ザカリアの預言 2024年8月11日(日曜 朝の礼拝)
問い合わせ
ザカリアの預言
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
ルカによる福音書 1章57節~80節
聖書の言葉
1:57 さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。
1:58 近所の人々や親類は、主が彼女を大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。
1:59 八日目に、幼子に割礼を施すために人々が来て、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。
1:60 ところが、母親は、「いいえ、ヨハネとしなければなりません」と言った。
1:61 人々は、「あなたの親族には、そのような名の人は誰もいない」と言い、
1:62 父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。
1:63 父親は書き板を持って来させて、「その名はヨハネ」と書いたので、人々は皆不思議に思った。
1:64 すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。
1:65 近所の人々は皆恐れを抱いた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。
1:66 聞いた人々は皆これを心に留め、「この子は一体、どんな人になるのだろうか」と言った。主の御手がこの子と共にあった。
1:67 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。
1:68 「イスラエルの神である主は/ほめたたえられますように。/主はその民を訪れて、これを贖い
1:69 我らのために救いの角を/僕ダビデの家に起こされた。
1:70 昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに。
1:71 それは、我らの敵/すべて我らを憎む者の手からの救い。
1:72 主は我らの先祖に慈しみを示し/その聖なる契約を覚えていてくださる。
1:73 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。/こうして我らは
1:74 敵の手から救われ/恐れなく主に仕える
1:75 生涯、主の御前に清く正しく。
1:76 幼子よ、あなたはいと高き方の預言者と呼ばれる。/主に先立って行き、その道を備え
1:77 主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。
1:78 これは我らの神の憐れみの心による。/この憐れみによって/高い所から曙の光が我らを訪れ
1:79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし/我らの足を平和の道に導く。」
1:80 幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。
ルカによる福音書 1章57節~80節
メッセージ
関連する説教を探す
序.
今朝は、『ルカによる福音書』の第1章57節から80節より、御言葉の恵みにあずかりたいと思います。
1.洗礼者ヨハネの誕生
57節に、「さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ」とあります。マリアが天使からエリサベトが身ごもっていると聞いたとき、すでに6か月でした(1:36参照)。そして、マリアは、三か月ほどエリサベトと暮らして、家に帰りました(1:56参照)。エリサベトは、妊娠して9か月になっているわけです。月が満ちて、エリサベトは男の子を生んだ。このことは、天使がザカリアに告げていたことでした。天使はザカリアにこう言いました。第1章13節から17節までをお読みします。新約の98ページです。
天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの祈りは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の前に偉大な人になり、ぶどう酒も麦の酒も飲まず、すでに母の胎にいるときから聖霊に満たされ、イスラエルの多くの子らをその神である主に立ち帰らせる。彼は、エリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の思いを抱かせ、整えられた民を主のために備える」。
天使がザカリアに、「あなたの妻エリサベトは男の子を産む」と言っていたとおりに、エリサベトは男の子を産んだのです。また、天使が「多くの人もその誕生を喜ぶ」と言ったように、「近所の人々や親類は、主が彼女を大いに慈しまれたと聞いて喜び合った」のです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の100ページです。
59節に、「八日目に、幼子に割礼を施すために人々が来て、父の名を取ってザカリアと名付けようとした」と記されています。「割礼」とは男性の性器の包皮の一部を切り取る儀式で、契約のしるしでありました。イスラエルの男子は、契約の民として、生後八日目に割礼を受けるよう定められていたのです(創世17:12「あなたがたのうちの男子は皆、代々にわたって、生後八日目に割礼を受ける」参照)。このときに、名前を付けることになっていたようです。また、父親など、親族の名前を付ける習慣があったようです。それで、人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとしました。ところが、母親のエリサベトは、こう言います。「いいえ、ヨハネとしなければなりません」。エリサベトは、口が利けない夫ザカリアに代わって、「ヨハネとしなければなりません」と言ったのです。このことは、天使から命じられていたことでした。天使は、ザカリアに、「その子をヨハネと名付けなさい」と命じていたのです。エリサベトが、「いいえ、ヨハネとしなければなりません」と言ったことは、ザカリアから天使の言葉を知らされていたことを示しています。ザカリアは、天使が伝えた喜ばしい知らせを信じなかったので、口が利けなくなってしまいました。第1章18節から20節にこう記されていました。新約の98ページです。
そこでザカリアは天使に言った。「どうして、それが分かるでしょう。私は老人ですし、妻も年を取っています。」天使は答えた。「私はガブリエル、神の前に立つ者。あなたに語りかけ、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、このことの起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである」。
このように、ザカリアは口が利けなくなりました。しかし、文字を書いて、妻エリサベトに、天使から聞いた喜びの知らせを伝えました。そして、ザカリアとエリサベトは、主が自分たちの祈りを聞き入れてくださったことを信じて、夫婦の交わりを持ったのです。その後、エリサベトは、天使が告げたとおり、男の子を身ごもったのです(1:25参照)。
今朝の御言葉に戻ります。新約の100ページです。
母エリサベトは、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言いました(新共同訳)。ヨハネとは、「主は恵み深い」という意味です。エリサベトとザカリアは、生まれて来た男の子によって、「主は恵み深い」ことを体験として知ったのです。母エリサベトの言葉を受けて、人々は、「あなたの親族には、そのような名の人は誰もいない」と言いました。そして、父ザカリアに、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねました。ザカリアは書き板を持って来させて、「その名はヨハネ」と書いたので、人々は不思議に思いました。この記述から分かることは、ザカリアは、天使から聞いた良き知らせを、妻エリサベトだけに伝えていたということです。近所の人々や親類には伝えていなかったということです。それで、人々は、母親と父親がそろって、親族にいないヨハネという名をつけたことに驚いたのです。
すると、たちまちザカリアの口が開き、舌がほどけ、ものが言えるようになって神様をほめたたえました。天使は、ザカリアに、「あなたは口が利けなくなり、このことの起こる日まで話すことができなくなる」と言っていました(1:20)。「このことの起こる日」とは、「生まれて来た男の子に、ヨハネと名付ける日」のことであったのです。ザカリアは、およそ9か月の間、口が利けませんでした。しかし、言いたいことはたくさんあったと思います。ザカリアは、妻エリサベトのお腹が大きくなるのを見てきました。また、親類のマリアが家に来て、三か月滞在したときには、エリサベトとマリアの会話に、興味深く耳を傾けていたと思います。妻エリサベトが産んだ男の子を抱っこしたと思います。しかし、口を利くことはできませんでした。そのザカリアの口が開き、舌がほどけたとき、彼は何を語ったのか。それは、祈りを聞き入れて、男の子を授けてくださった神様をほめたたえる言葉であったのです。主の恵みに感謝する言葉であったのです。このようにして、ザカリアは、神の言葉は時が来れば実現することを、身をもって知ったのです。旧約の『コヘレトの言葉』の第3章に、次のように記されています。「天の下では、すべてに時機があり、すべての出来事には時がある」(3:1)、「神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない」(3:11)。神様は、私たちに時を定めておられて、最もふさわしい時に、事をなしてくださいます。そのことを、ザカリアは、神の出来事が起こる日まで話せなくなるというしるしによって教えられたのです。
口が利けなかったザカリアが、ものが言えるようになって神様をほめたたえた。このことに、人々は皆恐れを抱きました。それは、人々がザカリアに起こった出来事に、神の御業を見たからです。このことはユダヤの山里中で話題になりました。66節に、「聞いた人々は皆これを心に留め、『この子は一体、どんな人になるのだろうか』と言った」とあります。福音書記者ルカは、この人々から話しを伺って、ヨハネの誕生について記しているわけです。「主の御手がこの子と共にあった」とあるように、ヨハネは主の守りの内に成長したのです(1:80も参照)。
2.ザカリアの預言
67節以下には、父ザカリアが聖霊に満たされて預言したことが記されています。ここでザカリアは、旧約聖書の御言葉、ザカリアが聞いた天使の言葉、マリアから聞いた天使の言葉を背景にして預言しています。ザカリアの預言は、大きく三つに分けることができます。68節から75節には、主の救いについての預言が記されています。76節と78節前半には、ヨハネについての預言が記されています。78節後半と79節には、来たるべきメシア、救い主についての預言が記されています。この3つの区分を念頭において、いくつかのポイントをお話しします。
68節後半と69節に、「主はその民を訪れて、これを贖い/我らのために救いの角を僕ダビデの家に起こされた」とあります。この言葉は、『サムエル記下』の第7章に記されているナタンの預言、いわゆるダビデ契約を背景にしています。そこで、主はダビデに、「あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」と約束してくださいました。このダビデ契約に基づいて、約束のメシア、救い主は、ダビデの子孫からお生まれになると信じられていたのです。また、ザカリアは、マリアから聞いたであろう天使の言葉を背景にしています。マリアはダビデ家のヨセフのいいなづけでした。そのマリアが聖霊によって男の子を身ごもるという仕方で、主はご自分の民のために救いの角を起こされるのです(角は力の象徴であり、「救いの角」はメシアを意味する。過去形で記されているのは、そのことが確実であるから)。
71節に、「それは、我らの敵/すべて我らを憎む者の手からの救い」とあります。ここでザカリアは、かつて主がイスラエルの民を、エジプト人の手から救ってくださったことを念頭においています(詩106:10参照)。『出エジプト記』の第15章に、主が葦の海で、イスラエルの敵であるエジプト軍を滅ぼされたことが記されています。そのことを思い起こしつつ、ザカリアは主の救いについて語るのです。
72節と73節前半に、「主は我らの先祖に慈しみを示し/その聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い」とあります。神様の救いは先祖たちに約束してくださったことであり、その約束を実現してくださるのは、ひとえに神の慈しみ、ご自分の契約に対する誠実な愛(ヘセド)のゆえであるのです。そして、その神の約束は、父アブラハムにまで遡ることができるのです。主は、自らに誓って、アブラハムにこう言いました。「地上のすべての国民はあなたの子孫によって祝福を受けるようになる」(創世22:18)。この救いの約束を、神様はアブラハムの子孫であり、ダビデの子孫である救い主、イエス・キリストによって実現してくださるのです(ガラテヤ3:16、マタイ1:1参照)。
73節後半から75節にこう記されています。「こうして我らは/敵の手から救われ/恐れなく主に仕える/生涯、主の御前に清く正しく」。ここには、主がご自分の民を、何のために救われるのかが記されています。主がイスラエルの民を救われる目的が記されているのです。それは、「恐れなく主に仕える」ためであります。「生涯、主の御前に清く正しく」仕えるためであるのです。主に仕えるとは、「主を礼拝する」ということです。このことは、主がイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出した目的でもありました。『出エジプト記』の第3章11節と12節をお読みします。旧約の89ページです。
モーセは神に言った。「私は何者なのでしょう。この私が本当にファラオのもとに行くのですか。私がイスラエルの人々を本当にエジプトから導き出すのですか。」すると、神は言われた。「私はあなたと共にいる。これが、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えることになる。」
このように、主がご自分の民イスラエルをエジプトから導き出されたのは、ホレブの山で、ご自分に仕えさせるためであったのです。主を礼拝するために、イスラエルの民は、エジプトから導き出されたのです(3:18「私たちの神、主にいけにえを献げさせてください」参照)。
今朝の御言葉に戻ります。新約の101ページです。
主は、ご自分に仕えさせるために、イスラエルの民をエジプトの地から導き出されました。では、イスラエルの民は、清く正しく神様に仕えることができたでしょうか。できませんでした。彼らは、シナイ山に登ったモーセを待ちきれなくなって、金の子牛を造って拝みました(出エジプト32章参照)。彼らは、十の言葉を与えられていたにもかかわらず、偶像崇拝の罪を犯してしまったのです(出エジプト20:3、4「あなたには私をおいてほかに神々があってはならない。あなたは自分のために彫像を造ってはならない」参照)。このように考えてくると、主の救いが、エジプト人やローマ人からの救いではなくて、罪からの救いであることが分かります。神様と私たち人間の交わり(礼拝)を妨げているもの、それは、私たち人間の罪です。『イザヤ書』の第59章1節と2節にこう記されています。「見よ、主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのでもない。ただ、あなたがたの過ちが神とあなたがたを隔て/あなたがたの罪が御顔を隠し/聞こえないようにしている」。罪から救われない限り、私たちは生涯、清く正しく主に仕えることはできないのです。この罪からの救い、罪からの贖いは、「焼き尽くすいけにえ」によって一時的にもたらされました。また、『詩編』の第130編で詩人が語っていたことです。「イスラエルよ、主を待ち望め。主のもとに慈しみがあり/そのもとに豊かな贖いがある。この方こそ、イスラエルを/すべての過ちから贖ってくださる」(新共同訳では「主は、イスラエルをすべての罪から贖ってくださる」)。この罪からの贖いを、約束の救い主は実現してくださるのです。主が救ってくださる私たちの敵とは、私たちを捕らえて放さない罪であるのです(マタイ1:21「この子は自分の民を罪から救うからである」参照)。それゆえ、幼子、ヨハネは、主に先立って行き、「罪の赦しによる救い」を告げ知らせるのです(77節)。主は、罪からご自分の民を贖ってくださる。それは、ひとえに、神の憐れみの心によるのです(ホセア11:8「私の心は激しく揺さぶられ/憐れみで胸が熱くなる」参照)。
主なる神は憐れみの心によって、約束の救い主を遣わしてくださり、暗闇と死の陰に座していた私たちを、命の光で照らしてくださいます。そして、私たちを平和の道へと導いてくださるのです。「平和の道」とは、罪から救われて、恐れなく主に仕える生活のことです。私たちは、主イエス・キリストにあって、主の御前に聖なる者、正しい者として、神様を礼拝しています。ここに、すべて人が歩むべき平和の道があるのです。