2019年05月19日「ユダの裏切り」

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聖句のアイコン聖書の言葉

6さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、
7一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。
8弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。
9高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」
10イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。
11貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
12この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。
13はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
14そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、
15「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。
16そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
17除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。
18イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」
19弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。
20夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。
21一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
22弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
23イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。
24人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
25イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 26章6節~25節

原稿のアイコン日本語メッセージ

四つの福音書を見ますと、一つ一つの出来事に対する時間的な順番が正確には記述されていないということに気づきます。本日のベタニアにおける香油注ぎの物語も、ヨハネの福音書12:1では、「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた」とあり、過越し祭の6日前の事件だと書かれています。過ぎ越しの祭が木曜日、或いは金曜日から始まるとして、その六日前ですから金曜日か土曜日のことです。ということは、イエス様が子ロバに乗られてエルサレムに入場するのが、棕櫚の日の日曜日ですが、その前日、ベタニアで宿営した日の出来事として書かれているのです。マタイがあえて、時間的順序を無視して、この香油注ぎの事件をユダの裏切りの事件とセットにしているのは、香油注ぎの事件とユダの裏切りの事件と、二つ並べることによって、読者に何かを訴えたかったからと言うことができるでしょう。

ですから、私たちがこの箇所を読むとき、私たちの持っている信仰は、イエス様に対しどのような応答をするのか問われてくるのです。ベタニアのマルタの妹のマリア式の応答なのか、或いは、イスカリオテのユダ式の応答なのかと言うことです。マリア式の信仰なのか、ユダ式の信仰なのかと言うことです。もちろん、私たち全員が、「自分はマリア式です」と答えることでしょう。それでは、マリア式とは一体何を意味しているのか、同時にユダ式とは何を意味しているのか、本日の聖書箇所を通して見ていきたいと思います。

一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持ってきて、イエス様に近づき頭から注ぎかけました。ヨハネの福音書には、マリアがイエス様の足に香油を注いだと書かれています。これは二つの福音書において矛盾しているわけではなく、香油をあまりにも多く注いだために、イエス様の足元まで香油で濡らされたということです。この高価な香油とは、マルコの福音書とヨハネの福音書を見ますと「ナルドの香油」と書かれています。それは、ヒマラヤ地方特産の香油であり、三百デナリ以上すると見積もられていました。

弟子たちはこの行いを見て、憤慨し「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」と言いました。ヨハネの福音書には(12:5)、最初にイスカリオテのユダが、何という無駄使いだ、と憤慨したと書かれています。マタイ福音書ではユダだけではなく12弟子全員が同じく、女を非難したと書かれています。弟子たちがそのように言うのは無理もありません。いつも、質素な生活の模範を、イエス様は見せてこられたからです。また、以前、貧しいやもめが献金したレプトン銅貨二枚を、何よりも高価な献金として評価されたこともありました。ですから、今回、イエス様が三百デナリ以上の香油の無駄遣いを、擁護されるとはまったく想定外のことだったのです。

イエス様がこのように女を擁護された理由とは、誰でもいつでも、マリアと同じような形によって行動することを期待されているのではなく、今のこの状況において、マリアの行動に含まれている意味の故に、このことを正しいとされたのであります。この時マリアが、イエス様の葬りの準備をしたとまでは言いませんが、少なくとも聖霊の感動を受けて、聖霊に導かれて、イエス様に献身しようと、香油を注いだということに対し、私たちは誰も疑いをもつことはできないでしょう。

ですから、イエス様はマリアがしたことを表面的に無条件に、私たちに見習えとおっしゃっているのではなく、この行いがなぜ神さまをお喜ばせすることになったのかを私たちに悟りを与えてくれるのです。

これを表面的に真似て、カトリック教会のように、焼香をたてたり、ろうそくの明かりと、派手な装飾などを通して、神を礼拝することに途方もない費用を投じようとする「誤り」に陥ってはなりません。神さまのためという理由によって、贅沢で華麗で荘厳ないかにも宗教的な礼拝堂を建てたり、そのような礼拝を演出すべだということではありません。そうではなく、この女の行いは、この時、この場所において、イエス様の葬りと関連した行いだったという意味においてのみ、神さまをお喜ばせしたのです。11~13節をご覧ください。

貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。

この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。

はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

いつでも誰でもできる善行より、今しばらくしかおられないイエス様への奉仕、つまり間もなく贖いの死をとげようとしておられる主を想う瞑想や祈りの方が、「良いこと」であると言うことを覚えなければなりません。

しかし、マリアがいくら敏感だったからと言っても、この時すでに、イエス様の死と葬りの明確な予知を持っていたとはとても考えられません。イエス様の十字架の死を、誰一人正しく予想し、心備えた人はいなかったでしょう。祭りの時期はいけないと考えていたサンヘドリンの人々にとっても想定外の出来事として起こりました。弟子たちにとっても全く意表をつかれた出来事として起こりました。主ご自身だけが、ひとりでそれを定められ、それを成し遂げようと、悲しみの道を黙々と歩かれていたのです。そのような時、マリアの香油の注ぎが、唯一の慰めとなったのです。イエス様は彼女の意図とは別に、その行いを葬りの準備として解釈され、彼女のしたことが結果的には、十字架の死の用意となったと言ってくださったのです。ですから、この香油注ぎは、キリストの死について教える物語であると言えるでしょう。イエス様が、「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と言っているのに、肝心の女の名前を記していません。主が記念されようとしたのはベタニアのマリアという人物ではなく、「この女のしたこと」が結果的に見て、「イエスさまの葬りの準備」となったということです。ですからマリヤ式信仰というより、むしろ「葬りのための信仰」と言えるのではないでしょうか。

弟子たちがイエス様の十字架の死の意味を悟ったのは、主の復活と昇天の後、聖霊が下った後のことではありますが、今や、私たちはそのことを悟った以上、この十字架を忘れて、十字架を飛び越して、施しに走ったり、世直しにやっきになるべきではありません。キリスト教はその点において、人間の頭の中で世直しを訴えるヒューマニズムとは全く異なる立場に立っています。

私たちの信仰は、罪と死の支配に縛られている古い自分を、十字架によってキリストと一緒に葬り、神の子として復活することです。新しく生まれた者として主イエスに献身し、過去の古い考え方や罪の習慣を完全に脱ぎ捨て、聖霊に支配していただき、聖霊によって導かれる人生です。

ローマ6:6~11節をご覧ください。(p281)

わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。

死んだ者は、罪から解放されています。

わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。

キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。

このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

福音の前提には、常にこの十字架の死が、置かれているということです。ですから、マリア式の応答を私たちに適用するなら、私たちがイエス様と共に十字架に架けられて、既に古い自分は死んだということを深く瞑想することであります。もっと言えば、復活の命に与った自分自身をイエス様に献身し、聖霊によって導かれることです。一方、ユダ式の応答を見てみましょう。14~16節をご覧ください。

そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、

「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。

そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。

ユダ式というのは、十字架の死をどうしても受け入れられない考え方であり、自分の野望やビジョンをキリスト教に投影しようとする信仰です。ユダの裏切りの動機について考えてみてください。彼はお金に目がつられてイエスを高値で売り、そのお金を横領しようとする、そのようなちっぽけな動機ではありません。なぜなら、銀貨30シェケルとは奴隷一人の値段に過ぎないからです。実は、もっと壮大な計画を持っていました。今、この過ぎ越しの最中にエルサレムに上り、イエスがイスラエルの王であることを、サンヘドリンの人々に公に認めさせ、そして打倒ローマに向けて一歩前進することでした。さらに空想を膨らませるなら、やがてはローマ帝国をも手中に収め、イエスがローマ皇帝として君臨し、イエスの働きを常に支えてきた十二弟子は、その帝国を12の国に分割統治するという夢だったのでしょう。ユダは、今まさにマリアがご自分の葬りの用意をしたということで称賛を受けている時に、イエス様がご自身の口から何度も言われた、「わたしはエルサレムに行って長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて、殺される」というあの受難告知を思い出しました。それは、他でもなく、彼の抱いていた夢が砕かれ、無残に散らされる宣言です。彼は落胆しました。このチャンスにおいて、今まさにキリストが王として、他を抑えて、のし上がらなければならない時に、そしてそれが可能でありながら「葬られる」と言っているからです。

除酵祭の第一日に、弟子たちは主に「どこに、過越しの食事をなさる用意をいたしましょうか」と尋ねました。つまり過ぎ越し祭がいよいよ始まったということです。出エジプト記12章を見ますと、ニサンの月の14日の日が暮れてから、羊を屠り、その肉を食べて15日~21日までの1週間、祭の期間を過ごすことが書かれています。余談ですが、この出エジプト記に書かれている律法を、ユダヤ人は今でも家族ごとで守っています。私たちが受難日礼拝を捧げた4/19からの一週間がユダヤ人にとって過ぎ越しの祭の期間でした。ですから、17節にある、除酵祭の第一日とは、ニサンの月の14日の木曜日を意味し、この日から「マッツァー」と呼ばれる種を入れないパンを食べ始めました。その日が暮れた時に、つまり日付が変わって15日の金曜日になった時に「過ぎ越しの祭の食事」をとるのです。弟子たちはイエス様が言われた通りに、一人の人に、今夜、祭の食事をとるための場所について尋ねると、不思議に備えられた場所へ導かれました。

食事の準備が整えられ、夕方になってイエス様は十二人の家族同様の弟子たちと食事の席に着かれ、一緒に食事をしている時にイエス様は言われました。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」

この言葉を聞いて弟子たちは非常に心を痛めます。「主よ、まさかわたしのことでは…」と代わる代わる言い始めます。イエス様は23節で次のようにお答えになっています。23節をご覧ください。

イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。

これは、一人ひとりあてがわれた皿があって、ちょうどそこに同時に手を浸した者であると犯人を特定しているのではなく、スープのようなものが入っている共通の鉢があって、そこにパンを浸した者という意味です。日本でいうなら、食卓の真中に置かれた鍋のような感じです。ですから、ここでイエス様は、同じ鍋から食べた家族のような者が、同じ釜の飯から食べた親しく近しい関係にある者が、私を裏切るということをおっしゃっているのです。どれだけユダの裏切りがイエス様にとってショックな出来事であり、大きな悲しみだったかということです。それと同時にこの御言葉は詩編41:10の預言の成就でもあります。そのままお聞きください。

わたしの信頼していた仲間/わたしのパンを食べる者が/威張ってわたしを足げにします。

イエス様を裏切る張本人であるユダも、他の弟子たちと同じようにイエス様に訪ねました。25節をご覧ください。

イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」

ユダの問いは、他の弟子たちと、同じようであり、実は少し異なっている言葉があります。それは、他の弟子たちは「主よ、」と尋ねましたが、「先生」つまり、ラビと言いながら尋ねている所です。このほんのわずかなところにもユダが持っていた信仰と、他の弟子たちが持っていた信仰の違いを垣間見ることができるのです。

この後、ユダも他の弟子たちも同じようにイエス様を裏切り、失敗するように私たちには見えるかもしれません。しかし、あとで、他の弟子たちは立ち直ることができましたが、ユダだけは裏切ったまま立ち直ることができませんでした。この違いは何だったのでしょうか。つまり、ユダの持っていた信仰とは何かということです。ユダの信仰、それは、先ほども言いましたが、十字架の死をどうしても受け入れられない信仰です。福音の前提である十字架を飛び越そうとするのです。それは、ユダ自身においても当てはまります。自分が罪びとであって一度完全に死んで新しく生まれ変わらなければ、神の国に入ることができないという原則を、彼は無視していました。むしろ彼は自分の肉の欲から出てくる、夢や野望をイエス様に投影していたのです。キリストと共に十字架に死ぬということは、世とキリストの二足をわらじを履くことではなく、すべてをキリストに捧げると言うことです。日々聖書の御言葉を読み、聖霊の御声に耳を傾け、聖霊の導きに従順することです。

今も昔もキリスト教を利用しながら、ヒューマニズムの思想を訴えたり、世直しを訴える人、社会に対し発言力を持とうとする人は多くいます。しかし、私たちの頭の中で考えている世直しとか、私たちの頭の中から出てくるヒューマニズム的な善き行ないというのは、神の御心から、離れていることが往々にしてあるということを覚えなければなりません。私たちは神に全てを委ね、神の御心が成就されるよう、祈りつつ、自分自身を神に捧げる者なのです。それは、マリアの信仰、否、十字架の信仰です。一度完全にイエス様と共に十字架に死んだ上で、復活に与り、聖霊によって残りの人生を歩ませていただく信仰なのです。福音の前提である十字架を片時も忘れずに、ただ十字架のみを誇りとしながら、神の子とされたことを感謝しつつ、歩ませていただきましょう。

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