インマヌエル預言 2024年12月15日(日曜 朝の礼拝)
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インマヌエル預言
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- 村田寿和 牧師
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イザヤ書 7章1節~17節
聖書の言葉
7:1 ウジヤの子ヨタムの子アハズがユダの王であった時代に、アラムの王レツィンと、イスラエルの王であるレマルヤの子ペカが、エルサレムを攻めるために上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。
7:2 しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせがダビデの家に伝えられると、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。
7:3 そこで、主はイザヤに言われた。「あなたは、息子のシェアル・ヤシュブと共に出て行って、洗い場に至る大通り沿いにある、上貯水池の水路の端でアハズに会い、
7:4 彼に言いなさい。気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはならない。アラムのレツィンとレマルヤの子が激しく怒っても、この二つの燃えさし、くすぶる切り株のために心を弱くしてはならない。
7:5 確かにアラムは、エフライムとレマルヤの子と共に、あなたに対して悪事をたくらみ、
7:6 『ユダに攻め上って打ち破り、侵略して我々のものとし、タベアルの子を王として立てよう』と言っている。
7:7 しかし、主なる神はこう言われる。/そのようなことは起こらず、実現もしない。
7:8 アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン/――六十五年たてば/エフライムは打ち砕かれ/民ではなくなる――
7:9 エフライムの頭はサマリア/サマリアの頭はレマルヤの子。/あなたがたが信じなければ/しっかりと立つことはできない。」
7:10 主はさらにアハズに語られた。
7:11 「あなたの神である主にしるしを求めよ。陰府の深みへと、あるいは天へと高く求めよ。」
7:12 しかしアハズは、「私は求めません。主を試すようなことはしません」と言った。
7:13 イザヤは言った。「聞け、ダビデの家よ。あなたがたは人間を煩わすだけでは足りず、私の神をも煩わすのか。
7:14 それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。
7:15 悪を退け善を選ぶことを知るようになるまで、彼は凝乳と蜜を食べる。
7:16 その子が悪を退け善を選ぶことを知る前に、あなたが恐れている二人の王の領土は必ず捨てられる。
7:17 主は、あなたとあなたの民とあなたの父祖の家に、エフライムがユダから分かれた日以来、臨んだことのないような日々をもたらす。それはアッシリアの王だ。」イザヤ書 7章1節~17節
メッセージ
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来週は、イエス・キリストの御降誕をお祝いするクリスマスの礼拝です。その心備えとして、今朝は、『イザヤ書』の第7章1節から17節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。ちなみに、イザヤは紀元前8世紀に、南王国ユダで活躍した預言者です。
「ウジヤの子ヨタムの子アハズがユダの王であった時代」の紀元前734年に、アラムの王レツィンと、北王国イスラエルの王であるレマルヤの子ペカがエルサレムを攻めるために上って来ました(シリア・エフライム戦争)。「アラムがエフライムと同盟した」とありますが、「アラム」とは「シリア」のことです。「エフライム」とは北王国イスラエルのことです(北王国イスラエルの10部族でエフライムが最も有力であった)。アラムとイスラエルの同盟は、当時の世界帝国であったアッシリア帝国に対抗するための同盟でした。アラムの王レツィンとイスラエルの王ペカは、ユダの王アハズにも、反アッシリア同盟に加わることを求めました。しかし、ユダの王アハズは断ったようです。それで、力ずくで言うことを聞かせようと、アラムとイスラエルはエルサレムに攻め上って来たのです。反アッシリア同盟であったアラムとイスラエルの矛先が、ユダのエルサレムに向けられたことは、王の心にも、民の心にも、大きな不安を与えました。彼らの心は、森の木々が風に揺れ動くように動揺したのです。
主は、イザヤに息子のシェアル・ヤシャブを連れて、アハズ王に会いに行くように言います。ちなみに、「シェアル・ヤシャブ」とは、「残りの者は帰る」という意味です。シェアル・ヤシャブ(残りの者は帰る)という名前のイザヤの息子は、イザヤが宣べ伝えていたメッセージ、「主の裁きと救い」を象徴しています。アハズ王もイザヤの息子の名前がシェアル・ヤシャブであることを知っていたのでしょう。主はアハズに「主の裁きと救い」を思い起こさせるために、イザヤに息子のシェアル・ヤシャブを連れて行くように命じたのです。主がアハズに会いに行くようにと指定した場所は、上貯水池の水路の端でした。アハズは、エルサレムが再び包囲された時に備えて、どれだけ水の蓄えがあるかを確かめに来ていたのでしょう。そのアハズに、主は、イザヤを通して、こう言われます。「気をつけて、静かにしていなさい。恐れることはない」。動揺して、慌てふためき、恐れで心をいっぱいにしているアハズに、主は、「気をつけて、静かにしていなさい。恐れることはない」と言われるのです。なぜなら、アラムの王レツィンとイスラエルの王ペカが激しく怒っても、この二人は燃えさし(燃え切らないで残ったもの)であり、くすぶる切り株に過ぎないからです。アハズの目には、アラムの王レツィンとイスラエルの王ペカが燃え盛る炎のように、あるいは大木のように映るのですが、主はその二人は燃えさしであり、くすぶる切り株に過ぎないと言うのです。また、主がアハズに、「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはならない」と言われるのは、アラムの王レツィンとイスラエルの王ペカが、アハズに対して悪事をたくらんでも、そのようなことは起こらず、実現しないからです。アラムの王レツィンとイスラエルの王ペカは、エルサレムを攻め滅ぼして、自分たちの言うことを聞く、タベアルの子を王にしようとしていました。しかし、主は、「そのようなことは起こらず、実現もしない」と言われるのです。この主の御言葉の背景には、『サムエル記下』の第7章に記されている、ナタンの預言、いわゆるダビデ契約があります。主は、ダビデに、次のように約束されました。「あなたが先祖と共に眠るとき、あなたの末裔、あなたの身から出る者を後に立たせ、その王国を揺るぎないものとする。その者が私の名のために家を建て、私は彼の王国の王座をとこしえに堅く据える」(サムエル下7:12、13)。このダビデ契約のとおり、代々ダビデの子孫が南王国ユダを統治してきたのです。ですから、ダビデの子孫ではないタベアルの子が王として立つことは実現しないのです。
8節に、「アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン」とあります。アラムは国の名前、ダマスコは都の名前、レツィンは王の名前です。アラムが攻めてくると恐れているけれども、その都はダマスコであり、その王はレツィンではないか。そのように、主は、状況を冷静に分析されるのです。エフライム(北王国イスラエル)についても同じことです。エフライムが攻めてくると恐れているけれども、その都はサマリアであり、その王はレマルヤの子でしかないのです。このアラムとエフライムについての言葉に続いて、私たちが当然予想するのは、ユダについての言葉です。ここにはユダについての言葉が記されていませんが、予想されるのは、次のような言葉です。「ユダの頭はエルサレム、エルサレムの頭はダビデの子」。このユダについての言葉が加えられて、主の言葉の意味が明らかとなります。ユダの頭はエルサレムです。エルサレムは主なる神がその名を置くと言われた都であります。そのエルサレムの頭は、主なる神がとこしえの王座を約束されたダビデの子であるのです。さらに言えば、ダビデの子の頭は、主なる神ご自身であるのです。9節の後半に、「あなたがたが信じなければ/しっかりと立つことはできない」とありますが、動揺している王と民が信じなければならないのは、ユダ王国の究極的な頭である「主なる神」であるのです。主なる神に信頼するとき、王であるアハズも、ユダの民もしっかりと立つことができるのです。同じことが私たちにおいても言えます。私たちも主イエス・キリストに信頼するとき、しっかりと立つことができるのです。
主なる神を信じることのできないアハズに対して、イザヤは「あなたの神である主にしるしを求めよ」と言います。しかし、アハズは、「私は求めません。主を試すようなことはしません」と断りました。このアハズの言葉は、敬虔な言葉のように聞こえますが、不信仰な言葉です。なぜなら、「あなたの神である主にしるしを求めよ」と言われているのは、イザヤを通して語っておられる主なる神ご自身であるからです。主は、アハズにしるしを与えて、アハズが御自分を信頼し、しっかり立つことができるように導こうとしておられるのです。しかし、アハズは、その主の導きを拒否して、アッシリア帝国に助けを求めるのです。『列王記下』の第16章7節にこう記されています。「アハズは、アッシリアの王ティグラト・ピレセルに使いを送ってこう言った。『私はあなたの僕、あなたの子です。どうか上って来て、私に立ち向かうアラムの王の手とイスラエルの王の手から、私を救い出してください。』」。イザヤは主に信頼して、静かにしているように語りました。しかし、アハズは主に信頼しないで、アッシリアの王に助けを求めるのです。そのようなアハズに、イザヤはこう言います。「聞け、ダビデの家よ。あなたがたは人間を煩わすだけでは足りず、私の神をも煩わすのか。それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。ここでイザヤが「私の神」と言っていることに着目したいと思います。イザヤは主を信じないアハズと自分との間に一線を引いています。主ご自身が与えられるしるしは、主を信じないあなたがたに与えられるのです。ここでイザヤは、新しい王の誕生を預言しています。その王の名前は「インマヌエル」と呼ばれると言うのです。「インマヌエル」とは「神は我らと共にいる」という意味です。おとめから生まれる王は、インマヌエル(神は我らと共にいる)という救いをその民にもたらすのです。この「インマヌエルと呼ばれる王」とは、誰のことでしょうか。それには色々な説がありますが、私はアハズの次に王となるヒゼキヤのことであると思います。『列王記下』の第18章に、ユダの王ヒゼキヤについて次のように記されています。「ユダの王の中で、ヒゼキヤのようにイスラエルの神、主を頼りとしていた者は後にも先にもいなかった。主に固く結び付き、付き従って離れることなく、主がモーセに命じられた戒めを守った。主が共におられたので、向かうところで敵なしであった」(列王下18:5~7参照)。ヒゼキヤは主を頼りとした王であり、主が共におられた王であったのです。そのことは、『イザヤ書』の第36章と第37章の御言葉からも分かります。ヒゼキヤ王の治世第14年に、アッシリアの王センナケリブは、ユダの城壁に囲まれた町すべてに攻め上り、これらを占拠しました。アッシリアの王は、ラブ・シャケを大軍と共に遣わし、エルサレムを包囲したのです。そのとき、ヒゼキヤがラブ・シャケの言葉を聞いたのも、「洗い場に至る大通り沿いにある、上貯水池の水路」であったのです(イザヤ36:2)。イザヤがアハズに出会った場所で、ヒゼキヤはラブ・シャケの言葉を聞いたのです。アハズが主に信頼しなかったのに対して、ヒゼキヤは主に信頼しました。ヒゼキヤは、ラブ・シャケの言葉を聞くと衣を裂き、粗布をまとって主の神殿に行き、祈りをささげるのです。そして、主なる神は、そのヒゼキヤの祈りにこたえてくださり、御使いを遣わして、エルサレムを取り囲むアッシリアの陣営、18万5千人を撃ち殺したのです。主は御自分に信頼するヒゼキヤの祈りにこたえてくださり、「主は我らと共にいる」としか言えないほどの救いを与えてくださったのです。
「それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。この男の子は、アハズの次に王となるヒゼキヤのことであると申しました。しかし、福音書記者マタイは、この男の子こそ、聖霊によっておとめマリアからお生まれになるイエス・キリストであると言います。今朝は、そのことを確認して終わりたいと思います。新約の1ページです。『マタイによる福音書』の第1章18節から25節までをお読みします。
イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが分かった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊によるのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは、「神は私たちと共におられる」という意味である。ヨセフは目覚めて起きると、主の天使が命じたとおり、マリアを妻に迎えた。しかし、男の子が生まれるまで彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
福音書記者マタイは、聖霊によっておとめマリアが身ごもるとう仕方で、イザヤの預言が最終的に実現したと記します(旧約の預言は、コップの水が満ちるように成就する)。そのようにマタイが記したのは、初代教会が用いていた聖書が、ヘブライ語聖書のギリシア語訳であったからです。ヘブライ語聖書が「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み」と記すとき、その「おとめ」は「若い女」を意味するアルマーというヘブライ語です。しかし、ヘブライ語聖書のギリシア語訳では、「おとめ」は「男の人を知らない処女」を意味するパルセノスというギリシア語であるのです。ヘブライ語聖書のギリシア語訳では、「見よ、処女が身ごもって男の子を産む」と記されているのです。そのように記されていても、普通は、「処女であるおとめが結婚をして、男の子を産む」と解釈すると思います。しかし、福音書記者マタイは、ヘブライ語聖書のギリシア語訳に記されているとおり、聖霊によって、処女マリアが身ごもって男の子を産むと言うのです。「見よ、処女が身ごもって男の子を産む」という預言が、イエス・キリストにおいて文字通り実現したと言うのです。そのように聞けば、誰もが「そんなことはあるはずがない」と思います。それは、すべての人間が男女の交わりによって生まれてくるからです。しかし、聖霊によって処女マリアが身ごもったことこそ、主ご自身が、私たちに与えてくださったしるしであるのです。なぜ、イエス・キリストがインマヌエル(神は私たちと共におられる)という祝福を与えてくださる救い主であると言えるのか。それは、イエス・キリストが聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、お生まれになったからです。イエス・キリストが聖霊によっておとめマリアからお生まれになったことは、私たちを信じさせないためのしるしではなくて、私たちが信じるようになるためのしるしであるのです。