罪を赦す権威を持つイエス 2024年12月01日(日曜 朝の礼拝)

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罪を赦す権威を持つイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 5章17節~26節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々や律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのあらゆる村や、エルサレムから来ていた。主の力が働いて、イエスは病気を癒やしておられた。
5:18 すると、男たちが体の麻痺した人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。
5:19 しかし、大勢人がいて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦を剥がし、病人を床ごと群衆の真ん中につり下ろし、イエスの前に置いた。
5:20 イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
5:21 ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々は論じ始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。罪を赦すことができるのは、ただ神だけだ。」
5:22 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「何を心の中で考えているのか。
5:23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
5:24 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、体の麻痺した人に、「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。
5:25 その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた床を担いで、神を崇めながら家に帰って行った。
5:26 人々は皆驚嘆し、神を崇め、恐れに満たされて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。ルカによる福音書 5章17節~26節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、イエス様が規定の病を患っている人を清くされたお話を学びました。「規定の病」とは、「旧約聖書に規定されている病」のことです。新共同訳聖書では、「重い皮膚病」と翻訳されていました。「規定の病」は宗教的な汚れとされていました。規定の病を患っている人は、独りで宿営の外に住まなければならず、神と人との交わりから断ち切られていたのです。その規定の病を患っている人が、イエス様のもとにひれ伏して、こう言ったのです。「主よ、お望みならば、私を清くすることがおできになります」。この人は、イエス様が規定の病を癒やして、自分を清くすることができると信じているのです。ただ問題は、イエス様がそのことを望むかどうかということでありました。イエス様は、手を差し伸べてその人に触れました。「汚れた人に触れれば、その人も汚れる」と信じられていた宗教的な社会において、イエス様は規定の病を患っている人に触れたのです。そして、「私は望む。清くなれ」と言われると、たちまち規定の病は去ったのです。この人は、イエス様によって清い者とされ、神と人との交わりに回復されたのです。今朝の御言葉はその続きとなります。 

 17節に、「ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々や律法の教師たちがそこに座っていた。この人々はガリラヤとユダヤのあらゆる村や、エルサレムから来ていた」とあります。『ルカによる福音書』では、ここで初めて「ファリサイ派の人々」が登場します。「ファリサイ派の人々」とは、「律法を熱心に守っていたまじめな人々」のことです。「ファリサイ」とは「分離される者」という意味で、彼らは、律法を守ろうとしない人々、また律法を守れない人々から自分たちを分離して、自分たちだけでも律法を守って生きていこうとしていました。ファリサイ派の起源は、旧約聖書と新約聖書の間の時代、いわゆる中間時代に遡ると言われています。中間時代に記された、旧約聖書続編の中に、『マカバイ記』という書物があります。そこには、ユダヤの国がギリシア帝国(セレウコス朝シリア)によって支配されていたこと。ユダヤ人のギリシア化がなされていたことが記されています(歴史的背景として、アレクサンドロス大王の東方遠征によってもたらされたヘレニズム文化がある)。そのようなギリシア帝国の政策に抗って、律法を熱心に守った人たちがいました。ファリサイ派はその流れを汲む人たちであると考えられています。イエス様の時代、ユダヤの国はローマ帝国に支配されていました。そのような中にあっても、ファリサイ派の人々は神の掟である律法を守っていこうとしていたのです。

 また、「律法の教師たち」とは、神の掟である律法を専門に研究し、解釈して民に教えた教師たちのことです。彼らは人々から尊敬されていた指導者でありました。ちなみに、律法の教師たちの多くは、ファリサイ派に属していました。

 その「ファリサイ派と律法の教師たち」がガリラヤの村だけではなく、ユダヤの村から、そして都エルサレムからも、イエス様のおられる家に来ていたのです。彼らはイエス様の評判を聞いて、イエス様の教えが律法に適っているかどうかを確認するために来たのだと思います。

 イエス様は、神の国の福音を告げ知らせました。神の国の福音とは、神が油を注がれたイエス様によって、神の国が到来したという良き知らせのことです。そのことのしるしとして、イエス様は病気に悩む人を癒されました。この日もイエス様は、病気の人を癒していました。17節の後半に、「主の力が働いて、イエスは病気を癒やしておられた」とあります。福音書記者ルカは、「イエス様が病気を癒すことができたのは、主の力が働いていたからである」と言うのです。『出エジプト記』の第15章26節に、「まことに私は主、あなたを癒す者である」と記されています。癒し主(ぬし)である主(しゅ)の力が働いていたゆえに、イエス様は、病に苦しむ人々を癒すことができたのです。

 そのようなとき、男たちが体の麻痺した人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエス様の前に置こうとしました。体の麻痺した人は、自分でイエス様のもとに行くことができないので、男たちに頼んで連れて来てもらったのです。あるいは、男たちの方から、体の麻痺した人に声をかけて、「自分たちが連れて行ってあげるから、イエス様のもとに行かないか」と誘ったのかも知れません。ともかく、男たちも、体の麻痺した人も、イエス様なら癒やしてくださると信じて、家を訪れたのです(当時は家の教会であるから、家とは教会のこと)。しかし、大勢の人がいて、イエス様のもとに行くことはできませんでした。大勢の人が、彼らとイエス様との間を遮っていたわけです。彼らはどうしたでしょうか。諦めたでしょうか。そうではありません。彼らは屋根に昇って、瓦を剥がし、病人を床ごと群衆の真ん中につり降ろして、イエス様の前に置いたのです。随分乱暴なことをしたわけです。しかし、イエス様は、そこに彼らの信仰を見られました。そして、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われたのです。このイエス様の言葉は、男たちにとっても、体の麻痺した人にとっても、予想外の言葉であったと思います。彼らが願っていたことは、病が癒されることであり、罪が赦されることではなかったからです。なぜ、イエス様は、「人よ、あなたの病は癒された」と言われたのではなく、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われたのでしょうか。その背景には、人々が「病の原因は罪にある」と考えていたことがあります。このことはデリケートな問題ですので、後で詳しくお話しします。「人よ、あなたの罪を赦された」。このイエス様の言葉を聞いて、律法学者たちやファリサイ派の人々はこう論じ始めました。「神を冒涜するこの男は何者だ。罪を赦すことができるのは、ただ神だけだ」。律法によれば、神を冒涜する者は死刑でした。『レビ記』の第24章16節にはこう記されています。「主の名をそしる者は必ず死ななければならない。会衆全体が必ずその者を石で打ち殺さなければならない」。このように、神を冒涜する罪は死に至る罪であったのです。ではイエス様は、神を冒涜する者なのでしょうか。イエス様は、律法学者やファリサイ派の人々の考えを見抜いてこう言われます。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」。ここでイエス様は、「罪を赦すことができるのは、ただ神だけだ」ということを否定していません。ここでの問題は、神様が罪を赦す権威をイエス様に授けたかどうかと言うことです。イエス様は、「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と問われます。どちらが易しいでしょうか。言うだけなら、「あなたの罪は赦された」と言う方が易しいと思います。と言いますのも、「あなたの罪は赦された」という言葉は、そのとおりになったかどうかを確認できないからです。それに対して、「起きて歩け」という言葉は、そのとおりになったかどうかを確認することができます。律法学者やファリサイ派の人々が、イエス様の言葉、「人よ、あなたの罪は赦された」という言葉を聞いて、「この男は神を冒涜している」と考えたのは、イエス様が実際に罪を赦すことができないのに、罪の赦しを宣言したと考えたからです。しかし、イエス様はそのような彼らに、自分が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせるために、体の麻痺した人に、こう言われるのです。「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい」。すると、その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた床を担いで、神を崇めながら家に帰って行ったのです。この背景にも、当時の人々の考え方、「病の原因は罪にある」という考え方があります。イエス様は、この人の罪が赦されていることの目に見えるしるしとして、この人の病を癒したのです。イエス様は、神様から地上で罪を赦す権威を与えられた人の子として、この人の罪を赦し、そのしるしとして、この人の病を癒したのです。

 ここで、病と罪の関係について、聖書全体からお話ししたいと思います。神様は天地万物を、力ある御言葉によってお造りになりました。神様が造られた世界は、神様の目から見ても、「極めて良い世界」であったのです(創世1:31「神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった」参照)。では、なぜ、この世界には、罪や死があるのでしょうか。その原因は、はじめの人アダムが神の掟に背いたことにあります。神様は、エデンの園で、アダムに命じてこう言われました。「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると、必ず死ぬことになる」(創世2:17)。アダムは、この神の掟に背いて、禁じられていた木の実を食べて罪を犯してしまいました。そして、必ず死ぬ者となったのです。アダムの最初の罪によって、神様が造られた極めて良い世界に、罪と死が入り込んできたのです。ウェストミンスター小教理問答の問19が告白しているように、「全人類は、堕落によって神との交わりを失い、今は神の怒りと呪の下(もと)にあり、そのため、この世でのあらゆる悲惨と、死そのものと、永遠の地獄の罰を免れないものとされているのです」。病は死の力の現れと理解することができるわけです。このように、「なぜ、神様が造られた良き世界に、病や死があるのですか」と問われるならば、その答えは、「はじめの人アダムが罪を犯したためである」と言えます。では、実際に、病を患っている人の病の原因がその人の罪にあるのかと言えば、そうではありません。と言いますのも、イエス様は、『ヨハネによる福音書』の第9章で、生まれつき目の見えない人について、弟子たちにこう言われているからです。新約の180ページです。第9章1節から3節までをお読みします。

 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

 弟子たちは、生まれつき目の見えない原因が、本人の罪、あるいは両親の罪にあると考えました(ヨハネ9:34「彼らは、『お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか』と言い返し、彼を外に追い出した」も参照)。しかし、イエス様は、そのことをはっきりと否定されます。そして、「神の業がこの人に現れるためである」と言われたのです。ここでの「神の業」とは、神がお遣わしになった方を信じるという神の業のことです(ヨハネ6:29「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」参照)。イエス様は、この人が生まれつき目が見えないのは、この人がイエス・キリストを信じて、永遠の命を得るためであると言われたのです。ですから、イエス・キリストの弟子である私たちは、病の原因を、病を患っている人の罪にあると考えてはならないのです。確かに、生活習慣病というものがあり、不摂生によって病気になることはありますが、それはまた別の問題です。もちろん私たちは、神様から授かった心と体と魂を健やかな状態に保っていくように努力すべきです。しかし、病の原因を、病を患っているその人の罪にあると考えるならば、それは正しくないのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の109ページです。

 「病の原因は、病を患っている人の罪にあるのではない」。確かにそうなのですが、病を患っている本人が、病を自分の罪と結びつけて考えることはあると思います。(詩6:2、3参照)。おそらく、今朝の御言葉の「体の麻痺した人」もそうであったと思います。この人は、周りの人から、「体が麻痺しているのは、あなたの罪のせいである」と言われてきたし、自分でも、「体が麻痺しているのは、私の罪のせいである」と考えていたのではないかと思います。そのような体の麻痺した人の考えを、イエス様は見抜かれて、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われたのです。イエス様は、体を麻痺した人が一番聞きたかった言葉、おそらく本人も気づいていなかった一番聞きたかった言葉を、お語りになったのです。イエス様は、この人に一番必要なもの、罪の赦しに基づく良心の平和を与えてくださったのです(ウェストミンスター小教理 問36参照)。

 主イエス・キリストを信じる私たちも地上で罪を赦された者たちであります。主イエス・キリストを信じる私たちは、世の終わりの最後の審判を待つことなく、この地上で、「人よ、あなたの罪は赦された」という罪の赦しの宣言を聞くことができるのです(主の日の礼拝の「罪の告白の祈祷と赦しの宣言」)。そのように聞くと、こう思われる方がおられるかも知れません。「私の罪は赦されていると言うけれども、私の病気は癒されていません」。確かに、イエス様を信じて、罪を赦されても、病気が癒されるわけではありません。では、私たちの罪は赦されていないのでしょうか。そうではありません。なぜなら、イエス・キリストは、私たちの罪を担って十字架の死を死んでくださり、私たちを正しい者とするために復活してくださったからです。私たちの罪が赦されていることの確かな証しとして、イエス・キリストは、十字架の死から三日目に栄光の体で復活されたのです。そして、イエス・キリストは、私たちの罪が赦されていることの確かな証しとして、私たち一人一人の心に、聖霊を遣わしてくださったのです。聖霊によって私たちは、罪の赦しに基づく良心の平和を与えられて、神様を「アッバ、父よ」と呼び、ほめたたえているのです。体の麻痺していた人が起き上がって神様をほめたたえたように、私たちもすべての罪を赦された者として、立ち上がって、神様をほめたたえているのです(礼拝において、私たちは立ち上がって賛美歌を歌う)。

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