イエス・キリストの使命 2024年11月03日(日曜 朝の礼拝)
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イエス・キリストの使命
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- 村田寿和 牧師
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ルカによる福音書 4章31節~44節
聖書の言葉
4:31 イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。
4:32 人々はその教えに驚いた。その言葉に権威があったからである。
4:33 ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。
4:34 「ああ、ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
4:35 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。
4:36 人々は皆驚いて、互いに言った。「一体、この言葉は何だ。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」
4:37 こうして、イエスの噂は、辺り一帯に広まった。
4:38 イエスは会堂から立ち去り、シモンの家に入られた。シモンのしゅうとめがひどい熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスにお願いした。
4:39 イエスが枕元に立って熱を叱りつけられると、熱は引き、彼女はすぐに起き上がって一同に仕えた。
4:40 日が暮れると、いろいろな病気に悩む者を抱えた人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスは一人一人に手を置いて癒やされた。
4:41 また悪霊も、「あなたは神の子だ」と叫びながら、多くの人から出て行った。イエスは悪霊を叱って、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスがメシアだと知っていたからである。
4:42 朝になると、イエスは寂しい所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回って、御もとに来ると、自分たちのもとを去らないように、何とか引き止めようとした。
4:43 しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。私はそのために遣わされたのだ。」
4:44 そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。
ルカによる福音書 4章31節~44節
メッセージ
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序.前回の振り返り
前回、私たちは、イエス様がナザレの会堂で説教されたことを学びました。イエス様は、預言者イザヤの巻物に記されている御言葉を読まれました。18節と19節です。「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために/主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは/捕らわれている人に解放を/目の見えない人に視力の回復を告げ/打ちひしがれている人を自由にし/主の恵みの年を告げるためである」。このような預言者イザヤの言葉を読んで、イエス様はこう言われたのです。21節です。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。このように、イエス様は、ご自分が神様から聖霊を注がれたメシア、救い主であることを宣言されたのです。しかし、ナザレの人々は、イエス様を追い出しました。ナザレの人々は、イエス様が故郷の自分たちにこそ恵みを与えるべきだと考えていました。しかし、イエス様は、そのことを拒否して、むしろ異邦人にこそ神の恵みはもたらされると言われたのです。ナザレの人々は、そのように語るイエス様を喜んで受け入れずに、追い出してしまうのです。今朝の御言葉はその続きとなります。
1、権威ある言葉
イエス様はガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられました。31節の「安息日」は元の言葉では複数形で記されています。イエス様は安息日ごとに、会堂で人々を教えていたのです。安息日とは、週の最後の日、土曜日のことです。私たちが週の初めの日に、教会に集まって礼拝をささげているように、イエス様の時代のユダヤ人たちは、週の最後の日に、会堂(シナゴーグ)に集まって礼拝をささげていたのです。人々はイエス様の教えを聞いて驚きました。イエス様の言葉には権威があったからです。「権威」と訳されている言葉(エクスーシア)は「権能」とも訳せます。イエス様の言葉そのものに権能、「人を従わせる権利と力」があったのです。イエス様の権威ある言葉に、いち早く反応したのは、汚れた悪霊に取りつかれた男でした。彼は大声でこう叫びます。「ああ、ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。ここで叫んでいるのは、男というよりも、その男に取りついている悪霊です。悪霊とは、神の敵である悪魔の手下のことです。悪霊は、イエス様が何者であるかを言い当てることによって、イエス様に抵抗します。ここには、相手のことを知ることによって、相手よりも優位に立つことができるという考え方があります。悪霊は、「俺はお前の正体を知っているぞ。お前は神の聖者だろう。どうだまいったか」と言うのです。しかし、イエス様は、叱ってこう言われます。「黙れ。この人から出て行け」。すると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒して、最後の抵抗を試みます。しかし、悪霊はその男に何の傷も負わせずに出て行きました。イエス様がそのことを許されなかったからです。人々は皆驚いて、互いにこう言いました。「一体、この言葉は何だ。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは」。イエス様の権威と力は汚れた霊をも従わせることができる権威と力であるのです。男から悪霊を追い出したことは、預言者イザヤの言葉、「捕らわれている人に解放を告げる」ことの成就であると言えます。イエス様は、イザヤが預言していた、主が聖霊を注がれたメシアとして、権威ある言葉により、悪霊の支配から男を解放してくださったのです。そして、このことは、主イエス・キリストを信じる私たちにおいても起こったことであるのです。はじめの人アダムの堕落によって、世界は悪魔の支配のもとに置かれています(ヨハネ12:31「この世の支配者」参照)。私たちも以前は、悪霊の支配のもとにあったのです(エフェソ2:1~6参照)。しかし、その私たちを、神様は一方的な恵みによって、イエス・キリストにあって救ってくださいました。イエス・キリストの権威ある言葉によって、私たちから悪霊を追い出し、聖霊を住まわせて、「イエス・キリストは主である」と信じ、告白する者としてくださったのです。霊の世界において、人間は聖霊の支配下にあるか、悪霊の支配下にあるかのどちらかでしかありません。「イエス・キリストは主である」と告白する私たちは、悪霊の支配下ではなく、聖霊の支配下にあるのです。使徒パウロが、第一コリント書の第12章3節で、「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことはできません」と記しているように、「イエスは主である」と告白する私たちは、聖霊の御支配のもとにあるのです。
2、病を癒し、悪霊を追い出すイエス
私たちは主の日の午前中に集まって礼拝をささげていますが、当時の時代のユダヤ人たちも安息日の午前中に礼拝をささげていました。その午前中の礼拝を終えて、イエス様は会堂から立ち去り、シモンの家に入られました。「シモン」とは、後にイエス様の弟子となる「シモン・ペトロ」のことです(ルカ5:8参照)。シモンは、イエス様が男から悪霊を追い出したのを見て、イエス様を自分の家に招待したのだと思います。と言いますのも、シモンのしゅうとめ(シモンの妻の母親)がひどい熱で苦しんでいたからです。人々は、彼女のことをイエス様にお願いしました。「イエス様、どうぞ、彼女を癒してください」と願ったのだと思います。その人々の願いを受けて、イエス様は枕元に立って熱を叱りつけられました。「熱を叱りつける」とあるように、ここでは熱が悪霊の仕業として記されています(ルカ13:11「病の霊」参照)。イエス様が熱を叱りつけると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同に仕えました。シモンのしゅうとめは元気になって、一同をもてなしました(食事をふるまった)。シモンのしゅうとめは感謝して、イエス様に仕える者となったのです。ここに、私たちのあるべき姿が記されています。先程も申しましたように、私たちもイエス・キリストによって、悪霊の支配から解放していただいた者たちであります。そうであれば、私たちも感謝して、イエス・キリストに仕えるべきであるのです。イエス・キリストに仕えるとは「礼拝する」ということです。イエス・キリストに感謝して礼拝をささげること。それが「イエス・キリストは主である」と告白し、聖霊の支配のもとに生きる私たちにとってふさわしいことであるのです。
日が暮れると、いろいろな病気に悩む者を抱えた人が皆、病人たちをイエス様のもとに連れて来ました。人々が「日が暮れる」のを待っていたのは、その日が安息日であり、ユダヤでは夕べから新しい一日が始まるからです。(創世1:5「夕べがあり、朝があった。第一の日である」参照)。安息日には、あらゆる労働が禁じられており、癒しの業も禁じられていました(ルカ13:14「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい」参照)。また、安息日には、人を運ぶことは許されていませんでした(ヨハネ5:10「今日は安息日だ。床を担ぐことは許されていない」参照)。それで、人々は、安息日が終わるのを待って、いろいろな病気に悩む人々を、イエス様のもとに連れて来たのです。「イエス様なら、自分の愛する家族の病を癒すことができる」と信じて、人々は病人をイエス様のもとに連れて来たのです。そして、イエス様は、その一人一人に手を置いて癒されたのです。イエス様は、人から悪霊(熱を含む)を追い出すときは、言葉だけで追い出しました。しかし、病を癒やされるときは、その一人一人に手を置いて癒やされたのです。旧約聖書において、手を置くことは祝福するときのジェスチャー(仕草)でした(創世48章参照)。イエス様は一人一人に手を置いて、祝福して、病を癒されたのです。イエス様は、人々を病から解放してくださるメシアでもあるのです。今も、イエス様は医療を通して、お医者さんや薬を通して、多くの人を癒してくださっています。そのような信仰を持って、私たちは、自分を含めたいろいろな病気に悩む人を病院へと連れて行きたいと思います。また、私たちは、自分を含めたいろいろな病気に悩む人を教会の礼拝へと連れて来たいと思います。そのとき、イエス様は、いろいろな病気に悩む一人一人を祝福して、癒してくださいます。実際に、病気が癒やされることはないかも知れませんが、その病気によって悩まされることは無くなるのではないかと思います。イエス・キリストを信じる者は、病気さえも、父なる神の御手からいただくからです(ハイデルベルク信仰問答 問27参照)。
また、イエス様は多くの人から悪霊を追い出しました。41節に、「また悪霊も、『あなたは神の子だ』と叫びながら、多くの人から出て行った」とあります。この背景にも、相手の正体を言い当てて、相手を支配しようとする考え方があります。悪霊は、最後の悪あがきに、「あなたは神の子だ」と叫んだのです。悪霊の「あなたは神の子だ」という叫びは、決して信仰告白ではありません。「悪霊はイエスがメシアだと知っていたからである」とありますが、悪霊はイエス様を、自分たちを滅ぼしに来た敵として知っていたのです。それゆえ、イエス様は悪霊を叱って、ものを言うことをお許しにならなかったのです。イエス様は、悪霊から「あなたは神の子だ」と言われることに我慢がならなかったのです。
3、イエス・キリストの使命
朝になると、イエス様は寂しい所へ出て行かれました。イエス様は、人々から遠ざかって、神様と向かい合うときを持たれたのです(マルコ1:35参照)。群衆はイエス様を探し回って、御もとに来ると、自分たちのもとを去らないように、何とか引き止めようとしました。イエス様がいれば、「医者いらず」であるからです。群衆は、イエス様の教えよりも、悪霊追放や病の癒しに、心を奪われていたのです。そのような群衆に対して、イエス様はこう言われます。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。私はそのために遣わされたのだ」。メシアであるイエス様の第一の使命、それは「神の国の福音を告げ知らせること」であるのです。イエス様がナザレの会堂で朗読した預言者イザヤの巻物に記されていたように、主が霊をイエス様に注がれたのは、貧しい人に福音を告げ知らせるためであるのです。福音とは「良き知らせ」のことです。イエス様が告げ知らせる良き知らせとは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にする福音であるのです。福音を告げることなしに、悪霊からの解放も、病からの解放もありません。しかし、群衆は、イエス様の告げる福音よりも、悪霊からの解放や病からの解放に心を奪われていたのです。そして、イエス様を自分たちのもとに引き止めようとしたのです。しかし、イエス様は、「ほかの町にも神の国の福音を告げ知せなければならない。私はそのために遣わされたのだ」と言われます。「神の国」(バシレイアン トゥ セウー)とは、神の王国(Kingdom)であり、神の王的支配(Kingship)のことです。神が王として支配される領域が神の王国であるのです。イエス様が告げ知らせる神の国の福音とは、神様が聖霊を注がれたイエス・キリストにおいて、神の国が到来したという良き知らせであるのです(イザヤ52:7「なんと美しいこととか/山々の上で良い知らせを伝える者の足は。平和を告げ、幸いな良い知らせを伝え/救いを告げ/シオンに『あなたの神は王となった』と言う者の足は」、マルコ1:15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」参照)。イエス様は、ご自分において神の王国、神の王としての支配が到来したことの目に見えるしるしとして、人々から悪霊を追い出し、人々の病を癒されたのです。聖書の最後の書物である『ヨハネの黙示録』の第20章に、イエス・キリストが天から再び来られた後、最後の審判が行われること。そのとき、悪魔は火と硫黄の燃える池に投げ込まれることが記されています。それから、新しい天と新しい地が到来します。そこでは、神様と私たちとの全き交わりがあり、「もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない」と記されています。新しい天と新しい地である完成された神の国には悪魔はいません。また、障害も病も死もないのです。そのような神の国の地上的な現れが、イエス様の福音宣教であり、それに伴う悪霊追放や病の癒しであるのです。イエス様は、完成された神の国では、もはや悪霊の居場所はなく、障害も病も死もないことを私たちに教えるために、人々から悪霊を追い出し、いろいろな病気に悩む人を癒やされたのです。そのような私たちに対する約束として、私たちは今朝の御言葉を読むべきであります。
結、私たち教会の使命
「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。私はそのために遣わされたのだ」。このイエス様の御言葉は、イエス・キリストの弟子たちの群れである、私たち教会においても言えます。私たち教会の使命は、「神の国の福音を告げ知らせる」ことであるのです。そのために、私たち教会は、この地上に存在しているのです。私たち教会の第一の営みは、主の日の礼拝であります。イエス・キリストは、週の初めの日に、死者の中から復活されました。神様は、イエス・キリストを死者の中から復活させ、天に上げられ、御自分の右の座に着かせて、全世界の王、メシアとされました。私たちは、神様が王、メシアとされたイエス・キリストを信じることによって、神の国の命と恵みの支配にあずかることができる(創立50周年「伝道の宣言」の「神の国は、主イエス・キリストにあってなされる神の命と恵みの支配です」参照)。この神の国の福音、イエス・キリストの福音を、私たちは主の日の礼拝ごとに、身をもって証しているのです。私たちは、イエス様に悪霊を追い出していただき、イエス様に癒していただいた者として、イエス様のことを「聖なる者、神の子、メシア」と告白しているのです。その私たちの告白をイエス様は喜んで受け入れてくださいます。そして、その私たちの信仰告白を用いて、イエス様は、今も、神の国の福音を告げ知らせているのです。