2023年06月11日「純真な心を奮い立たせよ 진실된 마음을 일깨우고」

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純真な心を奮い立たせよ 진실된 마음을 일깨우고

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ペトロの手紙二 3章1節~7節

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:1愛する人たち、わたしはあなたがたに二度目の手紙を書いていますが、それは、これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいからです。
3:2聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出してもらうためです。
3:3まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、
3:4こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」
3:5彼らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが、
3:6当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。
3:7しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙二 3章1節~7節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 羊は、羊飼いの声を聞き分けます。羊が厳しい環境で生きていけるのは、羊飼いがいるからです。羊は狼が現れると、まともに抵抗することができずに命を落としてしまいますが、羊飼いが狼から羊を守り、羊を緑の牧場に導いてくれるので、羊は安心して生きていくことが出来るのです。羊の生死は羊飼いにかかっていると言っても言い過ぎではないでしょう。私たちも、羊のように、日々、主の御言葉によって養われる民です。今朝は、主の御言葉にこそ、命と守りと恵みがあるという観点から、ペトロ手紙二3章の御言葉を通して恵みに与りたいと願っています。

【1】. この書簡の目的

 本日から、ペトロの手紙二の最終章に入ります。この3章の冒頭に「愛する人たち」という言葉が出て来ますが、これは、これまで述べてきた偽教師たちから目を転じて、対照的な位置にある聖徒お一人おひとりを「愛する人たち」と語り掛けていると思われます。ペトロはこの書簡を書いた目的を、愛する人たちに、打ち明けています。1~2節をご覧ください。

“愛する人たち、わたしはあなたがたに二度目の手紙を書いていますが、それは、これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいからです。聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出してもらうためです。”

ペトロはこの書簡の目的を、純真な心を奮い立たせるためと言っています。「純真な」とは、傷のない、汚れていないという意味ですが、偽教師たちの偽りの教えに惑わされていない、その心の状態のことを言っているのだと思います。この「純真な」という元々のギリシア語の意味は、「陶器師が陶器を太陽の光に照らしてみて、傷のないことを確かめること」です。光にさらし見て、ひびも、傷も、染みもない、という意味です。そのような純真な心をどのように奮い立たせるのかと言いますと、ペトロは、あなたがたの記憶を呼び起こすことによって、つまり、「聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出してもらう」ことによって、奮い立たせたいと語っているのです。神の御言葉こそ真理の光であり、その御言葉に照らされるなら、ひびも、傷も、染みもないことが確認できる、心を奮い立たせることができると言っているのです。ペトロは、何か目新しい教えによって、或いは何か素晴らしい科学の発見や、技術のイノベーションによって、純真な心を奮い立たせようと言っているのではありません。既に語られたあなた方の記憶を呼び起こすことによって、すなわち、旧約聖書の預言者の御言葉と、新約聖書で語られた、「主であり救い主である方の掟」を思い出すことによって、奮い立たせるのです。掟という言葉は、2:21にも出て来ました。その時、十戒と同じ意味だと説明させていただきましたが、特に新約で語られた「主の掟」とは何かと言えば、ヨハネの福音書の中で弟子たちに語られた新しい掟、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というこの御言葉を指しているのでは、と思います。大切なことは、旧約聖書と新約聖書は、統一性があり、一貫しているということです。その旧約聖書と新約聖書の御言葉に立ち返ることによって、私たちは太陽の光に照らされたように、純真な心を奮い立たせることができるのです。これまで聞いて来た御言葉のメッセージを思い起こすことによって、生き生きとした信仰生活を営むことが出来るのです。

【2】. 終末に現れる偽教師たち

 さて、ペトロは、このように述べた後、偽教師たちの口から出て来る言葉を、預言的に論じています。3~4節をご覧ください

“まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」”

3節に「終わりの時」とありますが、これは何のことでしょうか。終わりの時とは、一般的に「終末の時」と表現されます。教会で、終末とは、いつのことを指しているのかと言うと、イエス・キリストが復活し、天へ昇って、神の右に着座されてから、再臨されるまでの期間を終末と言います。従って、現在も、終末の時であると言えるのです。イエス様がいつ再臨してもおかしくない、緊張感あふれる時です。この終末の時に、どのようなことが起きるのか、ペトロは、ペンテコステの日に、聖霊が降臨し、共に祈っていた者たちが突然、他国の言語で各々福音を語り始めた現象について、次のように説明しています。使徒言行録2:14~17をご覧下さい。

“すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。”

ペトロは終りの時、「終末」に、聖霊がすべての人に注がれるというヨエル書の御言葉を引用しながら、五旬節の日に起こった現象は、まさにヨエル書の預言の成就であると言っているのです。当時、イエス・キリストが昇天され、五旬節の日に聖霊が降臨してから、1世紀の初代教会においては、使徒言行録に記されているように、様々な奇跡や不思議な御業が使徒たちを通して起こされました。ところが、そのような現象も、次第に止んでいきます。多くの、1世紀の聖徒たちは、「自分たちが生きている間に、イエス様が再び来られるだろう」と信じていたのですが、使徒たちが次から次に殉教し、聖徒たちは主の再臨を経験することなく、死を迎えると、一部の人々の間に「主の再臨」について疑いが生じてきたのです。そのような人々を標的にし、偽教師たちが現れました。彼らは「実際に、再臨なんて嘘であり、決してキリストは戻って来ないだろう」と主張し始めたのです。彼らの特徴は、御言葉を軽んじ、嘲るということです。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」ペトロは、彼らがこのように主張する動機を見抜いていました。3節に書かれているように、欲望の赴くままに生活したいがためであります。彼らは、再臨への純粋な関心から、最終的にそのような主張に至ったのではありません。御言葉の探求から、そのような結論に至ったのでもありません。自分たちの欲望に従う生活を続けたいために、聖書に明らかにされている教えを嘲り、再臨信仰を嘲り、人々を不信仰へ誘惑しているのです。「父たちが死んでこのかた」と書かれていますが、普通「父たち」という言葉は、旧約聖書の聖徒たちを指しています。では、本当に父たちが死んでこのかた、世界は変わらなかったのでしょうか。旧約の聖徒たちが眠って以来このかた、何も実質的に変わったことはなかったのでしょうか。聖書を見ると、それは明らかに矛盾しています。世界はこれまでずっと同じように続いて来た訳ではないと、聖書に書かれているからです。

【3】. 同じ御言葉によって

 5~6節をご覧ください。

“彼らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが、当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。”

ペトロは、この世界は御言葉によって水を元にして創造されたが、実は、一度、水による裁きを受けて、滅んでしまった世界であると言っているのです。地が「御言葉によって、水を元にして創造された」という意味は、旧約聖書に記されている世界像に基づいていると思われます。創世記1章の御言葉と詩編の御言葉を調べてみましょう。

創世記1:9

“神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。”

詩編33:6~9

御言葉によって天は造られ/主の口の息吹によって天の万象は造られた。主は大海の水をせき止め/深淵の水を倉に納められた。全地は主を畏れ/世界に住むものは皆、主におののく。主が仰せになると、そのように成り/主が命じられると、そのように立つ。

この世界は創世記や詩編に書かれているように、神の言葉によって無から創造されました。その無からの創造というのは、あたかも水を分けて大地が現れるようにされるように、無秩序から秩序が与えられて、創造されたということでありましょう。この世界は自然法則によって支えられていますが、その自然法則自体、神様が与えられた秩序であり、神様ご自身が現在も保っておられるのです。従いまして、この自然法則は機械的ではなく、神様がそこに一切介入することができないということを意味しているのではありません。実際、現在の世界は、水による裁きを受け、一度滅んでしまった世界であるという事実に、ペトロは目を向けさせているのです。ノアの大洪水のことを語っているのですが、私たちの住んでいるこの世界とは、一度、神様のご介入により、大洪水によって滅びを体験した世界なのです。6節に注目しますと、新しく出た聖書協会共同訳聖書では、「御言葉によって」という言葉が加えられており、6節は「当時の世界は、御言葉によって洪水に見舞われて滅んでしまいました。」と改訂されています。御言葉によって洪水に見舞われて滅んでしまいました。こちらの方がギリシア語聖書に近い翻訳と言えるでしょう。そして、このようにした方が、5~7節に、出て来ている並行関係をきちんと伝えていると思います。並行関係とは、第一に、この世界は5節にあるように「御言葉と水によって」創造されたということ、第二に、6節にあるようにこの世界は「御言葉と水によって」一度、滅ぼされたということ、第三に、主の再臨の日に、最後の裁きとして7節にあるように「御言葉と火によって」滅ぼされるために取っておかれているということです。御言葉によって水が分けられ、地が創造されました。御言葉によって最初の水の審判がもたらされました。その同じ御言葉によって、最後の火の審判がもたらされるのです。7節をご覧ください。

“しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。”

最後の審判は、御言葉と火による審判であります。私たちの住んでいるこの世界は、現在、自然法則によって支えられているかもしれません。しかしその自然法則は、永遠絶対の法則として、機能しているわけではなく、以前、神の言葉が自然法則を超えて介入され、水による審判をもたらしたように、主の再臨の時にも、自然法則を超えて介入され、火による審判をもたらし、不信心な者たちが裁かれるように、今は取っておかれているのです。この、火による審判は、何もペトロだけが言及している訳ではありません。旧約のマラキ書3:19には次のような御言葉がございます。

“見よ、その日が来る/炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。”

また、新約聖書ではイエス様のたとえ話の中で次のように語りました。マタイ25:41です。

“それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。”

このように、聖書の御言葉が、明らかに語っているのなら、私たちは聖書の御言葉を再び思い起こし、罪から離れ、神様を喜ばせる生活を送るように努力すべきであります。偽教師たちは、義の道を知っていながら、それを嘲り、そして主の再臨を嘲り、自分たちの欲を満足させるために生きようとするのです。

【結論】

 しかし、私たちは、本日の御言葉を通して、今日というこの日が、神様の与えられた秩序によって、特別の恵みの下にあることを第一に覚えたいと思います。この世界は、ただ時計の歯車のように機械仕立てで運行されているのではなく、実は無秩序から秩序を創造された力強い神の御手によって支えられているのであります。そして同時に、神様は、ただ自然法則によって、この世を支えているのではなく、最後の裁きの日に向かって、現在の天と地は取っておかれ、保っておられるということを、第二に、覚えたいと思います。やがての日に、主が再臨し、万物が贖われ、新しい天と新しい地がもたらされる、その時まで、取っておかれるのです。イエス様が再び来られる日、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりして、ノアの時と同じようになるでしょう。この終末の緊迫感は、御言葉の中で生きる人だけが持つことが出来る緊迫感です。御言葉にしっかり立つ者として、私たちは日々、神様の御言葉に養われながら、歩ませていただきましょう。御言葉によって純真な心を奮い立たせ、主を喜ばせる生活を送ることができるよう努力し、やがての日に、備える歩みへと導かれてまいりましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

진실된 마음을 일깨우고

2023년 6월 11일 센겐다이 교회 주일 설교 카와에 토모아키목사

베드로후서 3장 1~7절

서론

양은 목자의 목소리를 알아 듣습니다. 양이 척박한 환경에서 살아갈 수 있는 것은 목자가 있기 때문입니다. 양은 늑대가 나타나면 제대로 저항하지 못하고 목숨을 잃게 되지만, 목자가 늑대로부터 양을 보호하고 양을 푸른 초장으로 인도해 주기 때문에 양은 안심하고 살아 갈 수 있는 것입니다. 양의 생사는 목자에게 달려 있다고 해도 과언이 아닐 것입니다. 우리도 양처럼 날마다 주님의 말씀에 의해 양육되는 백성입니다. 오늘 아침에는 주님의 말씀에야말로 생명과 보호하심과 은혜가 있다는 관점에서 베드로후서 3장의 말씀을 통해 은혜를 받고자 합니다.

(1) 이 서한의 목적

오늘부터 베드로후서의 마지막 장으로 들어갑니다. 이 3장의 첫머리에 「사랑하는 자들아」라는 말이 나오는데 이는 지금까지 말해온 거짓 선생들에게서 눈을 돌려 대조적인 위치에 있는 성도 한 사람 한 사람을 「사랑하는 자들」이라고 말하고 있는 것으로 보입니다. 베드로는 이 서한을 쓴 목적을 사랑하는 사람들에게 털어 놓고 있습니다. 1,2절 보시기 바랍니다.

1 사랑하는 자들아 내가 이제 이 둘째 편지를 너희에게 쓰노니 이 두 편지로 너희의 진실한 마음을 일깨워 생각나게 하여

2 곧 거룩한 선지자들이 예언한 말씀과 주 되신 구주께서 너희의 사도들로 말미암아 명하신 것을 기억하게 하려 하노라

베드로는 이 서한의 목적을 진실된 마음을 일깨우기 위함이라고 말하고 있습니다. 「진실한」은 흠이 없다, 더럽지 않다라는 의미입니다만 거짓 선생들의 거짓된 가르침에 현혹되지 않은 그 마음의 상태를 말하는 것 같습니다. 이 「진실한」이라는 그리스어의 원래의 의미는「도자기사가 도자기를 햇빛에 비춰보고 흠집이 없는지 확인하는 것」입니다. 빛에 비추어 볼 때 금도, 상처도, 얼룩도 없다는 뜻입니다. 그런 진실한 마음을 어떻게 일깨우냐하면 베드로는 성도들의 기억을 일깨움으로 즉, 「거룩한 선지자들이 예언한 말씀과 주 되신 구주께서 너희의 사도들로 말미암아 명하신 것을 기억하게」함으로써 일깨우고 싶다고 말하는 것입니다. 하나님의 말씀이야말로 진리의 빛이며, 그 말씀에 비춰진다면 금도, 상처도 얼룩도 없음을 확인할 수 있는 진실한 마음을 일깨울 수 있다고 말하고 있습니다. 베드로는 뭔가 새로운 가르침에 의해서, 혹은 뭔가 훌륭한 과학의 발견이나 기술의 이노베이션에 의해서 진실한 마음을 일깨우자는 것이 아닙니다. 이미 말씀되어전 것을 기억을 되살림으로써 즉 구약성경의 선지자의 말씀과 신약성경에서 말씀하신 「주 되신 구주의 계명」을 떠올림으로써 일깨우는 것입니다. 계명이라고 하는 단어는 2장 21절에도 나왔습니다. 그때 십계명과 같은 의미라고 말씀드렸습니다만 특히 신약에서 말씀하신 「주의 계명」이 무엇인가 하면 요한복음에서 제자들에게 말씀하신 새로운 계명 「내가 너희를 사랑했듯이 너희도 서로 사랑하라」는 이 말씀을 가리키는 것이 아닐까 싶습니다. 중요한 것은 구약성경과 신약성경은 통일성이 있고 일관성이 있다는 것입니다. 그 구약성경과 신약성경의 말씀으로 되돌아감으로써 우리는 햇빛에 비쳐진 것처럼 진실한 마음을 일깨울 수 있습니다. 지금까지 들어왔던 말씀의 메시지를 상기함으로써 생생한 신앙생활을 영위할 수 있는 것입니다.

(2) 종말에 나타나는 거짓 선생들

자, 베드로는 이렇게 말한 후 거짓 선생들의 입에서 나오는 말을 예언적으로 논하고 있습니다. 3,4절을 보시기 바랍니다.

3 먼저 이것을 알지니 말세에 조롱하는 자들이 와서 자기의 정욕을 따라 행하며 조롱하여

4 이르되 주께서 강림하신다는 약속이 어디 있느냐 조상들이 잔 후로부터 만물이 처음 창조될 때와 같이 그냥 있다 하니

3절에 「말세에」라고 쓰여져 있는데 이게 무슨 말일까요? 끝날 때는 일반적으로 「종말의 때」라고 표현됩니다. 교회에서 종말이란 언제를 가리키냐 하면 예수 그리스도가 부활하여 하늘로 올라가 하나님의 오른쪽에 착석하신 후 재림하시기까지의 기간을 종말이라고 합니다. 따라서 현재도 종말의 시기라고 할 수 있습니다. 예수님이 언제 재림해도 이상하지 않는 긴장감 넘치는 때입니다. 이 종말 때 어떤 일이 일어나는지 베드로는 펜테코스트의 날 성령이 강림하여 함께 기도하던 자들이 갑자기 다른 나라 언어로 각각 복음을 말하기 시작한 현상에 대해 다음과 같이 설명하고 있습니다. 사도행전 2장 14~17절을 참조하시기 바랍니다.

14 베드로가 열한 사도와 함게 서서 소리를 높여 이르되 유대인들과 예루살렘에 사는 모든 사람들아 이 일을 너희로 알게 할 것이니 내 말에 귀를 기울이라

15 때가 제 삼 시니 너희 생각과 같이 이 사람들이 취한 것이 아니라

16 이는 곧 선지자 요엘을 통하여 말씀하신 것이니 일렀으되

17 하나님이 말씀하시기를 말세에 내가 내 영을 모든 육체에 부어 주리니 너희의 자녀들은 예언할 것이요 너희의 젊은이들은 환상을 보고 너희의 늙은이들은 꿈을 꾸리라

베드로는 「종말」에 성령을 모든 사람에게 부어주신다는 요엘서의 말씀을 인용하여 오순절 날 일어난 현상은 바로 요엘서 예언의 성취라고 말하고 있는 것입니다. 당시 예수 그리스도가 승천하시고 오순절날 성령이 강림하신 후 1세기 초대 교회에서는 사도행전에 나와 있듯이 여러 기적과 신기한 역사가 사도들을 통해서 일어났습니다. 그런데 그러한 현상도 차츰 그치게 되었습니다. 많은, 1세기의 성도들은 자신들이 살아 있는 동안 예수님이 다시 오실 것이라고 믿었는데 사도들이 차례차례 순교하고 성도들은 주의 재림을 경험하지 못하고 죽음을 맞이하자 일부 사람들 사이에서 「주의 재림」에 대한 의심이 생겨났습니다. 그런 사람들을 표적으로 해서 거짓 선생들이 나타났습니다. 그들은 “셀제로 재림이란 것은 거짓말이며 결코 그리스도는 돌아오지 않는다”라고 주장하기 시작한 것입니다. 그들의 특징은 말씀을 가볍게 여기고 조롱한다는 것입니다. “주께서 오신다는 약속은 도대체 어떻게 된 거야? 조상들이 죽고 이 세상일은 천지창조의 때부터 아무것도 변하지 않은 것 아닌가?”베드로는 그들이 이렇게 주장하는 동기를 간파하고 있었습니다. 3절에 쓰여져 있듯이 자기의 정욕을 따라 행하며 생활하고 싶기 때문입니다. 그들은 재림에 대한 순수한 관심에서 결국 그런 주장에 이른 것이 아닙니다. 말씀을 탐구해서 그런 결론에 다다른 것도 아닙니다. 자신들의 정욕을 따르는 생활을 계속하기 위해 성경에 드러난 가르침을 조롱하고 재림 신앙을 비웃으며 사람들을 불신앙으로 유혹하고 있는 것입니다. 「조상들이 잔 후로부터」라고 쓰여져 있는데 보통 「조상들」이라는 말은 구약성경의 성도들을 가리키고 있습니다. 그럼 정말 조상들이 잔 후로부터 이 무렵까지 아무것도 실질적으로 달라진 것은 없었던 것일까요? 성경을 보면 그것은 명백한 모순된 말입니다. 세상은 지금까지 쭉 똑같이 이어져 온 것이 아니라고 성경에 쓰여져 있기 때문입니다.

(3) 그 동일한 말씀으로

5,6절을 보시기 바랍니다.

5 이는 하늘이 옛적부터 있는 것과 땅이 물에서 나와 물로 성립된 것도 하나님의 말씀으로 된 것을 그들이 일부러 잊으려 함이로다

6 이로 말미암아 그 때에 세상은 물이 넘침으로 멸망하였으되

베드로는 이 세계는 말씀에 의해서 물을 바탕으로 해서 창조되었지만 사실은 한 번 물에 의한 심판을 받고 멸망해 버린 세계라고 말하고 있습니다. 땅이 「말씀에 따라 물에서 나와 물로 성립된」이라는 뜻은 구약성경에 기록되어 있는 세계상에서 비롯된 것으로 보입니다. 창세기 1장의 말씀과 시편의 말씀을 살펴보겠습니다.

창세기 1장

9 하나님이 이르시되 천하의 물이 한 곳으로 모이고 물이 드러나라 하시니 그대로 되니라

시편 33장

6 여호와의 말씀으로 하늘이 지음이 되었으며 그 만상을 그의 입 기운으로 이루었도다

7 그가 바닷물을 모아 무더기 같이 쌓으시며 깊은 물을 곳간에 두시도다

8 온 땅은 여호와를 두려워하며 세상의 모든 거민들은 그를 경외할지어다

9 그가 말씀하시매 이루어졌으며 명령하시매 견고히 섰도다

이 세계는 창세기나 시편에 쓰여져 있듯이 하나님의 말씀으로 무에서 창조되었습니다. 그 무로부터의 창조란 마치 물을 나누어 대지가 나타나듯이 무질서로부터 질서가 주어지고 창조되었다는 것이지요. 이 세계는 자연법칙에 의해 지탱되고 있지만, 그 자연법칙 자체가 하나님이 주신 질서이며 하나님 자신이 현재도 유지하고 계신 것입니다. 따라서 이 자연법칙은 기계적이지 않으며 하나님이 거기에 일절 개입할 수 없다는 것을 의미하는 것이 아닙니다. 사실 현재의 세계는 물에 의한 심판을 받아 한번 멸망해 버린 세계라는 사실에 베드로는 눈을 돌리고 있는 것입니다. 노아의 대홍수를 이야기하는데 우리가 살고 있는 이 세계는 한 번 하나님의 개입으로 대홍수로 인해 멸망을 겪은 세계입니다. 베드로후서로 돌아와서 3장 6절에 주목해보면 말씀으로 인해 홍수가 나서 멸망하고 말았고 5~7절에 나와 있는 병행관계를 잘 전달하고 있다고 생각합니다. 병행관계란 첫째, 이 세계는 5절에 있듯이 「물에서 나와 물로 성립된 것」이라는 것과 둘째, 6절에 있는 것처럼 이 세계는 「물이 넘침으로」인해 한번 멸망당했었다는 것 셋째, 주의 재림의 날에 최후의 심판으로서 7절에 나와 있듯이 「말씀으로 불사르기」위해 놓여 있다는 것입니다. 말씀에 따라 물이 나뉘고 땅이 창조되었습니다. 말씀에 따라 최초의 물 심판이 초래되었습니다. 그 동일한 말씀에 의해 최후의 불 심판이 초래되는 것입니다. 7절을 보십시오.

7 이제 하늘과 땅은 그 동일한 말씀으로 불사르기 위하여 보호하신 바 되어 경건하지 아니한 사람들의 심판과 멸망의 날까지 보존하여 두신 것이니라

최후의 심판은 말씀으로 불사르기 위한 심판입니다. 우리가 살고 있는 이 세계는 현재 자연법칙에 의해 지탱되고 있습니다. 그러나 그 자연법칙은 영원절대의 법칙으로서 기능하고 있는 것이 아니며, 이전에 하나님의 말씀이 자연법칙을 넘어 개입되어 물에 의한 심판을 가져 왔듯이, 주의 재림시에도 자연법칙을 초월하여 개입하시어 불에 의한 심판을 가져오고 경건하지 아니한 사람들이 심판받도록 지금은 보존되고 있는 것입니다. 이 불에 의한 심판은 베드로만 언급하고 있는 것이 아닙니다. 구약의 말라기 4장 1절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다.

1 만군의 여호와가 이르노라 보라 용광로 불 같은 날이 이르리니 교만한 자와 악을 행하는 자는 다 지푸라기 같을 것이라 그 이르는 날에 그들을 살라 그 뿌리와 가지를 남기지 아니할 것이로되

또한 신약성경에서는 예수님의 비유에서 다음과 같이 말했습니다. 마태복음 25장 41절을 보시죠.

41 또 왼편에 있는 자들에게 이르시되 저주를 받은 자들아 나를 떠나 마귀와 그 사자들을 위하여 예비된 영원한 불에 들어가라

이처럼 성경 말씀이 분명하다면 우리는 성경 말씀을 다시 한번 상기하고 죄에서 벗어나 하나님을 기쁘시게 하는 삶을 살 수 있도록 노력해야 합니다. 거짓 선생들은 의의 길을 알면서도 그것을 비웃고, 그리고 주의 재림을 조롱하며 자신들의 욕심을 만족시키기 위해 살려고 하는 것입니다.

결론

그러나 우리는 오늘의 말씀을 통해서 오늘이라는 이날이 하나님께서 주신 질서에 따라 특별한 은총 아래 있음을 먼저 기억하고자 합니다. 이 세계는 단지 시계의 톱니바퀴처럼 기계로 만들어져 운행되는 것이 아니라 사실 무질서로부터 질서를 창조하신 강력한 하나님의 손에 의해 지탱되고 있는 것입니다. 그리고 동시에 하나님은 단지 자연법칙에 의해서 이 세상을 지탱하고 있는 것이 아니라 마지막 심판의 날을 향해 현재의 하늘과 땅을 보존하고 계신다는 것을 두 번째로 기억하고 싶습니다. 이윽고 그 날에 주께서 재림하시고 만물이 속죄되고 새 하늘과 새 땅이 오는 그때까지 보존하고 계시는 것입니다. 예수님이 다시 오시는 날에도 사람들은 먹고 마시고 시집가고 장가가고 노아의 때와 같을 것입니다. 이 종말의 긴박감은 말씀 속에서 사는 사람만이 느낄 수 있는 긴박감입니다. 말씀에 굳건히 서는 자로서 우리는 날마다 하나님의 말씀에 의해 양육되는 자로서 걸어 갑시다. 말씀을 기억함으로 진실함 마음을 일깨워 주님을 기쁘게 하는 삶을 살 수 있도록 노력하고 마지막 날을 준비하는 삶의 행보로 인도되어 갑시다.

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