力のある方が来られる
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- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書 ルカによる福音書 3章15節~17節
ルカ 3:15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。
ルカ 3:16 ヨハネは皆に向かって言った。「私はあなたがたに水で洗礼(バプテスマ)を授けているが、私よりも力のある方が来られる。私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼(バプテスマ)をお授けになる。
ルカ 3:17 その手には箕がある。そして、麦打ち場を掃き清め、麦は倉に納めて、殻を消えない火で焼き尽くされる。」ルカによる福音書 3章15節~17節
序、前々回と前回の振り返り
先程は第3章1節から20節までをお読みましたが、今朝は15節から17節までを中心にして御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
今朝は始めに、前々回と前回の振り返りをしたいと思います。
荒れ野で預言者として召されたザカリアの子ヨハネは、ヨルダン川沿いの地方一帯で、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。ヨハネは、「神に立ち帰りなさい。そのしるしとして洗礼を受けなさい。そうすれば、罪の赦しを得ることができる」と宣べ伝えていたのです。福音書記者ルカは、このヨハネの活動を、『イザヤ書』の預言の成就であると言いました。ヨハネこそ、主の道を備える、荒れ野で叫ぶ者であるのです。この「主の道」は、『イザヤ書』の文脈では、バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民を主がエルサレムへ導く道であります。しかし、福音書記者ルカが、ヨハネのことを荒れ野で叫ぶ者だと言うとき、「悔い改めて、主をお迎えする心を備えよ」と心のありようが言われているのです。悔い改めて、そのしるしとして洗礼を受けて、主をお迎えするならば、すべての人は、神の救いを見るのです。
それゆえ、多くの人が、ヨハネのもとに行き、洗礼を受けようとしました。そのような群衆に、ヨハネはこう言います。「毒蛇の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ」。ヨハネは、「差し迫った神の怒り」について語っています。これは、旧約の預言者たちが語って来た「主の日の裁き」についての預言です。旧約の預言者たちは、主なる神が歴史に介入して、裁きを行い、正義を打ち立てる「主の日」を預言していました。主の日は、主なる神の裁きの日であり、怒りの日であるのです。その神の怒りを免れるには、悔い改めにふさわしい実を結ぶことが求められるのです。9節に、「斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒され、火に投げ込まれる」とあるように、神の裁きの日に問われることは、悔い改めて、主を心にお迎えした者としての行い、生活であるのです。それで、群衆や徴税人や兵士たちは、それぞれに、「私たちはどうすればよいのですか」とヨハネに尋ねたのです。ヨハネは、衣服や食べ物を分かち合う愛の業に生きるように、権力を濫用して不正を行わないようにと語りました。悔い改めにふさわしい実とは、愛の業であり、義の業であるのです。悔い改めて、イエス・キリストを信じた私たち、聖霊と御言葉によって、イエス・キリストにつながっている私たちは、愛と義という実を豊かに結ぶ者とされているのです(ヨハネ15章、ガラテヤ5章参照)。
ここまでは、前々回と前回の振り返りです。
1、彼がメシアではないか
15節をお読みします。
民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。
「メシア」とは、「油を注がれた者」という意味で、王様、救い主を意味しています。イスラエルにおいて、ある人を王にする時、その人の頭に油を注ぐ儀式をしました。それゆえ、メシア、油注がれた者は、王様、救い主を意味するのです。ちなみに、「メシア」と訳されている元のギリシア語は「キリスト」です(新改訳2017参照)。神様は、聖書において、メシア、救い主を遣わすと約束していました。その約束のメシア、救い主こそ、ヨハネではないかと民衆は心の中で考えていたのです。少し細かいことを言いますが、15節では、「民衆」(ラオス)という言葉が用いられています。7節と10節では、「群衆」(ホクロス)と記されていましたが、15節は、「民衆」(ラオス)と記されているのです。『ルカによる福音書』において、「民衆」(ラオス)は「神の民」を表します。第2章に、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいたシメオンのことが、また、エルサレムの贖いを待ち望んでいたアンナのことが記されていました。この二人は、主が遣わすメシア、救い主を待ち望む者であったのです。この二人のように、神の民である民衆は、神が遣わすメシアを待ち望んでいたのです。そして、民衆は、ヨハネこそ、神が遣わされたメシアではないかと心の中で考えていたのです。
2、力のある方が来られる
16節と17節をお読みします。
ヨハネは皆に向かって言った。「私はあなたがたに水で洗礼を授けているが、私よりも力のある方が来られる。私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼をお授けになる。その手には箕がある。そして、麦打ち場を掃き清め、麦は倉に納めて、殻を消えない火で焼き尽くされる。」
民衆は、もしかしたらヨハネがメシアではないかと心の中で考えていました。その民衆に対して、ヨハネは、「私よりも力のある方が来られる」と言うのです。ヨハネの後から来られる力のある方こそ、民衆が待ち望んでいたメシア、救い主であるのです。ヨハネは、「私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と言います。「履物」とは「草履(サンダル)」のことです。一日の働きを終えて、外から家に帰って来る。そのとき、その人の足はホコリだらけです。そのホコリだらけの足の履物のひもを解くことは、奴隷であっても免除されていました。しかし、ヨハネは、その奴隷が免除されていることをするにも値しない。それほど、自分の後から来られる方は力のある御方である、と言うのです。ヨハネと後から来られる方の力の差は、授ける洗礼によって表されます。ヨハネは水で洗礼を授けていました。しかし、後から来られる方は、「聖霊と火であなたがたに洗礼をお授けになる」のです。「洗礼を授ける」と訳されている言葉(バプティゾー)の元々の意味は「浸す」という意味です。ヨハネは、民衆を水に浸しました。しかし、力のある方は、民衆を聖霊と火に浸すのです。このことは、「後から来られる方」が神から遣わされたメシア、油を注がれた方であるからです。「油」は神の霊である「聖霊」を、表しています。油を注がれた方は、神から聖霊を与えられた方であり、聖霊の担い手であるのです。『イザヤ書』の第11章1節から5節までをお読みします。旧約の1062ページです。
エッサイの株から一つの芽が萌え出で/その根から若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。知恵と分別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れる霊。彼は主を畏れることを喜ぶ。その目の見えるところによって判決を下さない。弱い者たちを正義によって裁き/地の苦しむ者たちのために公平な判決を下す。その口の杖によって地を打ち/その唇の息によって悪人を殺す。正義はその腰の帯となり/真実はその身の帯となる。
「エッサイ」とはダビデの父親の名前です。また、「若枝」とは「メシア」のことです(新共同訳、サムエル下23:5参照)。ダビデの子孫から生まれるメシアには、主の霊がとどまるのです。その主の霊によって、メシアは主を畏れることを喜び、正義と真理をもって、民を治めるのです。このようにメシアには主の霊がとどまっており、約束の聖霊は、そのメシアによって与えられるとヨハネは言うのです。
神様が、御自分の民に聖霊を与えると約束されたことは、『エゼキエル書』の第36章に記されています(イザヤ34:15、ヨエル3:1も参照)。旧約の1337ページです。第36章22節から27節までをお読みします。
それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、私が行うのはあなたがたのためではなく、あなたがたが行った先の諸国民の中で汚した私の聖なる名のためである。私は、あなたがたが諸国民の中で汚したために、汚されてしまった私の大いなる名を聖なるものとする。私が彼らの目の前で、あなたがたの内に私が聖なる者であることを示すとき、諸国民は私が主であることを知るようになる ――主なる神の仰せ。私は諸国民の中からあなたがたを連れ出し、全地から集め、あなたがたの土地に導き入れる。私があなたがたの上に清い水を振りかけると、あなたがたは清められる。私はあなたがたを、すべての汚れとすべての偶像から清める。あなたがたに新しい心を与え、あなたがたの内に新しい霊を授ける。あなたがたの肉体から石の心を取り除き、肉の心を与える。私の霊をあなたがたの内に授け、私の掟に従って歩ませ、私の法を守り行わせる。
ここでエゼキエルは、水の洗いと神の霊が授けられることを結びつけて預言しています。ヨハネは、このエゼキエルの預言を念頭に置きながら、「私は水で洗礼を授けているが、後から来られる方は、聖霊によって洗礼を授ける」と言ったのです。ヨハネの洗礼は水の洗いだけであって、神の霊である聖霊を授けるものではありません。しかし、力のある方は、水の洗いだけではなく、聖霊を授けられるのです。ヨハネは、自分よりも力のある方、神の霊がとどまっているメシアこそ、聖霊を授ける御方であると言ったのです(ヨハネ1:33「私はこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるようにと、私をお遣わしになった方が私に言われた。『霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である。』」参照)。
今朝の御言葉に戻ります。新約の105ページです。
ヨハネは、自分よりも力のある方は、「聖霊と火であなたがたに洗礼をお授けになる」と言いました。聖霊だけではなく、「聖霊と火で」と記されています(マルコでは聖霊だけ)。この「火」は「裁きの火」であります。といいますのも、ヨハネは続けてこう言っているからです。「その手には箕がある。そして、麦打ち場を掃き清め、麦を倉に納めて、殻を消えない火で焼き尽くされる」。ここで、ヨハネが描く力のある方の姿は、裁き主の姿であります。ヨハネは、来るべきメシアは、聖霊と火であなたがたに洗礼を授けて、あなたがたを裁かれる御方であると言うのです。ですから、ヨハネは、悔い改めにふさわしい実を結べと言ったのです。
ヨハネは、自分の後から来る力のある方こそ、メシアであり、聖霊と火で洗礼を授ける方であり、主の日の裁きを行う方であると告げ知らせました。このヨハネが語るメシア、救い主の姿は、実際のイエス・キリストの姿とは少し違います(ルカ7:18、19「ヨハネの弟子たちは、これらのことをすべてヨハネに伝えた。そこで、ヨハネは弟子を二人呼んで、主のもとに送り、『来たるべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか』と尋ねさせた」参照)。と言いますのも、イエス・キリストは、主の日の裁きを行う前に、主の日の裁きを受ける方であるからです。イエス・キリストが十字架につけられた日、昼の十二時から三時まで、全地は暗くなりました。このことは、十字架につけられたイエス・キリストのうえに、主の日の裁きが臨んでいたことを示しているのです(アモス8:9「その日になると/私は真昼に太陽を沈ませ/白昼に地を闇とする――主なる神の仰せ」参照)。イエス・キリストは、御自分の民の罪を担って、十字架のうえで主の日の裁きを受けてくださいました。私たちは、主イエス・キリストが、私たちの罪を担って、主の日の裁きを受けてくださったゆえに、神の怒りから救われているのです(一テサロニケ1:10参照)。私たちのために裁きを受けてくださった御方が、私たちを裁く御方である。それゆえ、私たちは、心を安らかにして、「主イエスよ、来たりませ」と祈ることができるのです(ヘブライ9:28「キリストもまた、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、救いをもたらすために、ご自分を待ち望んでいる人々に現れてくださるのです」参照)。
福音書記者ルカは、続編である『使徒言行録』において、イエス・キリストの弟子たちに約束の聖霊が注がれたことを記しています。聖霊は炎のような舌のかたちで弟子たち一人一人の上に降りました(使徒2:3参照)。十字架の死から復活させられ、天にあげられた主イエス・キリストから注がれたのは聖霊だけであるのです。それは、主イエス・キリストが私たちに代って神の裁きとしての火の洗礼を、あの十字架において受けてくださったからです。このことは、イエス様が第12章49節と50節で言われていることです。新約の131ページです。
私が来たのは、地上に火を投じるためである。その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、私には受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、私はどんなに苦しむことだろう。
イエス様が「私には受けねばならない洗礼がある」と言われるとき、その洗礼とは、ご自分の民に代わって十字架の上で裁かれる、火の洗礼のことを言っているのです。イエス・キリストは、私たちに代わって十字架の上で、火の洗礼を受けてくださいました。それゆえ、イエス・キリストの名によって洗礼を受けた私たちは、すべての罪を赦された者として、聖霊の洗礼を受けることができたのです。イエス・キリストが私たちに代わって火の洗礼を受けてくださったので、私たちは、聖霊の洗礼だけを受けることができたのです。聖霊によって、私たちは「イエスは主である」と告白し、神の子となる資格を与えられています(一コリント12:3、ヨハネ1:12参照)。聖霊によって、私たちは、「アッバ、父よ」と祈る、神様との親しい交わり、永遠の命を持つ者とされているのです(ガラテヤ4:6、ヨハネ17:3参照)。まさしく聖霊は、私たちが御国を受け継ぐための保証であるのです(新共同訳、エフェソ1:14参照)。