2019年03月24日「タラントンの譬え 달란트의 비유」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千間台教会のホームページへ戻る

タラントンの譬え 달란트의 비유

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 25章14節~30節

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

14「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。
15それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、
16五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。
17同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
18しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
19さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
20まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
21主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
22次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
23主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
24ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、
25恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
26主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
27それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
28さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
29だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
30この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 25章14節~30節

原稿のアイコン日本語メッセージ

21:12から、過ぎ越しの祭りをエルサレムで過ごしたイエスさまの最後の一週間について書かれています。イエスさまはエルサレムの神殿の中に入られ、最初の数日間は、境内においてユダヤの宗教指導者と論争されました。その後、24章で神殿を出られ、弟子たちだけを相手にして、終末に関する長い説教が続いています。終末の譬えとして、第一に、24章後半のところで、「時間通りに食事を与えるようにさせた主人と、中間管理職の使用人の譬え」がありました。第二に、25章1節から「十人のおとめの譬え」がありました。そして、本日は第三の「タラントンの譬え」です。なぜこのように終末について長く譬えによって話されるのかと言いますと、終末とは主イエスの再臨を意味するのですが、それは盗人のように突然来るのであって、誰もその日、その時を知らないため、それに備えて生きるように勧めておられるのです。

ですから、私たちの人生の目的とは終末にあるということができるでしょう。人生の目的は自己実現とか、自己啓発ではありません。キリストの再臨までの、いわばその中間期を、目を覚ましていられるように、常にその日を念頭に置いて生きることです。もしキリストの再臨がなく、この世が神の創造によって存在しているのではなく、偶然に自然発生的に存在しているのなら、私たちの人生を自分中心に、自分が頭となって自己実現の道を究めるのもいいかもしれません。しかし、キリストは私たちに預けたものを清算するために再臨されるのです。いずれ清算することになるということを知っているなら、当然そのことを計算しながら生活すべきです。年度の切り替わりの12月や3月になると事業会計の締めで忙しくなりますね。清算したとき、黒字なのか赤字なのか、次期繰り越し金がいくらなのか、はっきりさせなければなりません。清算の日があるために私たちは与えられた予算を自分の好き勝手に使うことはできないのです。

終末を意識して生きるとは、私たちの頭であり、私たちの主のご意向に従い、忠実に生きることでもあります。ですから、私たちがよく誘惑を受けたり、試練を受けるのは、自分が頭ではないか、という錯覚です。私たちの人生、頭が自分であると勘違いしてしまうのです。実際、私たちは頭ではなく、頭に連なる一つの枝であり、キリストの体における一つの器官にすぎません。私たちが体の一器官にすぎないのであれば、主から預かった賜物を用いて主に仕えることであり、それはつまり、キリストの体全体のために、賜物を用いて奉仕することです。その賜物を自分のものとして、自分勝手に用いてはなりません。主のご意向に沿って用いるべきです。

本日の比喩では、三人の僕がでてきますが、一番目の僕と二番目の僕は自分たちの頭が誰であり、人生の目的を正しく捉えていました。ところが三番目の僕は、人生の目的を勘違いしてしまい、自分が頭であるかのように行動してしまいました。25章14-18をご覧ください。

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。

それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、

五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。

同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。

しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。

ここに出てくるタラントンとは僕たちが管理するように主人から預けられた「財産」ですが、ここではそれが、おのおのその力に応じて与えられています。それでは、その財産はいくらくらいになるかと言いますと、1タラントンは6千デナリですから、一番少なく預かった僕でも、1デナリは1日分の日当として、6000日分の日当になり、約20年間分の給料が与えられていたことになります。ここで注意すべきことは、神によって預けられる賜物はそれぞれ人によって異なるということです。しかも力に応じて与えられているということですから、「与えられたタラントンはそれを預かる人の能力と一つのものとみなされている」ということです。ですから、ここが大事ですが、タラントンだけではなくて、預かる人の能力も同じように主から預けられた賜物であると言えるでしょう。

つまり、私たちに適用してみるなら、第一に私たちは主の財産の管理人として立てられているということです。そして第二に自分の持っているものは全て、主から預けられた貴重な賜物として尊ぶことが出来るということです。その賜物とは、目に見える財産や職業、社会的地位だけに限りません。目に見えない才能や能力、経験、出会い社会的信用など、全てが主からの預かりものなのです。それらのすべてについて終末に清算を求められるのです。

そのことを、よーく、わきまえていた5タラントン預かった僕は、早速出て行きました。そして、それで商売をし、ほかに五タラントンをもうけました。同じように2タラントン預かった者も、ほかに2タラントンをもうけました。彼らは主人からの預かりものを全て感謝して受け取り、適切に行動し、忠実に預かった分の責任を果たしました。

しかし1タラントン預かった僕は、それを一切活用することをしないで、土の中に主人のお金を隠してしまいました。土の中に隠すという行動は、そこが最も安全な隠し場所であり、今でいう、金庫に相当するからです。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めました。忠実な5タラントン預かった僕と2タラントン預かった僕が出て来ます。20~23節をご覧ください。

まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』

主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』

主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

主人は、5タントン預けた僕を「よくやった、忠実であり、善い僕だ。」とほめています。そして「少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう」と言っています。皆さん、5タラントンは少しの金額でしょうか。1タラントンが20年分の給料ですから、5タラントンは100年分の給料ということになります。決して少しではありません。しかし、キリストの再臨の時に、神の国が完成されて任されることになるものと比べるなら、それは少しに過ぎないということです。この世で忠実に歩んだ者には、神さまから大変多くのものを任せられることになり、神の御国を相続することになるのです。ルカによる福音書の19:17の並行箇所には、一番目の僕に対し「良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。」とあります。ヨハネの黙示録22:5には次のような御言葉があります。そのままお聞きください。

もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。

私たちの地上での働きは、天の御国におけるさらに重要な働きのための準備となるのです。そして御国で預けられることになる主の財産に比べるなら、今の預かりものは、たとい5タラントンでも「少しのもの」に過ぎないのです。神さまは2タラントン儲けた僕に対しても5タントン儲けた僕と全く同じ言葉によってほめてくれます。21節の言葉と23節の言葉が一字一句同じですね!これは、神さまの着眼点が、僕の商売によって儲けた金額ではなくて、神さまの預けた賜物に対し、どれほど忠実に自分の責任を果たすことができたかという点であるということがわかります。

次に、三人目の1タラントンを預かった僕を見てみましょう。彼は、主の御前に進み出る時に、前の二人とは全く対照的な言葉によって始めました。つまり「ご覧ください」と言いながら、前の二人は、主人に喜んでもらおうとして、預かったタラントンと併せて、それを元手にして儲けた分のタラントンを報告しました。ところが、この三人目の僕は、最初に主人に何も益をもたらさなかった「言い訳」から始めています。何か良心の呵責を感じるようなことでもあったのでしょうか。24~27節をご覧ください。

ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、

恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』

主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。

それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。

三人目の僕の、主人に対する歪んだイメージですが、「種を撒かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める方」として表現されています。「撒かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める」とは、同じ内容を違う言葉で表現しているだけですが、つまり彼にとって主人とはそれほど恐ろしく厳しい、強欲な資本家であったということです。主人から預かったものをそっくりそのままお返しするために、最も安全な保管場所である土の中に隠しておきました。そして、前の二人は、「ご覧ください」という言葉と共に、どれだけ主人に有益をもたらしたのか、その儲け分を報告していますが、三人目の僕は「ご覧ください」という言葉と共に、「これがあなたのお金です。」つまり、「どうぞ、あなたのものはこれで全てです。盗んでも、かすめてもいません」と報告しているのです。この対照的な、三人目の僕の報告を聞いて、主人は怒りました。この怒りとは、第一に、前の僕が「善い僕」であるのに対して「悪い僕」であることを怒っています。第二に、前の僕が「忠実な僕」であるのに対し「怠け者の僕」であることを怒っています。第三に、前の僕は、ご覧ください、という言葉と共に有益をもたらしたのに対し、「何の利益ももたらさなかった無益さ」を怒っています。土の中に隠すなら、むしろ、銀行に預けておくべきでした。当時ローマ帝国の支配下にあって銀行が普及し、利息もかなり高かったようです。主人が帰ってくるまでかなりの日数が経ちましたので、銀行に預けておけば相当の利息がもらえたはずでした。結局、主人の怒りは、僕の心が主人の心とは一つではなかったことに対する怒りだと言えるでしょう。三番目の僕は、自分の頭であるはずの主人のご意向を全く無視していました。そして、自分が頭となって自分のやりたいことをしながら人生を無意味に過ごしてしまったのでしょう。そのことに対する審判が下されます。28~30節をご覧ください。

さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。

だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。

この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

神さまの「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」という教訓は、現代の格差社会を許すことができない私たちの常識から考えると、到底、受け入れ難い教訓です。しかしマタイ13:12にも、「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」という同じ教訓が書かれています。この教訓は、そもそも持っているものというのが、主から預けられた賜物であるということに注意しなければ誤解を招いてしまいます。そもそも最初から私たちの私物ではないのです。私たちは単に管理人として預かっている者にすぎません。ここのところを履き違い、神からの賜物を自らの所有物として勘違いし、頭がイエス様ではなく、自分であると勘違いすることによって、三番目の僕のような大きな失敗を招いてしまうのです。私たちの財産、職業、社会的地位、これらは外見だけ見たときに、神さまはなんと不平等な方なのだろうと思われるかもしれません。明らかにアフリカの貧しい地域で生まれた子供たちと日本で生まれた子供たちの間には大きな格差が存在するからです。さらには、私たちの才能や能力、経験、社会的信用など全て神さまから預かっているタラントンです。このタラントンを主人のご意向の通り知恵深く用いなければなりません。それは、私たちは聖書によって、やがてすべてを清算する日が来るということを知っているからです。お祈りいたしましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

달란트의 비유

2019년 3월24일 설교 카와에 토모아키 목사

마태복음 25장 14절~30절

21장 12절부터는, 예루살렘에서 유월절을 보내신 예수님의 마지막 일주일에 대해 기록되어 있습니다. 예수님께서는, 예루살렘 성전에 들어가셔서 처음 며칠 동안은 성전 뜰에서 유대 종교 지도자들과 논쟁을 벌이셨습니다. 그 후 24장에서 성전을 떠나 제자들만을 대상으로, 종말에 관한 긴 설교를 이어가십니다. 말세에 관한 비유로서, 첫째로 24장 후반부에「때를 따라 양식을 나눠 주는 종의 비유」가 있었습니다. 둘째로, 25장 1절부터「열 처녀의 비유」가 있었습니다. 그리고 오늘은 세 번째인 「달란트의 비유」입니다. 왜 이처럼 종말에 대해, 비유를 통해 길게 말씀하시는가 하면, 종말이란 주 예수님의 재림을 의미하는데, 그것은 도둑처럼 갑자기 오기 때문에, 아무도 그 날과 그 때를 알지 못하므로, 그에 대비하여 살아가도록 권면하시는 것입니다.

그러므로 우리 인생의 목적은, 종말에 있다고 할 수 있을 것입니다. 인생의 목적은 자기실현이나 자기계발이 아닙니다. 그리스도의 재림까지의, 이른바 그 중간 기간을 깨어 있을 수 있도록, 항상 그 날을 염두에 두고 사는 것입니다. 만약 그리스도의 재림이 없고, 이 세상이 하나님의 창조로 존재하는 것이 아니라, 우연히 자연발생적으로 존재한다면, 우리는 인생을 자기 중심으로, 자신이 주체가 되어 자기실현의 길을 추구하는 것도 괜찮을지 모릅니다. 그러나 그리스도는 우리에게 맡기신 것을 정산하기 위해 재림하시는 것입니다. 언젠가 정산하게 될 것임을 안다면, 당연히 그 점을 고려하며 생활해야 합니다. 회계 연도가 바뀌는 12월이나 3월이 되면 사업 결산으로 바빠지죠. 정산할 때 흑자인지 적자인지, 다음 연도로 이월되는 금액이 얼마인지 분명히 해야 합니다. 정산의 날이 있기 때문에 우리는 주어진 예산을 제멋대로 쓸 수 없는 것입니다.

종말을 의식하며 산다는 것은, 우리의 머리이시며 우리의 주님이신 분의 뜻에 순종하여 충실하게 살아가는 것을 의미합니다. 그러므로 우리가 종종 유혹을 받거나 시련을 겪는 것은, 마치 자신이 머리인 것처럼 착각하기 때문입니다. 우리의 인생에서, 머리가 자신이라고 착각해 버리는 것입니다. 사실 우리는 머리가 아니라, 머리에 연결된 하나의 가지이며, 그리스도의 몸 안에서 하나의 기관에 불과합니다. 우리가 몸의 한 기관에 불과하다면, 주님께서 맡겨 주신 은사를 사용하여 주님을 섬기는 것이며, 그것은 곧 그리스도의 몸 전체를 위해 은사를 사용하여 섬기는 것입니다. 그 은사를 자신의 것으로 여겨 제멋대로 사용해서는 안 됩니다. 주님의 뜻에 따라 사용해야 합니다.

오늘의 비유에는 세 명의 종이 등장하는데, 첫 번째 종과 두 번째 종은 자신들의 머리가 누구이며, 인생의 목적을 올바르게 파악하고 있었습니다. 그러나 세 번째 종은 인생의 목적을 오해하여, 마치 자신이 머리인 것처럼 행동해 버렸습니다. 25장 14-18절을 보십시오.

14 또 어떤 사람이 타국에 갈 때 그 종들을 불러 자기 소유를 맡김과 같으니

15 각각 그 재능대로 한 사람에게는 금 다섯 달란트를, 한 사람에게는 두 달란트를, 한 사람에게는 한 달란트를 주고 떠났더니

16 다섯 달란트 받은 자는 바로 가서 그것으로 장사하여 또 다섯 달란트를 남기고

17 두 달란트 받은 자도 그같이 하여 또 두 달란트를 남겼으되

18 한 달란트 받은 자는 가서 땅을 파고 그 주인의 돈을 감추어 두었더니

여기에 나오는 달란트는 주인이 우리에게 관리하라고 맡긴 「재산」인데, 여기서는 각자의 능력에 따라 주어지고 있습니다. 그렇다면 그 재산이 얼마나 될까요? 1달란트는 6천 데나리온이므로, 가장 적게 받은 종이라도 1데나리온이 하루 일당이라고 치면 6,000일분의 일당이 되며, 약 20년 치의 급여가 주어진 셈이 됩니다. 여기서 주의해야 할 점은, 하나님께로부터 맡겨진 은사는, 사람마다 다르다는 것입니다. 게다가 능력에 따라 주어졌다는 것은, 「주어진 달란트는 그것을 맡은 사람의 능력과 하나라고 여겨진다」는 뜻입니다. 그러므로, 이 점이 중요한데, 달란트뿐만 아니라, 맡은 사람의 능력 또한 마찬가지로 주님께로부터 맡겨진 은사라고 할 수 있을 것입니다.

즉, 우리에게 적용해 본다면, 첫째로 우리는 주님의 재산의 청지기로서 세워졌다는 것입니다. 그리고 둘째로 자신이 가진 모든 것은, 주님께서 맡기신 귀중한 선물로서 소중히 여길 수 있다는 것입니다. 그 선물이란 눈에 보이는 재산이나 직업, 사회적 지위에만 국한되지 않습니다. 눈에 보이지 않는 재능이나 능력, 경험, 만남, 사회적 신용 등 모든 것이 주님께서 맡기신 것입니다. 그 모든 것에 대해 마지막 날에 청산을 요구받게 됩니다.

그 사실을 아주 잘 알고 있던 다섯 달란트를 받은 종은 곧바로 나갔습니다. 그리고 그것으로 장사를 하여, 또 다섯 달란트를 더 벌었습니다. 마찬가지로 두 달란트를 받은 자도, 또 두 달란트를 더 벌었습니다. 그들은 주인으로부터 받은 것을 모두 감사히 받아들이고, 적절히 행동하며, 맡은 바 책임을 충실히 다했습니다.

그러나 1달란트를 맡은 종은, 그것을 전혀 활용하지 않고, 흙 속에 주인의 돈을 감추어 두었 습니다. 흙 속에 감춘다는 행동은 그곳이 가장 안전한 은신처이며, 오늘날로 말하면 금고에 해당하기 때문입니다. 자, 꽤 시간이 지난 후에, 종의 주인이 돌아와 그들과 결산을 시작했습니다. 충실한 5탈란트를 맡은 종과 2탈란트를 맡은 종이 나옵니다. 20~23절을 보십시오.

20 다섯 달란트 받았던 자는 다섯 달란트를 더 가지고 와서 이르되 주인이여 내게 다섯 달란트를 주셨는데 보소서 내가 또 다섯 달란트를 남겼나이다

21 그 주인이 이르되 잘하였도다 착하고 충성된 종아 네가 적은 일에 충성하였으매 내가 많은 것을 네게 맡기리니 네 주인의 즐거움에 참여할지어다 하고

22 두 달란트 받았던 자도 와서 이르되 주인이여 내게 두 달란트를 주셨는데 보소서 내가 또 두 달란트를 남겼나이다

23 그 주인이 이르되 잘하였도다 착하고 충성된 종아 네가 적은 일에 충성하였으매 내가 많은 것을 네게 맡기리니 네 주인의 즐거움에 참여할지어다 하고

주인은 5달란트를 맡긴 종을 향해「잘하였도다 착하고 충성된 종아」라고 칭찬하십니다. 그리고 「적은 일에 충성하였으매 내가 많은 것을 네게 맡기리니」라고 말씀하십니다. 여러분, 5달란트는 적은 금액일까요? 1탈란트가 20년 치의 월급이니, 5탈란트는 100년 치의 월급이 됩니다. 결코 적은 것이 아닙니다. 그러나 그리스도의 재림 때에, 하나님의 나라가 완성되어 맡게 될 것과 비교한다면, 그것은 단지 적은 것에 불과하다는 것입니다. 이 세상에서 충실하게 걸어온 자에게는, 하나님으로부터 지극히 많은 것을 맡게 되며, 하나님의 나라를 상속받게 되는 것입니다. 누가복음 19장 17절의 병행 구절에는 첫 번째 종에게「착한 종이여 네가 지극히 작은 것에 충성하였으니 열 고을 권세를 차지하라」라고 기록되어 있습니다. 요한계시록 22장 5절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다. 그대로 들어보십시오.

요한계시록 22장

5 다시 밤이 없겠고 등불과 햇빛이 쓸 데 없으니 이는 주 하나님이 그들에게 비치심이라 그들이 세세토록 왕 노릇 하리로다

우리의 지상에서의 사역은, 하늘나라에서 더 중요한 사역을 위한 준비가 됩니다. 그리고 하늘나라에서 맡게 될 주님의 재산에 비하면, 지금 우리가 맡은 것은 설령 5달란트라 할지라도 「적은 것」에 불과합니다. 하나님께서는 2달란트를 벌어들인 종에게도 5달란트를 벌어들인 종과 똑같은 말씀으로 칭찬해 주십니다. 21절의 말씀과 23절의 말씀이 한 글자 한 마디도 똑같습니다! 이것은 하나님의 관점이, 종이 장사를 통해 번 금액이 아니라, 하나님께서 맡기신 은사에 대해 얼마나 충실하게 자신의 책임을 다했는지에 있다는 것을 알 수 있습니다.

다음으로, 세 번째로 1 달란트를 맡은 종을 살펴보겠습니다. 그는 주님 앞에 나아갈 때, 앞의 두 사람과 전혀 대조적인 말로 이야기를 시작했습니다. 즉 「주인이여」라고 말하며, 앞의 두 사람은 주인이 기뻐하시도록, 맡겨진 달란트와 더불어 그것을 원금으로 삼아 번 달란트를 보고했습니다. 그런데 이 세 번째 종은, 처음에 주인에게 아무런 이익도 가져다주지 못했다는 「변명」부터 시작하고 있습니다. 무언가 양심의 가책을 느끼는 일이 있었던 것일까요? 24~27절을 보십시오.

24 한 달란트 받았던 자는 와서 이르되 주인이여 당신은 굳은 사람이라 심지 않은데서 거두고 헤치지 않은 데서 모으는 줄을 내가 알았으므로

25 두려워하여 나가서 당신의 달란트를 땅에 감추어 두었었나이다 보소서 당신의 것을 가지셨나이다

26 그 주인이 대답하여 이르되 악하고 게으른 종아 나는 심지 않은 데서 거두고 헤치지 않은 데서 모으는 줄로 네가 알았느냐

27 그러면 네가 마땅히 내 돈을 취리하는 자들에게나 맡겼다가 내가 돌아와서 내 원금과 이자를 받게 하였을 것이니라 하고

세 번째 종의 주인에 대한 왜곡된 이미지는,「심지 않은데서 거두고 해치지 않은 데서 모으는 사람」으로 묘사되어 있습니다. 「심지 않은데서 거두고 해치지 않은 데서 모으는 줄을 내가 알았으므로」라는 것은 같은 내용을 다른 말로 표현한 것에 불과하지만, 요컨대 그에게 있어 주인은 그만큼 무섭고 엄격하며 탐욕스러운 자본가였다는 뜻입니다. 주인으로부터 맡은 것을 그대로 돌려드리기 위해, 가장 안전한 보관 장소인 흙 속에 감추어 두었습니다. 그리고 앞의 두 사람은 「보소서」라는 말과 함께, 주인에게 얼마나 많은 이익을 가져다주었는지, 그 수익분을 보고하고 있지만, 세 번째인 종은 「주인이여」라는 말과 함께, 「이것이 주인님의 돈입니다.」 즉, 「자, 주인님의 것은 이것으로 전부입니다. 훔치지도, 횡령하지도 않았습니다」라고 보고하고 있는 것입니다. 이처럼 대조적인 세 번째 종의 보고를 듣고 주인은 화를 냈습니다. 이 분노는 첫째로, 앞의 종이「착한 종」인 데 반해 「악한 종」이라는 점에 대한 분노입니다. 둘째로, 앞의 종이 「충실한 종」인 데 반해 「무익한 종」이라는 점에 화를 내고 있습니다. 셋째로, 앞의 종은 「보소서」라는 말과 함께 이익을 가져다준 반면, 「아무런 이익도 가져다주지 못한 무익함」에 화를 내고 있습니다. 땅속에 감추어 둘 바에는, 차라리 은행에 맡겨 두었어야 했습니다. 당시 로마 제국의 지배하에 있어 은행이 보급되어 있었고, 이자도 꽤 높았던 것 같습니다. 주인이 돌아오기까지 꽤 많은 날이 지났으므로, 은행에 맡겨 두었다면 상당한 이자를 받을 수 있었을 것입니다. 결국, 주인의 분노는, 종의 마음이 주인의 마음과 하나가 아니었던 것에 대한 분노라고 할 수 있겠습니다. 세 번째 종은, 자신의 머리여야 할 주인의 뜻을 전혀 무시하고 있었습니다. 그리고 자신이 머리가 되어, 하고 싶은 대로 하며 인생을 무의미하게 보내버린 것이겠지요. 그에 대한 심판이 내려집니다. 28~30절을 보십시오.

28 그에게서 그 한 달란트를 빼앗아 열 달란트 가진 자에게 주라

29 무릇 있는 자는 받아 풍족하게 되고 없는 자는 그 있는 것까지 빼앗기리라

30 이 무익한 종을 바깥 어두운 데로 내쫓으라 거기서 슬피 울며 이를 갈리라 하니라

하나님께서「무릇 있는 자는 받아 풍족하게 되고 없는 자는 그 있는 것까지 빼앗기리라」이라고 하신 교훈은, 현대의 격차 사회를 용납할 수 없는 우리의 상식으로는 도저히 받아들이기 어려운 교훈입니다. 그러나 마태복음 13장 12절에도 「무릇 있는 자는 받아 넉넉하게 되되 없는 자는 그 있는 것도 빼앗기리라」라는 동일한 교훈이 기록되어 있습니다. 이 교훈은, 애초에 「있는 것」이라는 것이, 주님께서 맡겨주신 선물이라는 점에 주의하지 않으면 오해를 불러일으키게 됩니다. 애초에 처음부터 우리의 사물이 아니기 때문입니다. 우리는 단지 관리인으로서 맡아두고 있을 뿐입니다. 이 점을 혼동하여, 하나님으로부터 받은 선물을 자신의 소유물로 착각하고, 머리가 예수님이 아니라 자신이라고 착각함으로써, 세 번째 종과 같은 큰 실패를 초래하게 되는 것입니다. 우리의 재산, 직업, 사회적 지위, 이것들은 겉모습만 볼 때, 하나님은 참으로 불공평하신 분이시라고 생각될지도 모릅니다. 분명히 아프리카의 가난한 지역에서 태어난 아이들과 일본에서 태어난 아이들 사이에는 큰 격차가 존재하기 때문입니다. 게다가 우리의 재능이나 능력, 경험, 사회적 신용 등 모든 것은 하나님께로부터 맡아 관리하고 있는 달란트입니다. 이 달란트를 주인의 뜻대로 지혜롭게 사용해야 합니다. 그것은 우리가 성경을 통해, 머지않아 모든 것을 정산해야 할 날이 온다는 것을 알고 있기 때문입니다. 기도합시다.

関連する説教を探す関連する説教を探す