主イエスの望み 2024年11月24日(日曜 朝の礼拝)

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主イエスの望み

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 5章12節~16節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:12 イエスがある町におられたとき、そこに、全身規定の病を患っている人がいた。イエスを見てひれ伏し、「主よ、お望みならば、私を清くすることがおできになります」と願った。
5:13 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「私は望む。清くなれ」と言われると、たちまち規定の病は去った。
5:14 イエスは彼に厳しくお命じになった。「誰にも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」
5:15 しかし、イエスの評判はますます広まり、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気を治してもらうために集まって来た。
5:16 だが、イエスは寂しい所に退いて祈っておられた。ルカによる福音書 5章12節~16節

原稿のアイコンメッセージ

 前回(先々週)、私たちは、イエス様が漁師であるシモンとヤコブとヨハネを弟子にするというお話を学びました。シモンは、網にかかったおびただしい魚を見て、イエス様の膝元にひれ伏して、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」と言いました。しかし、イエス様は、そのシモンにこう言われたのです。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。イエス様は、罪深いシモンを受け入れてくださり、そのシモンを用いて、多くの人を神の国に生きる者としてくださるのです。天におられるイエス・キリストは、今も、罪深い私たちを用いて、多くの人を神の国に生きる者としてくださるのです。今朝の御言葉はその続きとなります。

 12節に、「イエスがある町におられたとき、そこに、全身規定の病を患っている人がいた」と記されています。「規定の病」と訳されている言葉(レプラス)は、以前用いていた新共同訳では「重い皮膚病」と訳されていました。新しい翻訳聖書、聖書協会共同訳になって、「重い皮膚病」が「規定の病」となりました。規定の病とは、「旧約聖書に規定されている病」ということです。では、旧約聖書のどこに規定されているのかと言うと、『レビ記』の第13章です。聖書を開いて確認したいと思います。旧約の167ページです。第13章1節から8節までをお読みします。

 主はモーセとアロンに告げられた。「皮膚に腫れか吹き出物、あるいは斑点があって、規定の病になるなら、その人は祭司アロンか、祭司であるその子らの一人のもとに連れて行かれる。祭司がその皮膚の患部を調べて、その患部の毛が白く変わり、皮膚の下まで及んでいるなら、それは規定の病である。祭司はそれを確認したら、その人を汚れていると言い渡す。皮膚に白い斑点があっても、皮膚の下までは及んでおらず、その毛も白く変わっていなければ、祭司は患者を七日間隔離する。七日目に祭司が調べて、患部はそのままで皮膚に広がっていなければ、祭司はその人をさらに七日間隔離する。七日目に祭司が再び調べて、その患部に光沢がなく、皮膚に広がっていなければ、祭司はその人を清いと言い渡す。それは吹き出物にすぎないので、衣服を洗えば、その人は清い。しかし祭司に見せて清いと言い渡された後、吹き出物がひどくなったなら、再び祭司に見せなければならない。吹き出物が皮膚に広がっているのを祭司が確認するなら、祭司はその人を汚れていると言い渡す。それは規定の病である。

 1節から3節によれば、規定の病とは「皮膚に腫れか吹き出物、あるいは斑点があって、その患部の毛が白く変わり、皮膚の下まで及んでいる症状」のことを言います。規定の病の人は、祭司によって「汚れている」と言い渡されます。「汚れている」とは、神との関係において汚れているということで、神に受け入れられない状態を言います。

 他方、皮膚に白い斑点があっても、皮膚の下までは及んでおらず、その毛も白く変わっていなければ、祭司はその人を隔離した後、「清い」と言い渡します。「清い」とは神との関係において清いということで、神に受け入れられている状態を言います。

 このように、「規定の病」は、ただの病気ではなく、宗教的な汚れであったのです。それゆえ、45節と46節には次のように記されています。

 規定の病にかかった人は衣服を引き裂き、髪を垂らさなければならない。また口ひげを覆って、「汚れている、汚れている」と叫ばなければならない。その患部があるかぎり、その人は汚れている。宿営の外で、独り離れて住まなければならない。

 なぜ、規定の病にかかった人は衣服を引き裂き、髪を垂らさなければならないのでしょうか。それは、他の人から見て、その人が規定の病であると分かるようにするためです。規定の病にかかった人が口ひげを覆って、「汚れている、汚れている」と叫ばなければならないのも同じ理由です。このことの背後には、「汚れた者に触れた者は誰でも汚れる」という掟があります(レビ11:26「ひづめが割れていても、完全に分かれていないか、反芻しない動物は、すべてあなたがたには汚れたものである。それに触れたものは誰でも汚れる」参照)。規定の病にかかった人は、他の人を汚すことがないように、衣服を引き裂き、髪を垂らし、口ひげを覆って、「汚れている、汚れている」と叫ばなければならなかったのです。また、聖なる神が臨在される宿営に住むことができず、宿営の外で独り離れて住まなければならなかったのです。神の掟が支配する宗教的な社会において、規定の病にかかることは、社会的な死を意味していたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の108ページです。

 12節に、「イエスがある町におられたとき、そこに、全身規定の病を患っている人がいた」と記されていますが、『レビ記』の掟によれば、このことは許されないことでした。規定の病を患っている人は、町の中に入って来てはいけないのです。しかし、この人は、「イエス様は悪霊を追い出し、病を癒すことができる」という評判を聞いて、勇気を出して、町の中に入って来たのです。全身規定の病を患っている人は、イエス様を見てひれ伏し、「主よ、お望みならば、私を清くすることがおできになります」と願いました。この人は、イエス様なら、自分が患っている規定の病を癒すことができると信じているのです。第4章に、イエス様が故郷のナザレで説教したことが記されていました。そのとき、イエス様は、「預言者エリシャの時には、イスラエルには規定の病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンだけが清められた」と言われました。規定の病を患っていた人も、このことを知っていたと思います。「かつて預言者エリシャが規定の病を患っていたシリア人ナアマンを癒したように、イエス様は規定の病を患っている自分を癒すことができる」とこの人は信じていたのです。ただ問題は、そのことを主であるイエス様が望まれるかどうかということです。彼の望みは、規定の病が癒されて清い者となることです。しかし、この人は、その自分の望みを、イエス様に押し付けないのです。この人は、「主よ、お願いですから、私を清くしてください」とは言わないのです。この人は「主よ、お望みならば、私を清くすることがおできになります」と言ったのです。なぜ、この人は、このような言い方をしたのでしょうか。それは、この人が規定の病を、神の御手から受け取っていたからだと思います。今、水曜日の「聖書と祈りの会」で『ヨブ記』を学んでいます。その第1章と第2章に、ヨブが全財産と子どもたちを失ったこと。ヨブ自身も全身を悪性の腫れ物に打たれたことが記されています。そのヨブに、彼の妻はこう言うのです。「あなたは、まだ完全であり続けるのですか。神を呪って死んでしまいなさい」。しかし、ヨブは妻にこう言います。「あなたは愚かな者が言うようなことを言う。私たちは神から幸いを受けるのだから、災いをも受けようではないか」。ヨブは、全財産と子供たちを失った災い、自分が悪性の腫れ物に打たれている災いを神からのものとして受けとめるのです。規定の病を患っていた人も、ヨブのように、規定の病を神からのものとして受けとめていたのだと思います。しかも、神の掟である律法によれば、規定の病を患っている自分は汚れた者であり、神と人との交わりから断ち切られていたのです。そのような過酷な状況を、この人は神からのものとして受けとめていたのです。ですから、この人は、「主よ、お望みならば、私を清くすることがおできになります」としか言えなかったのです。

 イエス様は、手を差し伸べてその人に触れました。これは驚くべきことです。「汚れた者に触れた人は誰でも汚れる」という掟が支配する宗教的な社会で、イエス様は手を差し伸べてその人に触れたのです。誰も触れようとはしない人に、イエス様は手を差し伸べて触れられたのです。そして、こう言われます。「私は望む。清くなれ」。すると、たちまち規定の病は去りました。旧約の掟には、「汚れた者に触れた人は誰でも汚れる」と定められていました。では、汚れた者に触れたイエス様は、汚れた者となったのでしょうか。そうではありません。完全に清い御方であるイエス様が触れることによって、規定の病を患っている人が清い者とされたのです。イエス様は、汚れた人に触れて、清くすることによって、「汚れた者に触れた人は誰でも汚れる」という掟を廃棄されたのです。規定の病を患っている人を清くすること。そのことは、イエス様の望みであり、イエス様において示された神の望みであります。「自分に対する神の望みは、規定の病を患って、汚れた者として死んだように生きることではない。自分に対する神の望みは、規定の病から解放されて、清い者として、神と人との交わりに生きることである」。そのことを、この人は、イエス様が差し伸べてくださった手と、「私は望む。清くなれ」という言葉によって、はっきりと知ることができたのです。

 イエス様は、彼にこうお命じになります。「誰にも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい」。先程は、『レビ記』の第13章に記されている「規定の病」についての記述を読みましたが、続く第14章には、「規定の病を患っていた人が清められるときの指示」が記されています。祭司によって「汚れている」と言い渡された人は、祭司によって「清い」と言い渡される必要があったのです。祭司によって「清い」と宣言され、清めの献げ物をして、人々に証明することによって、この人は神と人との交わりに回復されるのです。イエス様は、「自分が清めたことを誰にも話さなくていいから、モーセが定めた手続きを速やかに行いなさい」と言われたのです。

 イエス様の評判はますます広まり、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気を治してもらうために集まって来ました。そのようにして、大勢の人が、イエス様において到来した神の国の祝福にあずかったのです。イエス様は、主に聖霊を注がれたメシアとして、貧しい人に神の国の福音を告げ知らせ、病に捕らわれている人を解放したのです。そのようなイエス様の周りには、いつも大勢の人がいました。しかし、イエス様は、寂しい所に退いて祈ることを大切にされました。16節に、「だが、イエスは寂しい所に退いて祈っておられた」とあります。ここでの「寂しい所」はもとの言葉を見ると複数形で記されています。このことは、イエス様が寂しい所で祈ることを習慣にしていたことを教えています。イエス様にとって祈りとは、父なる神との親しい交わりの時であります。そのような祈りのときを大切にされたからこそ、イエス様は神の愛する独り子として、また、主に喜ばれる僕として歩み続けることができたのです。

 私たちの教会では、水曜日の午前中に、聖書の学びと祈りのときを持っています。平日の午前中ですから出席できる人は少ないのですが、水曜日の祈祷会は、私にとっても、羽生栄光教会にとって、大きな意味を持っていると思っています。もちろん、水曜日だけ祈ればよいと言うわけではありません。イエス様が寂しい所で祈ることを習慣としていたように、私たちも一人で祈ることを習慣とすべきです(マタイ6:6「あなたが祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい」参照)。神様に心と言葉をささげる祈りのときを大切にしてこそ、私たちも神から愛されている子として、また主に喜ばれる僕として歩み続けることができるのです。

 今朝の御言葉を、私たちはどのように自分に当てはめることができるでしょうか。私たちの中には、旧約聖書が規定している病を患っている人はいないと思います。では、今朝の御言葉は、私たちに関係がないかと言えば、そうではありません。と言いますのも、アダムの子孫である私たちは、生まれながら罪に汚れた者たちであるからです(全的堕落)。私たちは自分の罪のゆえに、汚れた者であり、神様との交わりから断たれていたのです。そのような私たちが、どうして、清い者とされ、神様との交わりに生きる者となったのでしょうか。それは、主イエス・キリストが手を差し伸べて、私たち一人一人に触れてくださり、「私は望む。清くなれ」と言ってくださったからです。主イエス・キリストは、私たちの罪を担って、十字架の死を死んでくださいました。主イエス・キリストの血潮によって、私たちは罪の汚れから清められて、神様との親しい交わりに生きる者とされたのです(一ヨハネ1:7「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」参照)。主イエス・キリストは、十字架の上で命を捨てられるほどに、私たちが清くなることを望んでくださったのです。そのことを心に留めて、主イエス・キリストが望まれる聖なる生活を送っていきたいと願います。そのために、私たちは、毎日、聖書を読み、祈る習慣を身につけたいと願います。  

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