試みを受けたイエス 2024年10月20日(日曜 朝の礼拝)
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試みを受けたイエス
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- 村田寿和 牧師
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ルカによる福音書 4章1節~13節
聖書の言葉
4:1 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川から帰られた。そして、霊によって荒れ野に導かれ、
4:2 四十日間、悪魔から試みを受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。
4:3 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるよう命じたらどうだ。」
4:4 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。
4:5 さらに、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、
4:6 こう言った。「この国々の一切の権力と栄華とを与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。
4:7 だから、もし私を拝むなら、全部あなたのものになる。」
4:8 イエスはお答えになった。/「『あなたの神である主を拝み/ただ主に仕えよ』と書いてある。」
4:9 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。
4:10 なぜなら、こう書いてあるからだ。/『神はあなたのために天使たちに命じて/あなたを守らせる。』
4:11 また、/『彼らはあなたを両手で支え/あなたの足が石に打ち当たらないようにする。』」
4:12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。
4:13 悪魔はあらゆる試みをし尽くして、時が来るまでイエスを離れた。ルカによる福音書 4章1節~13節
メッセージ
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序、誘惑と試練
前回、私たちは、イエス様が神様から直接、聖霊を注がれて、イスラエルのメシア、王として即位されたこと。また、天からの声によって、イエス・キリストが神の愛する独り子であり、主に喜ばれる僕であることを学びました。
今朝の御言葉には、聖霊に満ちて、ヨルダン川から帰られたイエス様が、霊によって荒れ野に導かれ、四十日間、悪魔から試みを受けられたことが記されています。ここで「試みを受けた」と訳されている言葉(ペイラゾー)は、「誘惑を受けた」とも「試練を受けた」とも訳すことができます。悪魔の誘惑は、父なる神からの試練でもあるのです。悪魔とは、堕落した天使であり、神に敵対する者のことです。『創世記』の第3章を読むと、エデンの園において、蛇(悪魔)が女を誘惑したこと。蛇(悪魔)の誘惑によって女とアダムが禁じられた木の実を食べて、良き創造の状態から堕落したことが記されています。イエス・キリストの使徒パウロによれば、イエス様は最後のアダムでありました(一コリント15:45「聖書に『最初の人アダムは生きる者となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となりました」参照)。イエス様は、はじめの人アダムと並ぶ契約の頭であるのです。そのイエス様を、悪魔は誘惑して、堕落させようとするのです。そのようにして悪魔は、神の救いの計画を台無しにしようとするのです。イエス様が悪魔から誘惑を受けたことの背景には、かつてアダムが悪魔から誘惑を受けたことがあるのです。
また、イエス様が荒れ野で、四十日間、悪魔から誘惑を受けたことは、イスラエルの民が荒れ野で四十年間、主から試みを受けたことを背景にしています。イスラエルの民が荒れ野で四十年間、試みを受けたように、イスラエルのメシアであるイエス様は、荒れ野で四十日間、試みを受けたのです。私たちは、イエス様が荒れ野で40日間、試みを受けたことを、イスラエルの民が荒れ野で40年間、試みを受けたことの縮図として読むべきであるのです。
悪魔の誘惑は、父なる神の試練でもあると申しました。「試み」という言葉(ペイラスモス)は、「誘惑」とも「試練」とも訳すことができます。しかし、その目指すところは全く逆です。誘惑は、罪を犯させて、堕落させることを目指します。他方、試練(訓練)は、鍛えることによって、成長させることを目指します。悪魔は、イエス様を誘惑して、罪を犯させて、メシアの働きを台無しにしようとします。他方、父なる神は、イエス様を、「私の愛する子、私の心に適う者」として確立するために、悪魔の働きを許容して、試練に遭わせられるのです(ヤコブ1:2~4「私のきょうだいたち、さまざまな試練に遭ったときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生まれることを、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、何一つ欠けたところのない、完全で申し分のない人になります」参照)。悪魔は、堕落した天使であり、神の御許しの中で活動しているに過ぎません(ヨブ1、2章、ルカ22:31参照)。悪魔の誘惑は、もっと広い視野で見るならば、父なる神からの試練(訓練)であるのです。
1、第一の誘惑
40日間何も食べず、空腹を覚えられたイエス様に、悪魔はこう言います。「神の子なら、この石にパンになるよう命じたらどうだ」。この悪魔の言葉は、「あなたは私の愛する子」という天からの声を背景にしています。「あなたは、神の子であるのだから、石をパンに変えて食べたらよいではないか」と悪魔は誘惑するのです。この悪魔の誘惑は、イエス様が石をパンに変えることができることを前提にしています。イエス様は神の子ですから、能力としては石をパンにすることができるのです。しかし、イエス様はこうお答えになります。「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。ここでイエス様は、『申命記』の御言葉を引用しています。『申命記』とは、荒れ野を40年間さまよったイスラエルの民に、モーセが語った説教であります。モーセは、新しい世代が、約束の地カナンに入るに先立って、これまでの歩みを振り返り、これから入るカナンの地でどのように生活すべきかを教えたのです。『申命記』の第8章1節から6節までをお読みします。旧約の279ページです。
今日私が命じる戒めをすべて守り行いなさい。そうすればあなたがたは生き、数を増し、主が先祖に誓われた地に入り、これを所有することができる。あなたの神、主がこの四十年の間、荒れ野であなたを導いた、すべての道のりを思い起こしなさい。主はあなたを苦しめ、試み、あなたの心にあるもの、すなわちその戒めを守るかどうかを知ろうとされた。そしてあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたもその先祖も知らなかったマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるということを、あなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたの着ていた服は擦り切れず、足は腫れなかった。人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練することを心に留めなさい。また、あなたの神、主の戒めを守り、その道を歩み、主を畏れなさい。
3節に、「そしてあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたもその先祖も知らなかったマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるということを、あなたに知らせるためであった」とあります。この御言葉を引用して、イエス様は悪魔の誘惑を退けられたのです。ここで注意してほしいのは、イエス様は、「人はパンだけで生きるのではない」という御言葉だけではなく、その前後の御言葉を含めて、文脈を意識して引用しておられるということです。つまり、イエス様は、主がイスラエルの民を四十年間、荒れ野で導かれたことを思い起こしつつ、荒れ野での40日間を過ごしておられたのです。また、悪魔の誘惑を主からの訓練であることを見抜いておられました。イエス様は、イエス様は、主の口から出るすべての言葉によって生きる者として、「人はパンだけで生きる者ではない」と言われたのです。そのようにして、イエス様は、パンそのものによって生きることを拒否されたのです。自分の力で石をパンにすることを拒否されたのです。イエス様は、神様が愛する子を訓練することを心に留めて、主の戒めを守り、その道を歩み、主を畏れるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の106ページです。
2、第二の誘惑
さらに、悪魔は、イエス様を高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、こう言いました。「この国々の一切の権力と栄華とを与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もし、私を拝むなら、全部あなたのものになる」。悪魔は、「世界の国々の一切の権力と栄華は、神から自分に任されている」と言います。この悪魔の言葉は本当でしょうか。『ヨハネによる福音書』の第8章で、イエス様は悪魔について次のように言われました。「悪魔は初めから人殺しであって、真理に立ってはいない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである」(ヨハネ8:44)。「悪魔は偽り者であり、その父である」。このイエス様の御言葉によれば、悪魔は偽りを言っていることになります。つまり、悪魔は神様から国々の一切の権力と栄華を任されてはいないのです。しかしイエス様は、悪魔のことを「この世の支配者」と言っていますので、悪魔の言葉が全くの偽りであるとは言えません(ヨハネ12:31「今こそ、この世が裁かれる時、今こそ、この世の支配者が追放される」、14:30、16:11、一ヨハネ5:19参照)。では、私たちは、悪魔の言葉をどのように理解したらよいのでしょうか。結論から申しますと、神様は積極的に、国々の権力と栄華を悪魔に任されてはいません。しかし、現実として、はじめの人アダムが悪魔の言葉に従って罪を犯したことにより、国々の権力と栄華は悪魔の支配下にあるのです。神様は、人間をご自分のかたちに似せてお造りになりました。神様は、人間を、ご自分の御心に従って世界を治める者として造られたのです。しかし、はじめの人アダムが、神の掟に背いて、悪魔の言葉に従って、禁じられた木の実を食べたことにより、人間は悪魔の支配下に置かれてしまったのです。そのようにして、世界の国々の権力と栄華が悪魔のものとなってしまったのです。悪魔は、「もし私を拝むなら、全部あなたのものになる」とイエス様を誘惑します。この誘惑は、「私の心に適う者」という天からの声を背景にしています。「私の心に適う者」とは、「主に喜ばれる僕」を意味します。悪魔は、「主の僕ではなく、私を拝むことによって、私の僕となれ。そうすれば、国々の一切の権力と栄華を与えよう」と言うのです。それに対して、イエス様はこうお答えになります。「『あなたの神である主を拝み/ただ主に仕えよ』と書いてある」。ここでも、イエス様は『申命記』の御言葉を引用しています。『申命記』の第6章10節から15節までをお読みします。旧約の276ページです。
あなたの神、主が、あなたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが築いたのではない大きくてすばらしい町、あなたが満たしたのではないあらゆる財産で満ちた家、あなたが掘ったのではない水溜め、あなたが植えたのではないぶどう園やオリーブ畑を得て、食べて満足するとき、エジプトの地、奴隷の家からあなたを導き出した主を忘れないように注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主に仕え、その名によって誓いなさい。他の神々、あなたの周りにいる民の神々に従ってはならない。あなたの中におられる、あなたの神、主は妬む神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向けて燃え上がり、あなたが地の面から滅ぼされることのないようにしなさい。
13節に、「あなたの神、主を畏れ、主に仕え、その名によって誓いなさい」とあります。ここでも、イエス様は前後の御言葉を含めて、文脈を意識して引用しておられます。なぜ、主だけを拝み、主にのみ仕えなければならないのか。それは、主があらゆる祝福の源であるからです。私たちが手にしているあらゆるものは、主から恵みとしていただいたものであるのです。また、主は妬む神でもあります。主は怒りを燃え上がらせるほどに、御自分の民を愛しておられるのです。それゆえ、私たちは、「あなたの神、主を畏れ、主に仕えなければならないのです。悪魔は、苦難を通らずして、栄光を与えようと誘惑しました。しかし、イエス様は主に喜ばれる僕として、主だけを崇めるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の106ページです。
3、第三の誘惑
そこで、悪魔はイエス様をエルサレムに連れて行き、神殿の端に立たせて、こう言います。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。なぜなら、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて/あなたを守らせる。』また、『彼らはあなたを両手で支え/あなたの足が石に打ち当たらないようにする』」。これまで、イエス様は、悪魔の誘惑を、聖書の御言葉を引用することによって、退けてきました。ここでは、驚くべきことに、悪魔が聖書の言葉を引用しています。悪魔は、『詩編』の第91編の御言葉を引用して、イエス様に、神殿の屋根から飛び降りるように誘惑するのです。それに対して、イエス様はこうお答えになります。「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」。これは『申命記』の第6章16節からの引用です。『申命記』の第6章16節から19節までをお読みします。旧約の276ページです。
あなたがたがマサでしたように、あなたがたの神、主を試してはならない。あなたがたの神、主の戒めと、命じられた定めと掟を固く守り、主の目に適う正しいことを行いなさい。そうすれば、あなたは幸せになり、主があなたの先祖に誓われた良い土地に入り、これを所有して、主が語られたとおり、すべての敵をあなたの前から追い払うことができる。
16節に、「あなたがたがマサで試したように、あなたがたの神、主を試してはならない」とあります。ここでも、イエス様は、前後の御言葉を含めて、その文脈を意識して引用しておられます。かつてイスラエルの人々は、飲み水がなくなったことで、「主は私たちの間におられるだろうか」と言い、モーセと争い、主を試しました(出エジプト17章参照)。そのことを思い起しつつ、イエス様は、「あなたの神、主を試してはならない」と言われるのです。そして、イエス様は、イスラエルの民を代表するメシアとして、主の戒めと、命じられた定めと掟を固く守り、主の目に適う正しいことを行うのです。そのようにして、イエス様は、御自分の敵である悪魔を追い払われたのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の106ページです。
悪魔は、聖書に、「神はあなたのために天使たちに命じて/あなたを守らせる」「彼らはあなたを両手で支え/あなたの足が石に打ち当たらないようにする」と書いてあるから、神殿の屋根から飛び降りたらどうだと誘惑しました。しかし、それは神への信頼ではなく、神である主を試すことであるのです。『詩編』の第91編は、主に信頼することを教える歌であります。しかし、悪魔は、その詩編の御言葉を用いて、神を試すようにと誘惑するのです。悪魔は、前後の御言葉を含めることなく、文脈を無視して、聖書を引用しました。しかし、そのような引用は、自己本位で、間違ったことであるのです。悪魔は、聖書を引用することはできても、正しく解釈して引用することはできないのです。聖霊に満ちておられるイエス様こそ、聖書を正しく解釈し、適切に引用することができるのです。
結、悪魔の誘惑に勝利したイエス
イエス様は、悪魔の誘惑を聖書の言葉、神の言葉によって退けられました。このことは、イエス様が神の民を代表するイスラエルの王、メシアとして、悪魔の誘惑に勝利されたことを教えています。私たちは、主イエス・キリストにあって悪魔に勝利しているのです(ヨハネ16:33「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」参照)。しかし、悪魔は、今も、「ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと歩き回っています」(一ペトロ5:8参照)。悪魔は、私たちを主イエス・キリストから引き離そうと誘惑してきます。その悪魔の誘惑を、私たちは主に依り頼んで、神の言葉によって退けるべきであるのです。イエス・キリストの使徒パウロは、『エフェソの信徒への手紙』の第6章10節から18節で次のように記しています。新約の352ページです。
最後に、主にあって、その大いなる力によって強くありなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるように、神の武具を身に着けなさい。私たちの戦いは、人間に対するものではなく、支配、権威、闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊に対するものだからです。それゆえ悪しき日にあってよく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を取りなさい。つまり、立って、真理の帯を締め、正義の胸当てを着け、平和の福音を告げる備えを履物としなさい。これらすべてと共に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪しき者の放つ燃える矢をすべて消すことができます。また、救いの兜をかぶり、霊の剣、すなわち、神の言葉を取りなさい。どのような時にも、霊によって祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈りなさい。
17節に、「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」とあります。神の言葉は、悪魔に抵抗するための武器であるのです。私たちは、主の日の礼拝ごとに、神の言葉である聖書を学んでいます。それは、私たちが悪魔に抵抗して、神の言葉に従う神の子として、また主の僕として、成長していくためであるのです。