2019年03月17日「十人のおとめの譬え」

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1「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。
2そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
3愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。
4賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
5ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。
6真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
7そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。
8愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』
9賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
10愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
11その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。
12しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。
13だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 25章1節~13節

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ここでは、終末を備える聖徒たちの態度について、賢い者と、愚かな者を通して譬えによって語られています。この譬えは、以前、マタイの福音書の7章で、岩の上に家を建てた賢い者の譬えとよく似ています。少し思い出してみましょう。7章21節~27節をご覧ください。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。

かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。

そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。

雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。

わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。

雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

7章のこの御言葉にもありますように、イエスさまに向かって、「主よ、主よ」と言う者が皆、天国に入るわけではなく、御言葉を聞いてそれを実践する、賢い者だけが天国に入ることができるというのです。

本日の十人の乙女の譬えにおいても、状況は全く同じです。十人が同じように花婿であるキリストの再臨を待ち迎えていますが、十人が全員、主の祝宴に入ることができるのではなく、用意ができていた賢い乙女たちだけが入ることができて、用意ができていなかった愚かな乙女たちは入ることができなかったということです。1~4節をご覧ください。

「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。

そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。

愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。

賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。

当時のユダヤの婚礼は、両親の同意の下で婚約してから約一年後に挙げられました。日本と異なる点は婚約の段階で法的には籍が入れられるということです。ですから、婚礼とは、すでに法的には夫婦となっていたお二人の、夫婦生活が始まることをお祝いする喜びの祝宴でした。その祝宴は花婿の家で開かれるのが普通で、花婿は夕方になってから行列を作り、松明を灯して花嫁を迎えにいきます。花婿は、花嫁とそして花嫁の付き添い人を連れて、にぎやかな行列によって会場に到着すると、新郎新婦を婚宴の席に導いて、盛大な祝宴が持たれました。大変気前の良い披露宴としての祝宴が七日の間、持たれました。一同はこの時とばかりに、めでたい時を祝うのです。

それで、この譬えの中では花婿とはキリストを表しています。花婿の来臨を待っていた花嫁の付添人である十人の乙女たちとは、キリスト者のことです。つまり、十人の乙女の内、賢い5人の乙女は、花嫁である「天上のキリスト教会」と一体として、勝利の教会と一体として描かれていますが、残りの愚かな5人の乙女は、表面においては信者に見えて、実は偽る者、偽善者であったということです。それでは、賢い乙女と愚かな乙女の違いはどこにあったのかと言いますと、賢い乙女とは、霊的に目覚めていて、昼に属する者であり、壺に油を入れて、「用意されていた」者でした。一方、愚かな乙女とは、霊的に眠っている状態であり、夜に属している者であり、「用意されていなかった」者でした。つまり、両者の違いとは、両者は同じく信仰を告白しましたが、一方は最後まで、信仰によって耐え忍んだ者たちであり、もう一方は表面的に信仰を告白したものの、それは一時の思いであって、その後、気ままに行動する中でサタンの罠にかかり、信仰が、行動や態度として現れなかった者たちのことです。

イエスさまがこのような譬えを弟子たちに語られた理由とは、おそらく、信者の信仰生活において、短い期間の信仰から出てくる情熱は、そこに長期間に渡る不屈の努力が伴わない限り、それ自体では十分ではないということを指摘しているのだと思われます。松明を一時だけ情熱によって灯すのではなく、長く灯し続けなければならないのです。イエスさまはここでも、途中で枯渇して挫折することのないように、長く忍耐しなければならないことを警告していると考えられます。確かに救いは100%神の恵みよって成し遂げられますが、それでは、私たちは全くの受け身であって、何もしなくてもいいのかというと、そうではありません。私たちの側において、最後まで耐え忍ぶべき不屈の努力は、一切ないのかというと、そうではなく、私たちも試練と困難と誘惑と戦い忍耐するべきであり、主の再臨を用意することにおいて努力を惜しまず、100%最善を尽くさなければなりません。常に目覚めている中で、神への全き献身が、恵みの応答として求められるのです。救いは、神の恵み99%+人間の側の努力1%ではありませんが、計算式は合いませんが、神の恵み100%+人間の側の恵みの応答100%なのです。<神の恵み100%+人間の側の恵みの応答100%=救い100%>続いて5節をご覧ください。

ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。

ここでは、賢いおともめも、愚かな乙女も同じ様に眠気がさして眠ってしまったと書かれています。ということは、結論部分である13節の「だから、目を覚ましていなさい」というイエス様の勧めは、何の意味も、説得力もないように見えてしまいます。それでは5節をどのように解釈したらいいのかということですが、ここの解釈は神学者によって色々と別れます。ある人は、信実な者でも、世の人々と同じように、生活のおごりや、虚栄を求め、無駄に時間を過ごし、怠惰な状態でうとうとすることもあると解釈します。ある人は、キリストの再臨が、予想以上に、思わず眠り込んでしまうほど遅かったということを示すための表現にすぎず、「眠り込んでしまった」という言葉自体には、そこに特に深い意味はないと解釈します。カルヴァンの場合、キリストが来られる前に肉体の生を全うして、死んでしまうことを念頭にして話していると解釈します。というのは、聖書で死ぬことを眠るという言葉でよく表現されているからです。カルヴァンの解釈に立つなら、キリスト者はこの世において絶えず、救いを待望し、そして死んで眠りについて、キリストの中で休んでいる間にあっても、私たちの救いを待望しなければならないということです。続いて6~9節をご覧ください。

真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。

そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。

愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』

賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』

花婿の来臨が予想以上に遅くなり、皆がうとうととしている中、真夜中になって、「花婿が来た。迎えに出なさい」という叫び声を聞きました。時ならぬ時に花婿が来たのです。5人の愚かな乙女たちは、自分の持っているともし火の油がほとんどなくなりそうなのを見て、予備の油を持っていた乙女たちに「油を少し分けてください」とお願いしました。賢い乙女たちは、その要請をやんわりと、そして、意地悪に断りました。9節のギリシャ語の雰囲気は、「私には多分、おすそ分けできるほどの十分な油の量はないと思います。むしろ、油を売る者のところに行って、自分たちの分を買っておいでなさい、その方が確実です。」という感じです。

ここで油とは一体何を指しているのかということですが、これは、「火を灯すための原動力の供給」であることには違いありません。これを聖霊と捉えたり、あるいは神の恵みと捉えたりすることができるかと思います。そうであるなら、聖霊は、神の恵みは信者から信者へと分け与えられるものではありません。神の賜物は決して金では買えませんし、教会員の間で取引することもできません。直接、神に祈り求めることによってのみ与えられるのです。ここで「買う」という言葉は代価を払って得るという意味ではなく、ただで持っていきなさいという意味です。そして神によって提供された賜物は、私たちは信仰によってでしか受け取ることはできないのです。そして、神の賜物によって私たちはキリストの体なる教会をたて上げるために忍耐強く仕え、へりくだり奉仕することができるのです。誰も自分の賜物の量を誇ったり、いただいた恵みや賜物を見せびらかしたり、自慢する人はいません。恵みや賜物は、それをもって教会に仕えるために神さまから与えられているからです。

イザヤ書55:1を口語訳聖書でお読みします。

「さあ、かわいている者は/みな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。

ですから、愚かな乙女が油が不足したということは、信仰によってただで買うことができるときに、怠けてそれを得ようとしなかったということです。世の楽しみに心を奪われ、暗闇の中を眠り込んでいたのです。店の閉まらない昼間の内に、油を買求めなければなりません。しかし、彼女たちは、時にかなって油を買わなければならないと考えることができなかったために、その不足に気づいた時にはもうすでに時遅しということで、悔い改めたのが遅すぎました。今、この時は教会生活と信仰生活を励む中において、まさに自由にそして、ただで聖霊の油を買うことができる時です。救いが御言葉において提供されているのにも関わらず、それをただで受け取る事のできる時間をそのまま見過ごしてしまってはなりません。私たちは今こそ、聖霊と神の恵みを求めなければなりません。終わりの日が来てからでは、遅すぎるのです。10~12節をご覧ください。

愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。

その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。

しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。

ノアの箱舟に、雄と雌のつがいの動物がすべて入れられて、最後に戸が閉められてから、40日40夜の洪水の裁きが始まったように、賢い乙女たちが祝宴の席に入り、戸が閉められた後には、外に残されたものにとっては、もはや恐ろしい裁きしか残されていません。その時に『御主人様、御主人様、開けてください』と叫んでも、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と主は答えられるでしょう。

私たちのこの世の人生は、実際短いものです。しかし、絶えずともし火が消えないようにしなさいと言われると、私たちは人生が途方もなく大変長いものと勘違いしてしまい、焦り、不安に感じてしまいます。そして世に誘惑され、暗闇に引きずられ、一時だけともし火が燃え上がったものの、その後は油が枯れそうになることももしかしたらあるかもしれません。つまり、信仰とは全く関係のない人生を送ってしまうこともあるかもしれません。大切なことは、イエスさまが私たちの救い主であり、十字架によって私たちの罪を贖ってくださったということを信じる、この信仰というのは単なる知識ではないということです。知識だけに留まるならサタンでさえ、そのことを認めているからです。信仰とは神の御言葉に対する従順と行動が伴うものです。キリストの弟子たちは、罪に満ちた、世の暗闇の中で、長い旅路をしていかなければならず、そこで弟子たちの心の中にともされた「ともし火」の光りを維持し、世を照らし続けなければなりません。当然ですが、ともし火は油の供給がなければ、すぐに燃え尽きてしまいます。常に油を供給しつづけること、これが弟子たちのこの世にある生き方なのです。私たちの2019年の標語聖句(エペソ6:18)にもありますように、私たちはその日、その時を知らないので、絶えず祈りつつ、目を覚まして、聖霊を求め続けてまいりましょう。途中で挫折することのないように、神の恵みの供給を受けて、ともし火を照らしつつ、この世の旅路を一歩一歩確かに歩ませていただきましょう。最後まで耐え忍ぶ者は救われるのです。

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