悔い改めにふさわしい実を結べ 2024年9月29日(日曜 朝の礼拝)

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悔い改めにふさわしい実を結べ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 3章7節~14節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:7 そこでヨハネは、洗礼(バプテスマ)を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「毒蛇の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。
3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
3:9 斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒され、火に投げ込まれる。」
3:10 群衆は、「では、私たちはどうすればよいのですか」と尋ねた。
3:11 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
3:12 徴税人も洗礼(バプテスマ)を受けるために来て、「先生、私たちはどうすればよいのですか」と言った。
3:13 ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。
3:14 兵士も、「この私たちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「誰からも金をゆすったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。ルカによる福音書 3章7節~14節

原稿のアイコンメッセージ

序、前回の振り返り

 先程は、第3章1節から20節までを読んでいただきました。前回は、1節から6節までを中心にしてお話ししましたので、今朝は、7節から14節までを中心にしてお話しいたします。

 最初に前回の振り返りをしたいと思います。2節の後半に、「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに臨んだ」とあるように、ヨハネは、荒れ野で、預言者としての召命を受けました。ザカリアの子ヨハネは、神から遣わされた預言者であるのです。その預言者であるヨハネが、ヨルダン川沿いの地方一帯で、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。この罪の赦し、神の救いは、ヨハネの後から来られる力のある方、主イエス・キリストによって与えられます。その主イエス・キリストを迎える備えとして、神に立ち帰って、悔い改めてのしるしとして洗礼を受けよとヨハネは宣べ伝えたのです。ヨハネは、来たるべき方によって与えられる罪の赦し、福音を告げ知らせたのです。ここまでは、前回の振り返りです。

1、差し迫った神の怒り

 7節から9節までをお読みします。

 そこで、ヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「毒蛇の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒され、火に投げ込まれる。」

 洗礼者ヨハネは、「差し迫った神の怒り」について語ります。ヨハネは、旧約の預言者たちと同じように、「主の日」について語るのです。「主の日」とは、「主なる神が歴史に介入して、裁きを行い、正義を打ち立てる日」のことです。主の日は、神の民イスラエルにとって救いの日であり、イスラエルの敵である異邦人にとって滅びの日であると考えられていました。代表的な箇所として、『イザヤ書』の第13章を読みたいと思います。旧約の1064ページです。第13章1節から第14章2節までをお読みします。

 アモツの子イザヤが見たバビロンについての託宣。禿山の上に旗を揚げ/彼らに向かって声を上げ/彼らが貴族の門から入るように、手を振りなさい。私は、聖別された者たちに命じ/私の勇士、私の勝利を喜ぶ者たちを呼び集めて/私の怒りを遂げさせる。聞け、大群衆にも似た、山々に響くどよめきを。聞け、諸王国の喧騒を。諸国民が集められているのだ。万軍の主が戦いの軍勢を召集している。彼らは遠くの地から、天の果てからやって来る。全地を滅ぼすために、主とその憤りの武器が。泣き叫べ、主の日は近い。それは全能者から破壊のようにやって来る。それゆえ、すべての手は力なく垂れ下がった。すべての人の心は挫け、おびえる。苦しみと痛みが彼らを捕らえ/彼らは子を産む女のようにもだえ/驚いて見れば、その顔は炎のようになっている。見よ、主の日が来る。容赦のない憤りと燃える怒りをもって/地を荒廃させ、そこから罪人を絶つために。空の星と星座は光を放たず/太陽が昇っても暗く、月もその光を照らさない。私は、世界をその悪のゆえに罰し/悪人たちをその罪のゆえに罰する。私は傲慢な者が高ぶるのをやめさせ/横暴な者の高慢をおとしめる。私は人間を純金よりも/人をオフィルの黄金よりも貴いものとする。それゆえ、私は天を震わせ/その燃える怒りの日に/地はその場で揺れ動く。万軍の主の憤りのゆえに。追い立てられるガゼルのように/集める者がいない羊のように/人はそれぞれ、自分の民のもとへ向かい/それぞれ自分の地へと逃れて行く。見つけ出された者はすべて刺し貫かれ/捕らえられた者はすべて剣に倒れる。幼子たちは彼らの目の前で八つ裂きにされ/家は略奪され、妻たちは辱められる。見よ、彼らに向けて/私はメディア人を奮い立たせる。彼らは銀に目もくれず/金を欲しがることもない。その弓は若者たちを惨殺する。彼らは胎から生まれた子を憐れまず/子どもたちに憐れみの目を向けることもない。諸王国の麗しさであり/カルデア人の高き誉れであるバビロンは/神がソドムとゴモラを覆した時のようになる。そこには永遠に誰も住まず/代々にわたってとどまる人もいない。アラブ人さえ、そこに天幕を張らず/羊飼いたちも、群れを伏させることはない。そこにはハイエナが伏し/家々にはジャッカルが群がり/鷲みみずくがとどまり/山羊の魔神が踊る。その塔ではハイエナがほえ/華やかだった宮殿ではジャッカルがほえる。その時は近づいている。その日が先延ばしにされることはない。しかし、主はヤコブを憐れみ/再びイスラエルを選び、彼らの土地に住まわせる。寄留の民も彼らに加わり、ヤコブの家に連なる。もろもろの民は彼らをその地に連れて来る。イスラエルの家は主の土地で、もろもろの民を男も女も奴隷として所有する。かつて自分たちを捕らえていた者を捕らえる者となり、かつて自分たちを虐げていた者を支配するようになる。

 ここには、主の日の裁きによって、バビロン帝国が滅ぼされること、神の民イスラエルが救われることが預言されています。この預言は、バビロン帝国がペルシア帝国(メディア人)によって滅ぼされ、イスラエルの民が解放されて、エルサレムに帰ることによって実現するのです。

 このように、主の日は、神の民イスラエルにとって救いの日であると考えられていました。しかし、預言者アモスは、「主の日は闇であって、光ではない」と語っています。『アモス書』の第5章18節から20節までをお読みします。旧約の1415ページです。

 災いあれ、主の日を待ち望む者に。主の日があなたがたにとって一体何になるのか。それは闇であって、光ではない。人が獅子の前から逃れても熊に遭い/家にたどりついて、手で壁に寄りかかると/蛇にかみつかれるようなものだ。確かに、主の日は闇であって、光ではなく/暗闇であって、そこに輝きはない。

 なぜ、アモスは、「主の日は闇であって、光ではない」と言うのでしょうか。それは、イスラエルの民が、主を求めて生きていないからです。それゆえ第5章4節で、主はイスラエルの家にこう言われるのです。「私を求めよ、そして生きよ」。また、第5章14節では、このようにも言われています。「善を求めよ、悪を求めるな/あなたがたが生きるために」。イスラエルの民は、町の門で戒める者を憎み、真実を語る者を忌み嫌いました(アモス5:10参照)。イスラエルの民は、正しき者を苦しめ、賄賂を取り、町の門で貧しい者を退けたのです(アモス5:12参照)。そのようなイスラエルの民にとって、主の日は光(救い)ではなく、闇(滅び)であるとアモスは語るのです。主の日の裁きによって、滅びることがないように、「主を求めて生きよ、善を求めて生きよ」とアモスは言うのです。第4章12節の後半に、印象深い御言葉が記されています。「イスラエルよ、自分の神に会う備えをせよ」。洗礼者ヨハネは、「差し迫る神の怒り」について語りました。その背景には、旧約の預言者たちが語って来た「主の日の裁きは近い」というメッセージがあるのです。主の日において、私たちは、神にお会いすることになる。その備えとしてヨハネは、悔い改めにふさわしい実を結べと言うのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の104ページです。

 ヨハネは、差し迫った神の怒り、主の日の裁きについて語りましたが、その際、「自分たちはアブラハムの子孫だ」といった選民意識は、何の役にも立たないと言います。9節に、「斧はすでに木の根元に置かれている、良い実を結ばない木はみな、切り倒され、火に投げ込まれる」とあるように、良い実を結ばない人は皆、滅ぼされてしまうのです。ヨハネが語る、神の裁きの規準は、悔い改めた人が結ぶ実、その行いであるのです(マタイ16:27「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、その時、それぞれの行いに応じて報いるのである」、ローマ2:6「神はおのおのの行いに従ってお報いになります」参照)。

2、悔い改めにふさわしい実

 10節から14節までをお読みします。

 群衆は、「では、私たちは、どうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、私たちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「この私たちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「誰からも金をゆすったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。

 ここでヨハネは、悔い改めにふさわしい実とはどのような行いであるのかを具体的に教えています。ヨハネは、群衆に、「下着を二枚持っている者は、持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と言いました。ヨハネは、群衆に、衣服と食べ物を分かち合う、愛の業に生きるようにと言うのです(マタイ25:34~36参照)。また、ヨハネは、徴税人に対して、「規定以上のものは取り立てるな」と言いました。徴税人は、ローマ帝国の手先となって、税金を集めていました。そのとき、規定以上の金額を取り立てて、私腹を肥やしていたのです。そのような徴税人に対して、ヨハネは「規定以上のものは取り立てるな」と言ったのです。ヨハネは、「徴税人などやめてしまえ」とは言いませんでした。徴税人として、「決まった金額を取り立てなさい」と言ったのです。さらに、ヨハネは、兵士たちにこう言いました。「誰からも金をゆすったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」。兵士たちは、自分の給料に満足することができず、金をゆすったり、だまし取ったりしていたのでしょう。しかし、ヨハネは、「誰からも金をゆすったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言うのです。ヨハネは、徴税人と兵士に対して、それぞれの働きにおいて、正義を行うようにと言うのです。悔い改めにふさわしい実とは、愛の業であり、義の業であるのです。

 さて、今朝の御言葉、ヨハネの説教を、私たちはどのように受けとめたらよいのでしょうか。最初に確認したいことは、「差し迫った神の怒り」は、イエス・キリストの十字架のうえに降ったということです。イエス・キリストが十字架につけられた日の昼の十二時頃、全地は暗くなり、三時に及びました(ルカ23:44参照)。このことは、十字架につけられたイエス・キリストのうえに、主の日の裁きが臨んでいたことを示しています(アモス8:9「その日になると/私は真昼に太陽を沈ませ/白昼に地を闇とする―主なる神の仰せ」参照)。神の怒りは、罪のない正しい御方であるイエス・キリストのうえに降ったのです。イエス・キリストは、多くの人の罪を担って、十字架の上で、神の裁きを受けてくださったのです。それゆえ、私たち人間にとって悔い改めるとは、イエス・キリストを信じることであるのです(使徒2:37、38「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロと他の使徒たちに、『兄弟たち、私たちは何をすべきでしょうか』と言った。そこで、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう』」参照)。イエス・キリストを信じて、イエス・キリストの御言葉と聖霊に従って歩むとき、私たちは良い実を結ぶことができるのです。ヨハネは、16節で、自分の後から来られる力のある方、聖霊で洗礼を授ける方について語ります。この御方こそ、主イエス・キリストであります。主イエス・キリストは、ご自分の御言葉と聖霊によって、私たちが良い実を結ぶことができるようにしてくださるのです(ウェストミンスター信仰告白の第16章「よきわざについて」参照)。このことは、イエス様が『ヨハネによる福音書』の第15章で教えられたことでもあります。新約の194ページです。第15章1節から5節までをお読みします。

 私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き、実を結ぶものはみな、もっと豊かに結ぶように手入れをなさる。私が語った言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている。私につながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。

 このように、イエス・キリストは、ご自分の御言葉と聖霊によって、私たちを愛の業と義の業に生きる者としてくださるのです。「私たちはどうすればよいのですか」と問う私たちに、イエス・キリストは、「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている」と言われます。そして、私たちに御言葉と聖霊を与えてくださり、私たちを愛と義の業に生きる者としてくださるのです。

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