2021年07月11日「祈りの手本」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千間台教会のホームページへ戻る

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

6:7また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
6:8彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
6:9だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
6:11わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』
6:14もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
6:15しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 6章7節~15節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

教会では、祈りといえば神様との会話であり、神様との交わりであると教えられます。本日のマタイによる福音書6:9~13に記されている祈りを特に「主の祈り」と言いますが、これはイエス様が、弟子たちに、祈る時にはこう祈りなさいと、教えてくださった祈りでございます。ルカによる福音書11章にもイエス様は弟子たちに祈りを教えておられますが、イエス様はいろいろな場所で、何度も繰り返して「主の祈り」を教えられていたと思われます。本日の箇所において、イエス様は、その教えの背景として、異邦人の祈りを例に出しながら教えてくださいました。7節にありますように、当時の、異邦人の祈りの特徴は、「くどくど述べて、口数が多ければ、祈りが聞き遂げられる」と思っていたようです。言い換えれば、異邦人にとって、祈りとは自分たちの願いをかなえてもらう一種のまじないのようであり、したがって、祈りを自分の目的のために神を利用する手段になっているということだと思います。それではキリスト者の祈りとは何なのか。キリスト者の祈りとは、異邦人の祈りとは正反対であります。神様を父親として、そして天地の王としてお認めし、神様の御前に全てを放棄し、自分が持っていた主権を神様に明け渡し、御心に従順に従う為の祈りであるということです。それは、頭を垂れた悔い改めの祈りに、ほぼ等しいと言えるのではないでしょうか。神様の御前に無から始めようとする貧しい心から、主の祈りが告白されるのです。主に全てを委ねてみようとする覚悟から、主の祈りが告白されるのです。

この主の祈りの全体の構造を見ますと、最初に天の父なる神様という呼びかけがあります。つまり、この祈りはイエス様の十字架と復活を信じることによって神の子とされ、「父よ」と呼びかける特権を与えられた信者たちの祈りであるということです。続いて神様に対する祈りが三回続きます。「あなたの御名があがめられるように」、「あなたの御国が来ますように」「あなたの御心が天におけるように地にもなるように」その次に、私たちの祈りが三回続きます。「私たちに必要な糧を与えてください」「私たちの負い目を赦してください」「私たちを誘惑に合わせず、悪い者から救ってください」です。ここから第一に教えられるのは、祈るべき事柄は、まず自分たちのことではないということです。まず何よりも先に、また、祈りの半分を費やしながら、神の御名、神の御国、神の御心のために祈るということです。第二に教えられるのは、私の必要な糧のために、私の負い目の赦しのために、私の救いの為にではなく、「私たちの」という点に注目したいと思います。つまり、主の祈りとは、共同体の祈りであり、神の救いも、私たちの神様に対する応答も共同体を通してなされるという点であります。それでは祈りの前半部分である6:9~10節をご覧ください。前半部分は神様の驚くべき美しい経綸に参与させる招きであります。

【1】. 神様の驚くべき美しい経綸に参与させる招き

“だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。”

ギリシア語の文法を見ますと9節の「あなたの御名が崇められますように」という祈りと、10節の「あなたの御心が行われますように」という祈りは受け身になっています。受け身であるということは、主体が誰なのかを考えなければなりません。誰が神の名を高く上げて聖なるものとするのか、誰が神の御心を行うのかということです。私たちでしょうか、神様でしょうか。もう聖書にずいぶん詳しい方であればお分かりの事と思いますが、聖書で受け身になっていて、その主体が省略されている場合は、神様が主体であるということです。つまり神の名を高く上げて聖なるものとすることも、神の御心を行うことも、全て神様によってなされるということです。こう言いますと、当然ですが、一つ、私たちの心に思い浮かぶ質問が一つ出てくるかもしれません。その質問とは、8節の「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」という御言葉とも関連していますが、つまり、「どうせ、私たちの必要を神様が全てご存じで、神様がすべての事をされるのに、一体、私たちに何を祈れと言うのだろうか。何もかもお一人でされればいいでしょう。」ということです。一体なぜでしょうか。そこには私たちの理解を超えた神様の隠された御心があるように思われます。フィリピの手紙2:13には次のような御言葉がございます。

“あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。”

全能の神様は、ご自身の御心を完全に成就され、この世に直接介入することもできますが、多くの場合、キリスト者の心に働いて、彼らに御心に適うことを望ませ、キリスト者を通してご自身の御心を成就させていくという方法を取られます。それでは神様は一体なぜこのような方法を取られるのでしょうか。

例えば、旅行をしていて大変美しい景色を見たとしますよ。或いは旅先でとっても美味しいものを食べたとします。今までに体験したことのない、本当に素晴らしい体験をしたとします。ここで常識的な人ならば、一番最初に何を考えるでしょうか。「あ、こんなにおいしいものは誰にも教えないように隠しておかないと」とか、「この風景は誰にも教えないようにしておこう」などと考える人はいませんね。逆に「あ~、こんなにおいしいのを一人で食べるのはもったいない、誰かと一緒に食べることができたら、どんなに良かったか」とか、「自分の最も愛する人と一緒に、この場所に来れたらどんなに良かったか」と考えることでしょう。これが常識的な考え方ですね。神様は実際、すべての事を、ご自身がお一人で、パーフェクトにすることができます。それにも拘わらず、なぜ教会をして、御心を行わせるのかと言えば、天の神秘的な驚異に、私たち教会をも共に参与させたいという神様の御心があるからです。それほど神様は私たち教会を愛しているということです。将来成就する神の摂理と神の経綸があまりにも美しいために、何とかそこに、ご自身の民を神様と共に関与させたいと思われるのです。信じられるでしょうか。私たちが神様の隠されたご計画を知るにはあまりにも罪深く、あまりにも盲目的です。だからこそ、教会を祈りの場に導き、神様との交わりを通して、御心に適う思いが与えられ、望みが与えられ、神の御心を少しずつ知るようにされ、神様と共に歩んでいくように招かれているのです。

【2】. 悔い改めと明け渡す祈り

続きまして後半部分は、私たちの祈りが三回出てきます。ここには、悔い改めと神様に全て依存し委ねる告白がなされています。最初に11節をご覧ください。

“わたしたちに必要な糧を今日与えてください。”

ここで、今日一日のパンを祈るように教えられています。もしかしたら、「神様、私はまだ日用のパンを祈るほど落ちぶれてはいません」と思われる方もいるかもしれませんが、箴言30章7~9節御言葉に次のような祈りが記されています。ご覧ください。

“二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。むなしいもの、偽りの言葉を/わたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず/わたしのために定められたパンで/わたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り/主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き/わたしの神の御名を汚しかねません。”

詩人アグルは、一時も神様から離れず、ひたすら神様にしがみつくために、貧しくもせず、金持ちにもしないように祈っています。もし、私たちが豊かになりすぎるなら、神の恵みを忘れ、忘恩の罪を犯すかもしれません。もし、貧しくなりすぎるなら、世を恨んだり、盗みを働いて御名を汚すかもしれません。主の祈りの11節も、この箴言の御言葉のように、私たちの生活のなくてはならない最低限の所まで、自分の力ではなく、ただ神によって支えられているということを認め、告白する祈りであるということです。神様は空の鳥さえ、その日、食べるものを養ってくださるように、私たちの日々の糧を養っていてくださるのです。続いてマタイの福音書6章12~13節の御言葉です。

“わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』”

この12節で、罪の赦しの祈りが出てくるのは、私たちが信じて救われた後も、依然として罪人であるという現状を言い表しているのではないかと思います。たとえイエス様を信じたとしても、この世に生きる限り、私たちは死ぬときまで罪に傾きやすく、また欠けが多く、弱い存在であるということです。人が罪を犯す時に罪責が発生しますが、ユダヤ人はこの罪責を神様に対する「負い目、借金」として理解していました。この「負い目とか借金」と言う言葉が12節では複数形になっています。生涯を通して、その積まれていく借金の大きさは、私たちの想像を絶するような金額でありましょう。決して努力して、時間をかけて何とか返済できるような金額ではありません。人間の社会では、普通、負債というのは必ず返済されたり、償われなければなりませんね。時効が成立したからと言って、都合よく水に流すことなどできません。ところが神様に対する借金は、イエス様の命が生贄として捧げられたために、私たちの全生涯の負債が全て償われ、完全に赦されたのです。信じた後も依然として犯してしまう様々な罪も、教会の頭であるイエス・キリストにあって憐れみを受け、赦しが与えられるのです。神様のこの恵みにしっかり立つならば、私たちも自分に負い目のある人をいつの間にか赦すことができるのではないでしょうか。赦すということは決して簡単なことではありません。従いまして、第三者が被害者に対して軽々しく「赦してあげなさい」とは、中々言えないことだと思います。しかし、祈りに導かれ、神様が恵みを注いで下さり、自分自身が神様から頂いているその恵みの大きさに目が開かれる時に、共同体に対する愛と慈しみが湧き出るようになります。教会は赦された者たちの集いですから、自然と赦しの共同体が形成されていくのです。

13節に移りますと、誘惑という言葉がでてきます。この言葉は試練と同じ言葉でありまして、否定的な意味では「誘惑」と訳され、肯定的な意味では「試練」と訳されます。本来、試練というものは、その人を成熟へと導く良いものですが、サタンはあらゆる機会を用いて試練を誘惑として用い、私たちに罪を犯すようにさせて、イエス様から引き離すように働きかけてきます。ですから私たちは、決して「試練よ、いくらでも私にかかって来なさい!」などと、祈ることはできないのです。イエス様は十字架に渡される夜、ゲツセマネの園で苦しみ悶えながら祈られました。その時「わたしの願いではなく、あなたの御心の通りにしてください」と祈られましたが、その前に「できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」とも祈られました。イエス様でさえこのように祈られたのですから、弱い私たちも当然、イエス様のように「できることなら、これを取り除けてください」、「この試練を小さなものにして下さい」、「私たちを誘惑に合わせず、悪から救い出してください」と祈るべきなのです。私たちはこのように自分自身、非常に弱い者であることを覚えるべきです。

以上、後半部分の私たちの祈りを見てまいりましたが、その内容とは、「自分の力でその日のパンも稼ぐことのできない無能力な者であることを告白すること」、「罪に傾きやすく、神様に負債ばかり与えている欠けの多い者であることをお詫びすること」、「試練につぶされてしまう弱い者であることを白状すること」でありました。ですから私たちの告白は、生活のあらゆる瞬間を全面的に神様に明け渡し、委ねること、神様の一方的な憐みと赦しに感謝すること、無事に地上の歩みを全うできるのは、神様が試みを減らしてくださるからであると感謝することへ導かれるのです。まことに私たちは自分自身について祈ることを許されたとしても、そこでは結局、頭を垂れた悔い改め、神を仰ぎ賛美すること、そして、前面的に神様に委ね、明け渡すこと以外、語ることはできないのです。ですから、マタイの福音書には記されていませんが、主の祈りの最後は、「国と力と栄とは限りなく、なんじのものなればなり」という言葉で締めくくられます。この言葉はイエス様がそのように言いなさいと教えた訳ではありませんが、主の祈りを繰り返すうちに、弟子たちは自然に、この頌栄を叫ばずにはおれなくなったのでしょう。いつしか、この頌栄を主の祈りの結びとして付け加えられたのであります。

【結論】

私たちの神様は、慈しみ深い、父なる神様であり、同時に天地の主権者、王として統治しておられます。「主の祈り」とは、この神様の御前に全てを放棄し、自分が持っていた主権を明け渡し、御心に従順に従う為の祈りであります。日々頭を垂れ、貧しい心から悔い改めの祈りを捧げ、主に全てを明け渡し、委ねてみようとするその覚悟から、主の祈りが告白されるのです。というのは、神の主権は、人間の愚かさの中でご自身の知恵を現わしてくださり、人間の弱さの中でご自身の力を現わしてくださり、人間の罪の中でご自身の正義と恵みを光り輝くように現わしてくださるからです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

ハングル語によるメッセージはありません。

関連する説教を探す関連する説教を探す