神の独り子にして主の僕 2024年10月13日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

神の独り子にして主の僕

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 3章18節~38節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:18 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。
3:19 しかし、領主ヘロデは、兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、
3:20 ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、さらに悪事を重ねることとなった。
3:21 さて、民衆が皆洗礼(バプテスマ)を受け、イエスも洗礼(バプテスマ)を受けて祈っておられると、天が開け、
3:22 聖霊が鳩のような姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
3:23 イエスご自身が宣教を始められたのは、およそ三十歳の時であり、人々からはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それから遡ると、
3:24 マタト、レビ、メルキ、ヤナイ、ヨセフ、
3:25 マタティア、アモス、ナウム、エスリ、ナガイ、
3:26 マハト、マタティア、セメイン、ヨセク、ヨダ、
3:27 ヨハナン、レサ、ゼルバベル、シャルティエル、ネリ、
3:28 メルキ、アディ、コサム、エルマダム、エル、
3:29 ヨシュア、エリエゼル、ヨリム、マタト、レビ、
3:30 シメオン、ユダ、ヨセフ、ヨナム、エリアキム、
3:31 メレア、メンナ、マタタ、ナタン、ダビデ、
3:32 エッサイ、オベド、ボアズ、サラ、ナフション、
3:33 アミナダブ、アドミン、アルニ、ヘツロン、ペレツ、ユダ、
3:34 ヤコブ、イサク、アブラハム、テラ、ナホル、
3:35 セルグ、レウ、ペレグ、エベル、シェラ、
3:36 カイナム、アルパクシャド、セム、ノア、レメク、
3:37 メトシェラ、エノク、イエレド、マハラルエル、ケナン、
3:38 エノシュ、セト、アダム、そして神に至る。ルカによる福音書 3章18節~38節

原稿のアイコンメッセージ

序、

 今朝は、『ルカによる福音書』の第3章18節から38節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1、捕らえられたヨハネ

 18節から20節までをお読みします。

 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。しかし、領主ヘロデは、兄弟の妻へロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、さらに悪事を重ねることとなった。

 洗礼者ヨハネは、神に立ち帰るようにと悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。ヨハネは、領主ヘロデに対しても、その悪事を指摘して、神へと立ち帰るように語りました。『列王記上』を読むと、預言者エリヤがアハブ王の罪を恐れることなく糾弾したことが記されています。その預言者エリヤのように、ヨハネは領主ヘロデの罪を恐れることなく糾弾したのです。領主ヘロデは、兄弟の妻へロディアを自分の妻にしていました。このことは、律法が禁じていることでした(レビ18:14参照)。また、ヘロデは他にも悪事を行っていました。人々の中には、ヘロデの悪事を非難する人は誰もいませんでした。しかし、ヨハネは、神の預言者として、領主ヘロデの悪事を大胆に非難したのです。ヘロデは、どうしたでしょうか。ヨハネの言葉を聞いて、神へと立ち帰ったのでしょうか。そうではありません。領主ヘロデは、権力を用いて、ヨハネを捕らえ、牢に閉じ込めたのです。こうして、ヘロデは、ヨハネを通して語られる神の言葉に耳を閉ざしてしますのです。。

2、メシアに任職したイエス

 21節と22節をお読みします。

 さて、民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

 ここには、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた民衆の中に、イエス様もおられたことが記されています。「民衆」と訳されている言葉(ラオス)は神の民を意味します。神の民は、洗礼者ヨハネの言葉に、神の言葉を聞き取り、ヨハネから悔い改めの洗礼を受けました。その神の民の中に、イエス様もおられて、ヨハネから洗礼を受けられたのです。イエス様は、洗礼者ヨハネが告げ知らせた、「力のある方」「聖霊と火で洗礼をお授けになる方」であります。しかし、ここでは、神の民の一員として、ヨハネから洗礼を受けられました。神の民の一員として割礼を受け、神殿でささげられ、過越祭を祝われたイエス様は、神の民の一員としてヨハネから洗礼を受けられたのです。イエス様は、聖霊によっておとめマリアからお生まれになった罪のない御方でありました。また、その生涯においても、罪を犯したことがない御方でありました。しかし、イエス様は、神の民の一員として、悔い改めの洗礼を受けられたのです。

 洗礼を受けられたイエス様は祈っておられました。イエス様は、何を祈っておられたのでしょうか。おそらく、神の霊、聖霊が与えられることを祈り求めていたのだと思います。そのイエス様の祈りに応えて、神様は天を開き、聖霊をイエス様に注がれるのです。「天が開け、聖霊が鳩のような姿でイエスの上に降って来た」とありますが、聖霊は鳩のような見える姿で、客観的な事実として、イエス様の上に降ったのです(新共同訳「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」参照)。すると、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が、天から聞こえました。この天からの声は、イエス様が、聖霊を注がれたメシア、王として任職したことを示しています。旧約の時代、イスラエルでは、王になる人の頭に、油を注ぎました。『サムエル記上』の第16章を読むと、預言者サムエルがダビデの頭に油を注いだこと。その後、聖霊がダビデに激しく降るようになったことが記されています。油は、目に見えない聖霊を表すものであるのです。その聖霊を、イエス様は神様から直接、注がれたのです。そして、神様は、イエス様がイスラエルのメシア、王として任職されたことを、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という天からの声によって宣言されたのです。

 「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という天からの声は、旧約聖書の御言葉を背景にしています。ひとつは、『詩編』の第2編です。旧約の820ページです。第2編は、王の即位を祝う詩編です。その4節から9節までをお読みします。

 天にいます方は笑う。わが主は彼らを嘲る。怒りに燃えて彼らに語り/憤りに任せて彼らをおののかせる。「私が聖なる山シオンで/わが王を立てた」と。私は主の掟を語り告げよう。主は私に言われた。「あなたはわたしの子。私は今日、あなたを生んだ。求めよ、私は国々をあなたの相続地とし/地の果てまで、あなたの土地としよう。あなたは彼らを鉄の杖で打ち砕く/陶工が器を叩きつけるように。」

 7節に、「あなたはわたしの子、私は今日、あなたを生んだ」という主の御言葉が記されています。王様は、特別な意味で神の子と呼ばれるのです(サムエル下7:14「私は彼の父となり、彼は私の子となる」参照)。しかも、イエス様は、「あなたは私の愛する子」と呼ばれています。「愛する子」とは「独り子」という意味です(創世記22:2「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて」参照)。イエス様は、神の愛する、独り子であるのです。

 また、神様はイエス様のことを「私の心に適う者」とも言われました。「新改訳2017」では、「私はあなたを喜ぶ」と翻訳しています。「私の心に適う者」「私はあなたを喜ぶ」。この天からの声は、『イザヤ書』の第42章の御言葉を背景にしています。旧約の1112ページです。第42章は、小見出しに「主の僕の召命」とあるように、主の僕の最初の歌です。ここでは、1節から4節までをお読みします。

 見よ、私が支える僕/私の心が喜びとする、私の選んだ者を。私は彼に私の霊を授け/彼は諸国民に公正をもたらす。彼は叫ばず、声を上げず、巷にその声を響かせない。傷ついた葦を折らず/くすぶる灯心の火を消さず/忠実に公正をもたらす。彼は衰えず、押し潰されず/ついには、地に公正を確立する。島々は彼の教えを待ち望む。

 1節に、「見よ、私が支える僕/私の心が喜びとする、私の選んだ者を」とあります。この御言葉を背景にして、神様は、「私の心に適う者」「私はあなたを喜ぶ」と言われたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の105ページです。

 『詩編』の第2編と『イザヤ書』の第42章の御言葉を背景にして、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という天からの声を読み解くとき、イエス様が神の独り子であり、主の僕であることが分かります。神様は、イエス様に聖霊を注いで、「あなたは私の愛する独り子であり、私が喜ぶ僕である」と宣言されました。この天からの声は、イエス様がどのようなメシアであるかを告げる言葉であるのです。

「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」。この天からの声は、イエス・キリストの御名によって洗礼を受けた、私たちに対しても語られています。神様は、イエス・キリストにあって、私たちをご自分の愛する子としてくださいます。私たちは神の独り子ではありませんが、愛されている神の子であるのです。また、神様は、イエス・キリストにあって、私たちをご自分の心に適った僕としてくださるのです。キリスト者とは、神の子であり、主の僕であるのです。それゆえ私たちは、イエス・キリストにあって、神様を「父なる神」と呼ぶことができるし、「主なる神」と呼ぶことができるのです。

3、イエスの系図

 23節から38節までをお読みします。

 イエスご自身が宣教を始められたのは、およそ三十歳の時であり、人々からヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それから遡ると、マタト、レビ、メルキ、ヤナイ、ヨセフ、マタティア、アモス、ナウム、エスリ、ナガイ、マハト、マタティア、セメイン、ヨセク、ヨダ、ヨハナン、レサ、ゼルバベル、シャルティエル、ネリ、メルキ、アディ、コサム、エルマダム、エル、ヨシュア、エリエゼル、ヨリム、エリアキム、メレア、メンナ、マタタ、ナタン、ダビデ、エッサイ、オベド、ボアズ、サラ、ナフション、アミナダブ、アドミン、アルニ、ヘツロン、ペレツ、ユダ、ヤコブ、イサク、アブラハム、テラ、ナホル、セルグ、レウ、ペレグ、エベル、シェラ、カイナム、アルパクシャド、セム、ノア、レメク、メトシェラ、エノク、イエレド、マハラルエル、ケナン、エノシュ、セト、アダム、そして神に至る。

ここには、イエス様の系図が記されています。イエス様は、およそ30歳で宣教を始められました。人々は、イエス様のことをヨセフの子と思っていました(4:22参照)。イエス様は聖霊によっておとめマリアからお生まれになりましたが、法的にはヨセフの息子であるのです。『マタイによる福音書』の第1章にも、イエス様の系図が記されています。マタイ福音書とルカ福音書の系図を比べると、ダビデより前の名前の多くが一致していないことに気がつきます。そもそも、ヨセフの父親の名前が違います。ルカ福音書では「エリ」ですが、マタイ福音書では「ヤコブ」となっています。なぜ、多くの名前が一致していないのか。ひとつの解釈は、ルカが血筋を優先した系図を資料としたのに対して、マタイは王位継承者を優先した系図を資料としたという解釈です。例えば、マタイ福音書ではダビデの子は「ソロモン」ですが、ルカ福音書ではダビデの子は「ナタン」となっています(サムエル下5:14「エルサレムで生まれた子どもの名は次のとおりである。シャムア、ショバブ、ナタン、ソロモン、イブハル、エリシュア、ネフェグ、ヤフィア、エリシャマ、エルヤダ、エリフェレト」参照)。このように、多くの名前が違うのですが、一番違う点は、ルカ福音書では、アブラハムよりも前に遡って記していることです。38節に、「エノシュ、セト、アダム、そして神に至る」とあります。このイエス様の系図は、イエス様が人性(人間の性質)においても、神の子であることを教えています。また、イエス様が、すべての人の救い主としてお生まれになったことを教えています。神様はエデンの園で罪を犯したアダムと女に、蛇(悪魔)の頭を打ち砕く、女の子孫の誕生を約束されました。これが原福音と呼ばれる、人間に与えられた最初の救いの約束です(創世3:15「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に/私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」参照)。その悪魔の頭を打ち砕く女の子孫が、アブラハムの子孫から生まれる(創世12章参照)。さらにはユダの子孫から生まれる(創世49章参照)。さらにはダビデの子孫から生まれると狭められていくわけです(サムエル下7章参照)。そして、ダビデの子孫であるヨセフを法的な父親として、イエス様がお生まれになったのです。ですから、神の救いの約束は、ユダヤ人だけのものではないのです。イエス様は、すべての人の救い主としてお生まれになったのです(ルカ2:10、11参照)。

 考えてみますと、私たち人間は誰もがアダムの子孫であり、その意味では神の子であると言えます。ですから、すべての人が神に立ち帰って、救い主イエス・キリストを信じることが求められているのです。『ルカによる福音書』は、神の普遍的な救いを教えています(ルカ福音書は異邦人を第一の読者として記された福音書である)。その背景には、すべての人が神の子であるという考え方があるのです(使徒17:28「私たちは神の中に生き、動き、存在しているからです。皆さんのうちのある詩人たちも、『我らもその子孫である』と言っているとおりです」参照)。しかし、アダムの堕落によって、すべての人が神の子としての資格を失ってしまいました。その神の子としての資格をもう一度与えるために、イエス・キリストは生まれてくださったのです。そして、イエス・キリストは、私たちの救い主として、神の独り子にして主の僕としての生涯を全うしてくださったのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す