2023年12月10日「高い山での啓示 높은 산에서의 계시」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千間台教会のホームページへ戻る

高い山での啓示 높은 산에서의 계시

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 9章2節~13節

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

9:2六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
9:3服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
9:4エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
9:5ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
9:6ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
9:7すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
9:8弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
9:9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
9:10彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。
9:11そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
9:12イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。
9:13しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 9章2節~13節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

フィリポカイサリヤで、ペトロは弟子たちを代表し「あなたは、メシアです」と信仰告白をしました。その告白は、全く正しい告白でありましたが、まだ、目が半分しか開かれていませんでした。というのは「救い主メシアとは何か」、「救い主は、一体どのようにして救いをもたらすのか」ということに関しては、全く理解されていなかったからです。本日の箇所はそのような弟子たちに与えられた、「天からの啓示」について書かれています。弟子たちに与えられた天からの啓示を、私たちも日々の営みの中で思い出し、信仰が励まされるように、今日もマルコの福音書を通して御言葉の恵みに与っていきたいと思います。9:2~3節をご覧ください。

【1】. 六日の後

“六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。”

2節の冒頭に「六日の後に高い山に登られた」とあります。著者マルコはここで突然、時間の経過を示す言葉である「六日の後」という句を挿入しています。これまでマルコは時間の経過については、全く無関心で「それから」とか、「すぐに」とか、「それからすぐ」など、あいまいな表現を使っていましたが、ここで、わざわざ「六日の後」と特定しているのはなぜでしょうか。少し違和感を覚えます。また、高い山とは、一体どの山を指しているのでしょうか。私たちの感覚で言えば、イスラエルに正直、高い山はありません。伝承によれば、この高い山とは、タボル山だとされています。しかし、フィリポカイサリヤからは、むしろタボル山ではなく、山脈ではありますが、ヘルモン山脈の方が近かったと言えるでしょう。恐らく、著者マルコは「六日の後」という言葉と「高い山」という言葉の、神学的な意味に関心を持って使用したと思われます。つまりどういうことかと申しますと、通常、時間にあまり関心を持ってこなかったのですが、ペトロの告白から六日経った後、その六日間が、マルコにとって重要だと思われたために、ここに挿入されたということです。「六日の後」という言葉は、出エジプト記で、モーセが六日の後(七日目に)、シナイ山に登り、十戒の石板を主なる神様から頂いて来たという記事を私たちに思い起こさせます。また、「高い山」とは、天に触れるほど、それだけ神様に近い場所に来たということを私たちに連想させます。出24:16と、出34:29-30をご覧ください。

“主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。”

“モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。…”

モーセが七日目に山の頂上に登ったように、六日の後、高い山で、イエス様の姿は変えられ、「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」のです。十戒の石板を持って降りて来たモーセの顔もそうですが、「真っ白に輝き、光を放つ」という表現は、天の栄光を描写する表現であります。似たような表現を聖書の中からいくつか調べてみたいと思います。最初にマタイ28:2-3をご覧ください。

“すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。”

女の弟子たちが、イエス様の墓に行った時、天使が現れ、その天使の姿が、稲妻のように輝き、衣は雪のように白かったとあります。続いて黙示録4:4をご覧ください。

“また、玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた。”

玉座の周りの二十四人の天使的な存在が、白い衣を着ていたとあります。最後に旧約聖書ダニエル書7:9をご覧ください。ダニエルが見た幻です。

“なお見ていると、/王座が据えられ/「日の老いたる者」がそこに座した。その衣は雪のように白く/その白髪は清らかな羊の毛のようであった。”

玉座に着座するお方の衣が雪のように白く、その白髪は清らかな羊の毛のようであったとあります。つまり、白く光り輝く衣とは、天の栄光と関係があるということです。従いまして、本日の「イエス様の変貌事件」とは、イエス様が天の栄光を受けられたという点が強調されているのであります。

【2】. 雲からの啓示

イエス様のお姿が変わると、そこにエリヤとモーセが現れて、イエス様と語り合っていました。エリヤとは、イエス様の時代から900年前の人物で、毛衣を着て、腰には革帯を締めた預言者であり、火の嵐によって天に移された人物として聖書に描かれています。モーセとは、イエス様の時代から1300年~1500年前の人物で、エジプトからの解放者であり、死後、その遺体がどこに葬られたのか、誰にも知られていない人物として聖書に描かれています。共通点は、どこに葬られたのか誰も知られていない人物として聖書に書かれているということです。そのため、当時、「モーセはまだ生きている」と主張する伝承もいくつかあり、エリヤとモーセの二人は、終末において、再び戻ってくると期待されていたようです。本人が戻って来るのか、或いは本人に似た人が、その性格を帯びて戻って来るのか、分かりませんが、そのような伝承の背景があって、イスラエルの人々が信じていたように、ここでエリヤとモーセの二人が、現れたのかもしれません。その時、ペトロが口を挟んで言いました。9:5-6をご覧ください。

“ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。”

このペトロの提案は、恐らく、この素晴らしい瞬間を永遠に持続させようという思いから出て来たのだと思います。ただ、ここで注目したいことは、「弟子たちが非常に恐れていた」ということです。天の栄光の輝きの前に、罪人である人間は、まともにそれを理解することも、それを評価することも出来ず、ただただ、その聖なる輝きのゆえに恐れるしかないのだと思います。そこへ雲が現れて彼らを覆いました。「雲」とは、聖書の中で神の栄光の臨在が現れる時にしばしば使われる言葉です。その雲の中から「これは私の愛する子。これに聞け。」という声が聞こえてきました。です。旧約聖書においては、神様の声を直接聞くことはしばしばありますが、新約聖書において神様の声を直接聞くことは非常に稀であります。福音書の中では本日の場面と、1:11のイエス様が洗礼をお受けになった場面だけであると言えるでしょう。イエス様が洗礼をお受けになった場面、マルコ1:11には次のように書かれています。

“すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。”

マルコ1章では、「あなたはわたしの愛する子」となっています。つまり、イエス様だけにお語りになっていますが、本日の9章では「これは私の愛する子。」となっており、つまり弟子たちにお語りになっているのが分かります。また、ヘブライ語において「愛らしい」という言葉と「息子」「娘」という言葉がセットで使われる場合は、「一つだけ」「一人だけ」ということを意味しますので、「これは私の愛する子。」とは「これは私の一人子」という意味になります。イエス様は、神の御子であると、神の一人子であると、天からの証言を弟子たちはその耳で確かに聞いたのです。それから「これに聞け」という言葉は、申命記18:15の御言葉を反映させているのかもしれません。

“あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。”

モーセが、自分の死期を間近にして「わたしのような預言者を立てられる。」と預言しているわけです。そして、「あなたたちは彼に聞き従わねばならない」と預言しました。ですから、弟子たちが天から聞いた声は、モーセが預言した、将来やって来る「モーセのよう預言者」、その方、まさにイエス様であるという証言を聞いたということです。終末に再び来るモーセとはイエス様であるということです。雲から声を聞いて、弟子たちは急いで辺りを見回しましたが、もはや誰も見えず、ただ、イエス様だけが彼らと一緒におられました。ペトロはこの出来事を後で、(第二ペトロの手紙1:17)で回想していますが、雲からの声は、まさに御父なる神の声であったと語っています。イエス様は、父なる神によって、ひと時、そのお姿が変えられ、誉れと栄光をお受けになったのであります。このイエス様の変貌のお姿は、イエス様が受肉する以前の栄光のお姿であったと言えるかもしれません。しかし同時に、この点が重要ですが、そのお姿は、イエス様が復活した後に、人の子としてお受けになる栄光の先取りであったということです。イエス様は三日目に復活され、その手には十字架に掛けられた傷跡がありましたが、弟子たちとしばらくの間共に過ごされ、40日後に天に昇られ、神の右に着座されました。その着座された栄光のお姿の先取りであったということです。三人の弟子たちは一瞬ではありますが、天に着座された人の子の栄光を垣間見ることが許されたのです。この素晴らしい出来事が、この素晴らしい天からの啓示が、一体何を意味するのか、解釈が色々あるかと思いますが、私は、イエス様がこれから進みゆく、十字架の受難というのは、決して神の恩寵を失ったからではないということを、知らせているのだと思いました。イエス様は少し前に、初めてご自身の受難を弟子たちに打ち明けられましたが、その受難とは、決して神の恩寵を失ったからではない、その受難は罪を贖うために永遠から定められた働きであり、それは神の御子が解放者として担う、尊い使命であるということを知らせているのだと思います。

【3】. まずエリヤが来る

さて、一行が山から下りていく時、弟子たちはイエス様に尋ねました。「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」律法学者たちは、イエス様を拒絶しながら、メシアが来る前にエリヤが遣わされるはずだと教えていました。マラキ書に次のような預言があるからです。マラキ3:23をお読みします。

“見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。”

エリヤがまだ来ていない以上、イエス様がメシアであるはずはないのです。イエス様は律法学者の言い分を部分的に同意され、弟子たちに次のように答えられました。12-13節をご覧ください。

“イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」”

ここの箇所は少し意味がわかりづらいですが、イエス様は、メシアが来る前に、まずエリヤが来なければならないことを認めています。しかし、エリヤは既に来たと言うのです。人々によって好き勝手に扱われた洗礼者ヨハネこそ、エリヤであったというのです。「エリヤが既に来た」というイエス様の解釈に、弟子たちは大変驚かせられたことでしょう。そして、来るべきエリヤ(洗礼者ヨハネ)の受難は、イエス様がこれから受けられる受難と、関係があるとおっしゃっているのです。洗礼者ヨハネの運命は、イエス様ご自身の運命である、しかし、その受難を通して、イエス様は三日目に復活させられ、栄光に入れられるのです。そのことこそ、メシアの働きであり、イスラエルの民に救いもたらす御業であったのです。そのことこそ、イスラエルの民に罪の赦しを与え、罪と死の力から解放をもたらし、永遠の命を与える御業であったのです。

【結論】

本日の箇所から私たちは何を適用できるでしょうか。弟子たちに与えられた、天からの啓示を通して、私たちは、神の国の前味を豊かに味わうことができるのではないでしょうか。イエス様の復活とは、私たちキリスト者の復活の初穂であります。ですから、本日の箇所でイエス様が栄光を受けられた姿に、私たちが栄光を受ける姿を、見ることが許されるのではないでしょうか。イエス様の変貌されたお姿に、私たちがやがて変貌する姿を、朽ちない体を着せられる姿を、見ることが許されるのではないでしょうか。私たちはやがて、イエス様の義の衣を着せられるでしょう。やがて、天国の礼服を着せられることでしょう。いや、既に神の国が到来していることを考えるなら、目には見えませんが、信仰によって、もう既に義の衣を着せられているのです。天国に入るための礼服を着せられているのです。それは真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白い衣であります。死の力を打ち破り、栄光と力に満ちた衣であります。アドベントを過ごしている私たちは、弟子たちに与えられた天からの啓示を思い起こし、イエス様の救いの御業を心から讃美し、感謝の祈りと、礼拝を通して、日々の営みを重ねて行く者たちとならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

높은 산에서의 계시

2023년 12월 10일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

마가복음 9장 2~13절

서론

빌립보 가이사랴에서 베드로는 제자들을 대표해서 「당신은 메시아입니다」라고 신앙고백을 했습니다. 그 고백은 전적으로 옳은 고백이었지만 아직 눈이 반밖에 뜨여지지 않았습니다. 그 이유는「구원자 메시아란 무엇인가」,「구원자는 도대체 어떻게 구원을 이룰 것인가」에 관해서는 전혀 이해되지 않았기 때문입니다. 오늘의 부분은 그런 제자들에게 주어진 하늘의 계시에 대해 쓰여져 있습니다. 제자들에게 주어진 하늘의 계시를 우리도 일상의 삶 속에서 떠올리고 믿음이 굳건해 질 수 있도록 오늘도 마가복음을 통해 말씀의 은혜를 얻고자 합니다. 9장 2,3절을 보시겠습니다.

(1) 엿새 후에

2 엿새 후에 예수께서 베드로와 야고보와 요한을 데리시고 따로 높은 산에 올라가셨더니 그들 앞에서 변형되사

3 그 옷이 광채가 나며 세상에서 빨래하는 자가 그렇게 희게 할 수 없을 만큼 매우 희어졌더라

2절 첫머리에 「엿새 후에.. 높은 산에 올라가셨더니」라고 적혀 있습니다. 저자 마가는 여기서 갑자기 시간의 경과를 나타내는 말인 「엿새 후에」라는 구절을 삽입하고 있습니다. 지금까지 마가는 시간의 경과에 대해서는 전혀 무관심하게 「그리고 나서」라든가 「바로」라든가 「그로부터 바로」등 애매한 표현을 사용했는데, 여기서 일부러 「엿새 후에」라고 특정하고 있는 것은 왜 일까요? 조금 위화감이 듭니다. 또 높은 산은 도대체 어느 산을 가리키는 것일까요? 우리의 감각으로 말하면 솔직히 이스라엘에는 높은 산이 없습니다. 전승에 의하면 이 높은 산은 다볼 산이라고 합니다. 그러나 빌립보 가이사랴에서는 오히려 다볼 산이 아니라 산맥이기는 하지만 헐몬 산맥 쪽이 가까웠다고 할 수 있습니다. 아마도 저자 마가는 「엿새 후에」라는 말과 「높은 산」이라는 신학적 의미에 관심을 갖고 사용했을 것으로 보입니다. 즉 무슨 말이냐면 보통 시간에 별로 관심을 가지지 않았는데 베드로의 고백 이후 엿새가 지난 후 그 엿새가 마가에게는 중요하다고 생각되었기 때문에 여기에 삽입되었다는 것입니다. 「엿새 후에」라는 말은 출애굽기에서 모세가 엿새 후(일곱째 날에) 시내 산에 올라가 십계명의 돌판을 주님께 받고 내려왔다는 기사를 우리에게 상기시킵니다. 또한 「높은 산」이란 하늘에 닿을 정도록 그만큼 하나님과 가까운 곳에 왔다는 것을 우리로 하여금 연상케 합니다. 출애굽기 24장 16절과 출애굽기 34장 29,30절을 읽어보시겠습니다.

24장

16 여호와의 영광이 시내 산위에 머무르고 구름이 엿새 동안 산을 가리더니 일곱째 날에 여호와께서 구름 가운데서 모세를 부르시니라

34장

29 모세가 그 증거의 두 판을 모세의 손에 들고 시내 산에서 내려오니 그 산에서 내려올 때에 모세는 자기가 여호와와 말하였음으로 말미암아 얼굴 피부에 광채가 나나 깨닫지 못하였더라

30 아론과 온 이스라엘 자손이 모세를 볼 때에 모세의 얼굴 피부에 광채가 남을 보고 그에게 가까이 하기를 두려워하더니

모세가 일곱째 날 산 정상에 오른 것처럼 엿새 후에 높은 산에서 예수님의 모습은 바뀌었고 「그 옷에 광채가 나서 세상에서 빨래하는 자가 그렇게 희게 할 수 없을 만큼 매우 희어졌더라」는 것입니다. 십계명의 돌판을 들고 내려온 모세의 얼굴도 그렇지만 「새하얗게 빛나고 빛을 발한다」는 표현은 하늘의 영광을 묘사하는 표현입니다. 비슷한 표현을 성경 중에서 몇 가지 알아보도록 하겠습니다. 먼저 마태복음 28장 2,3절을 보시겠습니다.

2 큰 지진이 나며 주의 천사가 하늘로부터 내려와 돌을 굴려 내고 그 위에 앉았는데

3 그 형상이 번개 같고 그 옷은 눈 같이 희거늘

여제자들이 예수님의 무덤에 갔을 때 천사가 나타났고 그 천사의 형상이 번개 같고 그 옷은 눈 같이 희었다고 합니다. 이어서 요한계시록 4장 4절을 보시겠습니다.

4 또 보좌에 둘려 이십사 보좌들이 있고 그 보좌들 위에 이십사 장로들이 흰 옷을 입고 머리에 금관을 쓰고 앉았더라

보좌 주위에 이십사 장로들이 흰 옷을 입고 있었다고 합니다. 마지막으로 구약성경 다니엘서 7장 9절을 참조하시기 바랍니다. 다니엘이 본 환상입니다.

내가 보니 왕좌가 놓이고 옛적부터 항상 계신 이가 좌정하셨는데 그의 옷은 희기가 눈 같고 그의 머리털은 깨끗한 양의 털 같고 그의 보좌는 불꽃이요 그의 바퀴는 타오르는 불이며

왕좌에 좌정하신 분의 옷이 희기가 눈 같고 그의 머리털은 깨끗한 양의 털 같았다고 합니다. 즉 하얗게 빛나는 옷과 하늘의 영광과는 관계가 있다는 것입니다. 따라서 오늘날 「예수님의 변형 사건」이란 예수님이 하늘의 영광을 받으셨다는 점이 강조되고 있는 것입니다.

(2) 구름 속에서 들려온 계시

예수님의 모습이 바뀌자 그곳에 엘리야와 모세가 나타나 예수님과 이야기를 나누고 있었습니다. 엘리야는 예수님의 시대로부터 900년전의 인물이고 털옷을 입고 허리에는 가죽띠를 맨 선지자로 불병거를 타고 회리바람에 싸여서 하늘로 옮겨진 인물로 성경에 그려져 있습니다. 모세는 예수님 시대로부터 1300~1500년 전의 인물로 애굽으로부터의 해방자이며 사후 그 시신이 어디에 묻혔는지 아무에게도 알려지지 않은 인물로 성경에 그려져 있습니다. 공통점은 어디에 묻혔는지 아무에게도 알려지지 않은 인물로 성경에 기록되어 있다는 것입니다. 그래서 당시 모세는 아직 살아있다고 주장하는 전승도 여럿 있었고 엘리야와 모세 두 사람은 종말에 다시 돌아올 것으로 기대되었던 것 같습니다. 본인이 돌아올지 아니면 본인을 닮은 사람이 그 성격을 띠고 돌아올지 모르겠지만 그런 전승의 배경이 있어서 이스라엘 사람들이 믿었던 것처럼 여기에 엘리야와 모세 두 사람이 나타났을지도 모릅니다. 그때 베드로가 끼어들며 말했습니다. 9장5,6절을 읽어보시겠습니다.

5 베드로가 예수께 고하되 랍비여 우리가 여기 있는 것이 좋사오니 우리가 초막 셋을 짓되 하나는 주를 위하여, 하나는 모세를 위하여, 하나는 엘리야를 위하여 하사이다 하니

6 이는 그들이 몹시 무서워하므로 그가 무슨 말을 할지 알지 못함이더라

이 베드로의 제안은 아마도 이 멋진 순간을 영원히 지속시키자는 생각에서 나온 것 같습니다. 다만 여기서 주목하고 싶은 것은 「제자들이 몹시 무서워했다」는 것입니다. 하늘의 영광스러운 빛 앞에 죄인인 인간은 제대로 그것을 이해할 수도 그것을 평가할 수도 없고 오직 그 거룩한 빛 때문에 두려워할 수밖에 없다고 생각합니다. 그곳에 구름이 나타나 그들을 덮었습니다. 「구름」이란 성경에서 하나님의 영광스러운 임재가 나타날 때 자주 쓰이는 말입니다. 그 구름 속에서 「이는 내 사랑하는 아들이니 너희는 그의 말을 들으라」라는 소리가 들려왔습니다. 구약성경에서는 하나님의 목소리를 직접 듣는 경우는 매우 드물고 복음서 중에서는 오늘의 장면과 1장 11절 예수님께서 세례를 받으신 장면뿐이라고 할 수 있습니다. 예수님께서 세례를 받으신 장면인 마가복음 1장 11절에는 다음과 같이 적혀 있습니다.

하늘로부터 소리가 나기를 너는 내 사랑하는 아들이라 내가 너를 기뻐하노라 하시니라

마가복음 1장에서는 「너는 내 사랑하는 아들이라」라고 기록되어 있습니다. 즉 예수님께만 말씀하고 계시지만, 오늘의 본문인 9장에서는 「이는 내 사랑하는 아들이니」라고 되어 있어 제자들에게 말씀하시는 것을 알 수 있습니다. 또 히브리어에서 「사랑하는」이라는 말과 「아들」「딸」이라고 하는 단어가 셋트로 사용되는 경우에는 「하나 뿐」「한명 뿐」이라는 것을 의미하기 때문에 「이는 내 사랑하는 아들이니」라는 것은 「이는 내 독생자」라는 의미가 됩니다. 예수님은 하나님의 아들이라고 하나님의 독생자라는 하늘의 증언을 제자들은 그 귀로 분명히 들었습니다. 그리고 「너희는 그의 말을 들으라」는 말씀은 신명기 18장 15절 말씀을 반영하는 것일지도 모릅니다.

네 하나님 여호와께서 너희 가운데 네 형제 중에서 너를 위하여 나와 같은 선지자 하나를 일으키시리니 너희는 그의 말을 들을지니라

모세가 자신의 임종을 앞에 두고 「나와 같은 선지자 하나를 일으키신다」라고 예언하고 있는 것입니다. 그리고 「너희는 그의 말을 들을지니라」라고 예언합니다. 그래서 제자들이 하늘에서 들은 목소리는 모세가 예언한 장차 다가올 「모세와 같은 선지자」, 그분은 바로 예수님이라는 증언을 들었다는 것입니다. 종말에 다시 오는 모세란 예수님이라는 것입니다. 구름 속에서 목소리를 듣고 제자들은 급히 주위를 둘러보았지만 이제 아무도 보이지 않았고 오직 예수님만이 그들과 함께 계셨습니다. 베드로는 이 사건을 나중에(베드로후서 1장 17절) 회상하고 있는데 구름 속에서 들려온 목소리는 바로 하나님 아버지의 목소리였다고 말합니다. 예수님은 하나님 아버지에 의해 한때 그 모습이 변형되어 명예와 영광을 받으셨습니다. 이 예수님의 변형된 모습은 예수님이 성육하기 이전의 영광스러운 모습이었다고 할 수 있습니다. 그러나 동시에 이 점이 중요한데 그 모습은 예수님이 부활하신 후에 인자로서 받으시는 영광의 선취(先取)였다는 것입니다. 예수님은 셋째 날 부활하셨고 그 손에는 십자가에 못박힌 흉터가 있었는데 제자들과 잠시 함께 지내다가 40일 만에 하늘로 올라가 하나님의 오른쪽에 착석하셨습니다. 그 착석하신 영광스러운 모습의 선취였다는 것입니다. 세 제자들은 한순간이나마 하늘의 보좌에 앉으신 인자의 영광을 엿볼 수 있었던 것입니다. 이 놀라운 사건이 이 놀라운 하늘의 계시가 도대체 무엇을 의미하는지 해석이 여러 가지가 있겠지만, 저는 예수님이 앞으로 나아갈 십자가의 수난이라는 것이 결코 하나님의 은총을 잃었기 때문이 아니라는 것을 알려주는 것이라고 생각했습니다. 예수님은 얼마 전 처음으로 자신의 수난을 제자들에게 털어놓으셨는데, 그 수난이란 결코 하나님의 은총을 잃었기 때문이 아니고 그 수난은 죄를 속죄하기 위해 영원 전부터 정해진 일이며 그것은 하나님의 독생자가 해방자로서 맡는 고위한 사명임을 알려주는 것이라고 생각합니다.

(3) 먼저 엘리야가 온다

자, 일행이 산에서 내려올 때 제자들은 예수님께 물었습니다. 「어찌하여 서기관들이 엘리야가 먼저 와야 하리라 하나이까」

서기관들은 예수님을 거절하면서 메시아가 오기 전에 엘리야가 보내질 것이라고 가르쳤습니다. 말라기서에 다음과 같은 예언이 있기 때문입니다. 말라기 4장 5절을 읽어드리겠습니다.

보라 여호와의 크고 두려운 날이 이르기 전에 내가 선지자 엘리야를 너희에게 보내리니

엘리야가 아직 오지 않은 이상 예수님이 메시아일 수는 없는 것입니다. 예수님은 서기관의 주장을 부분적으로 동의하셔서 제자들에게 다음과 같이 대답하셨습니다. 12,13절을 참조하십시오.

12 이르시되 엘리야가 과연 먼저 와서 모든 것을 회복하거니와 어찌 인자에 대하여 기록하기를 많은 고난을 받고 멸시를 당하리라 하였느냐

13 그러나 내가 너희에게 이르노니 엘리야가 왔으되 기록된 바와 같이 사람들이 함부로 대우하였느니라 하시니라

이 부분은 조금 뜻을 알기 어렵지만 예수님은 메시아가 오기 전에 먼저 엘리야가 와야 함을 인정하고 계십니다. 하지만 엘리야는 이미 왔다고 말씀합니다. 사람들이 함부러 대우한 세례자 요한이야말로 엘리야였다는 것입니다. 엘리야가 이미 왔다는 예수님의 해석에 제자들은 크게 놀랐을 것입니다. 그리고 다가올 엘리야(세례자 요한)의 수난은 예수님이 앞으로 받을 수 있는 수난과 관련이 있다고 말씀하시는 것입니다. 세례자 요한의 운명은 예수님 자신의 운명이나 그 수난을 통해 예수님은 셋째 날 부활하여 영광에 이르시게 되는 것입니다. 그것이야말로 메시야의 일이며 이스라엘 백성들에게 구원을 가져다 주는 역사입니다. 그것이야말로 이스라엘 백성에게 죄의 용서를 주고 죄와 죽음의 힘으로부터 해방을 가져오며 영원한 생명을 주는 역사입니다.

결론

오늘 살펴 본 부분에서 우리는 무엇을 적용할 수 있을까요? 제자들에게 주어진 하늘의 계시를 통해 우리는 하나님 나라의 영광을 미리 풍성하게 맛 볼 수 있지 않을까요? 예수님의 부활은 우리 그리스도인의 부활의 첫 이삭입니다. 그러므로 오늘 자리에서 예수님께서 영광을 받으신 모습에 우리가 영광을 받는 모습을 보는 것이 허용되지 않을까요? 예수님의 변형된 모습에 우리가 드디어 변형하는 모습을, 썩지 않는 몸이 입혀지는 모습을 보는 것이 허락되지 않을까요? 우리는 곧 예수님의 의로운 옷을 입게 될 것입니다. 머지않아 천국의 예복을 입을 수 있게 될 것입니다. 아니 이미 하나님의 나라가 도래했음을 생각한다면 눈에는 보이지 않지만 믿음에 의해 이미 의로운 옷을 입고 있는 것입니다. 천국에 들어가기 위한 예복을 입고 있는 것입니다. 그것은 새하얗게 빛나고, 이 세상의 그 어떤 빨래하는 자도 그렇게 희게 할 수 없을 만큼 매우 흰 옷입니다. 죽음의 힘을 부수시고 영광과 능력이 가득한 의입니다. 어드벤트를 지내고 있는 우리는 제자들에게 주어진 하늘의 계시를 상기하고 예수님의 구원의 역사를 진심으로 찬양하며 감사의 기도와 예배를 통해 하루하루의 삶을 살아가는 자들이 되도록 합시다.

関連する説教を探す関連する説教を探す