2019年08月11日「すべての国民を弟子とせよ」

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すべての国民を弟子とせよ

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 28章16節~20節

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聖句のアイコン聖書の言葉

16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 28章16節~20節

原稿のアイコン日本語メッセージ

イエス様は復活された後に女たちに最初に現れ、そして28:10に書いてあるように、「わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と言付けしました。

このように、イエス様は復活なされ、ローマに行かれたわけでもなく、総督ピラトの法廷に行かれたわけでもなく、イスラエルの宗教指導者たちの下へ行かれたわけでもありませんでした。公生涯を始めるにあたり、ご自分の弟子たちを召されたガリラヤに行かれたのでした。

復活されたイエス様が、まずガリラヤにおいて弟子たちとお会いされた目的は、さらに言えば、神の啓示を与えようとするときはいつもそうでありますが、聖なる山において、弟子たちとお会いしようとされた目的は、それは、再び弟子たちを整えて、弟子たちを通して教会を建てることにあったということです。ですから、この箇所は、一般的に「大宣教命令」と呼ばれていますが、贖いの御業を成し遂げ、天の右の座に着座され、一切の権威を御父から授けられたイエス様から教会に対する委託であります。英語では「the great comission」つまり、「大いなる委託」と言われています。

例えば、現在、世界に及ぼす最も影響力の大きい人物は誰でしょうか。恐らくアメリカの大統領でしょう。アメリカの大統領の意思を忠実に現地に伝えられるように、日本ではアメリカ大使館がありますね。イエス様と教会の関係もまさにこのような関係です。イエス様の御心を人々に伝えるために教会が、大使館の役割として立てられているのです。ですから、イエス様から、教会の代表である十一弟子に与えられたThe Great Commissionとは、教会の存在意義でもあると言えるでしょう。教会はなぜ存在するのか、イエス様が教会をどのような目的で立てられたのか、それを教えてくれるのが、great comissionであるということです。それでは本日の聖書箇所の28章16~17節を御覧ください。

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。

そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。

十一弟子たちは、復活されたイエス様に出会い、ひれ伏して礼拝を捧げました。しかし復活という尋常ではない出来事を前にして、信仰の薄い弟子たちは、半信半疑で受け止めたのだと思われます。もしかしたら幽霊を見ているのかもしれないという気持ちを振り払うことができず、恐れと震え、心配、不確実さと疑いが、喜んで礼拝を捧げようとする気持ちと葛藤しているのです。弟子たちはこのように弱い者たちでした。しかし、イエス様はこのような弟子たちを安心させるかのようにご自身から近づかれます。そして、全人類がキリストの御前に跪くよう大宣教命令を与えられる前に、まず、イエス様ご自身が持たれたのは、平凡な権力ではなく、最高の神的権力を持たれたんだよ!ということを弟子たちに証しされます。18節を御覧ください。

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。

この御言葉によってイエス様は、弟子たちにそれぞれが任せられた職分を遂行できるように確信を与えようとされているのです。もし彼らを統治するお方が天に座っておられ、最高の権力が彼に与えられているなら、そして彼らが仕えていくお方がまさに天と地を統治される王の王、主の主であられるなら、いくら自分たちがふがいない弟子であっても任せられた職分を遂行し、実を結ぶことができるかもしれないという希望と勇気が自然と湧き上がってくるものです。ここで少し余談ですが、イエス様は天と地の一切の権威を授かっていると言われました。エフェソ1:20~22にも同じようなことが書かれています。ご覧ください。

神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ

すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。

神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。

これは、イエス様がこの時、初めて王として即位されたということではありません。本来イエス様は神そのものであられましたし、マタイ福音書の1章ではイエス様の系図が書かれていて、王としての血筋からお生まれになったことが紹介されていました。また、2章では、東方の博士たちがエルサレムにやってきて「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこでしょうか。贈り物を授けさせてください」と言いました。イエス様は受肉して、卑しめられ、低くされたとしても、天地万物の王であることに変わりありませんでした。

従って、復活の出来事とは、この時、初めて王として即位されたというより、むしろイエス様が本当に王であったことを証明されたと言う方が正しいでしょう。それでは、なぜ、エフェソ書にも書いてあるように「復活によって天地の一切の権威を授かった、あらゆる名の上に高く置かれた」と言うのでしょうか。これは一体どういう意味なのでしょう。

これは、イエス様が、神様と罪びととの仲保者として来られたことと関係があります。仲保者として私たちを贖うためにイエス様は低くなられ、そして高められたのです。イエス様は人となられ、低くなり、茨の冠と赤のマントを着せられ、もっていた笏で頭をたたかれ、唾をかけられ辱められ、鞭うたれ、血を流し十字架にくぎ打ちにされ、死刑にされ、葬られました。罪のないお方がこのように苦しまれたのです。それは、全て罪人、犯罪人である私たちのためだったのです。

即ち、キリストが有罪宣告されたが故に、私たちは無罪とされました。キリストが木に架けられたが故に、私たちは呪いから解放されました。キリストが血潮をながされたが故に、私たちは清められ、鞭うたれたが故に、私たちの傷は癒されたのです。

このように仲保者として謙卑の働きを全うされたが故に、次に贖われた者たちを義とし、神の家族として、養子にするために、キリストは一切の権威を授けられ高くされたのです。つまりキリストが復活されたが故に、わたしたちに聖霊による再生と永遠の命が与えられ、キリストが天に昇られたが故に、私たちに御国の相続地が与えられ、キリストにすべての権威が授けられることによって、私たちが保護と安全と豊かさとあらゆる祝福を享受できるようにされ、やがてキリストが裁き主として来られるが故に、神の支配と統治を喜ぶことができるようにされたのです。結局低められたこと(謙卑)も、高められたこと(高挙)もすべて私たちの救いのためでした。19節は「だから」という言葉で始まっています。いよいよ大宣教命令ですが、19~20節前半部分を御覧ください。

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、

あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。

ここには、4つの動詞が出て来ます。「行くこと; ポリュテンテス」「弟子とすること; マテテューサテ」「洗礼を授けること; バプティゾンテス」「教えること; ディダスコンテス」ですが、メインの動詞は一つで、「弟子としなさい」であり、あとはすべて分詞になっています。「弟子としない」要約すればこれが教会に委託された命令であり、教会の存在意義であるということです。弟子と言われても、じゃ、そもそも弟子とは何なのか?ということになってきます。弟子を定義することは、考え方によって違ってきたり、色々あるかと思いますが、簡単に言えば、イエス様が弟子たちに対し三年半、共に時間と過ごしたように、今度はあなたがそれをしてみなさいということだと思います。具体的内容として三つのポイントがありますので見ていきましょう。

第一に「行きなさい」です。「ユダヤ人だけではなく、全ての民」のところに出て行きなさいということです。言葉も違う、文化も、考え方も違う、全く共通点のない人に向かって、教会は出て行かなければならないということです。このような御言葉を聞くと、そのことは日本の宣教の文脈にはあてはまらないのでは、と、つい思ってしまいます。日本は、どの国よりも宗教アレルギーのある国かもしれません。オウム真理教というテロ事件がありましたし、統一教会などによって財産を奪われた人も多くいます。日本では宗教に対する警戒感が強いのは確かです。ですから出て行き、無理やりお誘いするのは日本においては、逆効果になるかもしれません。

しかし、イエス様が弟子たちを召した時のことを思い出してください。弟子たちが弟子入りを志願したわけではありませんでした。弟子たちはイエス様によって直接声をかけられ、召されたのです。自分で選んだのではありません。同じように私たちが教会に導かれた時のことを思い浮かべてください。決して私たちの考えや、決意によって、イエスキリストを信じたのではなく、なんとなく導きがあり、そこに見えない神の招きがあったんだと思います。だからこそ、イエス様の召しを成就するために、私たちは積極的に出て行かなければならないのです。私たちをお用いになられ、例えば、私たちが配ったチラシを見て教会に導かれたり、私たちの讃美を通して、人々がイエス様の召しの言葉を聞き取ることになるのです。

第二に「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」です。ここでは、三位一体の神知識が明らかにされています。旧約の時代には、かすかにしか現わされていませんでした。19節で、父と子と聖霊という三つの位格を持ちながら、名前が単数になっています。つまり、三つの位格があっても本質は一つの神であられるということです。私たちは御子を通して父なる神が明らかにされました。御子を通して神が愛なる方であることを知りました。もしイエス様によって、神さまに「アバ神よ」と呼び掛けて祈っても構わないということを教えられなかったなら、私たちは、神さまを父と呼んで祈ることもしなかったでしょう。三位一体の神のご支配の中に入れられる洗礼は、洗礼者ヨハネによる悔い改めの洗礼とも異なります。父子聖霊の名による洗礼は、私たちを聖霊によってきよめ、そして父なる神が御子によって私たちを養子としてくださった恵みをはっきりと悟らせてくださるのです。

第三に「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」です。これは、イエス様が語られた、たくさんの御言葉を、そのまま伝えなければならないということです。自分たちが勝手に考え出したり、イエス様の御言葉の中から勝手にえり好みをして教えてはならないということです。教会が罪や裁きについて語らないで、神さまの愛だけを語ろうとするなら、たちまち教会は仲良しサークルや同好会のようになってしまいます。このような教会らしくない例としてⅡテモテ4:2~4の御言葉を挙げることがでるでしょう。ご覧ください。

御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。

だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、

真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。

驚くべきことに、聖書の中で誰よりも地獄について頻繁に教えられたのはイエス・キリストです。「どうして地獄の罰を免れることができようか」とか「体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである」と福音書の中で何度も警告しています。つまり、イエス様が教会に教師を立てられているのは、教師が正しいと考えることを教えなさいということではなく、教師たちも他の人々と同じようにただ主の口だけを眺めなさい、主が言われる通りに語りなさいと言っているのです。したがって大宣教命令とは牧師の弟子ではなく、教会の弟子ではなく、主の弟子を育てなさいということなのです。

以上のように、イエス様が弟子たちに委託された大宣教命令は、人間の力によっては決して成し遂げることのできないような難しい使命でした。だからこそ、イエス様が天から彼らと共におられ、彼らを守られると約束されることによって、励ましているのです。20節後半部分を御覧ください。

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

イエス様は天におられ、私たちから遠く離れておられますが、キリストの霊である聖霊を通して、全世界に働きかけるだけでなく、キリスト者一人一人の中にも実際に留まり、住まわってくださるのです。この内住の聖霊を通して、私たちはこの世で活動しながらも国籍は天にあり、天にある御国の豊かさを、信仰によって享受しているのです。そして、もう一点注意すべきこととして、「世の終わりまで、いつも」と翻訳されている箇所ですが、直訳すると「終末までの、全ての日々において」という意味です。終末までの全ての日々、おとといも、昨日も、今日も、明日もイエス様は共におられて、弟子たちが大宣教命令を遂行していけるように助けてくださるのです。ですから、この御言葉は、当時の弟子たちだけに語られたのではなく、世の終わりの日まで、すべての世代においてそれぞれの信者を助けるために「共におられる」と約束されているのです。

キリスト教会がイエス様の十字架から2000年経った今日も存在しているのは、弟子たちがこの大宣教命令に忠実に従ってきたからだと言えるでしょう。また、私たちせんげん台教会も、そのような教会の歴史の中で生まれてきたのです。本日はマタイの終章として、大宣教命令を学びましたが、せんげん台教会も、同じように、この大宣教命令に従順し、主からの大切な委託を、共におられるイエス様の助けの中で担っていくことができるように、使命を与えられているのです。ですから、この教会から、いよいよ多くの主の弟子が輩出されてくように祈っていきたいと思います。

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