2023年03月26日「主にあってしっかり立ちなさい 주 안에 서라」

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主にあってしっかり立ちなさい 주 안에 서라

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
フィリピの信徒への手紙 4章1節~9節

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聖句のアイコン聖書の言葉

4:1だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。
4:2わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。
4:3なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。
4:4主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
4:5あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。
4:6どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
4:7そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
4:8終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
4:9わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
フィリピの信徒への手紙 4章1節~9節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 フィリピの信徒への手紙もいよいよ最後の章に入りました。パウロはこの手紙を締めくくろうとしていますが、1節において「だから」という言葉で始まっています。これまで語ってきたメッセージを受けて、「だから、主にあってしっかり立ちなさい」と勧めているのです。主にあってしっかり立つということが、パウロのフィリピの教会に送るメッセージの結論であるということです。本日はこの言葉から、フィリピ書の御言葉を通して恵みに与っていきたいと思います。

【1】. 一致してしっかりと立つ

 最初に、この結論を伝えるにあたって、パウロのフィリピの兄弟姉妹に対する愛を、非常に豊かに表現されています。「私の慕う兄弟たち」「私の喜びあり、冠」「愛する人たち」。パウロはどれほど、くびきを同じくし、パートナーとして共に働いてくれたフィリピの兄弟姉妹のことを、神の御前で喜びとしていたのかが伝わってまいります。そして同時に、「主にあってしっかり立つ」というメッセージを細心の注意を払って聞いてほしいという、パウロの願いを感じ取ることができるのではないでしょうか。4:1をお読みします。

だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。

主によってしっかり立ちなさい、「しっかり立つ」という言葉は、軍事用語でありまして、「砦に配置された兵士のごとく断固として立つ」という意味です。盾を持ち、戦列を整えて、スクラムを組んで、守る者の姿です。この言葉は実は1:27にも出て来ましたので、もう一度1:27-28の御言葉を振り返ってみましょう。

ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。

この個所では、しっかり立つことが、「反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すもの」だと書かれています。「しっかり立つ」とは、この世に向かった宣教であるということです。そして4:1では、この「しっかり立つ」という言葉の前に「主によって」という言葉が付け加えられています。ギリシア語聖書を見ると、エン キューリオーとなっており、エンという前置詞(英語で言えばinという前置詞)が使われています。ですから、「主の中で、主にあって」しっかり立ちなさいという意味です。後で出て来る、2節、4節、7節の「主において」、「キリストによって」という言葉も、同じ前置詞が付いていて「~にあって」という意味です。この「主の中で、主にあって」という言葉は、パウロがしばしば使う表現でありますが、イエス様との神秘的な結合を表しています。私たちキリスト者は、キリストの中にあり、キリストに捕らえられていますが、同時に私たちキリスト者の中に、主の霊が住まわれ、聖霊の内住によって、キリストが私たちの中に生きておられるのです。ぶどうの木を思い浮かべてください。このぶどうの木に、枝が接ぎ木されたように、私たちは、イエス様に接ぎ木されたのであります。ですから、私たちはイエス様の中にいるのですが、同時にイエス様が私たちの中に生きておられるのです。パウロは、このようにイエス様に結合されて、しっかり立ちなさいと勧めているのです。この世における、私たち教会の信仰の戦いとは、まさに「主にあって、しっかり立つこと」この一言に尽きるのではないかと思わされました。教会の戦いとは、戦列を整え、スクラムを組んだ、チームプレイであるということです。それでは次に、具体的にどのようにして、しっかり立つのかを見て行きましょう。2節をご覧ください。

わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。

ここでは、エボディアとシンティケが名指しで、主にあって、同じ思いを抱くように勧められています。どのような理由で彼女たちが仲違いしたのか、はっきり分かりませんが、おそらく彼女たちはフィリピの教会の中でも執事のような、リーダー的な立場であったと思われます。パウロは「真実な協力者」に対し、彼女たちを支えてやるようにとお願いしています。この真実な協力者とは一体誰なのか、これもまた、はっきりとは分かりませんが、協力者という言葉を直訳すれば、「くびきを同じくする者」という意味になります。ですから、協力者が具体的に誰であれ、パウロとくびきを同じくする者、すなわち、パウロのパートナーと考えられる訳ですから、私たちは「真実な協力者」を、フィリピの教会全体のことを指していると理解したいと思います。さて、エボディアとシンティケの「二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれた」とありますが、この「命の書」というのは何かと言いますと、簡単に言えば、市民権を持っているすべての人の名前が登録された巻物だと考えて下さい。すべての信者は、「命の書」に永遠において、その名が記録されているのです。黙示録3:5には次のような御言葉がありました。

勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す。

このように命の書にその名が記されているのです。神の福音を信じる私たち一人ひとりも、この命の書に名前が記されていることを覚えたいと思います。

【2】. 喜んで、祈りと願いを捧げつつしっかりと立つ

 続いて、4節をご覧ください。

主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。

ここでは、フィリピの兄弟姉妹に、常に喜びなさいと勧められています。常に喜びなさいと言われても、私たちの生活の中で、喜ぶことができないことが、日常茶飯事のように起こってきます。どんな人であれ、誰にも相談できないような悩みや苦しみを持っているものでありましょう。私たちの人生の中で、すべての悩みが解決されるなんて、決してありえないのに、どうしたら、喜ぶことが出来ると言うのでしょうか。

この「主にあって喜びなさい」という命令の主導権は、実は神様の側にあります。なぜなら、喜び(カリス)とは、神様が私たちの人生の中で結ばせてくれる聖霊の実であり、神様からの賜物であるからです。聖書には、「義となりなさい」、「聖となりなさい」、という命令形が度々出て来ますが、これも同じように命令する以前に、救い主イエス様が、私たちのためにすでにそれらを獲得され、すでにそれらを成就されたということです。ですから、この「常に喜びなさい」という命令形の裏側に隠されている意味とは、「神様があなた方を、やがての日に喜びの席に導いていく」ということです。先日、野球のWBC大会では見事に日本が優勝し、大谷選手がMVPに輝きました。表彰式では、一人ひとりメダルが授与され、喜びに沸き返っていました。しかしWBCでも時が経つにつれ、優勝の余韻は次第に覚めてしまいます。神様は、やがての日に、天の表彰台に私たちを召してくださり、一人ひとりに勝利の冠を与えて、究極的な目的地である喜びの席に、永遠の喜びに、神様が主導権を持って導かれるという意味です。ですから「常に喜びなさい」という命令は、神様がその究極的な目的地まで、私たちを責任もって導かれる、その神様の働きに結ばれて、その働きに参与しなさい、この世においてもその前味を味わいなさいという意味であります。

同じように4:6節において、「思い煩うのを止めなさい」という命令形が出て来ます。私たちの生活の中で思い煩う事、心配事は次から次へと出て来ます。私たちは罪びとであり、欠けが多く、心配事、思い煩いは尽きないのであります。どうしたら、思い煩うことを止めることができるのでしょうか。この命令形の主導権も、やはり神様の側にあると言えるでしょう。なぜなら、思い煩いを止めさせる、神の平和・平安(エイレネー)とは、神様が私たちの人生の中で結ばせてくれる聖霊の実であり、神様の賜物であるからです。私たちの日々の営みの中で、たとえ願いがかなわなくとも、たとえあることに失敗してしまっても、そのことに落ち込んではならない、後悔する念に捕らわれてはならない。全ての思い煩いを通り超して、主が平安の席に私を、責任を持って導かれるので、神様のその働きに、祈りと願いをもって参与しないという意味です。キリスト者の日々の営みの中で、聖霊の実として結ばれていく喜びと平安は、神様からの賜物ですから、世の人々はこれを決して享受することはできないのです。7節を見ると、平和(エイレネー)の前に、「人知を超えた神の」という修飾語があります。世が与えることのできる平安とは全く種類が異なるということを表しています。神の平安とは、究極的な目的地であり、この世においても私たちはそれを前もって味わうことが出来るかのように、私たちはこの世において神の深い平安に包まれるのです。

【3】. 実行することによってしっかりと立つ

 続いて5節をご覧ください。

あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。

「あなたがたの広い心が、すべての人に知られるようにしなさい」とありますが、この「広い心」とは、一体何でしょうか。この言葉は他の聖書の箇所において、温和、優しさ、慈悲深さなどと翻訳されています。この広い心とは、信仰から来る心の広さだと思われます。決して、この世の人々が持っているような「心の余裕」、「経済的な気前良さ」を人々に示せということではないと思われます。4:8節には当時、ギリシャ・ローマの世界で徳目とされていたものが列挙されていますが、これらと同様なものではないということです。8節を見ると「すべて真実なこと」「すべて気高いこと」「すべて正しいこと」「すべて清いこと」「すべて愛すべきこと」「すべて名誉なこと」「徳や称賛に値すること」とあります。これらがまさに当時、この世的な力であり、人々がこれを兼ね備えるなら立派であるとされていました。現在の日本社会に当てはめてみるなら、例えば「人に迷惑をかけないこと」「けじめをつけること」「遅刻をしないこと」のようなものです。このようなことをきちんと守り行って、あなた方の広い心を全ての人に知られるようになさいと、パウロは言っているのではありません。もし、そのように考えるなら、最終的には私たちは、この世的な価値観に追従していくことになるからです。私は、以前、世界的な有名人が、あの著名人がクリスチャンになれば、どれほど伝道が進むことだろうかと考えたことがありました。しかし、神様は社会的に影響力のある人をご自分の民として選ばれたのではなく、むしろ私たちのような者を神の民として選ばれました。神様は、この世的な力によって、世の人々に証しせよ、この世的な徳をもって、世の人々に知らせなさいとは、おっしゃっていないということです。もし、そうであるなら、もっと相応しい人を選ぶべきだからです。それでは、5節の信仰から来る「心の広さ」とは何なのかと言うことになります。それは、主にあってしっかり立つことであり、そのことによって結ばれる喜びと平安の実のことを指しているのではないかと思いました。神様は私たちの近くにおられ、私たちの日々の営みを、究極的な完成に向けて導いておられます。神様の意図通りに、神様のご計画通りに、粘土をこねながら、時間と空間の中で、神の芸術作品となるように、日々私たちを練り上げて下さっています。ですから「広い心がすべての人に知られるようになさい」とは、神の作品である私たちが、神様の究極的な勝利を信じて、主にあって、神様の支配を甘受することです。神様の復活の力を信じ、信仰によって、主にあってしっかり立つことです。そのようなキリスト者の姿を、この世の人々が見る時に、不思議に思えてならないのです。「あの人々は一体何なのか、あれほどひどい迫害を受けても、なお、感謝しつつ、喜んでいる。」「あれほど不幸なことが起こっても、一層、柔和になり、祈りと願いを捧げながら、平安に満たされて、顔が輝いている」彼らを支えている力は一体何なのか、全く理解できない!と世の人々は不思議に思えてならなくなるのです。

【結論】

 教会が、主にあってしっかり立つときに、教会の存在そのものが、教会の営みそれ自体が、世に対する福音宣教となることでしょう。礼拝堂をきれいにしたり、外観を明るくすることも大切であり、心に留めるべきことですが、宣教において何より大切なことは、私たち一人ひとりが主にあってしっかり立つことです。戦列を組んで、スクラムを組み、主が私たちを究極的な目的地である喜びの席に、究極的な目的地である平安の席に、導いてくださることを信じ、常に喜びながら、思い煩いを止めることです。その姿が世の人々に広い心を示すこととなり、福音宣教となるのであります。私たち教会の信仰の戦いとは、「主にあってしっかり立つ」、この一言に尽きるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

주 안에 서라

2023년 3월 26일 주일설교 카와에 토모아키목사

빌립보서 4장 1-9절

1 그러므로 나의 사랑하고 사모하는 형제들, 나의 기쁨이요 면류관인 사랑하는 자들아 이와 같이 주 안에 서라

2 내가 유오디아를 권하고 순두개를 권하노니 주 안에서 같은 마음을 품으라

3 또 참으로 나와 멍에를 같이 한 자 네게 구하노니 복음에 나와 함께 힘쓰던 저 부녀들을 돕고 또한 글레멘드와 그 외에 나의 동역자들을 도우라 그 이름들이 생명책에 있느니라

4 주 안에서 항상 기뻐하라 내가 다시 말하노니 기뻐하라

5 너희 관용을 모든 사람에게 알게 하라 주께서 가까우시니라

6 아무 것도 염려하지 말고 오직 모든 일에 기도와 간구로, 너희 구할 것을 감사함으로 하나님께 아뢰라

7 그리하면 모든 지각에 뛰어난 하나님의 평강이 그리스도 예수 안에서 너희 마음과 생각을 지키시리라

8 종말로 형제들아 무엇에든지 참되며 무엇에든지 경건하며 무엇에든지 옳으며 무엇에든지 사랑할만하며 무엇에든지 칭찬할만하며 무슨 덕이 있든지 무슨 기림이 있든지 이것들을 생각하라

9 너희는 내게 배우고 받고 듣고 본 바를 행하라 그리하면 평강의 하나님이 너희와 함께 계시리라

서론

빌립보서의 편지도 드디어 마지막 장에 들어섰습니다. 바울은 이 편지를 마무리하려 하지만 1절에서 「그러므로」라는 말로 시작합니다. 지금까지 말해 온 메시지를 결론 지으며 「그러므로 주 안에서 서라」라고 권면하고 있는 것입니다. 주 안에서 서 있으라는 것이 바울이 빌립보 교회에 보내는 멧세지의 결론이라는 것입니다. 오늘은 이 말씀으로 빌립보서의 말씀을 통해 은혜를 얻고자 합니다.

(1) 일치하여 굳게 서다

첫째로 이 결론을 전할 때 바울의 빌립보의 형제 자매에 대한 사랑이 매우 풍부하게 표현되어 있습니다. 「사모하는 형제들」「나의 기쁨이요 면류관」「사랑하는 자들」.

바울이 멍에를 같이 하고 파트너로서 함께 사역해 준 빌립보의 형제 자매를 얼마나 하나님 앞에서 기뻐하고 있었는지가 전해져 옵니다. 그리고 동시에 「주 안에 서다」라는 멧세지를 세심한 주의를 기울여 들어주기를 바라는 바울의 소원을 느낄 수 있지 않을까요? 4장 1절을 읽어주십시오.

1 그러므로 나의 사랑하고 사모하는 형제들, 나의 기쁨이요 면류관인 사랑하는 자들아 이와 같이 주 안에 서라

주 안에 서라는 「서다」는 군사용어이며「요새에 배치된 병사처럼 단호하게 서있다」라고 하는 의미입니다. 방패를 잡고 전열을 정돈하고 스크럼을 짜서 지키는 자의 모습입니다. 이 말은 실은 1장 27절에도 나왔기 때문에 다시 한번 빌립보서 1장 27,28절의 말씀을 보겠습니다.

27 오직 너희는 그리스도의 복음에 합당하게 생활하라 이는 내가 너희를 가보나 떠나 있으나 너희가 열심으로 서서 한 뜻으로 복음의 신앙을 위하여 협력하는 것과

28 아무 일에든지 대적하는 자를 인하여 두려워하지 아니하는 이 일을 듣고자 함이라 이것이 저희에게는 멸망의 증거요 너희에게는 구원의 증거니 이는 하나님께로부터 난 것이니라

이 구절에서는 서 있는 것이 「대적하는 자들에게는 멸망이고 여러분들에게는 구원을 나타내는 것」이라고 쓰여 있습니다. 「서 있다」라는 것은 이 세상을 향한 선교라는 것입니다. 그리고 4장 1절에서는 이 「서 있다」라는 말 앞에 「주 안에서」라는 말이 덧붙여져 있습니다. 그리스어 성경을 보면 엔 큐리오스라고 쓰여있고 엔이라고 하는 전치사(영어로 말하면 in)가 사용되고 있습니다. 그러므로 「주 안에 서라」라는 의미입니다. 이 「주 안에 서라」라는 말은 바울이 자주 사용하는 표현이지만 예수님과의 신비한 결합을 나타냅니다. 우리 그리스도인은 그리스도 안에 있으며 그리스도에게 붙잡혀 있습니다만 동시에 우리들 그리스도인 안에 주의 영이 머무시고 성령의 내주에 의해서 그리스도가 우리들 안에 살아 계시는 것 입니다. 포도나무를 떠 올려 보십시오. 이 포도나무에 가지가 접목된 것처럼 우리는 예수님께 접목된 것입니다. 그러므로 우리는 예수님 안에 있지만 동시에 예수님이 우리들 안에 살아 계시는 것입니다. 바울은 이렇게 예수님께 결합되어 서라고 권면하고 있습니다. 이 세상에서 우리 교회의 믿음의 싸움은 바로 「주 안에 서는 것」이라는 한 마디로 정리될 수 있는 것이 아닐까 생각합니다. 교회의 전투는 전열을 정돈하고 스크럼을 짜는 팀 플레이라는 것입니다. 그러면 다음으로 구체적으로 어떻게 서야 하는지를 살펴 보겠습니다. 2,3절을 보시기 바랍니다.

2 내가 유오디아를 권하고 순두개를 권하노니 주 안에서 같은 마음을 품으라

3 또 참으로 나와 멍에를 같이 한 자 네게 구하노니 복음에 나와 함께 힘쓰던 저 부녀들을 돕고 또한 글레멘드와 그 외에 나의 동역자들을 도우라 그 이름들이 생명책에 있느니라

여기에서는 유오디아와 순두개를 지명하고 주 안에서 같은 마음을 품으라고 권면하고 있습니다. 어떠한 이유로 그녀들이 뜻을 달리했는지는 확실히 모르겠지만 아마도 그녀들은 빌립보 교회 안에서 집사 같은 리더적인 입장이었을 것입니다. 바울은 「나와 멍에를 같이 한 자」에게 그녀들을 도우라고 부탁하고 있습니다. 바울과 멍에를 같이 한 자가 도대체 누구인지는 알 수가 없습니다. 그렇기 때문에 이 멍에를 같이 한 자가 누구든지 간에 바울과 함께 멍에를 맨 자, 즉 바울의 파트너라고 생각되기 때문에 우리는 「멍에를 같이 한 자」를 빌립보 교회 전체를 가리킨다고 이해하고 싶습니다. 그런데 유오디아와 순두개에 대하여 「저 부녀들은 생명의 책에 이름이 적혀 있는 글레멘드나 그 외에 동역자들과 힘을 합쳐 복음을 위해 나와 함께 싸워 주었다」고 쓰여 있습니다만 이「생명책」이라고 하는 것이 무엇인가하면 시민권을 가지고 있는 모든 사람의 이름이 등록된 두루마리라고 생각해 주십시오. 모든 신자는 「생명책」에 영원히 그 이름이 기록되어 있습니다. 요한계시록 3장 5절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다.

이기는 자는 이와 같이 흰 옷을 입을 것이요 내가 그 이름을 생명책에서 결코 지우지 아니하고 그 이름을 내 아버지 앞과 그의 천사들 앞에서 시인하리라

이렇게 생명책에 그 이름이 적혀 있는 것입니다. 하나님의 복음을 믿는 우리 각자도 이 생명책에 이름이 적혀 있다는 것을 기억하시기 바랍니다.

(2) 기뻐하며 기도와 간구하며 서 있으라

계속해서 4절을 보시기 바랍니다.

4 주 안에서 항상 기뻐하라 내가 다시 말하노니 기뻐하라

여기서 빌립보의 형제 자매에게 항상 기뻐하라고 권면합니다. 항상 기뻐하라고 권면을 받아도 우리의 삶 속에서는 기뻐할 수 없는 일이 일상다반사처럼 일어나고 있습니다. 어떤 사람이라도 누구에게도 상담할 수 없는 것 같은 고민이나 고통을 가지고 있는 것입니다. 우리의 삶 속에서 모든 고민이 해결된다는 것은 결코 있을 수 없는 일인데 어떻게 하면 기뻐할 수 있을까요? 이 「주 안에서 기뻐하라」라고 하는 명령의 주도권은 사실은 하나님 편에 있습니다. 왜냐하면 기쁨(카리스)이란 하나님이 우리의 삶 속에서 맺게 해 주시는 성령의 열매이며 하나님의 은사이기 때문입니다. 성경에는「의롭게 되라 」「거룩해 지라」 라는 명령형이 자주 나오지만 이것도 마찬가지로 명령하기 전에 구주 예수님께 우리를 위해 이미 그것들을 획득하시고 성취하셨다는 것입니다. 그러므로 이 「항상 기뻐하라」는 명령형의 뒷면에 감춰져 있는 의미는 「하나님이 여러분을 이윽고 그 날에 기쁨의 자리로 인도하신다」라는 것입니다. 며칠 전에 야구 WBC대회에서 멋지게 일본이 우승을 하고, 오오타니 선수가 MVP에 빛났습니다. 시상식에서는 한사람 한사람에게 메달이 수여되어 기쁨이 끓어 올랐습니다. 그러나 WBC도 시간이 지남에 따라 우승의 여운은 점차 식어져 버립니다. 하나님은 이윽고 그 날에 하늘의 표창대에 우리를 부르시고 한사람 한사람에게 승리의 면류관을 주시고 궁극적인 목적지인 기쁨의 좌석에 영원한 기쁨으로 하나님이 주도권을 가지고 인도하여 주신다는 의미입니다. 그러므로 「항상 기뻐하라」라고 하는 명령은 하나님께서 그 궁극적인 목적지까지 우리를 책임지고 인도하시는 그 하나님의 역사에 참여하고 이 세상에서도 그 날에 맛 볼 기쁨을 미리 맛보라는 의미입니다.

같은 방식으로 4장 6절에 있어서 「염려하지 말라」라는 명령형이 나오고 있습니다. 우리들의 생활 가운데 염려하는 것, 걱정하는 일은 계속해서 일어납니다. 우리는 죄인이며 부족함이 많고, 걱정스러운 일, 염려는 끊임없이 발생하기 때문입니다. 어떻게 하면 염려하는 것을 멈출 수 있을까요? 이 명령형의 주도권은 역시 하나님 편에 있다고 말할 수 있습니다. 왜냐하면 염려를 하지 않는 것, 하나님의 평강 (에이레네)이라는 것은 하나님이 우리의 인생 안에서 맺게 해 주시는 성령의 열매이며, 하나님의 선물이기 때문입니다. 우리들의 매일의 삶 가운데 비록 원하는 것이 이루어지지 않는다 하더라도 비록 어떠한 일에 실패를 한다 하더라도 그 일로 우울해서는 안되는 후회하는 마음에 잡혀서는 안 된다는 것입니다. 모든 염려를 넘어서 주님이 평강의 자리로 나를 책임지시고 인도해 가시기 때문에 하나님의 그 역사에 기도와 간구를 가지고 참여하라는 의미입니다. 그리스도인의 매일의 삶의 행보 가운데 성령의 열매로서 맺어지는 기쁨과 평강은 하나님으로부터의 은사이기 때문에 세상 사람들은 이것을 결코 누릴 수 없습니다. 7절을 보면 평강 (에이레네)의 앞에 「모든 지각에 뛰어난」이라고 하는 수식어가 있습니다. 세상이 줄 수 있는 평안과는 완전히 종류가 다르다는 것을 나타냅니다. 하나님의 평강이란 궁극적인 목적지이며 이 세상에 있어서도 우리들은 그 것을 미리 맛 볼 수 있는 것처럼 우리들은 이 세상에서도 하나님의 깊은 평강에 감싸져 있는 것입니다.

(3) 행함으로 서 있다

계속해서 5절을 보시기 바랍니다.

5 너희 관용을 모든 사람에게 알게 하라 주께서 가까우시니라

「너희 관용을 모든 사람들에게 알게 하라」고 쓰여 있습니다만, 이 「관용」이라는 것은 도대체 무엇이란 말입니까? 이 말은 다른 성경 구절에 있어서 온화함, 부드러움, 자비심 등으로 번역됩니다. 이 관용, 넓은 마음은 믿음에서 오는 마음의 넓이라고 생각됩니다. 결코 이 세상 사람들이 갖고 있는 「마음의 여유」, 「경제적인 여유로움에서 나오는 통큰 씀씀이」를 사람들에게 보이라는 것이 아니라고 생각됩니다. 4장 8절에서는 당시 그리스・로마의 세계에서 덕목이었던 것이 열거되어 있지만 이것들과 비슷한 것은 아닙니다. 8절을 보면 「무엇에든지 참된 것」, 「무엇에든지 경건한 것」, 「무엇에든지 옳은 것」, 「무엇에든지 사랑할만한 것」, 「무엇에든지 칭찬할만한 것」, 「무슨 덕이 있든지, 무슨 기림이 있든지」라고 되어 있습니다. 이것들이 바로 당시에 세상적인 힘이며 사람들이 이것을 겸비한다면 훌륭하다고 여겼습니다. 현재의 일본 사회에 적용해 보자면 예를 들어 「사람들에게 폐를 끼치지 않을 것」, 「어리석은 행동을 하지 말고 명확히 할 것」, 「지각하지 말 것」과 같은 것들입니다. 이런 것들을 제대로 지켜서 여러분의 관용을 모든 사람에게 알리라고 바울은 말하는 것이 아닙니다. 만약 그렇게 생각한다면, 결국 우리는 이 세상의 가치관을 추종해 나가게 될 것입니다. 저는 이전에 세계적인 유명인이 크리스챤이 되면 얼마나 전도에 도움이 될까라고 생각한 적이 있었습니다. 그러나 하나님은 사회적으로 영향력 있는 사람을 자신의 백성으로 선택하신 것이 아니라 오히려 우리와 같이 연약한 사람을 하나님의 백성으로 선택하셨습니다. 하나님은 “이 세상의 힘으로 세상의 사람들에게 증거하라, 세상적인 덕목을 가지고 세상 사람들에게 증거하라”고 말씀하신 것이 아니라는 것입니다. 만약 그렇다면 더 적합한 사람을 선택하셔야만 합니다. 그러면 5절의 믿음에서 부터 오는 「관용」이란 무엇인가라고 묻게 됩니다. 그것은 주 안에 서는 것이며 그렇게 함으로 맺어지는 기쁨과 평강이라는 열매를 가리키고 있는 것이 아닐까 생각합니다. 하나님은 우리들 가까이 계시고 우리들의 매일의 삶의 행보를 궁극적인 완성을 향해서 인도하고 계십니다. 하나님의 의도대로, 하나님의 계획대로 점토를 반죽하시면서 시간과 공간 속에서 하나님의 예술 작품이 되도록 날마다 우리를 빛어 가고 계시는 것입니다. 그렇기 때문에 「관용을 모든 사람에게 알게 하라」는 하나님의 작품인 우리가 하나님의 궁극적인 승리를 믿고 주 안에서 하나님의 통치에 만족해 하는 것입니다. 하나님의 부활의 능력을 믿고 믿음 가운데 주 안에 서는 것입니다. 그런 그리스도인의 모습을 이 세상 사람들이 볼 때 이상하기 그지 없는 것입니다. 「저 사람은 도대체 어떤 사람이지? 저 정도 지독한 박해를 받는데도 오히려 감사해 하고 기쁨에 가득차 있지 않은가? 」 「저 정도 불행한 일이 있는데도 더 온화하게 행동하며 기도와 간구를 드리면서 평강이 넘치고 얼굴이 빛나고 있지 않은가? 」 「그들을 지지하고 있는 힘은 도대체 무엇인가? 전혀 이해할 수 없어! 」 라고 세상 사람들은 이상하게 여기는 것 입니다.

결론

교회가 주 안에 있고 굳건히 서 있을 때 교회의 존재 그 자체가, 교회의 행보 그 자체가 세상에 대한 복음선교가 될 것입니다. 예배당을 깨끗하게 하거나 교회건물 외관을 밝고 화사하게 만드는 것도 아주 중요하고 명심해야 할 일이지만 선교에 있어서 무엇보다 중요한 것은 우리 개개인이 주 안에서 굳건히 서 있는 것입니다. 전열을 정돈하고 스크럼을 짜며, 주께서 우리를 궁극적 목적지인 기쁨의 자리로, 궁극적인 목적지인 평강의 자리로 인도해 주실 것을 믿고 항상 기뻐하면서 염려하는 것을 멈추는 것입니다. 그러한 모습이 세상 사람들에게 우리의 관용을 보여주고 복음선교가 되는 것입니다. 우리 교회 신앙의 전투라는 것은 「주 안에 서는 것」, 이 한마디로 정리할 수 있겠습니다.

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