主は救い、イエス 2024年7月28日(日曜 朝の礼拝)
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主は救い、イエス
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- 村田寿和 牧師
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ルカによる福音書 1章26節~38節
聖書の言葉
1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
1:27 ダビデ家のヨセフと言う人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアと言った。
1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
1:29 マリアはこの言葉にひどく戸惑って、これは一体何の挨拶かと考え込んだ。
1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
1:31 あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。
1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。
1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そんなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに。」
1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
1:36 あなたの親類エリサベトも、老年ながら男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
1:37 神にできないことは何一つない。」
1:38 マリアは言った。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように。」そこで、天使は去って行った。ルカによる福音書 1章26節~38節
メッセージ
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序.
前回(先々週)、私たちは、洗礼者ヨハネの誕生が予告されるお話を学びました。今朝の御言葉には、イエス様の誕生が予告されるお話、いわゆる受胎告知の場面が記されています。
1.おとめマリア
26節から29節までをお読みします。
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという言う人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアと言った。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉にひどく戸惑って、これは一体何の挨拶かと考え込んだ。
「六か月目に」とありますが、これは、ザカリアの妻エリサベトが男の子を身ごもってから六ヶ月目ということです(36節参照)。直前の24節と25節にこう記されていました。「その後、妻エリサベトは身ごもったが、五か月の間は身を隠していた。そして、こう言った。『主は今、こうして、私に目を留め、人々の間から私の恥を取り去ってくださいました』」。このようにエリサベトが主を賛美してから一ヶ月後のことが、今朝の御言葉に記されているのです。
「天使ガブリエル」は、祭司ザカリアに現れて、ヨハネの誕生を予告した天使です(1:19)。その天使ガブリエルが、ナザレというガリラヤの町に神様から遣わされたのです。巻末の聖書地図で場所を確認したいと思います。「9イエス時代のパレスティナ」のDの3、ガリラヤ湖の西側に「ナザレ」とあります。このガリラヤのナザレに、神様は天使ガブリエルを遣わされたのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の99ページです。
「ガリラヤ」とは「周辺の地」という意味で、いわゆる地方です。また、ナザレという町も、旧約聖書に一度も出てこない、世の人々に知られていない町です。なぜ、神様は、地方の無名の町に、天使を遣わされたのでしょうか。それは、ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめマリアがいたからです。この「おとめマリア」がイエス様の母となるわけですが、マリアは、「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけ」でした。マリアの夫ヨセフが、ダビデの家に連なる者であることは大切なことです。と言いますのも、神様は、かつてダビデに、「あなたの子孫の王権をとこしえに堅く据える」と約束してくださったからです。『サムエル記下』の第7章11節から16節までをお読みします。旧約の475ページです。
昔、私の民イスラエルの上に士師を立てた頃のように、私はあなたの敵をことごとく退け、あなたに休息を与える。主は告げられる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの末裔、あなたの身から出る者を後に立たせ、その王国を揺るぎないものとする。その者が私の名のために家を建て、私は彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。私は彼の父となり、彼は私の子となる。彼が過ちを犯すときは、私は人の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。私はあなたの前からサウルを退けたが、サウルから取り去ったように、その者から慈しみを取り去ることはしない。あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえに続く。あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。』」
ここには、神様がダビデの子孫の王国の王座をとこしえに堅く据えるとの約束が記されています(13、16節)。このダビデ契約によって、イスラエルの人々は、約束のメシア、救い主が、ダビデの子孫から生まれると信じていました。そして、マリアの夫ヨセフは、ダビデの子孫であったのです。
今朝の御言葉に戻りましょう。新約の99ページです。
27節を見ると、「おとめ」という言葉が強調されています。マリアは、男の人を知らないおとめ、処女でありました。マリアはヨセフのいいなずけであっても、ヨセフと生活を共にしておらず、関係を持ったことはなかったのです。
天使は彼女のところに来てこう言います。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。「おめでとう」と訳されている言葉(カイレ)は、「喜びなさい」とも訳せます。喜ばしい出来事がマリアの身に起こったことを、天使は告げるのです。マリアは、この言葉にひどく戸惑い、これは一体何の挨拶かと考え込みました。もし、私たちも、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と挨拶されたら、戸惑って考え込むと思います。
2.神からの恵み
30節から33節までをお読みします。
すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
ここで、天使は、マリアがいただいた神からの恵みについて語ります。マリアが神からいただいた恵み、それはマリアが身ごもって男の子を産むということです。天使は、マリアに、「その子をイエスと名付けなさい」と言います。「イエス」という名前は、「主は救い」という意味です。『マタイによる福音書』には、イエスと名付ける由来が記されています。その子は、自分の民を罪から救うゆえに、イエスと名付けられるのです(マタイ1:21「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」参照)。名前を付けることは、所有権と深く関わっており、親の特権であります。ですから、神様が「その子をイエスと名付けなさい」と言われたことは、マリアから生まれてくる男の子に、特別な所有権を持っておられることを示しているのです。なぜなら、マリアから生まれてくる男の子は、いと高き方の子、すなわち、神の子と呼ばれるからです。天使は、続けてこう言います。「神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」。この天使の言葉は、先程、お読みした『サムエル記下』の第7章に記されていたダビデ契約を背景にしています。神様は、ダビデに、「あなたの子孫の王国の王座をとこしえに堅く据える」と約束してくださいました。この神様の約束に基づいて、南王国ユダでは、ダビデの家から王様が立てられたのです(ダビデ王朝)。しかし、紀元前587年に、南王国ユダは、バビロン帝国によって、滅ぼされてしまいました。それから、イスラエルには、長い間、王がいませんでした。いなかったと言うよりも、王を持つことができなかったのです。当時もそうです。イスラエルはローマ帝国の属州となっていました。5節に、「ユダヤの王ヘロデの時代」とありますが、ヘロデはダビデの子孫ではありません。ヘロデは、純粋なユダヤ人でもなかったと言われています(ヘロデはイドマヤ出身)。なぜ、そのようなヘロデが、ユダヤの王になることができたのか。それは、ローマ帝国の権力によってです。イスラエルの人々は「神様が、ダビデの子孫からメシア、救い主を遣わしてくださる」と信じていました。マリアもそうです。マリアも、神様がダビデの子孫から救い主を遣わしてくださると信じていたのです。そして、マリアは、自分の夫ヨセフがダビデの子孫であることを知っていたのです。そのマリアに、天使は、あなたは男の子を産む。その男の子がダビデ契約を実現するメシア、永遠にイスラエルを治める王であると告げたのです。子供を授かることは恵みであります。しかも、マリアは、ダビデ契約を実現するメシア、王を生むことになるのです。ですから、天使は、「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」と言ったのです。
3.聖霊があなたに降り
34節から38節までをお読みします。
マリアは天使に言った。「どうして、そんなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類エリサベトも、老年ながら男の子を身ごもっている。不妊の女と言われたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように。」そこで、天使は去って行った。
天使は、「あなたは恵みをいただいた」と、マリアがすでに身ごもっているかのように語りました。それで、マリアは、「どうして、そんなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」と言います。マリアは、男の人を知らないおとめ、処女であるのです。普通に考えるならば、ヨセフと生活を共にして、夫婦の交わりをもって、マリアは男の子を生むことになります。しかし、天使はこう言うのです。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。ここで天使は、驚くべきことを告げます。マリアは、男の人を知らない処女でありながら、神の霊である聖霊のお働きによって、男の子を身ごもるというのです。このようにして、『イザヤ書』の第7章14節の御言葉が実現することになるのです。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。イザヤの預言、「おとめが身ごもって男の子を産む」という預言は、おとめマリアが聖霊によって、男の子を身ごもるという仕方で実現することになるのです。天使は、「だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と言います。これは、呼ばれるだけではなくて、実際に、そのようなものです。聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、産まれてくる男の子は、その存在においても、罪のない聖なる人であり、神の御子であるのです。聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、生まれてくるイエス様は、まことの人であり、まことの神であられるのです。神の永遠の御子が、聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、マリアから人間の性質を取られて、人となってくださった。そのような驚くべきことが告げられているのです(ヨハネ1:14「言は肉となって、私たちの間に宿った」参照)。
なぜ、神様はそのような驚くべきことをされたのでしょうか。それは、「イエス」という名前と深い関係があります。イエスとは、「主は救い」という意味であり、その救いとは、罪からの救いであると申しました。イエス様は、御自分の民を、どのようにして、罪から救ってくださるのでしょうか。それは、『イザヤ書』の第53章に預言されているように、御自分の民の罪を担って、その身代わりとして、十字架の死を死ぬことによってです。約束の救い主は、私たちの罪を担うために、私たちと同じ人でなければなりませんでした。しかも、罪のない人でなければなりませんでした。もし、自分に罪があるなら、他の人の罪を担って刑罰を受けることはできないからです。また、約束の救い主は、多くの人の罪を担って、神の正しさを満たすために、神の子でなければなりませんでした。罪のない人であっても、ただの人であれば、一人の罪を担うことしかできません。罪のないまことの人であり、まことの神である御方だけが、多くの人の罪を担って、神の正しさを満たすことができるのです(ウェストミンスター大教理36~40問参照)。聖霊によっておとめマリアが男の子を生む。このことは、人間の常識からすれば信じがたいことだと思います。しかし、私たち人間を罪から救うためには、そのことが必要であったのです。ダビデ家のヨセフのいいなずけであるおとめマリアが聖霊によって男の子を産む。そのような仕方で、神様は、ダビデ契約を実現してくださり、御自分の民を罪から救う救い主を遣わしてくださるのです。
結.お言葉どおり、この身になりますように
36節で、天使は、マリアの親類のエリサベトが老年ながら身ごもっていることを告げます。これはマリアに与えられたしるしであると言えます。しかし、マリアはそのことを確認して、天使の言葉を受け入れたのではありません。天使の言葉、「神にできないことは何一つない」という言葉を受けて、マリアはこう言います。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」。天使は、「神にできないことは何一つない」と言いました(創世18:14「主にとって不可能なことがあろうか」参照)。元の言葉から直訳するとこうなります。「神において、すべての言葉は不可能になることはない」。不可能になることはない神の言葉を受けて、マリアは、「お言葉どおり、この身になりますように」と言ったのです。不可能になることはない神の言葉、それは天使がマリアに語ってきた驚くべき言葉です。その神の言葉が、この身になりますように。そのように、マリアは、自分自身を、主におゆだねしたのです。