人の子の再臨
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- 説教
- 川栄智章 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 24章29節~36節
29「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。
30そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。
31人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
32「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
33それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
34はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
35天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
36「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 24章29節~36節
ハングル語によるメッセージはありません。
私たちが信じている死者の復活が、もし無ければ、私たちの信仰は全く意味のないものになってしまいます。もし、この世において、現世が全てであり、終わりの日の救いと悪に対する裁きなどなかったなら、信仰をもって歩んでいる私たちこそ、この世界で最も惨めで、愚かな者となってしまうでしょう。本日の箇所では、イエス様は弟子たちに、人の子の再臨と、そして御国の完成と、完全な贖いについて説明しています。人の子の再臨に希望を持つことによって、今後弟子たちに襲い掛かるだろう困難な時代を忍耐するようにと励ましておられます。しかし、イエスさまの励ましの言葉は、預言者の言葉を使いながら黙示的に説明しておられるので、そのことが何を意味するのか、そこに解釈が必要になってまいります。29節をご覧ください。
「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。
ここには天の万象が異変をもたらすことと、世の秩序体系が揺さぶられるということが書かれていますが、これは、エルサレムの神殿滅亡について言っているのではなくて、人の子が再臨する前に起こる「試みと困難」について書かれていると思われます。引用元であるイザヤ書13:9-10をお開きください。(旧約p1080)
見よ、主の日が来る/残忍な、怒りと憤りの日が。大地を荒廃させ/そこから罪人を絶つために。
天のもろもろの星とその星座は光を放たず/太陽は昇っても闇に閉ざされ/月も光を輝かさない。
太陽と、月と、星と、天体が光を失うというのは、終末において、全ての邪悪の集大成がなされることを意味しています。ですから、教会が信仰を守り、敬虔に歩もうとしても、一方においてこの世はキリストに逆らうかのように、いよいよ暗く、光を失い、邪悪の雲が全体を覆い、世の中を一層、深い闇へ落とし入れるようにします。そこでは、キリストの恵みが隠ぺいされ、人々を救いに導くことがいよいよ難しくなってくるでしょう。
しかし、旧約聖書を見ると、人の子の到来に伴う御国の完成と贖いについては、平和、公義、喜び、すべての善なることに対する成就として華々しく豪華絢爛に約束されています。ですから当然ですが、弟子たちの関心は、それでは一体いつになったら、その「御国の完成と、完全な贖い」というような、「栄光と安息」が自分たちに訪れるのでしょうかということでした。というのは、キリストの国が、イエスさまによって、今まさに始まろうとしているのに、その国は相変わらず人々から辱められ、迫害され、キリストの弟子たちもキリストと同じように十字架を担い、死を覚悟しなければならないと教えられるからです。キリストの国が臨むということにおいて、イエスさまからその国のついてのビフォーとアフターで分かり易く説明していただいても、弟子たちには中々納得の行くものではありませんでした。キリストの国が始まったというのに、一体何の権威によって、太陽と月と星を暗くさせて、世の体系と秩序を揺さぶろうとするのか、という疑問です。なぜ相変わらずそのような試練と困難が起こるのかという疑問です。
これについては、神の国の開始と、神の国の完成には忍耐すべきプロセス、私たちが走り終えるべきプロセス、罪と戦っていくプロセスが備えられているということでした。そして「人の子の再臨」こそが、このプロセスを終結させる究極の答えであるということです。最後の苦痛と艱難が増し加わる中にあって、もうこれ以上、信じ続けることが難しいような状況にあって、人の子が再臨し、直ちに暗黒を取り除いて、真昼のような明るさの中で、キリストの大いなる威厳が現れるのです。30節をご覧ください。
そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。
イエスさまはその日、大多数の人々が、キリストの教えを無視し、キリストの国に逆らうことを予め見通されて、「地上の全ての民族」はという言葉を使っています。そして彼らは泣きながら慟哭するだろうとおっしゃっているのです。この世において不敬虔な者が思う存分、自分たちの繁栄を享受し、快楽に陶酔してきた挙句に、神をあざけり、イエス・キリストを無視してきたことに対する審きが下されることによって、それまでの彼らの繁栄と快楽が、悲痛と歯ぎしりに変えられるのです。旧約の預言者たちは、主の日、つまりヤハウェの日を人間の罪に対する、「神の復讐の日」として表現しました。例えば、そのままお聞きくださればと思いますが、イザヤ34:8には、
まことに、主は報復の日を定められる/シオンにかかわる争いを正すための年を。
とあります。ヨエル1:15には、
ああ、恐るべき日よ/主の日が近づく。全能者による破滅の日が来る。
とありまして、アモス5:18には、
災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない。
最後にゼカリヤ12:10です(旧p1492)。ご覧ください。
わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。
不信者は、自分たちが2000年前に十字架に刺し通したそのお方を、恐怖の中で眺めることになるのです。2000年前、卑しい僕の姿をもって来られたはずのお方が、天から雲に乗って大いなる力と栄光を帯びてやって来るのを悲しみながら眺めることになるのです。なぜなら彼らの破滅の時であり、燃える火の地獄へ投げ込まれる時だからです。一方においてイエスさまは、ご自分の選びの民を召集するためにラッパを用いられ、天使たちを遣わされます。民を召集する目的は何でしょうか。それは贖うためです。ですからラッパの音は恐ろしい審判の合図ではなく、完全な贖いの合図であることを覚えておいてください。31節をご覧ください。
人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
このラッパの音は、遺棄された者たちには鳥肌が立つような破滅を知らせる音かもしれませんが、選ばれた者たちにとっては、完全な贖いを意味し、新しい生命を取るようにと知らせてくれる喜ばしい音となります。昔、角笛は、新しい王が即位した時に吹かれました。ですから、キリストが王の王として名実共に君臨された事を全世界に告げ知らせるためであるとも考えられます(キリストは人の子として来られた時も王であることには違いないが)。ラッパと角笛は物は違いますが、用途は同じだったと考えられます。パウロは、再臨を待ち望む私たち信仰者の状態をロマ書8:23において「体の贖われることを待ち望んでいる」と言い表しています。
被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
そして、もしラッパの音を聞いたなら状況が変えられるのです。ルカによる福音書の並行節である21:28をご覧ください。
このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
解放の時とは、つまり英語の聖書ではredemptionつまり、贖いの時が近いという意味です。ルカには召集の目的がはっきり書かれているのです。また、1テサロニケ4:16-17をご覧ください。
すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、
それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。
つまり、人の子が天の雲に乗って来られ、ラッパの音によってご自身の民を召集します。そして、み使いを遣わし全世界の果てから果てまでキリスト者を集められます。彼らは雲に包まれて引き上げられ、空中で主とお会いし、御父のもとに出て御子と共に御国を相続し、永遠に主と共に生きることになります。その日は何と素晴らく、栄光に満ちた日でしょうか。現在、人類はキリスト者であろうが、非キリスト者であろうが同じ歴史の流れの中で、同じように時を過ごしています。しかし歴史の終わりに起こる、キリストの再臨は、全人類に同じように訪れるのではありません。人類の中に二つの色分けがなされ、その色分けに従って全く異なる出来事として現れるのです。
この終末とキリストの再臨の出来事を私たちは信じなければなりません。イスラエルでは夏になるとおいしいイチジクを食べることが出来ます。初なりのイチジクは6~7月に実を結びますが、特にイチジクの実というのは葉が生い茂る前に結実しますので、初なりのイチジクの場合、枝が柔らかくなり、葉が伸びて、おいしいイチジクの実が食べられるようになると、もう夏本番も間近であるということです。冬の間、死んでいたかのようなイチジクの樹木が息を吹き返すかのように実を結び、葉を生い茂らせるのです。キリストの再臨もこれと同じであり、暗闇と苦難の中で死んだような辛い時期は、ついには終わるということを教えてくれます。ですから、私たちはこの地上で生かされている間、最後まで信仰をもって耐え忍ばなければならないのです。最後に36節をご覧ください。
「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。
イエスさまは、主の再臨を信じながら、忍耐して待ち望むことを切望されますが、それがいつになるのだろうかという問題に対しては、あえて知ろうとしてはならないとおっしゃっています。その日は天使も御子も知らないので、傲慢にそれを詮索しようとしないで、確実な時期は分からないけれど、その日が来ることを、耐えながら待つことを願われています。
ところがエホバの証人は、この箇所を取り上げて、御子は、全知の神ではないと主張します。つまり、イエスさまは確かに聖書に書かれている神の子であるかもしれないが、それは神の被造物としての神の子であって、神そのものではないと主張するのです。三位一体を受け入れません。
私たちの信仰告白は、イエスさまは、完全な神であり完全な人であると告白します。それでは完全な神である御子において、知識の不足といういのが、果たして神性を否定することになるのかということを考えてみなければなりません。或いは、キリストにおいて無知があったということは、罪の故であると言えるのかどうかと言うことです。
第一に、再臨の時については、み使いたちも知らないと書かれていることから、無知は罪の故ではないということが分かります。み使いは一切罪を犯してはいないからです。み使いがもし天に反逆し罪を犯すならその瞬間に悪霊やサタンに代わってしまうからであり、彼らには遺棄される者と共に滅びが約束されているのです。
第二に、キリストが仲保者の職務を成し遂げることにあたって、キリストの神性は、人性が処理できる問題に対しては前面に現れることはなかったということです。ですからすべてのことを知っておられるキリストが、人間として理解できる面においては、何かを知らずにいるといってもそれは少しも不自然ではないということです。もし、そうでなかったとしたら、キリストが、弟子たちと生活する中で、実際に悲しまれたり、不安になられ、血の汗を浸らせながら祈ったり、人々の不信仰を驚かれたりしましたが、神が、なぜそのような反応をするのか、そんなことはあり得ないということになってしまいますね。しかし、キリストはそもそも、私たちの罪の刑罰を代わりに引き受けるために肉体をとられ、完全な人となられたのでした。ですから、人であるキリストが再臨の日を知らなかったという事実は、決してキリストの神性を傷つけることはないということです。キリストが復活されて、それまでの僕としての遜りの期間が終了し、ついに王の王、主の主として高く挙げられたとき、キリストは明白に万物に対する支配と権力がご自身に与えられたという御言葉を語られたのです。その時、全知の主として君臨されるのです。
私たちはこの救い主キリストに信頼し、そして、主が再び来たりたまいて、万物が贖われ、ラッパの音と共に御国を相続する栄光の日が来ることを見据えながら、いよいよ激しくなる、試練や困難にあっても、身を起こして頭を上げながら、耐え忍ぶ者とならせていただきましょう。