主の恵みの年を告げるために 2024年10月27日(日曜 朝の礼拝)
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主の恵みの年を告げるために
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- 村田寿和 牧師
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ルカによる福音書 4章14節~30節
聖書の言葉
4:14 イエスが霊の力に満ちてガリラヤに帰られると、その噂が周り一帯に広まった。
4:15 イエスは諸会堂で教え、皆から称賛を受けられた。
4:16 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとしてお立ちになった。
4:17 預言者イザヤの巻物が手渡されたので、それを開いて、こう書いてある箇所を見つけられた。
4:18 「主の霊が私に臨んだ。/貧しい人に福音を告げ知らせるために/主が私に油を注がれたからである。/主が私を遣わされたのは/捕らわれている人に解放を/目の見えない人に視力の回復を告げ/打ちひしがれている人を自由にし
4:19 主の恵みの年を告げるためである。」
4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して座られた。会堂にいる皆の目がイエスに注がれた。
4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
4:22 皆はイエスを褒め、その口から出て来る恵みの言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
4:23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うに違いない。」
4:24 そして、言われた。「よく言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
4:25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、全地に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたのに、
4:26 エリヤはその中の誰のもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタにいるやもめのもとにだけ遣わされた。
4:27 また、預言者エリシャの時には、イスラエルには規定の病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンだけが清められた。」
4:28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、
4:29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
4:30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。ルカによる福音書 4章14節~30節
メッセージ
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序.前回の振り返り
前回、私たちは、イエス様が40日間、荒れ野で悪魔から誘惑を受けられたことを学びました。イエス様は、神の愛する子として、また、主の喜ばれる僕として、悪魔の誘惑を退けられました。イエス様は、神の言葉に聞き従うことによって、悪魔の誘惑に勝利されたのです。今朝の御言葉は、その続きとなります。
1、神の霊の力に満ちて
小見出しに、「ガリラヤで宣教を始める」とあるように、今朝の御言葉には、イエス様がガリラヤで神の国の福音を宣べ伝えたことが記されています。イエス様の「救い主としての公の生涯」(公生涯)の始まりが記されているのです。14節に、「イエスが霊の力に満ちてガリラヤに帰られると、その噂が周り一帯に広まった」とあります。第4章1節にも、「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川から帰られた」と記されていました。イエス様に満ちている聖霊は、神様から直接、注がれたものであります。第3章21節と22節にこう記されていました。「さて、民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』という声が、天から聞こえた」。神様によって直接、聖霊を注がれてメシア、救い主とされたイエス様は、聖霊に満ちて試みを受け、聖霊に満ちて宣教を始められるのです。イエス様は、聖霊を注がれたメシア、救い主として、神の霊の力に満ちて宣教を始められるのです。イエス様は諸会堂で教え、皆から称賛を受けられました。その具体的な様子が16節以下に記されています。
2、ナザレの会堂での説教(メシアの就任演説)
イエス様は、ガリラヤ地方一帯の諸会堂で教え、皆から称賛を受けられた後で、ご自分の育ったナザレに行きました。イエス様は、ユダヤのベツレヘムでお生まれになりましたが、ガリラヤのナザレで、30歳までの生涯を送られたのです(ルカ2:11、3:23参照)。イエス様は、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとしてお立ちになりました。私たちが日曜日に教会に集まって礼拝をささげているように、ナザレの人々も安息日に会堂に集まって礼拝をささげていたのです(会堂は教会の前身である)。会堂には、管理人がいて、その管理人が依頼すれば、誰でも聖書を読み、励ましの言葉を語ることができました(使徒13:15参照)。ナザレの会堂の管理人も、イエス様の評判を聞いていて、イエス様に聖書を読み、励ましの言葉を語るように依頼していたのでしょう。イエス様は、預言者イザヤの巻物を手渡されたので、それを開いて、こう書いてある箇所を見つけ、朗読されました。「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために/主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは/捕らわれている人に解放を/目の見えない人に視力の回復を告げ/打ちひしがれている人を自由にし/主の恵みの年を告げるためである」。この御言葉は、『イザヤ書』の第61章1節と2節の御言葉です。聖書を開いて確認しましょう。旧約の1146ページです。
主なる神の霊が私に臨んだ。主が私に油を注いだからである。苦しむ人に良い知らせを伝えるため/主が私を遣わされた。心の打ち砕かれた人を包み/捕らわれ人に自由を/つながれている人に解放を告げるために。主の恵みの年と/私たちの神の報復の日とを告げ/すべての嘆く人を慰めるために。
この『イザヤ書』の御言葉と『ルカによる福音書』の御言葉を読み比べて気がつくことは、『イザヤ書』では、「私たちの神の報復の日を告げ」とありますが、『ルカによる福音書』には記されていないということです。福音書記者ルカが記す、油を注がれた方、メシアは、主の報復の日を告げることなく、主の恵みの年だけを告げるのです。それは、イエス様が、ご自分の民に代わって、神の報復(主の裁き)を受けてくださるからです。イエス様は、ご自分の民に代わって神の報復(主の裁き)を受けてくださるメシアであるゆえに、主の恵みの年を告げることができるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の107ページです。
『イザヤ書』の御言葉を朗読した後で、イエス様は、こう言われました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。ここでイエス様は、「ご自分こそ、主から聖霊を注がれたメシアである」と宣言されたのです。イエス様は、『イザヤ書』に記されている約束のメシアこそ、「わたしである」と解釈し、『イザヤ書』から、メシアである御自分の使命について理解されたのです。主がイエス様に聖霊を注がれたのは、「貧しい人に福音(良き知らせ)を告げ知らせるため」であります。また、主がイエス様を遣わされたのは、「捕らわれている人に解放を/目の見えない人に視力の回復を告げ/打ちひしがれている人を自由にし/主の恵みの年を告げるため」であるのです。「主の恵みの年」とは、50年に一度の「ヨベルの年」のことです。ヨベルの年については、『レビ記』の第25章に記されています。旧約の189ページです。第25章8節から10節までをお読みします。
あなたは安息年を七回、つまり、七年の七倍を数えなさい。七回の安息年の期間は四十九年である。その第七の月の十日に角笛を響かせなさい。贖いの日であるから、全地に角笛を響かせねばならない。五十年目の年を聖別し、その地のすべての住民に解放を宣言しなさい。それはあなたがたのためのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれの自分の所有の地に帰ることができる。おのおのその氏族のもとに帰ることができる。
この「ヨベルの年」を背景にして、イザヤは、「主の恵みの年」について語ったのです。ちなみに、ヨベルとは、雄羊の角のことです。雄羊の角でできた角笛を響かせたことから、「ヨベルの年」と呼ばれているのです。ヨベルの年は、奴隷が解放され、所有地が回復される「主の恵みの年」であるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の107ページです。
3、イエスを歓迎しないナザレの人々
ナザレの人々は皆、イエス様をほめ、その口から出る恵みの言葉に驚きました。では、ナザレの人々は皆、イエス様をイザヤが預言したメシア、救い主として受け入れたかと言えば、そうではありません。ナザレの人々は、「この人はヨセフの子ではないか」と言ったのです。ナザレの人々は、イエス様のことを子供のときから知っているわけですね。ナザレの人々は、イエス様が大工であるヨセフの子であることを知っているのです。「イエスは、自分が預言者イザヤの書に記されている、油を注がれた者だと言うけれども、私たちは、イエスがヨセフの子であることを知っているではないか」と、ナザレの人々は言ったのです。そして、ここには、「本当にメシアであるならば、力ある業によって証明してみろ」という人々の思いが込められているわけです。その人々の思いを見透かして、イエス様は、こう言われます。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うに違いない」。次回学ぶことになる31節以下に、イエス様がカファルナウムで、男から悪霊を追い出したこと、多くの病人を癒したことが記されています。そのようなことを、ナザレの人々は知っていたのです。イエス様は主から遣わされたメシアとして、悪霊と病から人々を解放されました。そのメシアとしての力ある業を、故郷であるナザレにおいてこそ行うべきであると人々は考えたのです。イエス様と故郷を同じくする自分たちこそ、イエス様がもたらす恵みにあずかってしかるべきであると彼らは考えたのです。しかしイエス様は、人々の暗黙の要求を退けて、こう言います。「よく言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、全地に大飢饉が襲ったとき、イスラエルには多くのやもめがいたのに、エリヤはその中の誰のもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタにいるやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時には、イスラエルに規定の病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンだけが清められた」。イエス様は、「よく言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と言われました。イエス様は、ご自分のことを「預言者」と言われます。聖霊を注がれて遣わされたメシアは、神の言葉を語る預言者でもあるのです。旧約聖書を読むと、王や祭司だけではなく、預言者にも油が注がれたことが記されています(列王上19:16「また、ニムシの子イエフに油を注いで、イスラエルの王としなさい。さらに、アベル・メホラ出身のシャファトの子エリシャに油を注ぎ、あなたに代わる預言者としなさい」参照)。イエス・キリストは、預言者であり、祭司であり、王である究極のメシア、救い主であるのです(キリストの三職、ウェストミンスター小教理の問23「キリストは、わたしたちの贖い主として、謙卑と高挙のいずれの状態においても、預言者と祭司と王の職務を遂行されます」参照)。イエス様が、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と言われたとき、おそらく、エレミヤのことを考えていたのではないかと思います。『エレミヤ書』の第11章を読むと、エレミヤが故郷であるアナトトの人々に命を狙われていたことが記されています。アナトトの人々は、エレミヤにこう言いました。「主の名によって預言するな/そうすれば我々の手にかかって/死ぬことはない」(エレミヤ11:21参照)。また、エレミヤは、ユダ王国の指導者たちによって捕らえられ、深い井戸に投げ込まれました(エレミヤ38章参照)。バビロン帝国に降伏するようにと語るエレミヤを、指導者たちは殺そうとしたのです。そのようなエレミヤのことを思いながら、イエス様は、「よく言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と言われたのです。しかし、その原因は違います。エレミヤは、バビロン帝国に降伏することを語ったゆえに、同胞の民から憎まれました。しかし、イエス様は、主の恵みがユダヤ人ではない異邦人に与えられることを語ったゆえに、同胞の民から憎まれるのです。ここでイエス様は、大飢饉の時に、エリヤがイスラエルにいるやもめのもとにではなく、サレプタにいるやもめのもとに遣わされたと語ります。「サレプタ」はフェニキア地方にある町ですから、「サレプタのやもめ」は異邦人です。主は、エリヤを異邦人のやもめのもとに遣わし、エリヤを通して、異邦人のやもめを養われたのです。また、イエス様は、エリシャがイスラエルにいる規定の病を患っている人ではなく、シリア人のナアマンだけを清められたと語ります。「規定の病」とは、新共同訳聖書によれば、「重い皮膚病」のことです。主はエリシャを通して、異邦人であるナアマンの規定の病を清められたのです。このようなお話しは、『列王記』に記されていることであり、ユダヤ人ならば、誰もが知っているお話しでした。しかし、これを聞いた人々は皆憤慨し、イエス様を町の外へ追い出し、崖から突き落とそうとしたのです。イエス様の恵みの言葉を聴いて、イエス様をほめ、驚いていた人々が、ここでは憤慨し、イエス様を殺そうとするのです。私たちは、この人々の変わりようをどのように理解したらよいのでしょうか。一つはっきりしていることは、その原因が、23節から27節に記されているイエス様の御言葉にあるということです。ここでイエス様は、何を言われているのでしょうか。それは、「主から遣わされたメシアである自分を、故郷の人々(神の民イスラエル)が受け入れない」と言うことです。そのことによって、「主の恵みが異邦人にもたらされるようになる」と言うことです。もっと言えば、「イエス・キリストを喜んで迎えない故郷の人々(神の民イスラエル)は、主の恵みにあずかることができない」と言うことです。そのことを理解したからこそ、ナザレの人々は、イエス様を町の外へ追い出し、崖から突き落とそうとしたのです。ユダヤ人から出るメシアは、ユダヤ人を救うべきであって、異邦人を救うべきではない。そのようにナザレの人々は考えて、イエス様を町の外へ追い出し、殺そうとするのです。しかし、イエス様は、人々の間を通り抜けて立ち去りました。イエス様は、メシアとしての威厳をもって、堂々と人々の間を通り抜けて立ち去られたのです。
結、主の恵みの年を告げるイエス
主が聖霊を注いで遣わしてくださったイエス・キリストは、ユダヤ人の救い主だけではなく、異邦人の救い主でもあります。主イエス・キリストの救いは、ユダヤ人によって歓迎されずに、十字架につけられて殺されてしまうことによって、異邦人に、すべての民にもたらされるのです(ローマ9~11章参照)。そのことが、今朝の御言葉の「ナザレで受け入れられない」というお話において、前もって示されていたのです。イエス・キリストは、御自分を喜んで迎える人を、罪の奴隷状態から解放し、神の子としての自由を与えてくださるメシア、救い主であります。イエス・キリストは、今も、御自分の名によって二人または三人が集まる礼拝において、主の恵みの年を告げておられるのです(二コリント6:2参照)。