만이 하느님이시라는 것을 인정하게 해주시기를 하느님께 빌겠소.

38 우리 민족 전체에게 내리셨던 전능하신 분의 정당한 노여움을 나와 내 형들을 마지막으로 거두어주시기를 하느님께 빌 따름이오.

그들은 율법을 사랑하고, 그리고 율법에 약속된 하나님의 나라에 들어가고, 영생을 얻기 위해 한 손이 잘려도, 한 발이 잘려도, 한 눈이 도려내어져도 순교의 길을 택했습니다. 우리에게 같은 일을 하라는 것은 결코 아니지만 구약 시대에 하나님의 말씀인 율법을 사랑하는 것은 우리가 예수님을 사랑하는 것과 같다고 말 할 수 있을 것입니다. 시편 등을 보면 다윗이 얼마나 율법을 사랑했는지 알 수 있습니다. 즉, 그들은 율법을 사랑함으로써 예수 그리스도를 사랑했고, 예수 그리스도의 약속을 믿었으며 고난과 시련을 감수했다는 것입니다. 아무리 희생이 크더라도 지옥이 아닌 하나님의 나라에 들어갈 수 있는 것, 그리고 부활의 생명을 얻은 것이 얼마나 가치가 있는지 생각하지 않을 수 없습니다.

(2) 영원한 불의 형벌

계속해서 9장 48절을 보시겠습니다.

거기에서는 구더기도 죽지 않고 불도 꺼지지 아니하느니라

「지옥」이라고 하는 단어가 여러 번 나왔지만, 헬라어로 게헨나라고 쓰여져 있습니다. 게헨나는 히브리어로 「게힌놈 גֵֽי־הִנֹּם֙ (즉, 골짜기를 뜻하는 게(ge)와 인명인 힌놈(Hinnom)이 합성된 힌놈의 골짜기란 뜻의 지명)」이라는 말에서 유래한 이름으로 예루살렘 성전의 남서쪽에 위치한 골짜기 이름이었습니다. 이것은 과거 아하스 왕이나 므낫세 왕이 우상인 신 몰렉에게 인신 공양으로 아이들을 바쳤던 곳이기도 했습니다. 그러나 그 후 므낫세의 손자인 요시야 왕이 종교개혁을 일으켜 이 꺼림직한 장소를 쓰레기 소각로로 만들어 버렸습니다. 그 이후 힌놈의 골짜기, 게헨나에서는 불이 끊임없이 타오르게 되고 쓰레기를 소각한 연기가 뭉게뭉게 피어오르는 곳이 되었습니다. 힌놈의 골짜기, 게헨나라는 이름은 그 후 종말의 심판의 상징이 되었다는 것입니다. 꺼지지 않는 불은 하나님의 진노를 상징하고 최후의 심판을 의미하는 것입니다. 덧붙여서 현재, 사탄이나 악령이 머물고 있는 장소는 하데스ἁδης라든가, 옥φυλακη, 혹은 구덩이 ἀβυσσος라고 불리며 이 장소는 게헨나와는 구별됩니다. 게헨나는 종말론적인 의미를 가지고 있고, 현재는 아직 나타나지 않고 있다는 것입니다. 주의 날, 마지막 심판 후에 주님을 거역한 자들, 사탄이나 악령들, 예수님께 속하지 않은 자들이 이 게헨나에서 구더기가 끊이지 않고 불이 꺼지지 않는 그 곳에서 영원한 불의 형벌을 받고 거기서 울며 이를 갈게 되는 것입니다. 그 장소는 둘째 사망의 장소라고도 불립니다. 요한계시록 21장 8절을 보시기 바랍니다.

그러나 두려워하는 자들과 믿지 아니하는 자들과 흉악한 자들과 살인자들과 음행하는 자들과 점술가들과 우상 숭배자들과 거짓말하는 모든 자들은 불과 유황으로 타는 못에 던져지리니 이것이 둘째 사망이라

근래, 사형 폐지론이 외쳐지고 인도주의적인 사상이 인기를 끄는 가운데 이 「지옥의 형벌」의 교리에 대해, 전혀 다른 견해가 등장해 왔습니다. 지금까지의 전통적인 교리에 수정이 가해져 「지옥(게헨나) 같은 것은 존재하지 않는다!」라고 주장하는 사람들이 나온 것입니다. 그러나 성경에는 언제가 모든 사람이, 즉 만민이 구원 받을 것이라고는 가르치지 않습니다. 성경은 언젠가 사탄, 악령들까지 구원받을 것이라고는 가르치지 않습니다. 예수 그리스도가 자신의 속죄의 죽음으로 성취한 천국이란, 우리를 거기에서 해방시켜야 하는 지옥을 전제로 하는 것입니다. 예수님이 우리들에게 주신 영원한 생명은 우리를 거기서 구해내야 하는 영원한 죽음, 둘째 사망을 전제를 하고 있기 때문입니다. 우리들이 영원히 누리게 될 하나님의 인자하심은, 죄인인 우리들이 본래 받아야 마땅할 하나님의 거룩한 진노을 전제로 하고 있는 것입니다. 그렇기 때문에 우리들은 결코 최후의 심판 그 자체를 부정하거나 게헨나(즉, 영원한 불의 형벌)를 부정할 수 없습니다.

(3) 소금치듯 함을 받으리라

계속해서49, 50절을 보시겠습니다.

49 사람마다 불로써 소금 치듯 함을 받으리라

50 소금은 좋은 것이로되 만일 소금이 그 맛을 잃으면 무엇으로 이를 짜게 하리요 너희 속에 소금을 두고 서로 화목하라 하시니라

이 부분은 조금 의미가 비약된 듯한 느낌을 받지만, 「영원한 불의 형벌」이란 「불에 의한 정화」라는 것을 확실히 해 둔다면 전체가 이해될 것입니다. 힌놈의 골짜기의 소각로에서 뭉게뭉게 피어오르는 연기는 정결을 나타내고 있는 것입니다. 소금은 옛날부터 매우 귀중한 것이었습니다. 고대 로마에서는 군인에 대한 월급을 소금으로 지불한 적이 있는 것 같습니다. 그래서 영어의 샐러리라는 말은 솔트에서 유래했다고 합니다. 또한 소금에는 부패를 방지하는 기능이 있어서 오늘날에도 야채를 소금에 절이거나 생선을 소금에 절이거나 합니다. 소금은 정결하게 하는 데에 이용되는 것입니다. 구약성경을 보면 하나님께 제물을 드릴 때 소금을 쳤다는 말이 있습니다(레위기 2장 13절). 성별하기 위해 소금이 사용되었다는 것입니다.

우리의 생활 속에서 썩는다는 현상은 흔한 현상이지만, 사실 하나님의 눈으로 봤을 때 썩는다는 것은 이상 현상이고, 그것은 죄와 관련되어 있습니다. 본래 하나님이 창조하신 피조물은 그 자체로 아름답고, 그 자체로 완전하고 좋았는데 아담과 하와를 통해 죄가 들어왔기 때문에 하나님의 피조물에 부패가 진행되게 된 것입니다. 하나님은 결국 이 부패에 종지부를 찍고 불에 의한 정화(모든 사람이 예수 그리스도가 주님이시라는 것을 인정하고 고백하는 것)의 기능을 하시는데, 그 불이 그리스도에 속하지 잖은 자에 대해서는 최후의 심판 후에 게헨나의 불에 의해서 이루어지는 것입니다. 그리스도에 속한 자는 정화의 불에 복종하고 소금치듯 함을 받기에 게헨나의 불을 피하게 됩니다. 즉 「불로써 소금치듯 함을 받으리라」는 것은, 예수님의 발걸음을 뒤 따르는 제자들이 이 세상에서 경험하는 고난이며, 좁은 길이며, 가시밭길을 걸어 나아가는 자들에게 닥치는 시련을 가리키는 것이라고 생각합니다. 그리스도의 발걸음을 따르는 자란 이 세상에 있어서 영광과 승리의 길을 걸어가는 것이 아니라 자신의 십자가를 지고 작은 자로서 능욕과 조롱의 길을 걸어갑니다. 그 길은 바로 그리스도의 정화의 불로써 소금치듯 함을 받는 걸음이 되는 것입니다. 그러나 그 길은 평화를 가져오고 상대방을 자신보다 나음을 인정하며 겸손한 걸음으로 인도되는 길입니다.

결론

크기를 추구하는 문제, 세상에 영합하고 세상에 받아들여지고자하는 문제는 초대교회의 이단과 현대 교회의 컬트화와 직결되어 있습니다. 교만한 생각, 자기 우선으로 사물을 생각하는 것, 타인에 대한 무관심과 남을 자신에게 복종시키려는 태도는 모두 자신이 큰 사람이 되려는 생각에서 나옵니다. 이 크기를 추구하는 것은 실족함을 초래하고, 실족하는 것은 지옥의 불에 이르게 하는 것입니다. 우리는 평소에 너무나도 자명한 이 세상의 상식으로 여겨지는 사고방식과 가치관에 사로잡혀 있어서 그것을 그대로 받아들이기 쉽습니다. 우리는 항상 위대한 자가 되려고 하고, 확대, 성장에 마음을 빼앗기고 마는 것입니다. 사람들로부터 무시 당하고 싶지 않다, 힘든 일을 겪고 싶지 않다는 마음은 누구에게나 있을 것입니다. 그러나 우리는 확대, 성장, 그 자체를 목표로 하는 것이 아니라 그리스도의 정화의 불로써 소금치듯 함을 받는 것을 목표로 하면서 걸어가고자 합니다. 예수님이 말씀하신 말씀으로 인해 제자들이 큰 충격을 받고 가치관이, 패러다임 전환(어느 한 모호한 관념에 대한 우리의 해석이 한 상태에서 다른 상태로 뒤집히면 발생하는 인식 변화) 되었듯이 우리도 말씀으로 마음을 새롭게 하심을 받고자 원합시다.

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