人間をとる漁師になる 2024年11月10日(日曜 朝の礼拝)

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人間をとる漁師になる

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 5章1節~11節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:1 群衆が神の言葉を聞こうとして押し寄せて来たとき、イエスはゲネサレト湖のほとりに立っておられた。
5:2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
5:3 イエスは、そのうちの一そうであるシモンの舟に乗り込み、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆を教えられた。
5:4 話し終わると、シモンに、「沖へ漕ぎ出し、網を降ろして漁をしなさい」と言われた。
5:5 シモンは、「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
5:6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
5:7 そこで、もう一そうの舟にいた仲間に合図して、加勢に来るように頼んだ。彼らが来て、魚を両方の舟いっぱいにしたので、二そうとも沈みそうになった。
5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの膝元にひれ伏して、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」と言った。
5:9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
5:10 シモンの仲間、ゼベダイの子ヤコブとヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
5:11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。ルカによる福音書 5章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、イエス様が人々から悪霊を追い出されたこと。人々の病を癒されたことを学びました。イエス様は、人々を悪霊と病から解放してくださるメシアであるのです。イエス様が人々から悪霊を追い出し、人々の病を癒されたこと。そのことは、イエス様において、神の国が到来したことのしるしでありました。イエス様の悪霊追放と癒しの御業は、完成された神の国には、悪霊も病もないことを示しているのです。人々の関心は、イエス様が告げ知らせている神の国の福音よりも、そのしるしである悪霊追放や癒しの御業に集まっていました。群衆はイエス様を自分たちのもとに引き止めようとするのです。しかし、イエス様は、こう言われます。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。私はそのために遣わされたのだ」。イエス様の使命、それは神の国の福音を告げ知らせることであるのです。そして、このことは、イエス・キリストの弟子の群れである私たちの使命でもあるのです。今朝の御言葉はこの続きとなります。

第5章1節に、「群衆が神の言葉を聞こうとして押し寄せて来たとき、イエスはゲネサレト湖のほとりに立っておられた」とあります。「ゲネサレト湖」とは「ガリラヤ湖」の別名です。ガリラヤ湖は、温暖なガリラヤ盆地に位置する、濃いコバルト色の美しい湖で、漁業が盛んでありました。そのガリラヤ湖が、今朝のお話しの舞台であります。これまでイエス様は、安息日に、ユダヤの諸会堂で神の国の福音を告げ知らせてきました。しかし、イエス様は、安息日ではない日でも、会堂ではない場所でも、人々に神の国の福音を告げ知らせていたのです。群衆は神の言葉を聞こうとして、イエス様のもとに押し寄せて来ました。この日は安息日ではない、いわゆる平日ですから、漁師たちは働いていました。もう少し正確に言うと、夜の働きを終えて、舟から上がり、網を洗っていたのです。イエス様は、シモンの舟に乗り込み、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになりました。「シモン」とありますが、このシモンは、のちに十二使徒の筆頭となる「シモン・ペトロ」のことです。シモンについては、第4章38節と39節にこう記されていました。「イエスは会堂から立ち去り、シモンの家に入られた。シモンのしゅうとめがひどい熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスにお願いした。イエスが枕元に立って熱を叱りつけられると、熱は引き、彼女はすぐに起き上がって一同に仕えた」。シモンには、イエス様に、しゅうとめの熱を下げてもらったという恩がありました。そのこともあって、ペトロは、イエス様から頼まれたとおり、舟に乗り、陸から少し漕ぎ出したのです。イエス様は群衆に押し潰されないように、陸から少し離れた舟から教えられたのです。このようにしてシモンは、イエス様が語る神の言葉を一番近くで聞くことになるのです。イエス様は、話し終えると、「沖へ漕ぎ出し、網を降ろして漁をしなさい」とシモンに言われました。「沖」とは、岸から遠く離れた深いところです。イエス様は、「岸から遠く離れた深いところに漕ぎ出し、網を降ろして漁をしなさい」と言われたのです。シモンはこう答えます。「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした」。シモンは、イエス様を「先生」と呼び、自分たちが夜通し働いたこと。しかし、一匹の魚も捕ることができなかったことを伝えます。この「私たち」には、シモンとその弟アンデレが含まれています(マルコ1:16参照、なぜかルカ福音書にはアンデレの名前が記されていない)。また、10節の「シモンの仲間、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ」が含まれています。シモンとその弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ、彼らは漁師でした。当時は、親の職業を継ぐことが普通でしたから、彼らは若い頃から、ガリラヤ湖で漁師として働いてきたのです。シモンたちは、ガリラヤ湖で漁をして生計を立てているプロであります。それに対して、イエス様は、大工の息子でありました(マタイ13:55参照)。ガリラヤ湖での漁については、素人であるのです。ですから、シモンはこう言ってもよかったのです。「聖書の話しなら、先生に従いますが、ガリラヤ湖での漁のことは、私たちの方がよく分かっています」。しかし、シモンは、そのようには言わないで、こう言います。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。「私たちは夜通し働いても何も捕れなかった。まして昼間に魚が捕れるとは思えない。しかし、神の言葉を語るイエス様のお言葉ですから、網を降ろしてみましょう」とシモンは答えたのです。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになったのです。夜通し働いても何も捕れなかったのに、イエス様のお言葉に従うと網が破れそうになるほどのおびただしい魚が捕れたのです。そこで、シモンは、もう一そうの舟にいた仲間、ゼベダイの子ヤコブとヨハネに合図して、加勢に来るように頼みました。「彼らが来て、魚を両方の舟いっぱいにしたので、二そうとも沈みそうになった」とあるように、これまで経験したことのないおびただしい魚が捕れたのです。これを見たシモン・ペトロは、イエス様の膝元にひれ伏して、こう言います。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」。5節で、シモンは、イエス様のことを「先生」と呼んでいましたが、ここでは「主よ」と呼んでいます。このことは、シモンのイエス様に対する認識が変わったことを示しています。シモンは、おびただしい魚を見て、イエス様を神と等しい御方として認識し、「主よ」と呼ぶのです。ペトロは、イエス様を「主よ」と呼び、その膝元にひれふしながらも、「私から離れてください。私は罪深い人間です」と言います。ペトロは、イエス様が聖なる御方であると認識しただけではなく、自分が聖なる御方の前に立ち得ない罪深い人間であることを認識したのです。このことは、預言者イザヤが、神様からの召しを受けた場面を思い起こさせます。旧約の1054ページ。『イザヤ書』の第6章1節から8節までをお読みします。

 ウジヤ王が死んだ年、私は、高く上げられた玉座に主が座っておられるのを見た。その衣の裾は聖所を満たしていた。上の方にはセラフィムが控えていて、それぞれ六つの翼を持ち、二つの翼で顔を覆い、二つの翼で足を覆い、二つの翼で飛んでいた。そして互いに呼び交わして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな/万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」その呼びかける声によって敷居の基が揺れ動き、神殿は煙で満ちた。私は言った。「ああ、災いだ。私は汚れた唇の者/私は汚れた唇の民の中に住んでいる者。しかも、私の目は/王である万軍の主を見てしまったのだ。」すると、セラフィムの一人が私のところに飛んで来た。その手には祭壇の上から火箸で取った炭火があった。彼はそれを私の口に触れさせ、言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/過ちは取り去られ、罪は覆われた。」その時、私は主の声を聞いた。「誰を遣わそうか。誰が私たちのために行ってくれるだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」

 聖なる主を見た時、イザヤを捕らえたのは恐れでした。それは、イザヤが汚れた唇の者、罪に汚れた者であるからです。罪に汚れた自分が聖なる主の前に立つならば、それは滅びを意味するとイザヤは考えたのです。しかし、主は、セラフィムを遣わし、炭火をイザヤの唇に触れさせて、イザヤの過ちを取り去り、罪を覆ってくださいました。そして、イザヤは、罪赦された者として、「ここに私がおります。私を遣わしてください」と言うことができたのです。イザヤは、いわば立候補したわけですが、その背後には、罪の自覚と、主から罪を赦されたという恵みの体験があったのです。そして、このことは、シモンにも当てはまることであるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の108ページです。

 預言者イザヤが聖なる神を見て、「私は滅ぼされてもしかたない、罪に汚れた人間である」と自覚したように、シモンも、イエス様を前にして、自分の罪深さを自覚しました。シモンは、イエス様の膝元にひれ伏しながらも、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」と言わざるを得なかったのです。このペトロの罪には、「イエス様のお言葉どおりに網を降ろしても、何も捕れないだろう」というペトロの不信仰が含まれていたと思います。ペトロは、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言いました。そして、実際、沖に漕ぎ出して網を降ろしたのです。しかし、心の中では、「どうせ、何も捕れないだろう」と考えていたのです。だからこそ、シモンは、網が破れそうなおびただしい魚を見たとき、「私は罪深い人間です」と言わざるを得なかったのです。そのシモンに、イエス様はこう言われます。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。「漁師になる」とありますが、元の言葉には「漁師」という言葉はありません(ただしマルコ1:17、マタイ4:19には「漁師」という言葉がある)。元の言葉を直訳すると「あなたは人間を生け捕りにする者になる」と記されているのです(二テモテ2:26参照)。ちなみに、新改訳2017は「あなたは人間を捕るようになるのです」と訳しています。「人間を生け捕りにする者となる」とは、「生かすために人間を捕る者となる」ということです。さらに言えば、「神の国に生かすために人間を捕る者となる」ということです。イエス・キリストにおいて到来した神の国に生きるとき、人は健やかに生きることができるようになります。神の国は、神の命と恵みの支配ですから、その支配のもとでこそ、人は健やかに生きることができるのです。「恐れることはない。今から後、あなたは生かすために人間を捕らえる者となる」。そのように、イエス様は、シモンとその仲間たちを弟子として召されました(マルコ1:17参照)。そして、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエス様に従ったのです。

 今朝の御言葉の「おびただしい魚が捕れる」という奇跡は、これからシモンとその仲間たちが、多くの人間を神の国に生かすために捕らえる者となることの約束であると言えます(使徒2:41「ペトロの言葉を受け入れた人は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」参照)。この約束は、世界のキリスト者人口のことを考えるならば、その通りに実現していると言えます。世界のキリスト教徒は約24億人で、世界人口の3割以上を占めていると言われます。しかし、日本のキリスト者人口のことを考えるならば、「本当かしら」と疑ってしまいます。日本のキリスト教徒は約100万人で、日本人口の1パーセント未満であるからです。私たちの羽生栄光教会の歩みを振り返っても、「本当かしら」と思ってしまうのです。先程申しましたように、ペトロは、イエス様の言葉に従いながらも、心の中では、「どうせ、何も捕れないだろう」と考えていました。私たちも、イエス様の言葉に従って、福音を宣べ伝えています。しかし、その私たちの心の中にも、「どうせ、誰も来ないのではないか」と言う思いがあると思います。そして、そのような思いは、ペトロが告白しているように、罪深い思いであるのです。しかし、イエス様は、そのような罪深い私たちを受け入れてくださって、その私たちを用いて、今も福音を宣べ伝えているのです。

 今朝、最後に覚えたいことは、「イエス様こそ生かすために人間を捕らえる者である」と言うことです。イエス様は、シモンとヤコブとヨハネを、力ある業と権威ある言葉で、見事に捕らえているのです。私たちも、イエス様によって、神の国に生きるために捕らえられた者たちであります。そして、イエス様は今も、主の日の礼拝を主催してくださり、私たちを神の国に生かしてくださっているのです。「あなたは神の国に生かすために人間を捕らえる者となる」。このイエス様の御言葉は、新しい人が礼拝に出席することだけを言っているのではありません。捕らえられた私たちが礼拝に出席し続けることも含んでいるのです。神の国に生きるために捕らえられた人は、神の国に生き続ける必要があるのです。私たちが礼拝において、神の命と恵みの支配に豊かにあずかって、健やかに生かされてこそ、新しい人を神の国に生かすことができるのです。そう考えますと、「あなたは生かすために人間を捕る者となる」とは、一朝一夕のことではなく、長い時間をかけて教会員全員で根気強く取り組む営みであることが分かります(伝道は教会形成を目指す。ウェストミンスター信仰告白25章「教会について」3節「この公同的な目に見える教会にキリストは、神の聖職者と神の御言葉と神の諸規定をお与えになった。それはこの世において、世の終わりまで、聖徒たちを集め、完成するためであり、じっさいキリストは、御自身の臨在と聖霊により、その約束に従って、それらのものをその目的のために有効にされるのである」参照)。そのような営みとして、私たちは神の国の祝福に豊かにあずかることができる礼拝を、週ごとにささげていきたいと願います。使徒パウロは、「神の国は…聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」と言いました(ローマ14:17)。私たちも、主の日の礼拝ごとに、聖霊によって与えられる義と平和と喜びに豊かにあずかりたいと願います。そのために、礼拝で奉仕する司式者や説教者、オルガン奏楽者、献金の奉仕者、そして、「最善を尽くして礼拝を守ります」と誓約した、すべての教会員のために祈りたいと願います。

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