2023年08月20日「イスラエルの牧者イエス(五千人の給食) 오천 명을 먹이신 이스라엘의 목자」

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イスラエルの牧者イエス(五千人の給食) 오천 명을 먹이신 이스라엘의 목자

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 6章30節~44節

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聖句のアイコン聖書の言葉

30さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
31イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
32そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
33ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
34イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
35そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。
36人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」
37これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。
38イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」
39そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。
40人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。
41イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
42すべての人が食べて満腹した。
43そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。
44パンを食べた人は男が五千人であった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 6章30節~44節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

イエス様がヤイロの娘を生き返らせる奇跡を行った直後に語られた言葉は、「少女に食べ物を与えなさい」という言葉でありました。意外な言葉がイエス様の口から出て来たと思われる方もおられるかもしれません。イエス様の救いの御業とは、たんに霊的な部分だけに限定されず、肉的な部分にも及ぶということが分かります。神様の顧みと、支えと、養いは、私たちの精神面だけでなく、私たちの実生活、私たちの肉体的な部分にも及ぶのであります。本日の五千人の群衆を養う奇跡は、来るべきメシアが、飼い主のいない羊の牧者であるということを示していますが、救い主メシアとは、弱い羊である私たちの生活全般を顧み、支え、養ってくださるお方なのです。

【1】. 荒れ野での奇跡

二人ずつ組にして派遣された使徒たちが、イエス様のところに集まって来て報告しました。30節の「残らず報告した」という言葉は、彼らの宣教訓練を通して受けた喜びや驚き、或いは興奮などが感じ取れます。もしかしたら、自分たちが行ったこと、教えたこと、病をいやし、悪霊を追い出したことなどに目を奪われ、自己達成感や、自己満足感に浸っていたのかもしれません。イエス様は、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われました。「人里離れた」という言葉は、ギリシア語の「エレーモス、荒れ野」という言葉が使用されています。福音書にはしばしば、イエス様が人里離れた場所、「荒れ野」に行って祈られたということが記されていますが(マルコ1:35、ルカ5:16など)、帰ってきた弟子たちにも、疲れているだろうから、しばし人里離れた所に行き、祈りの時を持ち、休むようにとおっしゃっているのです。32~34節をご覧ください。

“そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。”

イエス様の一行は、舟に乗って人里離れた所へ向かうことにしました。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気付き、その場所に一斉に駆けつけ、舟に先んじて到着したと言うのです。34節で、イエス様は大勢の群衆を見て、深く憐れまれたと書かれていますが、この「深く憐れむ」という言葉は、腹わたが揺さぶられるように、激しく動揺し、いてもたってもいられないという意味でございます。この言葉は、イエス様の感情を表す時にのみ使用される重要な言葉であります。イエス様は、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれ、「休息を取る」という予定を急遽変更して、群衆を教え始められました。そのうち、遅い時刻となったため、弟子たちは、35、36節にあるように、イエス様に次のように提案します。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これは、もっともな提案です。そもそも弟子たちは休息を取るためにこの場所に来たのですから。ところが群衆は、イエス様の御言葉に時を忘れて聞き入っているようです。弟子たちは、そろそろ人々を解散させて、それぞれが各自食事をとるように解散した方がよいと判断したわけです。注目したいのは、「人里離れた所」、つまり「荒れ野」という言葉が強調されていて、弟子たちの口から、「ここは荒れ野です。」という言葉が出てきている点です。「ここは荒れ野です。こんなところで、一体どこから食べ物が出て来るのでしょうか。」このような疑問は、おそらく1,500年前のモーセも同じような疑問を持ったのではないでしょうか。民11:13-14には次のような御言葉があります。

“この民すべてに食べさせる肉をどこで見つければよいのでしょうか。彼らはわたしに泣き言を言い、肉を食べさせよと言うのです。わたし一人では、とてもこの民すべてを負うことはできません。わたしには重すぎます。”

因みに、この後、神様はウズラを降らせて、イスラエルの民に肉を食べさせてくださったのであります。

さて、弟子たちの解散の提案に対し、イエス様は驚くようなことを言われました。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。この全く不可解な言葉は、弟子たちの心の片隅に、残り続けたのだと思います。イエス様のお言葉に弟子たちは反論しました。「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか。」つまり、そんなことは、どう考えても無理だと言っているのです。1デナリオンが当時の一日の労働の賃金にあたりますから、計算しやすいように、一日の日給を一万円としますと、二百デナリオンとは、200万円に相当します。この時、男たちだけで、五千人いました。女、子供を合わせるなら、さらに大勢がいたことでしょう。仮に、五千人に対し、一人当たり400円分のパンを準備すると仮定すると、ちょうど、200万円になります。このような大規模な食事の準備をせよと、言われても、到底、不可能なことです。イエス様は、弟子たちに何の返事もされず「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」と言われました。弟子たちが「五つあります。それに魚が二匹です。」と言うと、イエス様は弟子たちに、群衆を組みに分けて、青草の上に座らせるように命じられました。39~41節ご覧ください。

“そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。”

人々は百人、五十人と列をなしてその場に伏したものと見られます。昔、モーセは荒れ野において、イスラエルの民を百人、五十人、十人と隊を組ませ、それぞれに隊長を任命させたことが思い浮かばれます。「座らせる」という言葉は、横に伏させるという意味です。食事をする際、横になって、肩肘をつき、上半身だけ起こしながら、食事を取りましたので、これから食事がもてなされることを予感させます。その上で、イエス様は五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで感謝の祈りを唱えました。これは、当時のユダヤにおいて、食前に、家長である父親がしていた慣習であります。そして、パンが裂かれた時に奇跡が起こったのです。「パンを裂いて」という動詞の時制に注目しますと、ある過去の時点で起こったことを表しており、一方「弟子たちに渡して」という動詞の時制に注目しますと、未完了形ですから、反復し、継続したことが伝わってきます。つまり、弟子たちに与え続けながら、パンはイエス様の手の中で増え続け、12人の弟子たちを通して人々に配られるようにしたのです。奇跡は、群衆にはよくわからなかったかもしれませんが、弟子たちには、はっきり目撃することができたに違いありません。最後に、この奇跡が本当に起きたことを立証するかのごとく、パン屑と魚の残りを集めると、十二籠いっぱいになり、パンを食べた人は男だけで五千人であったと書かれています。

【2】.五千人の給食の意味

この五千人の給食の奇跡は、一体何を意味しているのでしょうか。実は、本日の五千人の給食の奇跡は、4つの福音書すべてに書かれてる、唯一の奇跡であります。それだけこの奇跡が重要であるということです。この奇跡は、旧約聖書の中で、モーセによって導かれたイスラエルの民が、荒れ野において、マナとウズラを供給していただいた奇跡に重ね合わせることができるでしょう。食料を整えることのできないと思われた厳しい荒れ野において、主ヤハウェは、イスラエルの民を顧みてくださり、食べる物を備えてくださったのです。民がカナンの地に入植する、その瞬間まで、40年間欠かさずに備えてくださいました。イスラエルの民は、エジプトの支配から自由にされただけでなく、シナイ半島の荒れ野において、天からマナとウズラを与えられ、奇跡的な神様の養いが与えられたのです。1,500年前モーセの時代に起こったような奇跡が、今、まさに目の前で、イエス様を通してなされているのです。

それでは、なぜ、イエス様は予定変更をして、この奇跡をなされたのでしょうか。イエス様は、そのまま人々を解散させて、各自が行く道に行かせることも十分にあり得たのではないかと思います。しかし、あえて、イエス様は、彼らの必要をそのまま見過ごすことは出来ませんでした。その理由として、キーワードとなるのが、34節の「飼い主のいない羊」という言葉だと思います。旧約聖書の中に「飼い主のいない羊」という言葉が、しばしば登場しますが(民27:17-18、列王上22:17、歴代下18:16、エゼ34:5, 8、ゼカ10:2, 7)、この「飼い主のいない羊」という言葉は、イスラエルが悪い牧者によって導かれている状況において使われる言葉です。古代、牧者とは王を指していましたが、イスラエルの王様の中で、ダビデ王に見習った良い牧者もいれば、ダビデ王に見習わない悪い牧者もいました。エゼキエル書の34:8-12の御言葉と、34:23の御言葉をご覧になってください。

“わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。”

34:23

“わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。”

神の民イスラエルは、飼い主のいない羊のように周辺諸国から略奪され、散らされました。アッシリア捕囚において北イスラエルがアッシリアへ連行され、バビロン捕囚において南ユダがバビロンへ連行されました。イエス様の時代においても、群衆は、ユダヤ教の宗教指導者たちのもとで彷徨い、イエス様の目に「飼い主のいない羊」のように映ったのであります。そのような中、神がイスラエルの民に送られる真の牧者とは、ダビデの子であり、その方は、救い主メシアとして、イスラエルの民を探し出し、集め、養ってくださると、エゼキエル書に預言されているのです。その預言された真の牧者、ダビデの子が、イエス様ご自身であることを、本日の五千の給食は指し示しているのです。ところが実際、この奇跡に共に参与した弟子たちにおいて、この奇跡を実際に目撃したにも関わらず、そのことはまだ隠されていました。本日の箇所で弟子たちの反応が特に記されていないことからも分かりますし、さらに言えば、後ほど、五千人給食の意味を、弟子たちが依然として悟っていないことが指摘されているからです。マルコ6:52をお読みします。そのままお聞きください。

“パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。”

彼らの目にこの奇跡の意味が隠されていたのです。五千人給食の意味とは、主イエスが、旧約聖書で預言されていたメシアであり、メシアは悪い牧者たちから「飼い主のいない羊」を探し、憐れみを持って、救い出してくださる。そして、ご自身が自ら、羊を顧み、支え、養いを与えてくださるということです。私は、現在、娘を大学に行かせていますが、今の牧師謝儀では、家計や教育費を捻出するのは難しい状況にあります。ですから、アルバイトをしながら、牧会をしている訳ですが、しかし、神様は不思議な形で大宮教会から夏の賞与として献金を送ってくださいました。その他にも、いくつかの教会から不思議な形で指定献金をいただきました。本当に厳しい状況の中にあって、神様の不思議な御業を体験させられています。この説教を準備しながら「飼い主のいない羊」とは、まさに、経済的な苦境に置かれ、途方にくれている自分のことだと思わされ、大変励まされました。神様は、「飼い主のいない羊」を、自ら顧み、支え、養いを与えてくださるのです。

【結論】

弟子たちは、イエス様の使徒として、その権能を与えられた代理人として、成功裏に主の働きに関わり、さらに、五千人の給食という驚くべき奇跡にも直接参与しました。しかし、それにも関わらず、この時点ではまだ、神の子メシアの訪れに関して盲目であったということが、浮き彫りにされています。私たちも、弟子たちのように、神の恵みに対し盲目であることがあるのではと思います。私たちの理解をはるかに超えた、神の御業を理解することは、不可能なのかもしれません。しかし、主は、盲目な弟子たちを見捨てず、最後まで愛してくださいました。私たちもそのようなまっすぐな愛をイエス様から受けているのです。神の子メシアとは、憐れみ深いお方であり、「飼い主のいない羊」を探し出し、無から有を創造したその力によって、彼らを顧み、支え、養ってくださるお方であります。私たちはイスラエルの牧者なるこのお方に、全き信頼を持って歩んでいくことができるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

오천 명을 먹이신 이스라엘의 목자

2023년 8월 20일 센겐다이교회 주일설교

마가복음 6장 30~44절

서론

예수님이 야이로의 딸을 살려내는 기적을 행하신 직후에 하신 말씀은 「소녀에게 먹을 것을 주라」는 말씀이었습니다. 의외의 말씀이 예수님 입에서 나왔다고 생각하시는 분들이 계실 수 있습니다. 예수님의 구원의 사역이란 단순히 영적인 부분에만 국한되지 않고 육적인 부분에도 이른다는 것을 알 수 있습니다. 하나님의 돌보심과 동행하심과 먹이심은 우리들의 정신적인 면 뿐만이 아니라 우리의 실생활, 우리의 육체적인 부분에도 미치는 것입니다. 오늘 살펴 볼 오천 명의 무리를 먹이시는 기적은 오셔야 할 메시아가 「목자 없는 양의 목자」라는 것을 보여 줍니다. 구원자 메시아는 약한 양인 우리의 생활 전반을 돌보고 동행하여 주시고 먹이시는 분입니다.

(1) 광야에서의 기적

두 사람씩 짝을 지어 파송된 사도들이 예수님께 모여 들어 사역 보고를 했습니다. 30절의 「낱낱이 고하니」라는 말은 그들의 선교훈련을 통해서 받은 기쁨과 놀라움, 혹은 흥분 등을 느낄 수 있습니다. 어쩌면 자신들이 한 일, 가르친 일, 병을 낫게 하고 귀신을 쫓아낸 일 등에 눈을 빼앗기고 자기 성취감이나 자기 만족감에 젖어 있었는지도 모릅니다. 예수님은 「너희는 따로 한적한 곳에 가서 잠깐 쉬어라」라고 말씀하셨습니다. 「한적한 곳」이라고 하는 단어는 그리스어의 「에레모스, 광야」라고 하는 단어가 사용되어 있습니다. 복음서에는 종종 예수님이 한적한 곳, 광야에 가서 기도하셨다는 내용이 기록되어 있는데(마가복음 1장 35절, 누가복음 5장 16절 등) 돌아온 제자들에게도 피곤할 테니 잠시 한적한 곳으로 가서 기도시간을 가지고 쉬라고 말씀하시는 것입니다. 32~34절을 보시기 바랍니다.

32 이에 배를 타고 따로 한적한 곳에 갈새

33 그들이 가는 것을 보고 많은 사람이 그들인 줄 안지라 모든 고을로부터 도보로 그 곳에 달려와 그들보다 먼저 갔더라

34 예수께서 나오사 큰 무리를 보시고 그 목자 없는 양 같음으로 인하여 불쌍히 여기사 이에 여러 가지로 가르치시더라

예수님의 일행은 배를 타고 한적한 곳으로 가기로 했습니다. 그런데 많은 사람들은 그들이 나가는 것을 알아채고는 그 장소로 일제히 달려가 배에 먼저 도착했다는 것입니다. 34절에서 예수님은 큰 무리를 보시고 불쌍히 여기셨다고 기록되어 있습니다만, 이 「불쌍히 여기사」라고 하는 단어는 내장이 떨리듯 심하게 동요하고 안절부절 못한다는 뜻입니다. 이 말은 예수님의 감정을 나타낼 때만 사용되는 중요한 말입니다. 예수님은 목자 없는 양과 같은 모습을 보시고 불쌍히 여기시고 「휴식을 취하려는」 예정을 급히 변경하여 무리를 가르치기 시작하셨습니다. 그러다가 늦은 시각이 되었으므로 제자들은 35,36절에 나와 있듯이 예수님께 다음과 같이 제안합니다. 「이곳은 빈 들이요 날도 저물어가니 무리를 보내어 두루 촌과 마을로 가서 무엇을 사 먹게 하옵소서」이것은 타당한 제안입니다. 원래 제자들은 휴식을 취하기 위해 이 장소에 온 것이니까요. 그런데 무리들은 예수님의 말씀에 때를 잊고 듣고 있었던 것 같습니다. 제자들은 이제 사람들을 해산시키고 각자 식사를 하도록 무리를 보내는 것이 좋다고 판단했습니다. 주목하고 싶은 것은 「한적한 곳」, 즉 「빈 들」이라는 말이 강조되고 있고 제자들의 입에서 「여기는 빈 들입니다」라는 말이 나오고 있다는 점입니다. “이곳은 빈 들입니다. 이런 곳에서 도대체 어디서 음식을 구한단 말입니까?" 이러한 의문은 아마도 1500년전 모세도 비슷한 의문을 가지지 않았을까요? 민수기 11장 13,14절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다.

13 이 모든 백성에게 줄 고기를 내가 어디서 얻으리이까 그들이 나를 향하여 울며 이르되 우리에게 고기를 주어 먹게 하라 하온즉

14 책임이 심히 중하여 나 혼자는 이 모든 백성을 감당할 수 없나이다

덧붙여 말하면, 이 후 하나님은 메추라기를 내려 주셔서 이스라엘 백성들에게 고기를 먹여 주셨습니다.

그런데 제자들의 해산 제안에 예수님은 놀라운 말씀을 하셨습니다. 「너희가 먹을 것을 주라」이 전혀 이해할 수 없는 말은 제자들의 마음 한구석에 계속 남아 있었던 것 같습니다. 예수님의 말씀에 제자들은 반박했습니다. 「우리가 가서 이백 데나리온의 떡을 사다 먹이리이까」즉, 그런 것은 아무리 생각해도 무리라는 것입니다. 한 데나리온이 당시 하루 노동의 임금에 해당하기 때문에 계산하기 쉽도록 하루 일급을 일만엔이라고 하면 이백 데나리온은 이백만 엔에 상당합니다. 이때 남자들만 오천 명 있었습니다. 여자, 아이를 합치면 더 많은 사람이 있었을 것입니다. 만일 오천 명에 대해 1인당 사백 엔어치의 빵을 준비한다고 가정하면 딱 이백만 엔이 됩니다. 이런 대규모 식사를 준비하라고 해도 도저히 불가능한 일입니다. 예수님은 제자들에게 아무런 대답도 하지 않으시고 「너희에게 떡 몇 개나 있는지 가서 보라」고 말씀하셨습니다. 제자들이 「떡 다섯 개와 물고기 두 마리가 있더이다」라고 대답하자 예수님은 제자들에게 명령하사 무리를 떼를 지어 푸른 잔디 위에 앉게 하셨습니다. 39~41절을 보십시오.

39 제자들에게 명하사 그 모든 사람으로 떼를 지어 푸른 잔디 위에 앉게 하시니

40 떼로 백 명씩 또는 오십 명씩 앉은지라

41 예수께서 떡 다섯 개와 물고기 두 마리를 가지사 하늘을 우러러 축사하시고 떡을 떼어 제자들에게 주어 사람들에게 나누어 주게 하시고 또 물고기 두 마리도 모든 사람에게 나누시매

사람들은 백 명, 오십 명으로 줄을 지어 그 자리에 앉은 것으로 보입니다. 옛날 모세는 광야에서 이스라엘 백성을 백 명, 오십 명, 열 명으로 대를 이루어 각각 대장을 임명하게 했던 기억이 납니다. 「앉히다」라는 단어는 옆으로 드러눕게 한다는 말입니다. 식사를 할 때 옆으로 누워서, 어깨 팔꿈치를 짚고 상체만 일으키면서 식사를 했기 때문에, 앞으로 식사가 대접될 것을 예감하게 합니다. 그러면서 예수님은 떡 다섯 개와 물고기 두 마리를 가지시고 하늘을 우러러 감사의 기도를 드렸습니다. 이것은 당시 유대에서 식전에 가장인 아버지가 하던 관습입니다. 그리고 떡이 떼어졌을 때 기적이 일어났습니다. 「떡을 떼어」라고 하는 동사의 시제에 주목을 해 보면, 어느 과거 시점에서 일어난 일을 나타내고 있고, 반면 「제자들에게 주어」라는 동사의 시제에 주목하면 미완료형이기 때문에 반복되고 계속되었음을 알 수 있습니다. 즉 제자들에게 계속 주시면서 떡은 예수님의 손안에서 계속 늘어나 12명의 제자들을 통해 사람들에게 나눠지도록 한 것입니다. 기적은 무리들이 잘 알지 못했을지도 모르지만 제자들에게는 분명히 목격 되었을 것입니다. 마지막으로 이 기적이 정말 일어났음을 입증하듯 떡 부스러기와 남은 물고기를 모으자 열 두 바구니가 가득찼고 떡을 먹은 사람은 남자만 오천 명이었다고 적혀 있습니다.

(2) 오천 명을 먹이신 의미

이 오천 명을 먹이신 기적은 도대체 무엇을 의미하고 있는 것일까요? 사실 오늘 오천 명을 먹이신 기적은, 4복음서 모두에 유일하게 적혀 있는 기적입니다. 그만큼 이 기적이 중요하다는 것입니다. 이 기적은 구약성경 속에서 모세가 인도한 이스라엘 백성들이 광야에서 만나와 메추라기를 공급 받은 기적과 겹칠 수 있을 것입니다. 식량을 구하지 못할 것 같았던 황량한 광야에서 주 여호와께서는 이스라엘 백성들을 보살펴 주시고 먹을 것을 마련해 주셨습니다. 백성들이 가나안 땅에 정착하는 그 순간까지 40년동안 거르지않고 마련해 주셨습니다. 이스라엘 백성들은 애굽의 지배로부터 자유로워졌을 뿐만 아니라 시내 반도의 광야에서 하늘에서 만나와 메추라기를 얻어 기적적인 하나님의 보살핌을 받았습니다. 1500년 전 모세의 시대에 일어났던 것과 같은 기적이 지금 바로 눈앞에서 예수님을 통해 이루어지고 있는 것입니다.

그렇다면 왜 예수님은 예정을 변경하시고 이 기적을 행하셨을까요? 예수님은 그냥 무리를 해산시키고 각자 갈 길을 가도록 하는 것도 충분히 있을 수 있지 않았나 싶습니다. 그러나 일부러 예수님은 그들의 필요를 그대로 지나치시지 않았습니다. 그 이유로 키워드가 되는 것이 34절의 「목자 없는 양 같음으로」이라는 말이라고 생각합니다. 구약성경 속에 「목자 없는 양」이라는 말이 종종 등장하는데(민수기 27장 17~18절, 열왕기상 22장 17절, 역대하 18장 16절, 에스겔 34장 5,8절, 스가랴 10장 2절), 이 「목자 없는 양」이라는 말은 이스라엘이 나쁜 목자들에 의해 인도되고 있는 상황에서 사용되는 말입니다. 고대에서 목자란, 왕을 가리키고 있었는데 이스라엘 왕 중에 다윗 왕을 본받은 좋은 목자도 있고 다윗 왕에게 본받지 않은 나쁜 목자도 있었습니다. 에스겔 34장 8~12절 말씀과 34장 23절 말씀을 참조하십시오.

8 주 여호와의 말씀에 내가 나의 삶을 두고 맹세하노라 내 양 떼가 노략 거리가 되고 모든 들짐승의 밥이 된 것은 목자가 없기 때문이라 내 목자들이 내 양을 찾지 아니하고 자기만 먹이고 내 양 떼를 먹이지 아니하였도다

9 그러므로 너희 목자들아 여호와의 말씀을 들을지어다

10 주 여호와께서 이같이 말씀하시되 내가 목자들을 대적하여 내 양 떼를 그들의 손에서 찾으리니 목자들이 양을 먹이지 못할 뿐 아니라 그들이 다시는 자기도 먹이지 못할지라 내가 내 양을 그들의 입에서 건져내어서 다시는 그 먹이가 되지 아니하게 하리라

11 주 여호와께서 이같이 말씀하셨느니라 나 곧 내가 내 양을 찾고 찾되

12 목자가 양 가운데에 있는 날에 양이 흩어졌으면 그 떼를 찾는 것 같이 내가 내 양을 찾아서 흐리고 캄캄한 날에 그 흩어진 모든 곳에서 그것들을 건져낼지라

23 내가 한 목자를 그들 위에 세워 먹이게 하리니 그는 내 종 다윗이라 그가 그들을 먹이고 그들의 목자가 될지라

하나님의 백성 이스라엘은 목자 없는 양처럼 주변 국가들로부터 약탈 당하고 흩어졌습니다. 북이스라엘이 앗시리아로 포로로 끌려갔고 남유다가 바빌론으로 포로로 끌려갔습니다. 예수님 시대에도 무리는 유대교 종교지도자들 밑에서 방황했고, 예수님의 눈에 「목자 없는 양」처럼 비춰졌습니다. 그런 가운데 하나님께서 이스라엘 백성에게 보내시는 진정한 목자란 다윗의 자손이고 그분은 구원자 메시아로서 이스라엘 백성을 찾아 내어 모으시고 먹여 주신다고 에스겔에 예언되어 있는 것입니다. 그 예언하신 진정한 목자 다윗의 자손이 예수님 자신임을 오늘 오천 명을 먹이신 기적은 가리키고 있는 것입니다. 그런데 실제로 이 기적에 함께 참여한 제자들에게 이 기적을 실제로 목겨했음에도 그 사실은 아직도 숨겨져 있습니다. 오늘의 이 본문에 제자들의 반응이 따로 기록되어 있지 않은 것에서도 알 수 있고 더 나아가 말하면 오천 명을 먹이신 의미를 제자들이 여전히 깨닫지 못하고 있다는 지적이 나오고 있기 때문입니다. 마가복음 6장 52절을 읽겠습니다. 그대로 들어보시기 바랍니다.

이는 그들이 그 떡 떼시던 일을 깨닫지 못하고 도리어 그 마음이 둔하여졌음이러라

그들의 눈에 이 기적의 의미가 숨겨져 있었던 것입니다. 오천 명을 먹이신 의미란 주 예수께서 구약성경에서 예언한 메시아로, 그 메시아는 나쁜 목자들로부터 「목자 없는 양」을 찾아내어 긍휼하게 여기시고 구원해 주신다. 그리고 자신이 스스로 양을 돌보시고 동행 해주시고 먹여 주신다는 것입니다. 저는 현재 딸을 대학에 보내고 있지만 지금 받고 있는 목사의 사례금으로는 가계나 교육비를 마련하기 어려운 상황입니다. 그래서 아르바이트를 하면서 목회를 하고 있는데, 그러나 하나님께서는 놀랍게도 오오미야 교회를 통해서 여름 상여금으로 헌금을 보내주셨습니다. 그 외에도 몇 교회와 사람을 통해서 신기한 형태로 지정헌금을 받았습니다. 정말 어려운 상황 속에서 하나님의 불가사이한 역사를 체험하고 있습니다. 이 설교를 준비하면서 「목자 없는 양」이란 바로 경제적 어려움에 처해 어쩔 줄 모르는 제 자신을 가리키는 말이라고 생각되어 많은 격려를 받았습니다. 하나님은 「목자 없는 양」을 스스로 돌보시고 동행 해 주시고 먹여 주시는 것입니다.

결론

제자들은 예수님의 사도로서 그 권능을 부여받은 대리인으로서 성공적으로 주님의 일에 관여했고 나아가 오천 명을 먹이시는 놀라운 기적에도 직접 참여했습니다. 그러나 그럼에도 불구하고 이 시점에서는 아직 하나님의 아들 메시아의 도래에 관해 장님이었다는 것이 부각되고 있습니다. 우리도 제자들처럼 하나님의 은혜에 대해 장님 일 수 있겠다는 생각이 듭니다. 우리의 이해를 훨씬 뛰어넘는 하나님의 역사를 이해한다는 것은, 불가능할지도 모릅니다. 그러나 주님은 장님같은 제자들을 버리지 않으시고 마지막까지 사랑해 주셨습니다. 우리들도 그러한 넘치는 사랑을 받고 있는 것입니다. 하나님의 아들 메시아는 긍휼이 많으신 분이며 「목자 없는 양」을 찾아 내시어, 무에서 유를 창조하신 그 능력으로 그들을 보살피고 동행하고 먹여 주시는 분입니다. 우리는 이스라엘의 목자이신 이분에게 전적으로 믿음을 가지고 걸어갈 수 있는 것입니다.

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