2023年11月26日「人の子の受難告知 인자의 수난고지」

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人の子の受難告知 인자의 수난고지

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 8章27節~33節

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聖句のアイコン聖書の言葉

8:27イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
8:28弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
8:29そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
8:30するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
8:31それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
8:32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
8:33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 8章27節~33節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

私たちは主日礼拝の中で、マルコによる福音書の御言葉に、耳を傾けています。前回は、漁師の町ベトサイダにおいて、盲人がイエス様によって段階的に癒された奇跡を学びました。盲人が段階的に癒されたように、本日の箇所で、弟子たちの目が半分だけ開かれるということが書かれています。マルコ福音書は前回の8章26節をもちまして、ちょうど前半部分が終了します。抜粋のプリントの表をご覧下さい。前半部分(1,2)は、主に弟子の召命と、弟子たちに対する養育訓練が書かれていました。そして、本日の箇所から後半に入ります。後半部分(3,4)では、イエス様にとってキリストであるということは、何を意味し、そしてキリスト者にとって、彼に従う者であるということは何を意味するのかが問われて行きます。また、後半においては、もはや、前半に出てきたような、イエス様のアイデンティティに関する、悪霊たちによる証言は出てまいりません。その代わりに、人間による告白、つまりペトロの告白、盲人バルティマイの告白、百人隊長の告白が出て来ます。この福音書を読み進める読者には、少しずつ、そして段階的に、イエス様のアイデンティティが明らかにされ、最終的にイエス様の復活を見るように導かれるのであります。

【1】. 弟子たちの目が半分開かれる

さて、イエス様一行は、再び北の方へ移動し、異教の地であり、避暑地としても知られていたフィリポ・カイサリアに向かっています。その途中で、イエス様は弟子たちに質問されました。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」弟子たちはイエス様に答えました。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」

人々のイエス様に対する見方は、積極的で破格的な評価であったと言って良いでしょう。なにしろ、当時、400年前に現れた預言者マラキを最後にして、もう預言者は現れないと考えられていたくらいです。このような見方が、マルコ6:15~16にも書かれていました。少し振り返ってみましょう。6:15~16をご覧ください。

“そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。”

ここでもイエス様は同じように肯定的に評価されています。人々は、旧約聖書の知識があり、明らかに洗礼者ヨハネと、主イエスのことを、預言者の隊列に置いているということが分かります。しかし、後で分かることですが、この積極的で、破格的な評価でさえ、その方の真のアイデンティティを、つまり神の子としてのアイデンティティを、十分に把握できるほどではありませんでした。そのことは後ほど明らかにされます。続いてマルコ8:29~30節をご覧ください。

“そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。”

イエス様にとって、人々の評価はあまり重要ではないようです。イエス様の質問を見ると、ギリシア語で「あなた方は」という言葉を強調させて、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と書かれているからです。男女の恋人のカップルを思い浮かべてください。二人は、相手が自分のことをどのように考えているのか、大変気になるところですし、それは大変重要な問題であります。「他人がどのように考えようが関係ありませんが、あなたは私のことをどのように考えているのか」、それが重要なのです。イエス様にとっても、人々の考えより、ご自身と関係を結んでいる弟子たちの考えが、重要であったに違いありません。

イエス様の質問に対し、ペトロが弟子たちを代表して答えました。「あなたは、メシアです。」ペトロは、これまで、イエス様と一緒に歩み、メシアでなければできるはずのない、多くのしるしや奇跡を自分の目で見て来ました。ある時には、その奇跡に、弟子として共に参与させていただきました。その都度、なぜこの方を通してあのような不思議な業が起こされるのか、考えていたはずです。ですから、ペトロは迷わず「あなたは、メシアです。」と告白することが出来たのではないかと思います。そして、その告白は、他の弟子たちの確信でもあったと思います。

因みに、「メシア」とはヘブライ語であり、ギリシア語では「キリスト」のことであります。旧約聖書には、神様によってある特別な働きに任職される際、油を注ぐ儀式が行われますが、メシアとは「油注がれた者」という意味です。ユダヤ人であれば、終わりの日に、このメシア(油注がれた者)が来られ、神の民イスラエルを救い出してくれることを、誰もが信じていました。甚だしくは、自分をメシアであると自称する者たちも、しばしば現れたほどです。そのような背景の中で、ペトロは「あなたこそ、待望のメシアです。旧約聖書に預言された『油注がれた者』です。」と告白することが出来たのです。イエス様もきっと、ペトロの告白を喜ばれたことでしょう。ペトロの告白をそのままお受けになられ、それから、御自分のことを誰にも話さないように、弟子たちを戒められました。これは一体どういう意味でしょうか。「誰にも話さないように」というフレーズは、これまでマルコの福音書に何度か出て来ました。当時、ユダヤ人が考えていたメシアとは、ローマ帝国を打倒し、自分たちイスラエルを、ローマの支配から解放してくれる、そのような救世主を想定していました。つまり、ユダヤ人のための政治的な王を、ユダヤ人のための政治的な救世主を、期待していたのです。恐らくペトロの告白も、例外ではなく、そのような期待が込められていたのではないかと思います。ペトロの告白は、全く正しい告白ではありますが、まだ目が半分しか開かれていなかったのです。

【2】. 一回目の受難告知

イエス様は、ペトロの告白を受け止められてから、「メシア」に対する既成概念というか、「メシア」に対する偏見を払拭させ、正しい意味を定義づけるかのように、ご自身の受難告知を語り始めます。8:31~32節前半までご覧ください。

“それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。”

「人の子」とは、イエス様が好んで用いられるご自身の称号です。「必ず…になっている、必ず…ねばならない」という言い回しは、その背後に、父なる神様のご計画があるということを伺い知ることができます。「長老、祭司長、律法学者たち」とは、ユダヤの最高議会サンヘドリンの構成員であり、イスラエルの宗教指導者、権威者たちのことを指していました。イスラエルを代表する彼らから、イエス様が排斥されるということは、神の民、イスラエルから、イエス様が排斥され、捨てられるということを意味しているのです。

イエス様にとって、ご自身が父なる神から油注がれたメシア、キリストであるということは、つまりどういうことなのかと言いますと、ご自身が排斥され、捨てられ、殺されるということです。罪のないお方が、罪ある者として、身代わりに罰せられることにより、罪人の罪を贖うということです。これは「福音の中心」と言い換えることもできますが、メシアになるとは、つまりそういう事なのです。そのことを、初めて、弟子たちに、譬えではなく、はっきりとあからさまにお話しになられたのでした。しかし、そのような神の御心を、まだ悟ることができないペトロは、イエス様をわきへお連れして、いさめ始めました。「これから、イエス様には、エルサレムに上って、すべきことがたくさんあるのに、何をおっしゃられるのですか?」という事でしょう。「いさめる」という言葉は、しかるという意味です。マルコ9:25でイエス様が「汚れた霊をお叱りになった」とありますが、この「叱る」と、同じ単語が使われています。弟子であるペトロが、イエス様の上から、しかりつけているのです。すると、イエス様は弟子たちに振り返って、叱責の言葉を語られました。これは、ペトロだけではなく、弟子たち全員に教訓として、叱責の言葉を語られているという事です。33節をご覧ください。

“イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」”

「サタン!」、とても辛辣な言葉が飛び出しました。ペトロの考えが「サタン的だ」ということでしょう。神様のことではなく、人間のことを思っているからです。「引き下がれ」というのは、「私の後ろに行け」、弟子とは先生の後を従う者でありますが、その本来の場所に「戻れ」という意味です。このイエス様の叱責は、私たちにとっても他人事ではありません。私たちもイエス様の後に従い行く者ではなく、つい、イエス様の前に出て、イエス様に、上から指図しようとする傾向があるからです。私たちは神様の御心を求めつつ、常にイエス様の御足に従い行く者なのであります。

【3】. イエス様の福音理解

それにしても、イエス様において、このメシアの使命というか、メシアのアイデンティティが、いつ、どこから来たのでしょうか。イエス様は、神の子ですから、赤ん坊の時から、ご自身が罪人のために十字架に掛かられるために来たということを、既に悟っていたということでしょうか。そういう事ではないと思います。イエス様も私たち人間と全く同じように、幼少期を経て、成長していきました。母親の母乳に依存しなければ生きて行くことができない、そのような弱い幼少期を過ごしながら、成長と共に少しずつ知識を増し加え、聖書に親しむ中で、次第にご自身が神の子であり、ご自身の殺されることと、復活することを、聖書を通して悟ったのだと思われます。そうでなければ、私たちと同じ弱さを持つ人間でなければ、身代わりの死によって、私たちの罪を贖うことなど出来ないからです。イエス様が人の体を取られたという時、罪は別として、私たち罪人の友となるために、そして、私たちと罪人と同じ目線に立つために、惨めな形で、最も低い所でお生まれになったのです。

そうしますと一体、いつイエス様は、メシアのアイデンティティを自覚したのでしょうか。もしかしたら、聖書の創世記22章の御言葉を、いわゆる「アブラハムによるイサク奉献」の内容を、黙想する中で、その自覚が育まれて行ったのかもしれません。アブラハムは神から、突然、大事な一人息子イサクを焼き尽くす献げ物として、燔祭として、献げなさいと命じられました。この時アブラハムは大いに苦悩したことでしょう。アブラハムとイサクは、二人で黙々とモリヤ山を登って行きました。モリヤ山とは、後にエルサレム神殿が立てられる場所です。イサクはというと、恐怖の中、なんと祭壇の薪の上で、父から刃物が、自分に振り下ろされるその直前まで、父を信頼し、従順にしました。イエス様はこのイサクの姿にご自身を重ねていたに違いないのです。一方でイサクの父、アブラハムの苦悩は、父なる神の苦悩と重なるのであります。神はご自身の一人子を十字架に明け渡し、それほど苦悩されるほどに、ご自身の民を愛された、教会を愛されたということです。復活については、詩編16編の御言葉を思い巡らしていたのかもしれません。詩編16:10-11の御言葉を調べてみましょう。

“あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。”

この、16編の表題には、ダビデのミクタム、つまり「ダビデの美しい詩の中から」という表題がつけられています。イエス様は、詩編16編を黙想しながら、ご自身の復活を確信したのかもしれません。いずれにせよ、イエス様は超能力を持った、神童のように過ごされたというわけではなく、罪は別として、私たちと全く同じように、弱さを持たれ、その中で聖書を通して、メシアとしてのご自身の使命を悟り、恐怖の中、謙遜と従順の犠牲が自発的に献げられたのです。

【結論】

イエス様にとって神に油注がれた者、キリストであるということは、何を意味するのか。その使命を悟った時、どのような思いを持たれたことでしょうか。ちょっと、おこがましいかもしれませんが、私のような者が想像してみますと、父なる神の故に光栄に感じるのと同時に、本当に恐怖と悲しみで満たされたのではないかと思います。イエス様はその使命を、孤独の中で、ご自分の心の内に秘めつつ、弟子たちになかなか打ち明けることが出来なかったのではないでしょうか。しかし、今や少しずつ弟子たちの目が開かれつつあります。今後、ご自身の受難告知について、即ち罪の贖いという福音の中心について、弟子たちに教えて行かれます。やがて、弟子たちが福音宣教の道を歩まれる日が来ることを期待しつつ、イエス様のエルサレムへ向けた旅は続くのであります。やがて、弟子たちは完全に見えるようになり、劇的な変化が訪れることでしょう。その劇的な変化が使徒の働きとして、言行録に書かれています。そしてその働きは、2,000年の時を経て、私たちにも引き継がれ、私たちも、キリストの弟子として、使徒たちと同じように、キリストの御足に従っているのです。そのことを思う時に十字架と復活の福音が、いかに大切なメッセージであるのか、もう一度確認することが出来るのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

인자의 수난고지

2023년 11월 26일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

마가복음 8장 27~33절

서론

우리는 주일예배 가운데, 마가복음의 말씀에 귀를 기울이고 있습니다. 지난 번에는 어부의 마을 벳새다에서 맹인이 예수님에 의해서 단계적으로 치유 받은 기적을 배웠습니다. 맹인이 단계적으로 치유된 것처럼 오늘의 본문에서 제자들의 눈이 반만 열려 있다는 것이 적혀 있습니다. 마가복음은 지난 8장 26절로 앞부분이 종료됩니다. 발췌한 프린트의 표를 봐 주세요. 전반 부분(1,2)은, 주로 제자의 소명과 제자들에 대한 양육 훈련이 쓰여져 있었습니다. 그리고 오늘 부분부터 후반부로 들어가겠습니다. 후반 부분(3,4)에서는 예수님에게 있어서 그리스도라는 것은 무엇을 의미하고 그리고 그리스도인에게 있어서 그분을 따른다고 하는 것은 무엇을 의미하는 것인가를 질문 받습니다. 또 후반에 있어서는 더 이상 전반부에 나온 것과 같은 예수님의 정체성에 대한 더러운 영들에 의한 증언이 나오지 않습니다. 대신 인간에 의한 고백, 즉 베드로의 고백, 맹인 바디매오의 고백, 백부장의 고백이 나옵니다. 이 복음서를 읽는 독자들에게는 조금씩 그리고 단계적으로 예수님의 정체성이 밝혀지고 최종적으로 예수님의 부활을 보도록 인도되는 것입니다.

(1) 반쯤 떠진 제자들의 눈

예수님 일행은 다시 북쪽으로 이동하여 이교의 땅이자 피서지로도 알려진 빌립보 가이사랴로 향하고 있습니다. 길에서 제자들에게「사람들이 나를 누구라고 하느냐」라고 물으셨습니다. 제자들은 예수님께 대답했습니다. 「세례 요한이라 하고 더러는 엘리야, 더러는 선지자 중의 하나라 하나이다」라고 대답했습니다.

사람들의 예수님에 대한 시각은 적극적이고 파격적인 평가였다고 해도 좋을 것입니다. 어쨌든 당시 400년 전에 나타난 예언자 말라기를 마지막으로 해서 더 이상 선지자는 나타나지 않는다고 생각했을 정도입니다. 이런 견해가 마가복음 6장 15,16절에도 적혀 있었습니다. 잠깐 살펴보도록 하겠습니다. 6장 15,16절을 읽어보시겠습니다.

15 어떤 이는 그가 엘리야라 하고 또 어떤 이는 그가 선지자니 옛 선지자 중의 하나와 같다 하되

16 헤롯은 듣고 이르되 내가 목 벤 요한 그가 살아났다 하더라

여기서도 예수님은 똑같이 긍정적으로 평가받고 있습니다. 사람들은 구약성경에 대한 지식이 있고 분명히 세례 요한과 주 예수를 선지자 대열에 두고 있다는 것을 알 수 있습니다. 그런데 나중에 알 수 있겠지만 이 적극적이고 파격적인 평가조차도 그분의 진정한 정체성을 즉 하나님의 아들로서의 정체성을 충분히 파악할 수 있을 정도는 아니었습니다. 그 일은 나중에 밝혀질 것입니다. 이어서 마가복음 8장 29,30절을 읽어보겠습니다.

29 또 물으시되 너희는 나를 누구라 하느냐 베드로가 대답하여 이르되 주는 그리스도시니이다 하매

30 이에 자기의 일을 아무에게도 말하지 말라 경고하시고

예수님에게 사람들의 평가는 그다지 중요하지 않은 것 같습니다. 예수님의 질문을 보면 헬라어로 「너희는」 이라는 말을 강조하고 「너희는 나를 누구라 하느냐」라고 적혀져 있기 때문입니다. 남녀 연인의 커플을 떠올려 보세요. 두 사람은 상대방이 자신을 어떻게 생각하는지 매우 궁금해하고 있고 그것은 매우 중요한 문제입니다. “남들이 나를 어떻게 생각하든 상관없지만 당신은 나를 어떻게 생각하는가”그것이 중요한 것입니다. 예수님께도 사람들의 생각보다 자신과 함께 있는 제자들의 생각이 더 중요했을 것입니다.

예수님의 질문에 베드로가 제자들을 대표하여 대답했습니다. 「주는 그리스도시니이다」베드로는 그동안 예수님과 함께 걸으며 메시아가 아니면 할 수 없을 많은 이적과 기사를 자신의 눈으로 보아왔습니다. 어떤 때는 그 기적에 제자로 함께 참여하기도 했습니다. 그때마다 ‘왜 이분을 통해서 그런 신기한 일이 일어날까’생각했을 것입니다. 그래서 베드로는 망설이지 않고 「주는 그리스도시니이다」라고 고백할 수 있었던 것이 아닐까 생각합니다. 그리고 그 고백은 다른 제자들의 확신이기도 했다고 생각합니다.

덧붙여서 「메시아」는 히브리어이고 헬라어로는 「그리스도」를 말합니다. 구약성경에는 하나님께서 어떤 특별한 사역에 세우실 때 기름을 붓는 의식이 행해지는데 메시아는 「기름부음을 받은 자」라는 뜻입니다. 유대인이라면 마지막 날 이 「메시아(기름 부음을 받은 자)」가 오셔서 하나님의 백성 이스라엘을 구원해 주실 것을 누구나 믿었습니다. 심지어 자신을 메시아라고 사칭하는 자들도 종종 나타났을 정도입니다. 그런 배경 속에서 베드로는 「당신이야말로 기다리던 메시아입니다 구약성경에 예언된 기름 부음 받은 자입니다」라고 고백할 수 있었던 것입니다. 예수님도 분명 베드로의 고백을 기뻐하셨을 것입니다. 베드로의 고백을 그대로 받으시고, 그리고 나서 자신에 대해 아무에게도 말하지 말라고 제자들에게 경고하셨습니다. 이것은 도대체 무슨 뜻일까요? 「아무에게도 말하지 말라」는 문구는 그동안 마가복음에서 여러 번 나왔습니다. 당시 유대인들이 생각했던 메시아란 로마 제국을 타도하고 자신들 이스라엘을 로마의 지매로부터 해방시켜줄 그런 구세주를 상징하고 있었습니다. 즉 유대인을 위한 정치적 왕을, 유대인을 위한 정치적 구세주를 기대했던 것입니다. 아마 베드로의 고백도 예외가 아니라 그런 기대가 담겨 있지 않았나 싶습니다. 베드로의 고백은 전적으로 옳은 고백이긴 하지만 아직 눈이 반밖에 뜨여지지 않았습니다.

(2) 첫 번째 수난고지

예수님은 베드로의 고백을 받아들이면서 「메시아」에 대한 기성개념이라기보다는 「메시아」에 대한 편견을 불식시키고 올바른 의미를 정의하듯 자신의 수난고지를 말씀하시기 시작합니다. 8장 31,32절 전반까지 보시겠습니다.

31 인자가 많은 고난을 받고 장로들과 대제사장들과 서기관들에게 버린 바 되어 죽임을 당하고 사흘 만에 살아나야 할 것을 비로소 그들에게 가르치시되

32 드러내 놓고 이 말씀을 하시니 베드로가 예수를 붙들고 항변하매

인자란 예수님이 즐겨 쓰시는 자신의 호칭입니다. 「.. 받고.. 버린 바 되어.. 당하고 .. 살아냐야 할 것을」이란 표현은 그 배경에 아버지 되신 하나님의 계획이 있다는 것을 알 수 있습니다. 「장로, 대제사장, 서기관들」이란 유대의 최고 의회 산헤드린의 구성원이자 이스라엘 종교 지도자, 권위자들을 지칭했습니다. 이스라엘을 대표하는 그들에게서 예수님이 배척당하신다는 것은 하나님의 백성 이스라엘로부터 예수님이 배척당하고 버려진다는 것을 의미하는 것입니다.

예수님은 자신이 아버지이신 하나님으로부터 기름부음을 받은 메시아, 그리스도라는 것은 곧 무슨 말이냐면 자신이 배척당하고 버려지고 죽임을 당한다는 것입니다. 죄가 없는 분이 죄가 있는 자로서 대신 벌을 받음으로써 죄인의 죄를 속죄하는 것입니다. 이것은 「복음의 중심」이라고 바꿔 말할 수 있지만 메시아가 된다는 것은 즉 그런 것입니다. 그 사실을 처음으로 제자들에게 비유가 아니라 분명하게 공개적으로 말씀하시게 된 것입니다. 그러나 그런 하나님의 마음을 아직 깨닫지 못한 베드로는 예수님을 붙들고 항변했습니다. “앞으로 예수님께서 예루살렘에 올라가셔서 할 일이 많은데 무슨 말씀을 하시는 거예요?”라는 거죠. 「항변하다」라는 말은 꾸짖다라는 의미입니다. 마가복음 9장 25절에서 예수님이 「더러운 귀신을 꾸짖어 이르시되」라고 적혀져 있는데 이 「꾸짖다」와 같은 단어가 사용되고 있습니다. 제자인 베드로가 예수님 위에서 꾸짖고 있는 것입니다. 그러자 예슈님은 제자들을 돌아보며 질책의 말씀을 하셨습니다. 이것은 베드로뿐만 아니라 제자들 모두에게 교훈으로서 질책을 하고 계신다는 것입니다. 33절을 보시죠.

예수께서 돌이키사 제자들을 보시며 베드로를 꾸짖어 이르시되 사탄아 내 뒤로 물러가라 네가 하나님의 일을 생각하지 아니하고 도리어 사람의 일을 생각하는도다 하시고

「사탄!」굉징히 신랄한 말이 튀어나왔어요. 베드로의 생각이 「사탄적이다」라는 것이죠. 하나님의 일이 아니라 사람의 일을 생각하기 때문입니다. 「내 뒤로 물러가라」는 말씀은 제자란 스승의 뒤를 따르는 자인데 그 본래의 자리로 「돌아가라」는 의미입니다. 이 예수님의 질책은 우리에게도 남의 일이 아닙니다. 우리도 예수님 뒤를 따르는 자가 아니라 무심결에 예수님 앞에 서서 예수님에게 위에서 지시하려는 경향이 있기 때문입니다. 우리는 하나님의 마음을 구하면서 항상 예수님의 걸음을 따라가는 자입니다.

(3) 예수님의 복음이해

그렇다 치더라도 예수님께 있어서 이 메시아의 사명이랄까 메시아의 정체성이 언제 어디서 왔을까요? 예수님은 하나님의 아들이기 때문에 아기 때부터 자신이 죄인을 위해 십자가에 못 박히기 위해 왔다는 것을 이미 깨닫고 있었다는 것입니까? 그런 건 아닌 것 같아요. 예수님도 우리 인간과 똑같이 어린 시절을 거치면서 성장해 갔습니다. 어머니의 모유에 의존하지 않고는 살아갈 수 없는 그런 약한 어린 시절을 보내면서 성장과 함께 조금씩 지식을 더하고 성경에 친숙해지는 가운데 점차 자신이 하나님의 아들이며 자신이 죽음을 당할 것과 부활할 것을 성경을 통해서 깨달았다고 생각합니다. 그렇지 않다면 우리들과 같은 연약함을 가진 인간이 아니라면 대신 죽는 죽음으로써 우리의 죄를 속죄할 수 없기 때문입니다. 예수님이 사람의 몸을 취하셨을 때 죄는 없으셨지만 우리 죄인의 친구가 되기 위하여 그리고 우리들 죄인과 같은 눈높이에 서기 위해 비참한 형태로 가장 낮은 곳에서 태어나신 것입니다.

그렇다면 도대체 언제 예수님은 메시아로서의 정체성을 자각하셨을까요? 어쩌면 성경 창세기 22장의 말씀을 이른바 「아브라함의 이삭 봉헌」의 내용을 묵상하는 가운데 그 자각이 길러졌을지도 모릅니다. 아브라함에게 하나님께서 갑자기 소중한 외아들 이삭을 붙로 태우는 번제의 제물로 바치라는 명령을 하셨습니다. 이때 아브라함은 많이 고뇌했을 것입니다. 아브라함과 이삭은 둘이서 묵묵히 모리야 산을 올라갔습니다. 모리야 산은 나중에 예루살렘 신전이 세워지는 곳입니다. 이삭은 두려움 속에서 무려 제단의 장작 위에서 아버지가 칼을 들고 내려찍는 직전까지 아버지를 믿고 순종했습니다. 예수님은 이삭의 모습에 자신을 겹쳐 보신것이 틀림없습니다. 한편 이삭의 아버지 아브라함의 고뇌는 아버지 하나님의 고뇌와 겹칩니다. 하나님은 자신의 독생자를 십자가에 내주시고 그만큼 고뇌하실 정도로 자신의 백성을 사랑하셨고 교회를 사랑하셨다는 것입니다. 부활에 대해서는 시편 16편의 말씀을 떠올리고 있었을지도 모릅니다. 시편 16편 10,11절 말씀을 읽어보겠습니다.

10 이는 주께서 내 영혼을 스올에 버리지 아니하시며 주의 거룩한 자를 멸망시키지 않으실 것임이니이다

11 주께서 생명의 길을 내게 보이시리니 주의 앞에는 충만한 기쁨이 있고 주의 오른쪽에는 영원한 즐거움이 있나이다

이 16편의 표제에는 다윗의 믹담, 즉 「다윗의 아름다운 시 가운데」라는 표제가 붙어 있습니다. 예수님은 시편 16편을 묵상하시면서 자신의 부활을 확신하셨을지도 모릅니다. 어쨌든 예수님은 초능력을 가진 신동처럼 지내신 것이 아니라 죄는 없으셨지만 우리와 똑같이 나약함을 가지고 그 속에서 성경을 통해 메시아로서의 자신의 사명을 깨닫고 두려움 가운데 겸손과 순종의 희생을 자발적으로 바치신 것입니다.

결론

예수님에게 있어서 하나님에게 기름부음을 받은 자, 그리스도라는 것은 무엇을 의미하는 것인지 그 사명을 깨달았을 때 어떤 생각을 하셨을까요? 좀 우습지만 저 같은 사람이 상상해 보면 아버지 되신 하나님으로 인해 영광을 느끼는 동시에 정말 두려움과 슬픔으로 가득 차 있지 않을까 싶습니다. 예수님은 그 사명을 고독 속에서 자신의 마음속에 간직하면서 제자들에게 좀처럼 털어놓을 수 없었던 것이 아닐까요. 하지만 이제 조금씩 제자들의 눈이 뜨이고 있습니다. 앞으로 자신의 수난고지에 대해 즉 죄의 속죄라고 하는 복음의 중심에 관해서 제자들에게 가르치십니다. 곧 제자들이 복음선교의 길을 걸을 수 있는 날이 오기를 기대하면서 예수님의 예루살렘 여행은 계속됩니다. 머지않아 제자들은 완전히 보게 되고 극적인 변화가 찾아올 것입니다. 그 극적인 변화가 사도의 사역으로서 사도행전에 기록되어 있습니다. 그리고 그 사역은 2000년의 세월을 걸쳐서 우리들에게도 이어졌고 우리도 그리스도의 제자로서 사도들과 마찬가지로 그리스도의 걸음을 따르고 있는 것입니다. 그 생각을 할 때 십자가와 부활의 복음이 얼마나 소중한 메시지인지 다시 한 번 확인할 수 있는 것입니다.

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