マリアの賛歌 2024年8月04日(日曜 朝の礼拝)
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マリアの賛歌
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- 村田寿和 牧師
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ルカによる福音書 1章39節~56節
聖書の言葉
1:39 その頃、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
1:40 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶をした。
1:41 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子が躍った。エリサベトは聖霊に満たされて、
1:42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。
1:43 私の主のお母様が、私のところに来てくださるとは、何ということでしょう。
1:44 あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子が喜び躍りました。
1:45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
1:46 そこで、マリアは言った。/「私の魂は主を崇め
1:47 私の霊は救い主である神を喜びたたえます。
1:48 この卑しい仕え女に/目を留めてくださったからです。/今から後、いつの世の人も/私を幸いな者と言うでしょう。
1:49 力ある方が/私に大いなることをしてくださったからです。/その御名は聖であり
1:50 その慈しみは代々限りなく/主を畏れる者に及びます。
1:51 主は御腕をもって力を振るい/思い上がる者を追い散らし
1:52 権力ある者をその座から引き降ろし/低い者を高く上げ
1:53 飢えた人を良い物で満たし/富める者を何も持たせずに追い払い
1:54 慈しみを忘れず/その僕イスラエルを助けてくださいました。
1:55 私たちの先祖に語られたとおり/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
1:56 マリアは、三か月ほどエリサベトと暮らして、家に帰った。ルカによる福音書 1章39節~56節
メッセージ
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序.前回の振り返り
前回(先週)私たちは、天使ガブリエルによって、おとめマリアに、イエス様の誕生が予告されるお話を学びました。神様は、その昔、ダビデに、「あなたの王座をとこしえに堅く据える」と約束されました(サムエル下7:16参照)。その約束、いわゆるダビデ契約は、ダビデの子孫であるヨセフのいいなずけ、おとめマリアが聖霊によって男の子を身ごもるという仕方で実現することになるのです。人は誰もが、夫婦の交わりを通して生まれてきます。しかし、イエス様は、聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、生まれてくるのです。それゆえ、「生まれてくる子は、聖なる者、神の子と呼ばれる」のです。生まれてくる男の子は、罪のない聖なる人であり、神の御子であるのです。おとめが聖霊によって男の子を身ごもることは、人間の常識からすれば信じがたいことです。しかし、マリアは、それが神の言葉であるゆえに信じました。37節で、天使はマリアにこう言います。「神にできないことは何一つない」。この天使の言葉は、元の言葉を直訳すると、「神の言葉はすべて不可能になることはない」となります。その天使の言葉を受けて、マリアはこう言います。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」。マリアは、不可能になることはない神の言葉、必ず実現する神の言葉を信じて、自分自身を神様におゆだねしたのです。私たちが、イエス・キリストは聖霊によっておとめマリアからお生まれになったと信じるのも、同じ理由であります。私たちも、不可能になることはない神の言葉、必ず実現する神の言葉を信じるがゆえに、イエス・キリストが聖霊によっておとめマリアからお生まれになったことを信じているのです。
ここまでは前回の振り返りです。今朝は、第1章39節から56節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1.エリザベトの祝福
39節と40節に、こう記されています。「その頃、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶をした」。マリアは、急いで、山里のユダの町にある、ザカリアの家に出かけて行きました。それは、天使からエリサベトが身ごもっていることを聞いたからです。36節で、天使はこう言っていました。「あなたの親類エリサベトも、老年ながら男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている」。この天使の言葉を聞いて、マリアは、急いで、山里のユダの町にあるエリサベト叔母さんのもとを訪ねたのです。なぜ、マリアは、急いで、エリサベトに会いに行ったのでしょうか。天使が言ったことが本当であるかどうかを確かめるためでしょうか。そうではないと思います。マリアは、天使が語ったとおりのことがエリサベトの身に起こっていることを信じていたはずです。では、なぜ、急いで、エリサベトに会いに行ったのでしょうか。それは、神からいただいた恵みを一緒に喜ぶためであったと思います。マリアは、天使から、「あなたは神から恵みをいただいた。あなたは聖霊によって男の子を身ごもる。その子は聖なる者、神の子と呼ばれる」という御言葉をいただきました。その神からの恵みを一緒に喜べるただ一人の人、それがマリアにとって、エリサベトであったのです。
マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子が踊りました。エリサベトの胎内の子は、夫であるザカリアとの夫婦の交わりによって身ごもった子です。しかし、その子は、母の胎にいるときから聖霊に満たされていると告げられていました。15節から17節で、天使はザカリアにこう言っていました。「彼は主の前に偉大な人になり、ぶどう酒も麦の酒も飲まず、すでに母の胎にいるときから聖霊に満たされ、イスラエルの多くの子らをその神である主に立ち帰らせる。彼は、エリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けせ、逆らう者に正しい人の思いを抱かせ、整えられた民を主のために備える」。この男の子こそ洗礼者ヨハネですが、ヨハネは、母エリサベトのお腹の中にいるときから、イエス様を指し示す働きをしているのです。
胎内の子が踊ったことを感じたエリサベトは、聖霊に満たされて、声高らかにこう言います。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。私の主のお母様が、わたしのところに来てくださるとは、何と言うことでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子が喜び踊りました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。このエリサベトの言葉は、天使がマリアに告げた言葉を前提にしています。43節のエリサベトの言葉、「私の主のお母様が、わたしのところに来てくださるとは、何と言うことでしょう」という言葉は、31節以下の天使の言葉、「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」を前提にしています。また、45節のエリサベトの言葉、「主がおっしゃたことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」は、37節と38節に記されている天使とマリアのやりとりを前提にしています。天使は、おとめマリアが聖霊によって男の子を身ごもるという知らせを、「神にできないことは何一つない」という言葉で締めくくりました。その天使の言葉を受けて、マリアは、「お言葉どおり、この身になりますように」と全身全霊で応えたのです。ですから、このエリサベトの祝福は、マリアから話を聞いたうえでの祝福であったと思います。56節にあるように、「マリアは、三か月ほどエリサベトと暮らし」たのですから、マリアは、自分の身に起こったこと、その喜びを、エリサベトに語ったと思います。先程も申しましたように、マリアが喜びを分かち合うことができるのは、このとき、エリサベトだけであったのです。『マタイによる福音書』を読むと、夫ヨセフは妻マリアが妊娠していることを知ったとき、ひそかに離縁しようとしたと書いてあります。ヨセフは、マリアが自分以外の男と関係をもって子供を宿したと考えたのです。それが、人間の常識的な判断でしょう。しかし、エリサベトは、マリアが聖霊によって身ごもったことを信じることができました。それは、不妊の女と呼ばれ、年老いていた自分が、天使のお告げのとおり、男の子を身ごもったからです。その男の子が、マリアの挨拶を聞いたとき、喜び踊ったからです。
ここでエリサベトは、マリアの幸いがどこにあるのかを見事に言い当てています。マリアの幸い、それは「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた」ことにあるのです。そして、この幸いは、私たちにも与えられている幸いであるのです。不可能になることはない神の言葉、必ず実現する神の言葉を信じる幸い、それが、マリアの幸いであり、私たちの幸いでもあるのです。ですから、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」というエリサベトの言葉は、私たちに対しても語られているのです。
2.マリアの賛歌
エリサベトの言葉を受けて、マリアは主をほめたたえます。46節から55節までをお読みします。
そこで、マリアは言った。「私の魂は主を崇め/私の霊は救い主である神を喜びたたえます。この卑しい仕え女に/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/私を幸いな者と言うでしょう。力ある方が/私に大いなることをしてくださったからです。その御名は聖であり/その慈しみは代々限りなく/主を畏れる者に及びます。主は御腕をもって力を振るい/思い上がる者を追い散らし/権力ある者をその座から引き降ろし/低い者を高く上げ/飢えた人を良い物で満たし/富める者を何も持たせずに追い払い/慈しみを忘れず/その僕イスラエルを助けてくださいました。私たちの先祖に語られたとおり/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
このマリアの賛歌には、マリアの信仰がよく表れています。マリアは、48節後半で「今から後、いつの世の人も/私を幸いな者と言うでしょう」と言います。そして、その理由を、「力ある方が/私に大いなることをしてくださったからです」と言うのです。マリアが神の子であるイエス・キリストの母となるのは、すべて神様がしてくださった大いなる恵みであるのです。マリアは、自分のことを、「卑しい仕え女」と言います。マリアは、自分が神様の御前に、取るに足らない、貧しい者であることをよく知っていたのです。だからこそ、マリアは、そのような自分に目を留めて、大いなることをしてくださった主をほめたたえるのです。「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます」。「私の魂は主を崇め」の「崇め」は「大きくする」とも訳せます。主を崇めること、それは主を大きくすることです。そのとき必要なことは、自分が小さい者であることを弁えることです。マリアは、自分が小さい者であると正しく認識していたからこそ、主を大きくすることができたのです。私たちが礼拝でしていることも、主を崇めること、主を大きくすることです。もし、私たちが、「私は神様から恵みをいただいて当然な者だ。私は神様から恵みをいただくのにふさわしい者だ」と考えるならば、私たちは、神様を崇めること(大きくすること)はできません。しかし、私たちが、「私は本来、神様の御前に立つことができない罪人である。自分の罪のゆえに滅ぼされても当然の身である」と弁えるならば、私たちは神様を崇めること(大きくすること)ができるのです。実際、私たちがささげている礼拝は、そのような順序になっています。私たちは、罪の告白をして、赦しの宣言を受けて、救い主である神を崇めているのです。私たちは罪赦された者として、救い主である神を喜びたたえているのです。
このマリアの賛歌は、勇ましい歌でもあります。51節から53節にこう記されています。「主は御腕をもって力を振るい/思い上がる者を追い散らし/権力ある者をその座から引き降ろし/低い者を高く上げ/飢えた人を良い物で満たし/富める者を何も持たせずに追い払い」。ある説教者は、「このマリアの賛歌は革命の歌である」と言っています。ここでマリアは、「主は権力ある者を引き降ろし、低い者を高く上げる」と言います。また、「主は飢えた人を良い物で満たし、富める者を何も持たせず追い払う」と言います。そのような「主による逆転」をマリアは語るのです。なぜ、マリアはこのような「主による逆転」を力強く語ることができたのでしょうか。それは、自分において、主による逆転が起こっているからです。主は、卑しい仕え女であるマリアに目を留めて、大いなることをしてくださいました。マリアは聖霊によって男の子を身ごもりました。ダビデ契約を実現する約束のメシア、救い主を、身ごもったのです。そのようにして、主は低い者であるマリアを高く上げてくださいました。ですから、マリアは確信をもって、主による逆転を語ることができたのです。
マリアに起こった主による逆転は、ひとえに、主の慈しみによるものです。「主の慈しみ」とは、「主の契約に対する誠実な愛」(ヘセド)のことです。主は御自分の契約に誠実な愛の御方であるゆえに、御自分の民イスラエルをこれまでも救ってくださったし、これからも救ってくださるのです。55節に、「私たちの先祖に語られたとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに」とあります。マリアは、主が自分にしてくださったことを、アブラハムとの契約の文脈で理解していました。聖霊によって、おとめマリアの胎に宿った男の子は、ダビデ契約だけではなくて、アブラハム契約をも実現する者であるのです(マタイ1:1参照)。
今朝は、最後に、神がアブラハムに誓われた御言葉を読んで終わりたいと思います。『創世記』の第22章15節から18節までをお読みします。旧約の29ページ。
主の使いは、再び天からアブラハムに呼びかけて、言った。「自らにかけて誓われる主のお告げである。あなたがこうして、自分の息子、自分の独り子を惜しまなかったので、私はあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を空の星のように、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取るであろう。地上のすべての国民はあなたの子孫によって祝福を受けるようになる。あなたが私の声に聞き従ったからである」。
ここで、主は、「地上のすべての国民はあなたの子孫によって祝福を受けるようになる」と誓われました。使徒パウロによれば、この子孫は、一人の子孫、イエス・キリストのことです(ガラテヤ3:16参照)。アブラハムとその子孫との契約を成就するのは、おとめマリアから聖霊によってお生まれになるイエス・キリストであるのです。このイエス・キリストを、私たちは、神の御子、罪人の救い主として信じ、洗礼を受けて、神の民イスラエルの一員とされたのです。
このように考えてきますと、私たち一人一人にも「主による逆転」が起こったことが分かります。私たちは、旧約の区分から言えば、異邦人であり、神の契約と関係のない者たちでした。しかし、その私たちがイエス・キリストを信じる信仰を与えられて、神の御前に正しい者、神の子とされているのです。神様は、私たちにも大いなることをしてくださいました。ですから、私たちは主を崇め、喜びたたえているのです。「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます」。このマリアの賛歌を、私たちは自分の賛歌として、歌うことができるのです。