神殿で献げられたイエス
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- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書 ルカによる福音書 2章21節~24節
2:21 八日がたって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。胎内に宿る前に天使から示された名である。
2:22 さて、モーセの律法に定められた清めの期間が満ちると、両親はその子を主に献げるため、エルサレムへ連れて行った。
2:23 それは主の律法に、「母の胎を開く初子の男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。
2:24 また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか若い家鳩二羽を、いけにえとして献げるためであった。ルカによる福音書 2章21節~24節
序.
前回、私たちは、イエス様の誕生と天使の賛美について学びました。イエス様の誕生は、すべての民に与えられている大きな喜びであります。イエス様は、私たちのためにお生まれになった救い主であり、主メシアであるのです。今朝の御言葉には、イエス様が割礼を受けたことと、神殿で献げられたことが記されています。
1.割礼を受けたイエス
21節をお読みします。
八日がたって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。胎内に宿る前に天使から示された名である。
「割礼」とは男性の性器の包皮を切り取る儀式で、契約のしるしでありました。かつて神様は、アブラハムとその子孫に、契約のしるしとして、割礼を命じられたのです。『創世記』の第17章にこう記されています。「包皮に割礼を施しなさい。これが私とあなたがたとの間の契約のしるしとなる。あなたがたのうちの男子は皆、代々にわたって、生後八日目に割礼を受ける」(17:11、12)。聖霊によっておとめマリアからお生まれになったイエス様も、アブラハムの子孫として、割礼をお受けになりました。割礼を受けることは、契約の民となり、神の掟を守る義務を負うことを意味します。それゆえ、使徒パウロは、『ガラテヤの信徒への手紙』の第4章で、こう記しているのです。「時が満ちると、神は、その御子を女から生まれた者、律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の下にある者を贖い出して、私たちに子としての身分を授けるためでした」(ガラテヤ4:4、5)。神の御子であるイエス様が律法の下に生まれたことは、生後八日目に割礼を受けたことによって端的に示されているのです。当時は、割礼の日に、名前をつける習慣があったようです(1:59参照)。それで、幼子はイエスと名付けられました。ヨセフとマリアは幼子にイエスという名を付けたのです。ヨセフは、マリアから、天使の言葉を聞いていたのでしょう。ヨセフは、マリアが聖霊によって身ごもったこと、その子がダビデ契約を実現する約束の救い主であることを聞いて、信じていたのです。『マタイによる福音書』の第1章によれば、マリアが身ごもったことを知ったヨセフは、ひそかに離縁しようとしました。しかし、主の天使はヨセフの夢に現れて、こう言います。「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1:20、21)。イエスとは「主は救い」という意味ですが、その子は、自分の民を罪から救うゆえに、イエスと名付けられるのです。ヨセフは、マリアから生まれた男の子を自分の子として育てるという決意をもって、幼子をイエスと名付けたのです。
「イエス」という名は、「胎内に宿る前に天使から示された名」でありました。第1章31節で、天使はマリアにこう言いました。「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」。この時には、マリアは身ごもっていなかったのです。しかし、マリアがエリサベトのもとを訪れて挨拶した時には、身ごもっていました。エリサベトが「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています」と言っているからです(1:42)。では、いつマリアは身ごもったのでしょうか。それは、38節のマリアの言葉が語られた後であると思います。天使の言葉、「神にできないことは何一つない」という言葉を受けて、マリアはこう言いました。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」。このマリアの言葉の後で、聖霊が降り、神の力が覆って、マリアは身ごもったのです。神様は、マリアに、恵みを押しつけるようなことはしませんでした。神様は、マリアの言葉、「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」という言葉のとおりにされたのです。
このことを、私たちに引き寄せて考えてみたいと思います。聖霊は、私たちの心に、イエス・キリストを信じる信仰を形づくってくださいます(ガラテヤ4:19「私のこどもたち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、私は、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」参照)。私たちの体は、聖霊が宿る神殿であるのです(一コリント6:19参照)。では、いつ私たちに聖霊が宿ったのでしょうか。それをはっきりと言うことはできませんが、「イエス・キリストは主である」と告白した時には、聖霊が宿っていたと考えることができます。使徒パウロが言っているように、聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と言うことはできないからです(一コリント12:3参照)。では、聖霊は、信じたくない人に無理矢理宿って、イエス・キリストを信じるようにするのかと言えば、そうではありません。聖霊は様々な導きによって、その人を少しずつ造り変えてくださり、イエス・キリストを信じたいと願う者としてくださって、その人の内に住み込んでくださるのです。この聖霊において、イエス様と父なる神様は、私たちといつも共にいてくださるのです(ヨハネ14:23参照)。
旧約の時代においては、割礼が神の契約の民のしるしでありました。しかし、新約の時代においては、イエス・キリストの御名による洗礼が、神の契約の民のしるしとされています(ウェストミンスター信仰告白7:5、6参照)。幼児洗礼を受けて、信仰告白をした私たち、あるいは、信仰告白をして成人洗礼を受けた私たちは、イエス・キリストによって実現した新しい契約の民とされているのです。
2.神殿で献げられたイエス
22節と23節をお読みします。
さて、モーセの律法に定められた清めの期間が満ちると、両親はその子を主に献げるため、エルサレムへ連れて行った。それは主の律法に、「母の胎を開く初子の男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。
「モーセの律法に定められた清めの期間」については、『レビ記』の第12章に記されています。女が身ごもって男の子を産んだ場合、7日間汚れた者とされ、血の汚れを浄めるのに、33日間家にとどまることが定められていました。その清めの期間が満ちたので、両親は、イエス様を献げるために、エルサレムへ連れて行ったのです。エルサレムには、神がその名を置くと言われた神殿がありました。その神殿で、両親はイエス様を主に献げようとしたのです。それは、主の律法に、「母の胎を開く初子の男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからです。この主の律法は、『出エジプト記』の第13章に記されています。旧約の105ページです。第13章1節にこう記されています。
主はモーセに告げられた。「すべての初子を聖別して私に献げなさい。人も家畜も、イスラエルの人々の間で初めに胎を開くすべての初子は私のものである。」
このことが、11節から13節に、詳しく記されています。
主があなたと先祖に誓われたとおり、カナン人の地に導き入れ、そこをあなたに与えられるとき、初めに胎を開くものはすべて、主に献げなければならない。あなたの家畜の胎を最初に開くもので、雄はすべて主のものである。ろばの初子はすべて、小羊で贖わなければならない。もし贖わないならば、その首を折らなければならない。あなたの初子のうち、男の子はすべて、贖わなければならない。
神様のものとして聖別するとは、神様にいけにえとして献げるということです。ですから、人間の初子の場合は、贖わなければなりません。人間の初子の代わりに、羊などをいけにえとして献げたのです(ただし民数18:16参照)。どうして、主は、「すべての初子を聖別して私に献げなさい」と命じられたのでしょうか。その理由が14節以下に記されています。
将来、あなたの子が、『これはどういうことですか』とあなたに尋ねるときはこう答えなさい。『主は力強い手によって私たちをエジプトの地、奴隷の家から導き出してくださった。ファラオがかたくなになり、私たちを去らせないようにしたとき、主は、人の初子から家畜の初子まで、エジプトの地のすべての初子を殺された。それゆえ私は、初めに胎を開く雄をすべて主にいけにえとして献げ、また、自分の初子である息子をすべて贖うのである。』あなたはこの言葉を手に付けてしるしとし、額に付けて記章としなさい。主は力強い手によって私たちをエジプトから導き出されたのである。
主が「初子は私のものである。私のために聖別せよ」と言われるのは、エジプトでの最後の災いに由来します。主はエジプトの地のすべての初子を殺されました。しかし、イスラエルの初子は殺されませんでした。主は、イスラエルの民に、「家の入り口に小羊の血を塗っている家を過ぎ越す」と約束されていたのです。『出エジプト記』の第12章1節から13節までをお読みします。旧約の102ページです。
主はエジプトの地で、モーセとアロンに言われた。「この月はあなたがたの第一の月であり、一年の最初の月である。イスラエルの全会衆に告げなさい。『この月の十日に、父祖の家ごとに、すなわち家族ごとにそれぞれ自分のために小羊一匹を用意しなさい。もし、家族が小さくて小羊一匹に見合わないなら、隣の家族と共に、人数に合わせて、それぞれ食べる量に見合う小羊を選びなさい。あなたがたの小羊は欠陥のない一歳の雄の小羊でなければならず、羊か山羊の中から一匹を選ばなければならない。あなたはそれを、この月の十四日まで取り分けておき、夕暮れにイスラエルの会衆は皆集まってそれを屠る。そして、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。その夜のうちに肉を火で焼き、種なしパンに苦菜を添えて食べる。それを生のまま、また水で煮て食べてはならない。火で焼いて、頭も足も内臓も食べなければならない。それを翌朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼き尽くさなければならない。それを食べるときは、腰に帯を締め、足にサンダルを履き、手に杖を持って、急いで食べなさい。これが主の過越である。その夜、私はエジプトの地を行き巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、またエジプトのすべての神々に裁きを行う。私は主である。あなたがたがいる家の血は、あなたがたのしるしとなる。私はその血を見て、あなたがたのいる所を過ぎ越す。こうして、エジプトの地を私が打つとき、滅ぼす者の災いはあなたがたには及ばない』」。
イスラエルの民は、モーセに語られた主の言葉を信じて、小羊を屠り、その血を、家の入り口に塗りました。そのようにして、滅ぼす者の災いを免れたのです。この災いは、主御自身によってもたらされる裁きですから、本来ならば、イスラエル人の初子も、エジプト人の初子と同じように、滅びるはずでありました。しかし、主は、イスラエルの初子が滅びないように、家の門に小羊の血を塗るならば、その血を見て、その家を過ぎ越すと言われたのです。そのような主の恵みによって、イスラエルの初子は殺されずに済んだのです。ですから、主は、「すべての初子を聖別して私に献げなさい。人も家畜も、イスラエルの人々の間で初めに胎を開くすべての初子は私のものである」と言われたのです(出エジプト13:1)。
主は、イスラエルの民に、「小羊の血を家の入り口に塗るならば、その血を見て過ぎ越す」と言われました。これは、主の約束です。イスラエルの民は、主の約束を信じて、小羊をほふり、その血を家の入り口に塗って救われたのです。イスラエルの民は、主の約束を信じる信仰によって救われたのです。このことは、私たちも同じです。過越の小羊は、十字架の上でほふられた神の小羊、イエス・キリストを指し示すものでした。神様は、イエス・キリストを神の御子、罪人の救い主と信じる人を、ご自分の裁きから救うと約束しておられます。その神の約束を信じて、私たちはイエス・キリストを信じているのです(神の約束を信じることとイエス・キリストを信じることは一つのこと!)。イエス・キリストを信じる私たちは、既に永遠の命を持っており、裁きを受けることなく、死から命へと移っているのです(ヨハネ5:24「よくよく言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている」参照)。
今朝の御言葉に戻ります。新約の102ページです。
24節をお読みします。
また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか若い家鳩二羽を、いけにえとして献げるためであった。
このいけにえは、清めの期間を終えたマリアのためのいけにえです。『レビ記』の第12章にこう記されています。「もし貧しくて羊に手が届かなければ、山鳩二羽か家鳩二羽を取り、一羽を焼き尽くすいけにえ、もう一羽は清めのいけにえにしなさい。祭司が贖いをすると、彼女は清くなる」。ヨセフとマリアは、羊に手が届かない、貧しい夫婦でした。イエス様は、貧しい夫婦のもとにお生まれになりました。しかし、その貧しい夫婦は、神を畏れて、神の掟を守る敬虔な夫婦であったのです。
今朝の説教題を「神殿で献げられたイエス」としました。初子の男子であるイエス様を主に献げることは、家畜を献げてイエス様を贖うということです。27節の後半に、「そして、両親が幼子イエスを連れて来て、その子のために律法の定めに従っていけにえを献げようとしたとき」とあります。また、39節には、「親子は主の律法で定められたことをみな終えたので」とあります。ですから、両親は、幼子イエスのためにいけにえを献げて贖ったのです。それで、両親は、イエス様を連れて、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰って行くのです。