シメオンとアンナ 2024年9月01日(日曜 朝の礼拝)
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シメオンとアンナ
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- 村田寿和 牧師
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ルカによる福音書 2章25節~40節
聖書の言葉
2:25 その時、エルサレムにシメオンと言う人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。
2:26 また、主が遣わすメシアを見るまでは死ぬことはない、とのお告げを聖霊から受けていた。
2:27 この人が霊に導かれて神殿の境内に入った。そして、両親が幼子イエスを連れて来て、その子のために律法の定めに従っていけにえを献げようとしたとき、
2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:29 「主よ、今こそあなたはお言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。
2:30 私はこの目であなたの救いを見たからです。
2:31 これは万民の前に備えられた救いで
2:32 異邦人を照らす啓示の光/あなたの民イスラエルの栄光です。」
2:33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いた。
2:34 シメオンは彼らを祝福し、母マリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
2:35 剣があなたの魂さえも刺し貫くでしょう。多くの人の心の思いが現れるためです。」
2:36 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年を取っていて、おとめの時に嫁いでから七年間、夫と共に暮らしたが、
2:37 その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして神殿を離れず、夜も昼も断食と祈りをもって神に仕えていた。
2:38 ちょうどその時、彼女も近づいて来て神に感謝を献げ、エルサレムの贖いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを語った。
2:39 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。
2:40 幼子は成長し、強くなり、知恵に満ち、神の恵みがその上にあった。ルカによる福音書 2章25節~40節
メッセージ
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序、
前回、私たちは、イエス様が割礼を受けられたこと、イエス様がエルサレム神殿で主に献げられたことを学びました。聖霊によっておとめマリアからお生まれになったイエス様は、割礼を受けて契約の民の一員となり、イスラエルの初子として、主にささげられたのです。今朝の御言葉はその続きとなります。
今朝の御言葉の舞台もエルサレムであります。今朝の御言葉には、シメオンとアンナという二人の人が登場します。シメオンは男性であり、アンナは女性です。二人とも高齢であり、聖霊がとどまっていました。今朝の御言葉には、この二人の幼子についての証言(あるいは預言)が記されています。御言葉の順序に従って、最初にシメオンについてお話しします。
1、シメオン
シメオンは「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰めるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまって」いました。「イスラエルの慰めるのを待ち望む」とは、具体的には、「イスラエルに約束のメシアが遣わされるのを待ち望んでいた」ことを意味します。シメオンは、「主が遣わすメシアを見るまでは死ぬことはない」というお告げを聖霊から受けていました(新改訳2017「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはない」参照)。これは言い換えると、「シメオンは生きている間に、主のメシアに会うことができる」という約束でもあります。シメオンは聖霊に導かれて神殿の境内に入りました。両親(ヨセフとマリア)が幼子イエスを連れて来て、その子のためにいけにえを献げようとしたとき、シメオンは幼子を両腕に抱き、神をほめたたえてこう言います。「主よ、今こそあなたはお言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民の前に備えられた救いで/異邦人を照らす啓示の光/あなたの民イスラエルの栄光です」。
老人シメオンは、「主から遣わされたメシアを見るまで死ぬことはない」というお告げを受けていました。そのシメオンがとうとう主から遣わされたメシアを見ることができたのです。シメオンは、両腕に抱いた幼子を、「万民の前に備えられた救い」「異邦人を照らす啓示の光」「イスラエルの栄光」と言い表します。このシメオンの言葉の背景には、『イザヤ書』の預言があります。
『イザヤ書』の第52章10節にこう記されています。旧約の1133ページです。「主はその聖なる腕を/すべての国民の目の前にあらわされた。地の果てのすべての者が、私たちの神の救いを見る」。この御言葉を背景にして、シメオンは、幼子のことを「万民の前に備えられた救い」と言ったのです。
また、『イザヤ書』の第42章6節にはこう記されています。旧約の1113ページです。「主である私は義をもってあなたを呼び/あなたの手を取り、あなたを守り/あなたを民の契約とし、諸国民の光とした」。この御言葉を背景にして、シメオンは幼子のことを「異邦人を照らす啓示の光」と言ったのです。
さらに、『イザヤ書』の第46章13節にはこう記されています。旧約の1123ページです。「私は私の正義を近づけた。それは遠くはない。私の救いは遅れることはない。私はシオンに救いを/イスラエルに誉れを与える」。この御言葉を背景にして、シメオンは幼子のことを「イスラエルの栄光」「イスラエルの誉れ」(新共同訳)と言ったのです。
このように『イザヤ書』の預言を背景にして、シメオンは、幼子イエスを両腕に抱いて、「これは万民の前に備えられた救いで/異邦人を照らす啓示の光/あなたの民イスラエルの栄光です」と言ったのです。シメオンは、『イザヤ書』を読みながら、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいたのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の103ページです。
シメオンは、「主よ、今こそあなたはお言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです」と言います。ここには、主から託された使命を果たした僕の喜び、充実感があります。シメオンは、両腕に抱いている幼子を「あなたの救い」と言うのです。そして、その救いは、シメオンを安らかに去らせてくださる救いであるのです。シメオンだけではありません。主の救いであるイエス・キリストを信仰の目をもって見る者は、安らかに去ることができるのです。使徒パウロは、ガラテヤの信徒たちに、こう言いました。「ああ、愚かなガラテヤの人たち、十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前にはっきりと示されたのに、誰があなたがたを惑わしたのか」(ガラテヤ3:1)。シメオンが見たのは、両腕に抱かれている幼子のイエス様です。しかし、ガラテヤの信徒たち、また、私たちの目の前にはっきりと示されたのは、十字架につけられたイエス・キリストのお姿であるのです。神の霊である聖霊は、イエス・キリストの福音を聞いた私たちの心のキャンバスに、十字架につけられたイエス・キリストのお姿をはっきりと描き出してくださいました。そして、私たちは、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架の死を死んでくださったこと、私たちを正しい者とするために復活されたことを信じたのです(ローマ4:25参照)。それゆえ、私たちは、安らかにこの地上を去ることができるのです。イエス・キリストを主から遣わされたメシア、救い主と信じる私たちは、父なる神と主イエス・キリストがおられる天国に入ることができると知っているからです。十字架につけられたイエス・キリストは、御自分を信じた犯罪人の一人にこう言われました。「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)。このイエス様の約束を、私たち一人一人に対する約束であると信じて、安らかに死ぬことができるのです。安らかな死は、イエス・キリストを信じる者に与えられる神からの賜物であるのです。
父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚きました。見ず知らずの老人から、自分たちの子供が「万民のために備えられた救い」であり、「異邦人を照らす啓示の光」であり、「イスラエルの栄光」であると言われたことに驚いたのです。そして、このシメオンの言葉は、両親に対する、また私たちに対する啓示の言葉であるのです。聖霊によっておとめマリアからお生まれになり、割礼を受け、主に献げられた男の子は、すべての民のために備えられた救いであり、すべての民を照らす啓示の光であり、神の民イスラエルの栄光であるのです。
シメオンは彼らを祝福し、母マリアにこう言います。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの魂さえも刺し貫くでしょう。多くの人の心の思いが現れるためです」。シメオンは、「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするために定められ」たと言います。このシメオンの言葉には、二つの解釈があります。一つは、倒される人と立ち上がらせられる人を別の人であるとする解釈です。イエス様によって、ある人は倒され、ある人は立ち上がらせられるという解釈です。二つ目は、倒される人と立ち上がらせられる人を同じ人とする解釈です。イエス様によって多くの人が倒され、立ち上がらせられるという解釈です。私は、二つの目の解釈を取りたいと思います。イエス様は多くの人を倒して、立ち上がらせるために定められているのです。なぜ、私がこの解釈を取るのかと言うと、イエス様が十字架につけられたとき、多くの人が躓いて倒されたからです。イエス様が捕らえられたとき、弟子たちは我が身かわいさに、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。一番弟子であるペトロでさえも、イエス様との関係を三度否定したのです。そのようにして、多くの人が倒されたのです。しかし、神様は、正しい人であるイエス様を墓の中から復活させてくださいました。復活されたイエス様は、弟子たちに現れてくださり、倒れてしまっていた弟子たちを立ち上がらせてくださいました。そして、ペンテコステの日、ペトロの説教によって、多くの人を立ち上がらせてくださったのです。このように、イエス様は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりする者として定められているのです。
また、イエス様は「反対を受けるしるしとして定められています」。この「反対」は、イエス・キリストを遣わしてくださった主なる神への反対のことです。ユダヤの最高法院は、イエス様を、神を冒瀆する偽メシアとして、死刑にすることを決議しました。そして、ローマの総督ポンテオ・ピラトの手にイエス様を引き渡したのです。また、人々は、ピラトが釈放しようとしたにもかかわらず、イエス様を十字架の死、律法の呪いの死に引き渡すことを要求したのです。このように多くの人は、イエス様を遣わされた神様に反対(反逆)したのです。そのことによって、母マリアの魂は剣で刺し貫かれるのです。母マリアは、自分の息子が十字架に磔にされる光景を見ることによって、魂を剣で刺し貫かれるのです(ヨハネ19:25参照)。また、そのことによって、多くの人の心の思い、神様に対して抱いている心の思いが現れるのです。神様が遣わされた御子イエス・キリストを信じるか、信じないか。そのことによって、私たち人間の神様への心の思いがあらわとされるのです。神の恵みと真理はイエス・キリストを通して現されました(ヨハネ1:17参照)。神様は、この終わりの時に、御子を通して私たちに語られたのです(ヘブライ1:2参照)。それゆえ、イエス・キリストに対して、どのような態度を取るかによって、その人の神様に対する心の思いが現れるのです。
2、アンナ
36節以下には、女預言者のアンナのことが記されています。アンナはアシェル族のファヌエルの娘で、非常に年を取っていました。「おとめの時に嫁いでから7年間、夫と共に暮らしたが、その後やもめとなり、84歳になっていた」と記されています。アンナは神殿を離れず、夜も昼も断食と祈りをもって神に仕えていました(一テモテ5:5「本当にやもめであって、身寄りのない人は、神に望みを置き、夜も昼も願いと祈りを献げていますが」参照)。アンナは女預言者ですから、彼女にも聖霊がとどまっていたのでしょう。ちょうどそのとき、アンナも近づいて来て神に感謝を献げ、エルサレムの贖いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを語りました。ここには、アンナの言葉は記されていませんが、幼子がエルサレムを贖う救い主、主から遣わされたメシアであることを語ったのだと思います。イスラエルの律法には、「二人または三人の一致した証言は真実である」と記されています(申命19:15参照)。シメオンとアンナの二人の証言、あるいは、シメオンとアンナと聖霊の三者の証言によって、イエス様こそ、イスラエルを慰め、エルサレムを贖う救い主であるという事実が確認されたのです。そして、イエス様は、ユダヤ人だけではない、すべての民に備えられた救いであり、すべての民を照らす啓示の光であるのです。私たちは、ただイエス・キリストにあって、生きて働くまことの神様を知ることができるのです。
3、ナザレに帰った親子
親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰って行きました。ヨセフとマリアは、幼子であるイエス様を抱いて、三人で、ナザレに帰って行ったのです。「幼子は成長し、強くなり、知恵に満ち、神の恵みがその上にあった」とあります。幼子イエス様は、神の恵みによって、たくましく、賢く成長していったのです。