2023年01月08日「生きることはキリスト、死ぬことは益 내게 사는 것이 그리스도니 죽는 것도 유익함이라」

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生きることはキリスト、死ぬことは益 내게 사는 것이 그리스도니 죽는 것도 유익함이라

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
フィリピの信徒への手紙 1章18節b~26節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:18bこれからも喜びます。
1:19というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。
1:20そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。
1:21わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
1:22けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。
1:23この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。
1:24だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。
1:25こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。
1:26そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
フィリピの信徒への手紙 1章18節b~26節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 パウロは、牢獄の中から書いた手紙で「生きることはキリスト、死ぬことは益」という有名な告白を残しました。この告白はキリスト者の告白の中で、恐らく最も重要な言葉ではないかと思いますが、果たしてそのような告白が自分の口から出るのかと、多少、畏縮してしまうかもしれません。場合によっては、生死の岐路に立たされていると言えるパウロの緊迫した状況は、フィリピの兄弟姉妹にとっても、大変大きな心配事であり、心の痛みでありました。しかしパウロはと言えば、あまりにも私のことを心配して、落ち込むことのないようにという配慮でしょうか、繰り返し、「喜んでいる」という言葉を連発しているのであります。この喜びの源泉は、何なのかということも気になるところです。パウロの告白と、パウロの喜びの鍵は、前回にも触れましたが、パウロがフィリピの教会のために祈っている祈祷課題にあるように思われます。パウロの祈りの第一として、1章10節に「本当に重要なことを見分けられるように」とありました。表面の事柄に捕らわれないで、その背後に隠された本当に重要なことを見分けられるようにという祈りです。フィリピの教会に物の見方、物の捉え方にパラダイムシフトが起こされ、神様の視点で物事を見ることができるようにというパウロの願いが、この祈りに込められています。本当に重要なことを見分けられるようになった時、パウロの告白とパウロの喜びは、フィリピの兄弟姉妹の告白となり、フィリピの兄弟姉妹の喜びとなることでしょう。

【1】. 群れの救い

 18節b~19節をご覧ください。

これからも喜びます。というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。

先週の説教では、パウロは自分の監禁が起点となり、口実であれ、真実であれ、キリストが告げ知らされているということに喜んだということを見て来ました。本日の箇所では、パウロの喜びの、さらに根本的な理由が語られています。その理由とは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、わたしの「救い」となるということです。この「救い」とは一体、何を意味しているのでしょうか。パウロの釈放のことを意味すると解釈することもできますが、ここでは、より深い意味での「救い」を意味するものと思われます。ここでの「救い」とは、パウロが釈放されるのか、それとも処刑されるのかによって左右される救いではなく、その生死を超えた、処刑されても、釈放されても、そのことに拘わらず、救いの完成、個人的な終末のことを言っていると思われます。パウロにとって「救い」というのは、自部自身の身を通してキリストがあがめられることと切り離して考えることはできませんでした。信仰の道を最後まで全うする人は、必ずその身を通して、キリストの栄光を現すという人生を歩むことになります。その人の信仰と、その人を通してキリストの栄光が現わされること、この二つを、別々のことのように考えてはならないということです。救われている人は、必ずその生き方を通して、キリストの栄光という実が、結ばれて行くのです。パウロは、そのために19節において、あなた方の祈りが必要だと言っています。ここにはパウロの謙遜とパウロの信仰がにじみ出ていると思います。私たちの救いとは、決して個人的に達成されるのではありません。私たちの救いとは、私個人の救いではなく、群れの救いであり、共同体の救いであります。そこには互いをとりなし合う祈りのプロセスがあり、そしてさらにイエス・キリストの霊の助けがあって、初めて救いが成就されるのです。あのパウロでさえ、このように謙遜に語っているのなら、私たちは、どれほど兄弟姉妹の祈りを必要とするでしょうか。そして、私たちはどれほど教会の兄弟姉妹のために、そして家族のために、とりなしの祈りを捧げなければならないことかと思わされます。

【2】. 生きることはキリスト、死ぬことは益

 さて、パウロにとって切なる願いは、20節にあるように「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるように」なることでありました。ここに、パウロの人生における優先順位がはっきりと示されています。自分自身のことではなく、何より救い主イエス様と、イエス様の福音を優先しているということです。パウロの人生は、自分ファーストではなく、キリストファーストであったということです。実際、パウロの人生は、この世で低く、仕える者として歩みました。福音のために僕として自己否定する歩みでありました。それは、まさに低く卑しめられたイエス様に従いゆく人生であります。パウロの人生の営みは、イエス・キリストを彷彿させるようであり、パウロの営みを通して、まさにイエス・キリストがあぶり出され、キリストの香りが漂ってくるようでありました。誤解を恐れずに言うなら、パウロがキリストファーストの人生を歩んだように、私たちキリスト者も、誰であれ、このような人生を送ることになるでしょう。それは必ずしもパウロが経験した苦難を私たちも同じように経験するということではありませんが、この世においてキリスト者は、人々から仕えられ、人々から賞賛され、崇められる人物として過ごすのではなく、むしろ福音のために遜り、僕としての人生に、仕える人として人生に召されているのです。私たちの日々の営みが、まさにそれなのです。しかし、そのことは、キリストが復活を通して高く引き上げられたように、キリストにある者たちも高く引き上げられることでしょう。

人は、誰であれ、やがて死を迎えることになります。そして、誰であれ、この死というものを恐れ、なんとかして死を避けようと致します。若い人は何とかして現在の若さを保ちたいと願い、老後になれば、身体の衰えを憂慮することでしょう。もし、死が全くの滅びであり、死が敗北であるなら、死を恐れるのも当然の反応だと思います。しかし、パウロは救い主イエス・キリストにあって、キリスト者の死はもはや敗北でも、恐怖でも、絶望でもないと言っているのです。なぜならキリスト者の魂は、直ちにイエス・キリストの御許に引き上げられるからです。21~23節をご覧ください。

わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。

パウロはここで、生と死の板挟みになっている。つまり、生と死の両方が大変魅力的だと言っているのです。正直に「どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません」と告白しているパウロの心の内は、一体どのようなものだったのでしょうか。最初に、生きることが魅力的なことは、私たちも十分に知っていると思います。しかし、パウロの言葉を注意深く見るなら、彼の生きることに対する魅力とは、やはり、キリスト中心であったと言えるのではないでしょうか。なぜなら、「働きの実が結ばれるから」と言っているからです。言い換えるなら「自分自身が御言葉を通してフィリピの教会に仕え、フィリピの教会から主に献身する人々が起こされるから、信じる魂が起こされるから」と言っているからです。パウロは他の書簡で「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです(ガラ2:20)」と告白しました。パウロはこの世で生きている間、とことんキリストファーストであり、主から与えられた使命に、すべてを注いだということが分かります。パウロにとって生きることが魅力的だったその理由とは、働きの実が結ばれて、キリストがいよいよあがめられるからと要約することが出来るのです。それでは、次に、死ぬことが魅力的なのは、なぜでしょうか。聖書は、キリスト者の死について、次のように約束しています。死とは罪の刑罰ではなく、地上において罪との闘いを終えて、その戦いに勝利し、イエス様の御許に引き上げられ、安息に入れられるということ、従いまして教会では、キリスト者の死について「永遠の命への通過点」と表現されたり、「個人的な終末」と表現されたり、「救いの完成」と表現されたり致します。

パウロにとっても、死ぬことは、この世を去って直ちに天の右に座しておられるキリストの御許に引き上げられることを意味しました。23節の「この世を去って」というギリシア語に注目しますと、これはテントの杭を「抜く」、或いは船の錨を「釣り上げる」という時に使用される言葉です。寝泊まりしていたテントの杭を抜き、いよいよテントをたたんで、出発するという意味です。或いは、この世に停泊していた船が、いよいよ錨を上げて天の都に向けて出発するという意味です。この地上の戦いが終わり、完全に勝利したからであります。いざ、天の都に出発する時が来たからです。これが、キリストにある者たちが迎えることになる死なのです。2テモテ4:7-8には、個人的終末のその日について、それは義の栄冠を授けられる日であると描写されています。ご覧ください。

わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。

私たちの教会は、昨年の夏、E姉妹を天国に送りました。思えば、E姉妹が越谷ホームに入所される以前に、一、二度、ご自宅に訪問させていただきました。その時、台湾での写真や、これまでE姉妹の歩んでこられたスナップ写真などを拝見させていただきました。今でもその時のE姉妹のおっとりとした雰囲気と、わずかでもお土産を持たせようとする、もてなしの心遣いが思い起こされます。E姉妹の魂は、一体どこに行ってしまっただろうかと思われる方もいるかもしれません。E姉妹の死は、ご遺族の方々にとっては、大変悲しい経験となりましたが、キリストにあって、姉妹の魂は天の都に引き上げられ、勝利の冠が与えられ、この世の仮住まいではない、真の故郷に戻り、イエス様との親しい交わりの中に入れられたのであります。パウロが23節で「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。」と言うのは、そのことを言っているのです。キリストとの交わりが、この世とは比較にならないほど豊かな交わりに入れられるのです。

【3】. 救いの完成を目指して

 生と死の両方が大変魅力的であり、正直「どちらを選ぶべきか、分からない」というパウロですが、ただ自分がさっさと天の都に入ることだけを願うというのではありませんでした。最終的には、牢獄から釈放されて、フィリピの人々に再び仕えることになるだろうとパウロは確信しています。24~26節をご覧ください。

だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。

パウロにとって、福音のためにフィリピの人々に仕える歩みとは、それは主から与えられた使命であり、主イエス・キリストに仕える営みであって、その営みはパウロにとって、救いの完成を意味していたのです。そのよう意味から、私たちキリスト者には、救いの完成を迎えるあたり、個人的な終末を迎えるにあたり、「死」という一つの大事業が残されていると言えるでしょう。これは、決して自分の力で救いを達成させるということでは決してありませんが、敵と戦う兵士として決して、与えられている任務を放棄してはならないと言うことです。最後の勝利を告げるラッパがなるまで、決して自分勝手にテントの杭を抜いて見切り発車をしてはならない。この大事業は、決して自分自身の力だけでは成し遂げることは出来ないでしょう。フィリピの人々のとりなしの祈りがあり、イエス・キリストの霊の助けによって、初めて成し得る大事業なのです。ですから私たちの信仰というのは、私たち個人の救いと考えるのではなく、私たち教会の救い、家族の救いという面からも深く考えていきたいと思わされるのです。私たちが救われたのは、教会が生かされるためであり、私が救われたのは家族が生かされるためであり、一方で、私たち自身も教会や家族のとりなしによって救いが完成されるのです。

【結論】

 私たちは、キリストにある者とされている特権を信じ、今それぞれが、それぞれの営みにおいて、置かれている状況を受け入れながら、主にあって喜ぶこと、このことこそ、キリストファーストの営みではないでしょうか。そのような営みから自然にパウロの告白が出て来るのだと思います。愛を持って兄弟姉妹に仕え、互いに祈り合い、群れの救いを通して、自分の救いが全うされると考えるようにいたしましょう。教会の主日礼拝を守ること、或いは教会の祈り会に参加することは、まさにキリストの栄光が現わされる働きであり、私たちの身を通してキリストがあがめられることでありますから、やむを得ない事情がない限り、積極的に出席するようにいたしましょう。そのようにして、救いの完成に向かった私たちの日々の営みは、それ自体、イエス・キリストを彷彿させるようものとなり、私たちの日々の営みを通して、キリストがあぶり出され、キリストの香りを放つことができるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

내게 사는 것이 그리스도니 죽는 것도 유익함이라 카와에 토모아키목사

빌립보서 1장 18b-26절

18b 이로써 나는 기뻐하고 또한 기뻐하리라

19 이것이 너희의 간구와 예수 그리스도의 성령의 도우심으로 나를 구원에 이르게 할 줄 아는 고로

20 나의 간절한 기대와 소망을 따라 아무 일에든지 부끄러워하지 아니하고 지금도 전과 같이 온전히 담대하여 살든지 죽든지 내 몸에서 그리스도가 존귀하게 되려 하려 하나니

21 이는 내게 사는 것이 그리스도니 죽는 것도 유익함이라

22 그러나 만일 육신으로 사는 이것이 내 일의 열매일진대 무엇을 택해야 할는지 나는 알지 못하노라

23 내가 그 둘 사이에 끼었으니 차라리 세상을 떠나서 그리스도와 함께 있는 것이 훨씬 더 좋은 일이라 그렇게 하고 싶으나

24 내가 육신으로 있는 것이 너희를 위하여 더 유익하리라

25 내가 살 것과 너희 믿음의 진보와 기쁨을 위하여 너희 무리와 함게 거할 이것을 확실히 아노니

26 내가 다시 너희와 같이 있음으로 그리스도 예수 안에서 너희 자랑이 나로 말미암아 풍성하게 하려 함이라

바울은 감옥에서 쓴 편지에서 “내게 사는 것이 그리스도니 죽는 것도 유익함이라”는 유명한 고백을 남겼습니다. 이 고백은 그리스도인의 고백 가운데 아마도 가장 중요한 말이 아닐가 생각합니다만 과연 그러한 고백을 자신의 입으로 고백을 할 수 있을까 조금 위축될지도 모르겠습니다. 상황에 따라서 생사의 기로에 서 있다고 말 할 수 잇는 바울의 긴박한 상황은 빌립보 교회의 형제 자매들에게도 매우 큰 걱정이었고 마음의 아픔 이었습니다. 그러나 바울은 너무 자신을 걱정한 나머지 우울해 하지 않도록 배려하기 위해서 반복해서 “기뻐하고 있다”라고 계속해서 말을 하고 있는 것입니다. 이 기쁨의 원천이 무엇인지 궁금해집니다. 바울의 고백과 바울의 기쁨의 열쇠는 전의 설교에서도 언급했습니다만 바울이 빌립보 교회를 위해 기도하는 기도제목에 있는 것처럼 보입니다. 바울의 기도에 첫째로 1장 10절에 “지극히 선한 것을 분별할 수 있도록”이 있었습니다. 표면적으로 보이는 현상에 국한 하지 않고 그 배후에 숨겨져 있는 정말 중요한 것을 분별하기를 바라는 기도입니다. 빌립보 교회에 상황을 인식하고 상황을 파악하는 패러다임이 일어나서 하나님의 시점에서 생각을 할 수 가 있기를 바라는 바울의 염원이 들어있는 것입니다. 정말로 지극히 선한 것을 분별할 수 있게 되었을 때, 바울의 고백과 바울의 기쁨은 빌립보 교회의 형제 자매의 고백이 되고 기쁨이 될 것입니다.

(1) 공동체의 구원

18절 b-19절을 보십시오.

18b 이로써 나는 기뻐하고 또한 기뻐하리라

19 이것이 너희의 간구와 예수 그리스도의 성령의 도우심으로 나를 구원에 이르게 할 줄 아는 고로

저번 주의 설교에서는 바울이 자신의 감금이 기점이 되어서, 겉치레이든 참으로든 그리스도가 전파되는 것을 기뻐한다는 것을 살펴 보았습니다. 오늘의 본문에서는 더 나아가 바울이 기뻐하는 근본적인 이유가 쓰여져 있습니다. 그 이유는 빌립보 교인들의 기도와 예수 그리스도의 성령의 도우심에 의해서 자신이 구원에 이르게 된다는 것입니다. 이 「구원」이란 도대체 무엇을 의미하는 것일까요? 바울의 석방을 의미하는 것으로 해석 할 수도 있지만 여기에서는 더 깊은 의미에서 「구원」을 의미하는 것으로 보여집니다. 여기서 「구원」이란 바울이 석방되는지 아니면 처형되는지에 달려 있는 「구원」이 아니라 그 생사를 넘은 처형되거나 석방되거나에 관계없이 구원의 완성, 개인적인 종말을 말하는 것 같습니다. 바울에게 있어 구원이라는 것은 자기 자신의 몸을 통해 그리스도께서 존귀하게 되는 것과 분리해서 생각할 수 없는 문제입니다. 믿음의 길을 끝까지 완수하는 사람은 반드시 그 몸을 통해 그리스도의 영광을 나타내는 인생을 걷게 됩니다. 「그 사람의 믿음」과 「그 사람을 통해서 그리스도의 영광이 나타나는 것」이 두 가지를 별개의 것처럼 생각해서는 안된다는 것입니다. 구원 받은 사람은 반드시 그 삶을 통해서 그리스도의 영광을 나타내는 삶의 열매를 맺어가게 되는 것입니다. 바울은 이를 위해서 19절에서 여러분의 기도가 필요하다고 말하고 있습니다. 여기에는 바울의 겸손과 믿음이 녹아 있다고 생각합니다. 우리의 구원은 결코 개인적으로 성취되는 것이 아닙니다. 우리의 구원은 개인의 구원이 아니라 무리의 구원이며 공동체의 구원입니다. 거기에는 서로를 위한 기도가 있고 더욱이 예수 그리스도의 성령의 도우심으로 비로서 구원이 성취되어지는 것입니다. 그 바울 조차도 이렇게 겸손하게 말한다면 우리는 얼마나 형제 자매의 기도가 필요합니까? 그리고 우리는 얼마나 교회의 형제 자매를 위해 그리고 가족을 위해 계속해서 기도하지 않으면 안될까요?

(2) 내게 사는 것이 그리스도니 죽는 것도 유익함이라

그런데 바울에게 아주 절실한 소원은 20절에 있는 「살든지 죽든지 내 몸에서 그리스도가 존귀하게 되려 하려는 것」 이었습니다. 여기에 바울의 삶에 있어서의 우선 순위가 명확하게 제시되어 있습니다. 자기 자신이 아니라 무엇보다 구주 예수님과 복음을 우선시하고 있다는 것입니다. 바울의 삶은 자신이 우선이 아니라 그리스도가 우선이었다는 것입니다. 사실 바울의 인생은 이 세상에서 낮은 곳에서 섬기는 자로 살아왔습니다. 복음을 위해서 자기부정을 하는 인생이었습니다. 그것은 바로 낮은 곳에서 섬기신 예수님의 뒤를 따라가는 삶의 모습입니다. 바울의 삶의 행보는 예수 그리스도를 방불케 하는 것 같았고 바울의 삶의 모습을 통해 그야말로 예수 그리스도가 나타나고 그리스도의 향기를 풍기는 것과 같았습니다. 오해를 무릅쓰고 말한다면 바울이 그리스도를 우선으로 하는 인생을 걸어온 것처럼 우리 그리스도인도 누그든지 이런 삶을 살게 될 것입니다. 그것은 바울이 경험한 고난을 반드시 우리도 똑같이 경험하는 것은 아니지만, 이 세상에서 그리스도인은 사람들로부터 섬김을 받고, 사람들로 부터 칭찬을 받고, 높임을 받는 사람으로서 사는 것이 아니라 오히려 복음을 위하여 겸손히 섬기는 사람으로서의 인생에 부르심을 받았습니다. 우리들의 매일의 삶의 행보가 그야말로 바로 그렇게 사는 것입니다. 그러나 그렇게 하는 것은 그리스도가 부활을 통해 높아진 것처럼 그리스도 안에 있는 자들도 높아질 것입니다.

사람은 누구든지 언젠가 죽음을 맞이하게 됩니다. 그리고 누구라도 이 죽음이라고 하는 것을 두려워하고 어떻게든 죽음을 피하고 싶어합니다. 젊은 사람은 어떻게든 현재의 젊음을 유지하고 싶고 노후에는 신체가 병약해짐을 우려합니다. 만약 죽음이 완전히 멸망이고 죽음이 패배라면 죽음을 두려워하는 것도 당연한 반응이라고 생각합니다. 그러나 바울은 구주 예수 그리스도 안에서 그리스도인의 죽음은 더 이상 패배도 공포도 절망도 아니라고 말합니다. 왜냐하면 그리스도인의 영혼은 즉시 예수 그리스도의 용서의 공로로 인해 예수님께로 올려지기 때문입니다. 21-23절을 참조하십시오.

21 이는 내게 사는 것이 그리스도니 죽는 것도 유익함이라

22 그러나 만일 육신으로 사는 이것이 내 일의 열매일진대 무엇을 택해야 할는지 나는 알지 못하노라

23 내가 그 둘 사이에 끼었으니 차라리 세상을 떠나서 그리스도와 함께 있는 것이 훨씬 더 좋은 일이라 그렇게 하고 싶으나

바울은 여기에서 생과 사의 사이에 끼어져 있습니다. 즉 삶과 죽음 어느쪽도 모두 매력적이라고 말하고 있습니다. 솔직히 “어느 쪽을 선택해야 하는지 나는 모르겠다”라고 고백하고 있는 바울의 마음 속은 도대체 어떤 것이었을까요? 먼저, 산다는 것이 매력적인 것은 우리들도 충분히 알고 있다고 생각합니다. 그러나 바울의 단어를 주의 깊게 살펴보면 그의 사는 것에 대한 매력은 역시 그리스도 중심이라는 것을 말할 수 있지 않을까요? 왜냐하면 “사역의 열매가 맺어지기 때문”이라고 말하고 있기 때문입니다. 다시 말하면 “자신이 말씀을 통해 빌립보 교회를 섬기고 빌립보 교회에서 주로 헌신하는 사람들이 일어나기 때문에, 믿는 영혼이 일어나고 있기 때문”이라고 말하고 있기 때문입니다. 바울은 다른 편지에서 “이제는 내가 사는 것이 아니요 오직 내 안에 그리스도께서 사시는 것”(갈라디아서 2:20) 이라고 고백하고 있습니다. 바울은 이 세상에서 살아가는 동안 철저히 그리스도가 우선이었으며 주님께서 주신 사명에 모든 것을 부었다는 것을 알 수 있습니다. 바울에게 산다는 것이 매력적이었던 그 이유는 사역의 열매가 맺혀져 그리스도가 높임을 받기 때문이었다고 요약할 수 있는 것입니다. 그렇다면 왜 죽는 것은 매력적일까요? 성경은 그리스도인의 죽음에 관해서 다음과 같은 약속을 하고 있습니다. 죽음은 죄의 형별이 아니고 지상에서의 죄와의 전투를 끝내고 그 전투에서 승리하고 예수님의 용서의 공로에 이끌려 안식에 들어갈 수 있다는 것 그래서 교회에서는 그리스도인의 죽음에 대해 영원한 생명으로 가는 통과점이라고 표현 되거나 개인적인 종말이라고 표현 되거나 구원의 완성이라고 표현되거나 합니다.

바울에게도 죽음은 이 세상을 떠나서 바로 하늘의 오른쪽에 앉아 계신 그리스도의 옆에로 끌어올림을 받는 다는 것을 의미했습니다. 23절의 “세상을 떠나서”라는 그리스어에 주목해보면 이것은 텐트의 말뚝을 “뽑다”혹은 배의 닻을 “끌어 올리다”라고 하는 때에 사용되어지는 단어입니다. 숙박하던 텐트의 말뚝을 뽑고 드디어 텐트를 접고 출발한다는 의미입니다. 혹은 이 세상에 정박하고 있던 배가 드디어 닻을 올리고 하늘의 도성을 향해 출발한다는 의미입니다. 이 지상에서의 전투가 끝나고 완전히 승리했기 때문입니다. 드디어 하늘의 도성으로 출발 할 때가 왔기 때문입니다. 이것이 그리스도 안에 잇는 사람들이 맞이하게 될 죽음입니다. 디모데후서 4장 7-8절은 개인적인 종말의 그날에 대해 의로운 왕관을 받는 날이라고 묘사하고 있습니다. 참조하십시오.

7 나는 선한 싸움을 싸우고 나의 달려갈 길을 마치고 믿음을 지켰으니

8 이제 후로는 나를 위하여 의의 면류관이 예비되었으므로 주 곧 의로우신 재판장이 그 날에 내게 주실 것이며 내게만 아니라 주의 나타나심을 사모하는 모든 자에게도니라

우리 교회의 E자매는 작년 여름에 예수님의 곁으로 갔습니다. 생각해보면 E자매가 코시가야의 요양원에 입소하기 전에 두번 자택을 방문했습니다. 그 때 대만에서의 사진이나 지금까지 살아왔던 순간들의 스냅 사진등을 봤습니다. 지금도 그 때의 E자매의 차분한 분위기와 조금이라도 대접하고 싶어하던 마음 씀씀이가 생각이 납니다. E자매의 영혼은 도대체 어디로 갔을까 생각하는 분도 있을지 모르겠습니다. E자매의 죽음은 유족 분들에게는 매우 슬픈 경험이 되었지만, 그리스도 안에서 자매의 영혼은 하늘의 도성으로 끌어 올려져 승리의 왕관이 주어져 세상에서의 임시 거주지가 아닌 진정한 고향으로 돌아가 예수님과의 친밀한 교제 속으로 들어갔습니다. 바울이 23절에서 “이 세상을 떠나 그리스도와 함께 하고 싶다고 열망하고 있으며 이쪽을 훨씬 더 원한다”고 말하는 것과 같은 말입니다. 그리스도와의 교제가 이 세상과는 비교할 수 없을 정도로 풍성한 교제라는 것입니다.

(3) 구원의 완성을 향하여

삶과 죽음이 모두 매우 매력적이며 솔직히 “어느 쪽을 선택해야 할지 모르겠다”라는 바울이지만, 단지 자신이 빨리 하늘의 도성에 들어가기를 바란다는 것은 아닙니다. 결국 바울은 감옥에서 석방되어 빌립보 사람들을 다시 섬기게 될 것이라고 확신 합니다. 24-26절을 참조하십시오.

24 내가 육신으로 있는 것이 너희를 위하여 더 유익하리라

25 내가 살 것과 너희 믿음의 진보와 기쁨을 위하여 너희 무리와 함게 거할 이것을 확실히 아노니

26 내가 다시 너희와 같이 있음으로 그리스도 예수 안에서 너희 자랑이 나로 말미암아 풍성하게 하려 함이라

바울에게 있어서 복음을 위하여 빌립보 사람들을 섬기는 것은 주님께서 주신 사명이며 주 예수 그리스도를 섬기는 일이며, 그 삶의 모습은 바울에게 구원의 완성을 의미하는 것이었습니다. 그런 의미에서 우리 그리스도인은 구원의 완성을 맞이할 때 개인적인 종말을 맞이할 때 「죽음」이라는 하나의 일대 사업이 남아있다고 말할 수 있을 것입니다. 이것은 결코 자신의 힘으로 구원을 달성할 수 있는 것은 아니지만 적과 싸우는 군인으로서 결코 주어진 임무를 포기해서는 안된다고 말하는 것입니다. 마지막 승리를 알리는 나팔이 울릴 때까지 결코 자신 마음대로 텐트의 말뚝을 뽑고 멋대로 떠나서는 안되는 것입니다. 이 일대 사업은 결코 자신의 힘만으로는 이룰 수 없는 것입니다. 빌립보 사람들의 중보기도가 있고 예수 그리스도의 성령의 도우심으로 비로소 이룰 수 있는 일대 사업입니다. 그러므로 우리의 믿음이란 우리 개인의 구원이라고 생각할 것이 아니라 우리 교회의 구원, 가족의 구원이라는 면에서도 깊이 생각하고 싶다고 생각합니다. 우리가 구원받은 것은 교회가 살아가기 위해서 이며 우리가 구원 받은 것은 가족이 살기 위해서 이지만 한편으로는 우리들 자신도 교회와 가족의 기도에 의해서 구원이 완성되는 것입니다.

(4) 결론

우리는 그리스도에 속한 자로 여겨지는 특권을 믿고 지금 각자가 각각의 삶을 살아감에 있어서 처해진 상황을 받아 들여가면서 주안에서 기뻐하는 것, 이것이야말로 그리스도를 우선에 놓는 삶이 아닐까요?

이런 삶에서 자연스럽게 바울의 고백이 나온다고 생각합니다. 사랑을 가지고 형제 자매를 섬기고 서로 기도하며 공동체의 구원을 통해 자신의 구원이 완성되어 간다고 생각합시다. 교회의 주일 예배를 지키는 것, 혹은 교회의 기도회에 참가하는 것은 바로 그리스도의 영광이 나타나는 일이며, 우리의 몸을 통해 그리스도가 높임을 받는 것이기 때문에 부득이한 사정이 없는 한 적극적으로 참석하도록 합시다. 그렇게 해서 우리의 구원의 완성을 향한 우리의 매일의 삶은 그 자체로 예수 그리스도를 나타내고 우리의 일상적인 매일의 삶을 통해서 그리스도의 향기가 퍼지는 것입니다.

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