神の聖定としての贖罪
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- 説教
- 川栄智章 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 26章1節~5節
1イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。
2「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」
3そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、
4計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。
5しかし彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 26章1節~5節
ハングル語によるメッセージはありません。
16章からイエス様の受難と復活の記事に入ります。16:1で「これらの言葉を全て語り終えると」、イエス様は、二日後のご自身の十字架による受難について語り始めました。「全て」という言葉は、いよいよ時が満ちたということです。今まで、ユダヤの宗教指導者たちがイエス様を捕えようとしても失敗し、なかなか捕えることができませんでした。それは、時が満ちていなかったからでした。しかし今や弟子たちに全て語り終え、時が満ちたのです。2節をご覧ください。
「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」
「二日後」は、過ぎ越しの祭りの日です。この日、イスラエルの国中の人々が、こぞって、エルサレムの神殿を目指し、過ぎ越しの供え物を捧げ、礼拝するためにやってきます。ユダヤ人にとって最大の祭の日である過ぎ越しの祭の日に、イエス様は十字架にかかられると宣言なさっているのです。当時イエス様は群衆から大変人気があり、一方で宗教指導者でありながら、政治指導者でもある祭司たちと長老は、あまり人気がありませんでした。祭司たちはイエス様の人気が上がれば上がるほど、いらだちましたが、だからと言って、間違っても、下手をして群衆の怒りに触れてはなりませんでした。というのも、以前にも同じようなことが祭の日に起きて、人ごみの中で騒動となりパニック状態となって、何人もの人々が重なって、圧死したという前例があったからです。ですから祭が近づいてくると、ローマ兵による警備も、普段より一段と増強され強化されました。そのような中で、宗教指導者である祭司たちと長老たちは大祭司カイアファの屋敷に集まり、非公開の集まりを持ちました。3~5節をご覧ください。
そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、
計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。
しかし彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。
祭司たちと長老たちは次の二つのことについて決議いたしました。第一の決議は、イエスを計略を用いて捕え、殺そういうことです。計略を用いてでしか公的にはイエスを捕えることができないのは、サンヘドリンがイエス様との論争に負けて、イエス様の言葉尻から罪を見出すことができなかったためと思われます。
第二の決議とは、「祭りの間はやめておこう」ということです。本来、彼らは民衆の騒ぎが起こることを恐れ、祭りの後にイエスを捕えようとしたのです。しかし、神の聖定によると、人間たちのそのような計画を超越し、裏切者のユダを通して祭司たちの計画を変更させて、神ご自身の永遠の計画を成就させるのです。
しかし、究極的な神の計画というのが、私たちにイエス様を信じさせて、ご自身の民にして、救いに入れさせるということであるなら、イエス様がわざわざ十字架に架けられて死なれるより、当時、イスラエルの王として認められて、神の国の到来を宣言し、民を、神の前に降伏させる方が、より効率的で成功的ではないのか、と思われるかもしれません。
つまり、神さまが私たちを導く方法として、試練と困難を通してより、成功的に勝利的に導く方が、神さまにとっても、私たちにとっても、むしろ、それがいいのではないかと思ってしまいます。どうせ、神さまを信じて神の民とならせていただき、やがて御国を相続させてくれるのであるなら、神さまは将来与えてくださるであろう幸いをむしろ早く与えてくださり、イエス様を信じるようにさせる「しるし」を速やかに信じる者に現してくだされば、それが、神さまにとっても私たちのとってもwin winの関係でいいのではないかと思ってしまいます。ですからイエス様が主権的に、自発的に十字架の死を選び取られたということを、聖書を通して確認すればするほど、果たして本当にそうだろうか、実はそれはセカンドベストであって、本来のベストはイエス様が王として君臨されることであり、さらに言えばローマ皇帝になることだったのでは、と考えてしまいます。
ドイツ人のシュバイツァーという神学者がいますが、彼も、イエス様が自ら十字架の死を、自発的に選ばれたということをどうしても受け入れられず、イエス様は、本来イスラエルの王として来られたのだが、彼の教えがイスラエルの人々に十分に理解されることがなく、最終的に捕えられて殺されざるを得なかったと解釈します。もし、ユダの裏切りがなければ、過ぎ越しの祭の日、人々からイスラエルの王として迎えられ、彼を信じる者が救いに入れられるはずであっただろうと考えるのです。さらに想像を膨らませるなら、やがてローマの皇帝にもなったかもしれません。
しかし、私たちが理解しなければならないのは、神がこのように遠回りするように、十字架という分かりにくい手段を取られるのは、神が神であられる所以であるということです。神が創造した人間は神に反逆し、罪を犯し、堕落してしました。私たちの考えでは、それでは、このような人々は全て捨てて、また新しい人間を造ればいいのではないか、それがもっと分かりやすく、簡単ではないですかと思われます。しかし、神さまはそのようにできないお方です。つまり、神の永遠性によって、神において失敗はあり得ないのです。以前の失敗を一度リセットして、もう一度造るというのは、能力と方法において簡単なように見えますが、そうしてしまうと、神が前回、創造された世界がサタンの誘惑と妨害によって失敗してしまったということになってしまい、すべてを統治されている神さまの属性上、したくてもできないのであります。
もう一度やり直すという単純で簡単な道を選択せず、イエス様が十字架によって主権的に死なれたということは、神とは一体、どのような方であり、私たちのためになぜここまでしなければならないのかということを考えさせられます。イエス様の受難の理解について、使徒言行録のペトロの説教に要約されています。使徒2:22~23節をご覧ください。
イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。
このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。
このペトロの説教を見ると、神の永遠における聖定として定められたイエス様の死において、二つの手があったということが分かります。一つは神の手であり、もう一つは律法を知らない者たちの手であるということです。そして、面白いことに、この律法を知らない不法者の勢力は、神の勢力を拒絶する罪悪な勢力です。道徳的に罪深いと言うよりも、常に神の御心に反逆する反対勢力だという意味です。この「神の手」と、「神の御心に反逆しようとする手」が相働いて、神の御心が成就するのです。「神の御心に反逆しようとする手」が働くということが大変重要です。
なぜなら、イエス様が十字架によって死なれるよりも、アダムができなかったことをやり直す意味で、最初からサタンに妨害されずローマ皇帝になった方が、簡単明瞭ではないか、そのようにした方が、人々はよりイエス様を信じて、神に降伏し、神に委ねることができるのではないと思うのですが、つまり、神様が信者である私たちを愛されて、神の民をご自身の下に集めようと思われるのなら、私たちに試練の道を歩ませるのではなく、豊かな道を歩ませるのが、より良いのではないか、という間違った考え方をここにおいて訂正するのです。
試練やサタンによる妨げのような、いわゆる否定的と思われる勢力が、実は、神の手と相働いて神の御心を成し遂げるのです。このような理解のための記事が、聖書の中に多く見られます。例を挙げるなら、使徒パウロを見て下さい。キリスト教会史において使徒パウロほどの「神の僕」はいません。パウロはユダヤ人の中のユダヤ人として生まれ、ファリサイ派として、ガマリエルの下で学び、ローマ市民権を持った当時、政治的にも、教育的にも、宗教的にも、どの面からみてもエリートでした。どこから見ても模範的で、忠実で、偉大な神の働き人です。しかし彼がそのように神の偉大な人物であるなら、彼の経歴も最初から最後まで傷のないものと考えられがちですが、実際、パウロには致命的な経歴がありました。それはステファノを殺してしまったということです。さらに言えば、神さまはこのようなエリートを準備しながらも、イエス様の12弟子には入れないで、むしろ反対勢力の中に建てられたということです。つまりキリスト教徒をとことん迫害し、イエス様を信じる弟子たちにおいて最も恐ろしい人物であり、最も除かなければならない敵でした。ところが、そんなパウロがダマスコでイエス様に出会い回心することになります。
もし、彼の経歴において、失敗がなく、例えばペトロより先にイエス様から召しを受けて、ペトロが三回イエス様を否定しても、パウロはゴルゴタの十字架までついていき、マリアと一緒にイエス様の埋葬まで立ち会ったとすれば、もっとかっこよくないでしょうか。その後のパウロの世界宣教が苦労なしに進んだのではないのでしょうか。
しかし、神さまはそのようなことはお望みになられなかったということです。なぜでしょうか。使徒パウロの働きはものすごいものでした。彼は、使徒として神の御言葉を委ねられ、啓示を受けた者であり、そのために神さまから大きな能力を与えられた者であり、いたるところに神の教会を建てた人物です。それにも関わらず、パウロはいつも自分を「罪びとの頭」と言い、「全ての使徒の中で最も小さい者」という謙遜な言葉で自己を表現しました。その謙遜は無駄なものでしょうか。いいえ、パウロは自分がステファノを殺したという経歴を持っていたために、自分がどれほど愚かな人間だったのか、そのことについては確信を持ち、決して誤解することはありませんでした。つまり、パウロの失敗は大きなことを成し遂げるために必ず必要であったということです。もし、そのような失敗がなければ、本来イエス様はイスラエルの王として迎え入れられ、そしてローマの皇帝になるべきでしたと、異端の教えを説く学者になる可能性も十分にあったということです。パウロにおいてこのような致命的な過去だけでは十分ではありませんでした。神さまはパウロの身にサタンのとげを与えたと言います。パウロはそのとげについて、神に三度取り除いてほしいと懇願しました。パウロが様々な場所に行って、キリストを伝える上で、大きな障害だったからです。そのとげが一体何だったのか、はっきりとは分かりませんが、癲癇持ちだったのでは、と解釈する学者もいます。そのとげが何であったのかははっきりとは分かりませんが、もし、そのような弱点がなければパウロの伝道がさらに素晴らしい伝道になったのに違いないと思われるでしょう。
しかし神の答えは、こうです。「私の恵みはあなたに十分です。弱い時にこそ、神の力が十分に現れるからです。」と言われるのです。パウロはステファノを殺害し、なんと自分が愚かな人間なのか、決して忘れることはありませんでしたが、それだけでも足らず、神はサタンのとげを与えて、パウロを通して最後の最後まで神の恵みが進行するようにさせることが可能になったのです。私たちの考えでは、もう少し経歴がよくて、とげもなく、健康で、イケメンなら、働きもさらに効果的に進行したに違いないと思われますが、それは人間の考えであり、神のお考えとは異なるということです。神の計画は、神の手と、サタンの手が相働いて、不思議に神の御心が成就していくのです。
創世記を見ますとヤコブの11人目の子として生まれたヨセフが出て来ますが、彼は父親からひいきされ兄たちが羊の世話やら、重労働をしている中で、ヨセフだけはいつも、家に閉じこもって勉強をしたり楽をしていましたから兄たちから、反感を買うようになりました。兄たちは、機会を見つけてヨセフを殺そうとしましたが、直接手を染めることはできないので、通りすがりのミディアンの商人たちに売り飛ばしました。ヨセフはエジプトのファラオの侍従長の家に奴隷として売られましたが、その家で問題が起こると、今度は囚人として監獄につながれました。つまり奴隷として売られ、その後、囚人となってそこで10年以上も壮絶な人生を過ごしました。その後にヨセフはエジプトの首相になりました。ちょうどその時、世界に大飢饉が起こり、カナンに住んでいた自分の家族がエジプトのヨセフの下に助けを求めて来たので、エジプトにイスラエル民族を移住させるという歴史的にも重要な貢献を果たしました。
兄たちは昔、ヨセフを殺そうとしてミディアンの商人に売りましたが、まさかこのような形で再びヨセフに再開するとは夢にも思いませんでした。ヨセフにとっても同じです。自分の壮絶な人生を歩んでいるときに早く奴隷から解放されること、早く監獄から出ること、それ以外には考えられませんでした。しかしエジプトの首相となり、世の貧困を救済し、自分の民族に再開することができたのです。兄弟たちは、ヨセフがまだ恨みを持っているに違いない、自分たちは殺されるだろう、と思っていましたが、創世記50:15-20を見ると、ヨセフには神の永遠のご計画が相働いたという理解に立っているのが分かります。
ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。
そこで、人を介してヨセフに言った。「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。
『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。」これを聞いて、ヨセフは涙を流した。
やがて、兄たち自身もやって来て、ヨセフの前にひれ伏して、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と言うと、
ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。
あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
私たちの信仰生活の上でも、私たちを困らせ、大きな荷物にしか考えられないような妨げがあるかもしれません。経済的な困難、肉体的な持病、健康面での弱さなどそれぞれあるかもしれません。それが何であれ、この世が私たちに有益をもたらそうと近づいてくるのではなく、常に私たちに困難と、病と、貧しさと、失敗を持って私たちに近づいてくることでしょう。しかし、そこに神さまの御心がございます。私たちは現在の状況の中で、神さまの摂理がどのように進行していて、何が準備されつつあるのか知ることはできません。それが何であれ、私たちは落胆させるものであったり、失望させるものであったり、怒りをもたらすものかもしれません。しかし結局、それらのことが相働いて、神の御心が成就することを私たちは信じています。なぜ、神さまはこのようにされるのか、それは神のご計画が私たちの考えをはるかに超越されているからです。私たちの神さまは畏れるべきお方であり、讃美を受けるのにふさわしいお方です。神さまは私たちに御子を与えてくださいました。「御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」とパウロは告白しています(ローマ8:32)。ですから、信仰が従順と待望によって私たちが前味を享受した神の御国を完全に相続し、勝利できるようにお祈りいたしましょう。そして、神さまの導かれる奇異な結果を味わうことができる私たちとならせていただきましょう。お祈りいたします。