罪人を招くイエス 2024年12月08日(日曜 朝の礼拝)

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罪人を招くイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 5章27節~32節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:27 その後、イエスは出て行き、レビと言う徴税人が収税所に座っているのを見て、「私に従いなさい」と言われた。
5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。
5:29 そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人たちやほかの人々が大勢いて、一緒に食卓に着いていた。
5:30 ファリサイ派の人々やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに文句をつけて言った。「なぜ、あなたがたは、徴税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのか。」
5:31 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。
5:32 私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」ルカによる福音書 5章27節~32節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、イエス様が体の麻痺した人の罪を赦されたこと。そのしるしとして、体の麻痺した人を癒されたことを学びました。男たちによって床に乗せて運ばれて来た人が、皆の前で立ち上がり、寝ていた床を担いで、神を崇めながら家に帰って行ったのです。この人は、罪赦された者として、立ち上がって神をほめたたえたのです。今朝の御言葉はその続きとなります。

 その後(のち)、イエス様は出て行き、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「私に従いなさい」と言われました。イエス様は徴税人であるレビを、ご自分の弟子として召されたのです。これは驚くべきことです。なぜなら、徴税人は人々から罪人であると考えられていたからです。紀元1世紀のイエス様の時代、ユダヤの国はローマ帝国の属州となっていました。神の民であると自負するユダヤ人にとって、まことの神を知らない異邦人であるローマ人に支配されていることは耐え難い屈辱でありました。徴税人は、そのローマ人の手先になって、同胞のユダヤ人から税金を集めていたので、売国奴として嫌われていました。また、彼らは決められた金額以上に、税金を取り立て、私腹を肥やしていたので、泥棒のように考えられていました。徴税人は会堂の交わりからも追放されていたのです。レビは、カファルナウムの収税所に座っていたわけですから、領主ヘロデ・アンティパスの権威によって、通行税を取り立てていたようです。そのような、徴税人であるレビを見て、イエス様は「私に従いなさい」と言われたのです。すると、レビは、何もかも捨てて立ち上がり、イエス様に従いました。ガリラヤの漁師であったシモンとヤコブとヨハネが、すべてを捨てて従ったように。また、体の麻痺した人が、皆の前で立ち上がったように、レビは立ち上がり、何もかも捨ててイエス様に従ったのです。このようにして、徴税人のレビが、イエス様の弟子となったのです。ここには、イエス様の言葉には権威があることがよく表れています。イエス様の言葉には、悪霊を従わせるだけではなく、人を従わせる権威があるのです。このとき、レビがどのような気持ちであったのかは記されていませんが、おそらく、レビの心は喜びに溢れていたと思います。その溢れる喜びから、レビはイエス様のために、自分の家で盛大な宴会を催したのです。ここから、私たちは、「何もかも捨てる」ということが、「イエス様のために用いる」ことであることを教えられます。何もかも捨てるとは、無一文になるということではなく、すべてのものをイエス様のために用いることを意味しているのです。

 レビが催したイエス様のための盛大な宴会には、徴税人たちやほかの人々も大勢いて、一緒に食卓に着いていました。ファリサイ派の人々やファリサイ派に属する律法学者たちも来ていました。「ファリサイ派の人々」は、神の掟である律法を熱心に守っていた真面目な人たちです。そのファリサイ派の人々も来ていたのです。しかし、注意していただきたいことは、ファリサイ派の人々は、一緒に食卓には着いていなかったということです。ファリサイ派の人々は、一緒に食事をするために来たのではなく、文句をつけに来たのです。ファリサイ派の人々は、イエス様の弟子たちにこう言いました。「なぜ、あなたがたは、徴税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのか」。ファリサイ派の人々は、神の掟である律法を守らない人々を罪人と呼んで、交わりを持つことをしませんでした。「ファリサイ」という意味は「分離された者」という意味であると言われますが、彼らは、自分たちを罪人たちから分離して、律法を熱心に守っていたのです。また、ファリサイ派の人々は、人々が律法をちゃんと守っているかを監視して、律法を守らせようとしていました(コロナ禍の時のマスク警察のように)。そのような彼らが、レビの家に来たのは、預言者と噂されるイエス様が、徴税人や罪人と一緒に食事をしていると聞いたからですね。そのことを聞いて、またその現場を見て、ファリサイ派の人々は、「なぜ、あなたがたは、徴税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのか」と言ったのです。「そんなことをしては、困るではないか。社会の秩序が保てなくなるではないか」と文句を言ったのです(レビ10:10、11「聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものを区別し、また、主がモーセを通してイスラエルの人々に告げられたすべての掟を教えなさい」参照)。そのようにして、イエス様とその弟子たちが、徴税人たちや罪人たちと一緒に食事をすることを止めさせようとしたのです。それに対して、イエス様は、こうお答えになりました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。自らを正しい人と自負するファリサイ派の人々は、徴税人たちや罪人たちを神の民失格者として切り捨てました。しかし、イエス様はその罪人たちを招いて悔い改めさせるために来たと言うのです。そのことは、健康な人ではなく、病人にこそ、医者が必要であるのと同じだと言われるのです。「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。この御言葉の実現として、イエス様は徴税人であるレビをご自分の弟子として召されたのです。ここで心に留めたいことは、イエス様は罪人を罪人のままで受け入れてくださり、ご自分の弟子にしてくださるということです。イエス様が徴税人たちと罪人たちと食べたり飲んだりしていることは、そのことを教えているわけです。ユダヤにおいて、食事を一緒にすることは、親しい交わりを持つことを意味しています。イエス様は、徴税人たちや罪人たちと食事を一緒にすることによって、彼らをそのままで受け入れてくださり、親しい交わりを持ってくださったのです(ルカ7:34「人の子が来て、食べたり飲んだりすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」参照)。そのことは、イエス様がこの地上で罪を赦す権威を持っていることと関係しています。前回学んだように、イエス様は、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われて、体の麻痺した人を癒されました。イエス様は、地上で罪を赦す権威を持っているのです。それゆえ、イエス様は、罪人を罪人のままで受け入れることができるのです。イエス様は、罪人を赦して、正しい者として受け入れてくださるのです。それは、イエス様が、罪人の罪を担って、十字架の死を死んでくださり、三日目に復活してくださるお方であるからです。「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」というイエス様の言葉は、罪人の罪を担って十字架の上で死んでくださるお方の言葉であるのです。

 さて、ファリサイ派の人々は、このイエス様の言葉を聞いて、どう思ったでしょうか。「私は医者を必要とする病人だ。イエス様は、私を招いて悔い改めさせるために、来てくださったのだ」と思ったでしょうか。おそらく、そのようには思わなかったと思います。ファリサイ派の人々は、自分のことを「医者を必要としない健康な人」、「悔い改める必要のない正しい人」と考えたのではないかと思います。しかし、イエス様は、そのようなことを一言も仰っていません。イエス様は、「正しい人」がファリサイ派の人々であり、「罪人」が徴税人たちであるとは、一言も仰っていません。それは、イエス様の御言葉を聞く一人一人が自分で判断することです。おそらく、ファリサイ派の人々は、自分たちのことを「正しい人」であると考えたでしょう。ですから、彼らはイエス様と一緒に食卓に着こうとはしないのです。それに対して、徴税人たちは、自分たちのことを「罪人」であると考えたと思います。実際に、彼らは律法を守っていない者たちでしたし、ファリサイ派の人々から罪人と呼ばれていたからです。ですから、徴税人たちは、このイエス様の御言葉を聞いて、イエス様は自分たちを招いて悔い改めさせるために来てくださったことが分かったのです。イエス様の言葉の有り難さが身に沁みて分かったのです。

 さて、私たちはどうでしょうか。私たちは、罪人に自分を重ねて、「イエス様は自分を招いて悔い改めさせるために来てくださった」とイエス様の御言葉を聞くことができたでしょうか。イエス様の言葉を聞いて、「何と有り難いことか」と思ったでしょうか。もし、そう思えないとすれば、それはなぜなのでしょうか。ある説教者は、ファリサイ派の人々に、一番近いのは、真面目に信仰生活を送っているキリスト者であると言いました。自分は、礼拝に休まず出席している。献金もちゃんとささげている。そのように自負する真面目なキリスト者が、ファリサイ派の人々に一番近いと言うのです。しかし、ここでイエス様は、他の人と比べて、正しいとか、罪人であるとか、言われているのでしょうか。そのような人間同士の相対的な正しさのことを問題にしているのでしょうか。そうではありません。イエス様が問題している正しさとは、神の御前における正しさ、絶対的な正しさであるのです。そして、聖書は、神の御前に、正しい者は一人もいないと教えているのです。(詩14:3「すべての者が神を離れ、ことごとく腐り果てた。善行う者はいない。一人もいない」参照)。ですから、私たちも、神の御前には、滅ぼされるべき罪人であるのです。また、聖書は、すべてに人の心はとらえ難く病んでいると教えています(エレミヤ17:9新共同訳「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる」参照)。それゆえ、私たちも魂の医者であるイエス様を必要としているのです。

 イエス様が、「私が来たのは」と言われるとき、それは「イエス様がガリラヤのナザレから来た」ということに留まりません。それは「神の永遠の御子が聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、罪を別にして私たちと同じ人として生まれてくださった」ことまで遡ります(ルカ1、2章参照)。神の御子であるイエス様が人としてお生まれになったのは、罪人を招いて悔い改めさせるためであったのです。また、「預言者イザヤの巻物に記されているメシアとして来たのは」とも言えるでしょう(ルカ4:18、19参照)。イエス様が、イザヤが預言する約束のメシアとして来てくださったのは、罪人を招いて悔い改めさせるためであったのです。

 「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。このイエス様の御言葉を聞いて、「医者を必要としない健康な人がいる。悔い改める必要のない正しい人がいる」と考えてはなりません。この御言葉は、自分は正しい人であるとうぬぼれるファリサイ派の人々への皮肉の言葉であるのです。繰り返しますが、聖書は、すべての人の心がとらえ難く病んでいること。すべての人が神の御前に罪人であると教えています。ですから、神の御前に、すべての人が病人であり、罪人であるのです。私たちも魂の医者であるイエス様を必要とする病人であり、イエス様から招かれている罪人であるのです。イエス様は私たちの罪を償うために十字架の死を死んでくださり、私たちを正しい者とするために復活してくださったのです(ローマ4:25参照)。

 イエス・キリストの使徒パウロは、『フィリピの信徒への手紙』の第3章で、イエス・キリストを知る前の自分のことを振り返ってこう記しました。「律法に関してはファリサイ派、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義に関しては非の打ちどころのない者でした」(フィリピ3:5、6)。しかし、そのパウロが、イエス・キリストを知った後には、「私は、その罪人の頭です」と語るようになるのです。パウロは、ダマスコ途上において、栄光の主イエス・キリストにお会いすることによって、自分は神の御前に罪人であることが分かったのです。「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値することが身をもって分かったのです(一テモテ1:15参照)。

 私たちが、「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ことを、感覚を通して知ることができるのは、主の晩餐の礼典においてであります。私たちは、主の晩餐の礼典において、私たちのために裂かれたイエス・キリストの体であるパンを食べ、私たちのために流されたイエス・キリストの血であるぶどう汁を飲みます。私たちは、「イエス様、罪人の私のために、十字架のうえで肉を裂き、血を流してくださって有難うございます」と感謝しつつ、パンを食べ、ぶどう汁を飲むのです。そのとき、私たちは、「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という御言葉が真実であり、そのまま受け入れるに値することを味わい知るのです。そのようにして、私たちは、イエス・キリストに従って生きていきたいと心から願う者となるのです。イエス様は、主の晩餐の礼典において、罪人である私たちを招いてくださり、悔い改めへと導いてくださるのです。

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