2023年10月15日「イエスとシリア・フェニキアの女 예수님과 수로보니게 여자」

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イエスとシリア・フェニキアの女 예수님과 수로보니게 여자

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 7章24節~30節

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聖句のアイコン聖書の言葉

7:24イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。
7:25汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。
7:26女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。
7:27イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
7:28ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
7:29そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」
7:30女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 7章24節~30節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

ユダヤ人と異邦人の間には、一種の壁のようなものが存在しており、常に敵対関係にありました。ところが、マルコによる福音書の本日の箇所において、異邦人が汚れた霊から解放されたことが報告されています。当時のユダヤ人は積極的に、異邦人と関係を断ち、彼らを汚れていると考えていましたから、弟子たちは、異邦人が汚れた霊にとりつかれるのも当然のことだと考えていたかも知れません。ところで私たちが前回学んだ、マルコ7章1~23節では、「罪と汚れの問題」が取り上げられていました。罪と汚れとは、選民イスラエルのその周辺に、選民イスラエルの外側にあるのではない、ということが明らかにされました。罪と汚れとは、むしろ人間の心の中から出て来るのであって、そこにはユダヤ人であろうが、異邦人であろうが関係ないということです。本日の箇所では、さらに突っ込んだ内容として、異邦人にも福音が伝えられるということが示されています。注目すべきは、そのことが、イエス様を論破する仕方で伝えられているということです。これまでイエス様は、ファリサイ派の人々や律法学者たちと数々の論争を繰り広げ、相手を論破してきました。しかし今回は、イエス様が論破されてしまいます。それでは、その手ごわい相手とは、一体誰なのかというと、ファリサイ派でも律法学者でもありません。ユダヤ人でもありません。異邦人の無名の女によって、彼女の信仰によって、論破されたのであります。

【1】. 私は食卓の下の子犬です。

7:24節をご覧ください。

“イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。”

イエス様が弟子たちと滞在されていた所から立ち去り、フェニキアのティルス地方に行かれたと書かれています。フェニキアのティルスとは、ガリラヤ地方の北側の地中海沿岸の都市ですが、この辺りは昔、レバノン杉で有名でありました。エルサレム神殿を建設する際には、ソロモン王がティルスから大量のレバノン杉を輸入したと旧約聖書に書かれています。またティルスは、貿易で栄えた裕福な都市でもあります。ガリラヤから北に40キロ以上離れたこの町に、イエス様は何をしに来たのでしょうか。宣教のために訪れたのではありません。「ある家に入り、誰にも知られたくなかった」とあるからです。おそらく休息を取るために訪れたと考えられますが、しかし、その目的はかないませんでした。人々に気付かれてしまい、汚れた霊にとりつかれた娘を持つ女が、イエス様のことを聞きつけて、来て、イエス様の足もとにひれ伏したからです。この女はギリシア人であり、シリア・フェニキアの生まれであったと書かれています。つまり、ユダヤ人ではなく、ギリシア語を話す異邦人だったということです。イエス様はこの女と、アラム語(当時ユダヤ人が使っていた言葉)ではなく、ギリシア語で会話されたと思われます。イエス様だけでなく、ガリラヤ出身の弟子たちも、ある程度ギリシア語を使う事が出来たと考えられています。フェニキアの女は娘を救ってほしい、娘を癒してほしいと願い出ました。ところがイエス様は、女の願いを断るかのように、次のように答えられました。27節をご覧ください。

“イエスは言われた。「まず、子どもたちに十分食べさせなければならない。子どもたちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」”

「子どもたち」とは、主の民であるユダヤ人のことです。「子犬」とは、異邦人のことです。「パン」とは神の救いのことを指していると考えてください。イエス様は、「私の救いは子どもたちであるユダヤ人、イスラエルの民のためのものであり、お前たち異邦人に与える分はない」とおっしゃっているように聞こえます。弟子たちにとって、或いは私たち読者にとって、この言葉は大変冷酷に聞こえてきます。イエス様は、女が異邦人だから、汚れているからという理由で、差別されたのでしょうか。そうではないでしょう。ここでイエス様が言われたことは、ユダヤ人と異邦人の福音が伝えられる、その順番について語られたと思われます。イエス様は地上におけるご自身の働きを、イスラエルの民に制限させ、ご自身のことをメシアとして受け入れる最初の機会は、ユダヤ人のものでなければならないと考えていました。父なる神が、エルサレムから全世界の人々に救いのメッセージが提示されることを望まれたからであります。父なる神が、アブラハムを通して、全世界に祝福が拡がるように希望されたからであります。創世記12:3には、次のように書かれています。主がアブラハムに語られた御言葉です。

“あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」”

また、イエス様は弟子たちを宣教訓練に派遣される際、まずユダヤ人に福音を伝えるため、弟子たちに次のように語りました。マタイ10:5-6をご覧ください。

“イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。”

エルサレムから全世界の国々へ、神の恵みが注がれていくことが、父なる神のご計画だったのです。そのような父なる神のご計画を知る由もないフェニキアの女は、イエス様の言葉によって自尊心が傷つけられたとし、怒って、その場から離れ去ってもよさそうなものですが、女はイエス様のこの言葉を正確に理解しました。イエス様は「子犬」という言葉を使っていますが、裕福なギリシア人社会において、「子犬」と言えば、普通ペットの子犬を思い浮かべます。ユダヤ人が思い浮かべるような、ごみをあさる野良犬ではありません。女は、イエス様の御言葉を正しく理解し、その上でイエス様に次のように反論します。28節をご覧ください。

“ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子どものパン屑はいただきます。」”

この言葉から、女の切実さが大変強く伝わってきます。ほとんど祈りに近かったのではないでしょうか。女の言葉の「パン屑」という言葉に注目してください。ここで、女は子どもたちに与えるための「パン」をイエス様に求めている訳ではありません。パンは、子どもたちユダヤ人のものであることを認めつつ、その上で、異邦人である私は、ペットとして子どもたちが食卓の下にこぼした恵みのおこぼれに与りたい、と主張しているのです。「自分は神の民、ユダヤ人ではない。神の恵みに値しない者であり、神の憐れみを求める資格がないことを知っている。確かに、パンは子どもたちのものですが、意図せず食卓からこぼれ落ちてしまったパン屑は、子犬がいただくものです」と主張しているのです。そもそも、救いとは一方的な神の恵みであり、いくらユダヤ人であっても、誰もそれに与るに相応しい人などいません。「救われてしかるべき人」、「選ばれてしかるべき人」、などこの世にはいないのです。全ての人が、神の御前に恵みに値しない者であります。「私は食卓の下の子犬です」という女の告白には、そのことが表明されているのです。同時に、主の食卓があまりにも豊かなため、「食卓から落ちたパン屑にでも与れるなら、十分過ぎるほど恵みを受けることができる、主の恵みとは、そのようにあふれ出るほど豊かである」、ということが「子どものパン屑はいただきます」という告白に表明されているのです。

マルコ福音書6章において、イエス様が五つのパンと二匹の魚で、五千人を満腹させられた奇跡が書かれていました。イエス様は五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚もお分けになりました。すべての人が食べて満腹した後、パン屑と魚の残りを集めると、十二籠いっぱいになったと書かれています。つまり五千人が、「食べ残したはずのパン屑と魚」が、それほど豊かであったということが示されています。弟子たちは、五千人の給食の出来事を中々理解できず、イエス様を旧約聖書に約束されたメシアとして中々受け入れることが出来なかったのですが、フェニキアの女は、五千人の給食の奇跡を目撃していなかったにもかかわらず、イエス様の御言葉を正しく理解し、救い主が与えてくださるパンの意味を正しく理解したのです。何度説明しても悟ることのできなかった弟子たちとは対照的であります。

【2】. あなたが語ったこの言葉のゆえに

女の言葉を聞いて、イエス様は大変驚かれたに違いありません。29~30節をご覧ください。

“そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。”

29節のイエス様の言われた御言葉を直訳しますと、「(あなたが語った)この言葉のゆえに、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」となります。つまり、あなたのその言葉だけで、既に癒しが起こったと言われるのです。これまで、イエス様が癒しをなされる時には、お言葉をかけられることがありました。例えば、会堂長ヤイロの娘には「タリタ クム(少女よ、起きなさい)」と言われました。また、イエス様の服を触った出血の止まらない女には「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい。もうその病気にかからず元気に暮らしなさい」と言われました。イエス様が言葉をかけてくださると、その言葉が力を持ったかのように、癒しの奇跡が起こったのです。ところが、今回イエス様は「あなたの子どもが治るように」と告げることはありませんでした。女が言葉を語った時に、その言葉が、まるで主イエス様ご自身の御言葉であるかのように、力を持ったのです。すなわち、女の告白を、主イエスご自身の御言葉として受け入れてくださり、主イエスご自身が女の告白に寄り添ってくださったのです。「(あなたが語った)この言葉のゆえに、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女は信仰によって、主イエスと一つにされました。女は信仰によって、イエス様を論破する仕方で、異邦人にも救いが与えられることを示したのです。

この出来事は弟子たちにとっても、驚くべき出来事であったに違いありません。なぜなら、通常、ユダヤ人は、異教徒から、信仰が出るということを全く期待していなかったからです。しかも異教徒の女から、信仰など、とても期待できないと思っていました。フェニキアの女性と言えば、どうしても旧約聖書に出て来る悪女イゼベルを想像させたことでしょう。北イスラエルのアハブ王の妻、イゼベルは、バアルの預言者とアシェラの預言者を抱きかかえ、主の預言者エリヤを苦しめた人物でありました。そのような先入観を拭い切れないフェニキアの地から、このような信仰の女が出て来るとは、誰が予想できたでしょうか。汚れた所と考えられていたフェニキアから、主イエスのお考えと一致する、信仰と祈りが出て来たのです。

【3】. 母の信仰

最後にもう一つ、私たちが心に留めたいこととして、この物語は悪霊にとりつかれた娘の信仰ではなく、最初から最後まで母の信仰に焦点が当てられているという点であります。苦痛を味わっている娘の信仰は、少しも考慮されていませんが、しかし、癒しを受けたのは娘でありました。このことから私たちが適用できることは、両親は子どものために祈って、神様が働いてくださるという事を期待しても良いということです。子どもは反抗的で、親の言う事を聞かず、世のことだけに明るく、イエス様とは距離が置かれているけれど、親が真実にイエス様の前にひれ伏し、主に依り頼むなら、神様が親の信仰と祈りの通りに、働いてくださるのです。神様が働かれるなら、この世の霊に捕らわれていた子どもは、びっくりするほど変えられて、今までの価値観がガラッと変えられてしまう事でしょう。もう一つ、フェニキアの女をこれほどまでに粘り強い祈りの人、信仰の人にさせたのは、自分の娘が汚れた霊に取りつかれているという非常に深刻な問題があったからであります。このような困難で深刻な状況が、女をイエス様の前にひれ伏すようにし、切に願うようにさせました。私たちは、日々の生活の中で困難な状況が起こると、「神様、なぜですか?」と考えてしまい、神様の愛を疑うこともあるかもしれません。私たちは、私たちに襲い掛かる困難と試練の意味を決して完全に理解することはできないのです。神様の摂理を私たちが完全に把握することは出来ませんが、一つ明らかなことは、困難や試練を通じて、私たちが主イエス様に近づくようにされるということです。試練を通してイエス様に似た者に少しずつ変えられるという事です。ですから、神様の愛を疑わず、そのことに心を留めて行きたいと思います。

【結論】

本日の箇所には、異邦人が汚れた霊から解放されたことが報告されていました。それは言い換えるなら、イエス様を信じる異邦人が、食卓の下に落ちたパン屑を食べて、救われたという事実です。パンの給食の出来事を中々理解できなかった弟子たちに先んじて、異邦人の女が主イエスのパンの意味を正確に理解し、そのパン屑を食べて救われたのであります。私たちも日々、霊の糧である、いのちの御言葉に与っています。この主イエスのパンを食べるなら、主イエスと一つにされ、そして、私たちの信仰と、私たちの祈りが、主イエスと一つにされるのです。そのことに希望を持ちつつ、フェニキアの女の信仰に見習いながら、私たちの子どものため、また、家族のために、粘り強く祈っていく者とならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

예수님과 수로보니게 여자

2023년 10월 15일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

마가복음 7장 24~30절

서론

유대인과 이방인의 사이에는 일종의 벽 같은 것이 존재하고 있어서 항상 적대적인 관계에 있었습니다. 그런데 마가복음의 오늘의 구절에서 이방인이 더러운 귀신에게서 해방되었다는 사실이 보고되었습니다. 당시 유대인들은 이방인들이 부정하다고 생각하여 적극적으로 이방인과 관계를 끊었기 때문에 제자들은 이방인이 더러운 귀신에 사로잡히는 것은 당연하다고 생각했을지도 모릅니다. 그런데 우리가 지난번에 배운 마가복음 7장 1~23절에서는 「죄와 더러움의 문제」가 다루어져 있었습니다. 죄와 더러움이란 선민 이스라엘의 그 주변에, 선민 이스라엘의 바깥쪽에 있는 것이 아니라는 것이 밝혀졌습니다. 죄와 더러움은 오히려 인간의 마음 속에서 나오는 것이지 거기에는 유대인이건 이방인이건 상관없다는 것입니다. 오늘의 구절에서는 더욱 깊이 파고든 내용으로 이방인에게도 복음이 전해진다는 것을 보여줍니다. 주목할 만한 것은 그것이 예수님을 논파(論破)하는 방식으로 전해지고 있다는 것입니다. 그동안 예수님은 바리새파 사람들과 서기관들과 수많은 논쟁을 벌이면서 상대방들을 논파해 왔습니다. 그러나 이번에는 예수님이 논파되고 맙니다. 그러면 그 벅찬 상대가 도대체 누구냐 하면 바리새파도 서기관도 아닙니다. 유대인도 아닙니다. 이방인 무명의 한 여자에 의해서 그녀의 믿음에 의해서 논파된 것입니다.

(1) 저는 상 아래 개입니다

7장 24절을 참조하시기 바랍니다.

예수께서 일어나사 거기를 떠나 두로 지방으로 가서 한 집에 들어가 아무도 모르게 하시려 하나 숨길 수 없더라

예수님이 제자들과 머물던 곳을 떠나 수로보니게의 두로 지방으로 가셨다고 적혀 있습니다. 수로보니게의 두로는 갈릴리 지방 북쪽 지중해 연안의 도시인데 이 근처는 옛날 레바논 삼나무로 유명했습니다. 예루살렘 신전을 건설할 때 솔로몬 왕이 두로에서 대량의 레바논 삼나무를 수입했다고 구약성경에 적혀 있습니다. 또한 두로는 무역으로 번창한 부유한 도시이기도 합니다. 갈릴리에서 북쪽으로 40km이상 떨어진 이 마을에 예수님은 무엇을 하러 오셨을까요? 선교를 위해 방문하신 것은 아닙니다. 「한 집에 들어가 아무도 모르게 하시려 하나」라고 쓰여져 있기 때문입니다. 아마 휴식을 취하시려고 방문하신 것으로 생각되지만, 그 목적은 달성되지 않았습니다. 사람들이 눈치채고 더러운 귀신에 사로잡힌 딸을 둔 여자가 예수님에 관해 듣고 와서 예수님 발치에 엎드렸기 때문입니다. 이 여자는 헬라인이며 수로보니게(시리아 페니키아) 태생이었다고 쓰여 있습니다. 즉 유대인이 아니라 그리스어를 사용하는 헬라인인 이방인이었다는 것입니다. 예수님은 이 여자와 아람어(당시 유대인들이 쓰던 말)가 아니라 헬라어로 대화하셨을 것으로 보입니다. 예수님뿐만 아니라 갈릴리 출신의 제자들도 어느 정도 그리스어를 사용 할 수 있었다고 생각됩니다. 수로보니게 여자는 딸을 구해 달라, 딸을 치유해 달라고 요청했습니다. 그런데 예수님은 여자의 소원을 거절하듯 다음과 같이 대답하셨습니다. 27절을 보시기 바랍니다.

예수께서 이르시되 자녀로 먼저 배불리 먹게 할지니 자녀의 떡을 취하여 개들에게 던짐이 마땅치 아니하니라

「자녀」란 주의 백성인 유대인을 말합니다. 「개」란 이방인을 말합니다. 「떡」이란 하나님의 구원을 가르킨다고 생각해 주세요. 예수님은 「나의 구원은 자녀인 유대인, 이스라엘 백성을 위한 것이며 너희 이방인에게 줄 몫은 없다」고 말씀하시는 것처럼 들립니다. 제자들에게 혹은 우리 독자들에게 이 말은 굉장히 냉혹하게 들려옵니다. 예수님은 여자가 이방인이기 때문에 부정하다는 이유로 차별하신 것일까요? 그렇지는 않을 겁니다. 여기서 예수님이 말씀하신 것은 유대인과 이방인에게 복음이 전해지는 그 순서에 대해서 말씀하시는 것이라고 생각합니다. 예수님은 공생애에 있어서 자신의 사역을 이스라엘의 백성에게 제한하시고 자신을 메시아로 받아들이는 첫 번째 기회는 유대인의 것이 되어야 한다고 생각하셨습니다. 아버지 하나님께서 예루살렘에서 전 세계 사람들에게 구원의 메시지가 제시되기를 원하셨기 때문입니다. 아버지 하나님께서 아브라함을 통해 전 세계에 축복이 퍼지기를 원하셨기 때문입니다. 창세기 12장 3절에는 다음과 같이 적혀 있습니다. 주께서 아브라함에게 하신 말씀입니다.

너를 축복하는 자에게는 내가 복을 내리고 너를 저주하는 자에게는 내가 저주하리니 땅의 모든 족속이 너로 말미암아 복을 얻을 것이라 하신지라

또한 예수님은 제자들을 선교훈련에 파송하실 때 먼저 유대인들에게 복음을 전하기 위해 제자들에게 다음과 같이 말씀하셨습니다. 마태복음 10장 5,6절을 참조하시기 바랍니다.

5 예수께서 이 열둘을 내보내시며 명하여 이르시되 이방인의 길로도 가지 말고 사마리아인의 고을에도 들어가지 말고

6 오히려 이스라엘 집의 잃어버린 양에게로 가라

예루살렘으로부터 전세계에 하나님의 은혜가 부어지는 것이 아버지되신 하나님의 계획이었습니다. 그러한 아버지 하나님의 계획을 알 까닭이 없는 수로보니게 여자는 예수님의 말씀에 자존심에 상처를 받고 화를 내며 그 장소를 떠날법도 한데 여자는 예수님의 이 말씀을 정확히 이해했습니다. 예수님은 「개」란 단어를 사용하고 계시지만 부유한 그리스 사회에 있어 「개」하면 보통 애완견인 강아지를 떠올립니다. 유대인들이 떠올릴 만한 쓰레기나 뒤지는 들개가 아닙니다. 여자는 예수님의 말씀을 바르게 이해하고 그 위에 예수님에게 다음과 같이 반론합니다. 28절을 참조해 주십시오.

여자가 대답하여 이르되 주여 옳소이다마는 상 아래 개들도 아이들이 먹던 부스러기를 먹나이다

이 단어로부터 여자의 절실함이 강하게 다가옵니다. 거의 기도에 가깝지 않습니까? 여자가 말하는 단어 「먹던 부스러기」라고 하는 단어에 주목해 주시기 바랍니다. 여기에서 여자는 자녀에게 주는 「떡」을 예수님께 구하는 것이 아닙니다. 떡은 자녀인 유대인의 것임을 인정하면서 그 위에 “이방인인 저는 애완견으로서 자녀들이 상 아래 흘린 은혜라도 입고 싶습니다”라고 주장하고 있는 것입니다. “저는 하나님의 백성, 유대인이 아닙니다. 하나님의 은총을 받을 자격이 없는 자이며 하나님의 긍휼하심을 구할 자격이 없음을 알고 있습니다. 확실히 떡은 자녀들의 것이지만 의도치 않게 상 아래 떨어진 떡 부스러기는 개가 먹는 것입니다.” 라고 주장하고 있는 것입니다. 애초 구원이란 일방적인 하나님의 은총이며 아무리 유대인이라고 할지라도 그에 합당한 사람은 없습니다. 「구원 받기에 합당한 사람」「선택 받아야 마땅할 사람」등 이 세상에 그런 사람은 없는 것입니다. 모든 사람이 하나님 앞에 은혜를 받을 자격이 없는 자입니다. “저는 상 아래에 있는 개입니다”라는 여자의 고백에는 그 사실이 표명되어 있는 것입니다. 동시에 주님의 상이 워낙 풍성하기 때문에 “그 상에서 떨어진 떡 부스러기라도 주신다면 충분히 은혜를 받을 수 있습니다. 주님의 은혜란 그렇게 넘쳐날 정도로 풍요롭습니다”라는 것이 「상 아래 개들도 아이들이 먹던 부스러기를 먹나이다」라고 하는 고백에 표현되어 있는 것입니다.

마가복음 6장에서 예수님께서 다섯 개의 떡과 두 마리의 물고기로 오천 명을 배불리 먹이신 기적이 적혀 있습니다. 예수님은 다섯 개의 떡과 두 마리의 물고기를 들고 하늘을 우러러 축사하시고 떡을 떼어 제자들에게 넘겨주고 나눠주시고 두 마리의 물고기도 나누어주셨습니다. 모든 사람이 배불리 먹고 난 후 남은 떡 조각과 남은 물고기를 모으니 열두 바구니가 가득 찼다고 적혀 있습니다. 즉 오천 명이 「먹고 남겼을 떡 조각과 물고기」가 그 정도로 풍부했다는 것을 알 수 있습니다. 제자들은 오천 명을 먹이신 사건을 좀처럼 이해하지 못했는데 이 수로보니게 여자는 오천 명을 먹이신 기적을 목격하지 않았음에도 예수님의 말씀을 바르게 이해하고 구원자가 주시는 떡의 의미를 바르게 이해한 것입니다. 몇 번을 설명해도 깨닫지 못한 제자들과는 대조적입니다.

(2) 이 말을 하였으니

여자의 말을 듣고 예수님은 매우 놀라셨음에 틀림이 없습니다. 29,30절을 보시기 바랍니다.

29 예수께서 이르시되 이 말을 하였으니 돌아가라 귀신이 네 딸에게서 나갔느니라 하시매

30 여자가 집에 돌아가 본즉 아이가 침상에 누웠고 귀신이 나갔더라

29절에서 예수님께서 하신 말씀을 직역하면 「(네가 한) 이 말로 인해, 집으로 돌아가라 귀신이 네 딸에게서 벌써 나갔다」가 됩니다. 즉 네가 한 그 말만으로 이미 치유가 일어났다고 하시는 것입니다. 그동안 예수님께서 치유를 하실 때면 말씀을 하실 때가 있었습니다. 예를 들면 회당장 야이로의 딸에게는 「달리다굼(소녀야 일어나라)」라고 말씀하셨습니다. 또 예수님의 옷을 만진 출혈이 멈추지 않는 여자에게는 「딸아 네 믿음이 너를 구원하였으니 평안히 가라 네 병에서 놓여 건강할지어다」라고 말씀하셨습니다. 예수님께서 말씀을 하시니 그 말씀이 힘을 가진 것처럼 치유의 기적이 일어난 것입니다. 그런데 이번에 예수님은 「네 딸이 나을 것이다」라는 말씀을 하시지 않았습니다. 여자가 말을 했을 때 그 말이 마치 주 예수님 자신이 하신 말씀처럼 힘을 가진 것입니다. 「네가 한 말로 인해, 집으로 돌아가라 귀신이 네 딸에게서 벌써 나갔다」라고 예수님은 말씀 하셨습니다. 여자는 믿음에 의해 주 예수님과 하나가 되었습니다. 여자는 믿음으로 예수님을 논파하는 방식으로 이방인에게도 구원이 주어진다는 것을 보여준 것입니다.

이 사건은 제자들에게도 놀라운 일이었음에 틀림이 없습니다. 왜냐하면 일반적으로 유대인들은 이교도에게서 믿음이 나올 것이라는 것을 전혀 기대하지 않았기 때문입니다. 게다가 이교도의 여자로부터 믿음 따위는 도저히 기대할 수 없다고 생각했습니다. 수로보니게 여자라고 하면 아무래도 구약성경에 나오는 악녀 이세벨을 연상하게 했을 것입니다. 북이스라엘 아합왕의 아내 이세벨은 바알의 선지자와 아세라의 선지자들과 연합해서 하나님의 선지자 엘리야를 괴롭힌 인물이었습니다. 그런 선입견을 떨쳐버릴 수 없는 수로보니게 땅에서 이런 믿음의 여자가 나올 줄 그 누가 상상이나 했겠습니까? 부정한 곳으로 여겨졌던 수로보니게에서 주 예수님의 생각과 일치하는 믿음과 기도가 나온 것입니다.

(3) 어머니의 믿음

마지막으로 또 하나, 우리들이 마음에 두고 싶은 것은 이 이야기는 귀신에 사로잡힌 딸의 믿음이 아니라 처음부터 끝까지 어머니의 믿음에 초점이 맞춰져 있다는 점입니다. 고통을 겪고 있는 딸의 믿음은 조금도 거론되지 않았지만 치유를 받은 것은 딸이었습니다. 이 점에서 우리가 적용 할 수 있는 것은 부모가 자녀를 위해서 기도하면 하나님이 일하신다는 것을 기대해도 된다는 것입니다. 자녀는 반항적이고 부모의 말에 귀 기울이지 않으며 세상 일에만 밝고 예수님과는 거리가 있지만 부모가 진실로 예수님 앞에 엎드려 주님께 의지한다면 하나님께서 부모의 믿음과 기도대로 일해 주시는 것입니다. 하나님이 일하신다면 이 세상의 영에 마음이 사로잡혔던 아이는 깜짝 놀랄 정도로 바뀌고 지금까지의 가치관이 확 바뀌어 버릴 것입니다. 또 하나 수로보니게 여인을 이렇게 끈질긴 기도자, 믿음의 사람으로 만든 것은 자신의 딸에게 더러운 귀신이 들어가 있었기 때문입니다. 이러한 어렵고 심각한 상황이 여자를 예수님 앞에 엎드리게 하고 간절히 구하게 만들었습니다. 우리는 일상생활 속에서 어려운 상황을 만나게 되면 “하나님 왜요?”라고 생각하게 되어 하나님의 사랑을 의심할 수도 있습니다. 우리는 우리에게 닥친 어려움과 시련의 의미를 결코 완전히 이해할 수 없습니다. 하나님의 섭리를 우리가 완전히 파악할 수는 없지만 한 가지 분명한 것은 어려움이나 시련을 통해 우리가 주님께 가까이 다가가게 하신다는 것입니다. 시련을 통해 예수님의 모습을 닮아가는 자로 조금씩 바뀔 수 있다는 것입니다. 그러므로 어려운 상황을 만난다 하더라도 하나님의 사랑을 의심하지 말고 그 한 가지 분명한 사실에 마음을 두고 살아가고 싶습니다.

결론

오늘의 구절에서는 이방인이 더러운 귀신에게서 해방되었다는 것이 보고되었습니다. 그것은 바꾸어 말한다면 예수님을 믿는 이방인이 상 아래로 떨어지는 떡 부스러기를 먹고, 구원을 얻었다는 사실입니다. 무리를 먹이신 기적을 보고도 좀처럼 이해하지 못한 제자들에 앞서 이방인 여자가 주 예수님의 떡의 뜻을 정확히 이해하고 그 떡 부스러기를 먹고 구원을 받은 것입니다. 우리도 날마다 영의 양식인 생명의 말씀을 받고 있습니다. 이 주 예수님이 주시는 떡을 먹는다면 주 예수님과 하나가 되고 그리고 우리의 믿음과 우리의 기도가 주 예수님과 하나가 되는 것입니다. 그것에 희망을 가지면서 수로보니게 여자의 믿음을 본받으면서 우리의 자녀를 위해, 또 가족을 위해 끈질기게 기도해 가는 사람이 되도록 합시다.

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