出来事を話し合う弟子(奨励題) 2024年1月21日(日曜 朝の礼拝)
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出来事を話し合う弟子(奨励題)
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ルカによる福音書 24章13節~35節
聖書の言葉
24:13 この日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村に向かって歩きながら、
24:14 この一切の出来事について話し合っていた。
24:15 話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩いて行かれた。
24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。それで、二人は暗い顔をして立ち止まった。
24:18 その一人のクレオパと言う人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、ここ数日そこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」
24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
24:20 それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡し、十字架につけてしまったのです。
24:21 私たちは、この方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
24:22 ところが、仲間の女たちが私たちを驚かせました。女たちが朝早く墓へ行きますと、
24:23 遺体が見当たらないので、戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
24:24 それで、仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、女たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、
24:26 メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。」
24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた。
24:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
24:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いています」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるために家に入られた。
24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。
24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
24:32 二人は互いに言った。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」
24:33 すぐさま二人は立って、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、
24:34 主は本当に復活して、シモンに現れたと言っていた。
24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。ルカによる福音書 24章13節~35節
メッセージ
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この箇所から、二人の弟子と「この一切の出来事」との関わりがどうであったか見ていこうと思います。まず、大まかに見て、それから弟子たちに焦点を当てていくことにします。
1.エマオ村へ向かう二人の弟子 13-16節
それは弟子たちにとって衝撃的な出来事だったでしょう。師と仰いで彼らが従っていた主が捕らえられ、十字架に架けられて死なれてしまわれたからです。この二人の弟子はエルサレムに留まる理由がなくなって、彼らの田舎でしょうか、エマオ村を目ざして、60スタディオン、11kmばかりの道を歩いていました。「この日」というのは、二人の弟子がエルサレムを発つ前に、早朝墓に行った婦人たちや弟子たちからイエスの遺体が消えていたと聞いたばかりの、イエスが十字架で死なれ、墓に葬られて三日目の日でした。三日前までの出来事をどう受け止めてよいか分からないまま、さらに、今朝の出来事に困惑することが重なりました。それで道すがら、この二人は「一切の出来事について話し合って」いたのでしょう。するとこの弟子たちにイエスが伴われて歩まれました。しかし、彼らの目にはイエスだとわからなかったというのです。
2.「この一切の出来事」について説明する弟子たち 17-24節
イエスはしばらく二人の弟子と共に歩まれ、彼らが話し合っていたことに耳を傾けていたのでしょう。やり取りしているその話は何のことかと尋ねられました。弟子たちは、イエスだとはわからなかったので、しかもエルサレムにいながらこの出来事を知らない人のようでしたから、あらためて「一切の出来事」について説明することになります。私たちが説明を求められると、その話すべき事柄を思い浮かべ、聞く人に伝わるように話そうとしますが、聞く側の人は大概、その内容とともに、話す側の人がそれをどう受けとめて考えているのかも知ることになります。弟子たちが「一切の出来事」についてどのように理解して受け止めているかを、イエスご自身も知ろうとされたのだと思います。弟子たちが説明した内容については、後で取り上げることにして、話の流れをたどりたいと思います。
3.「メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入る」ということを解き明かされる主イエス 25-27節
イエスは、ご自分のことですから直接ご自身のことを語ればよいのではないかと思いますが、そうなさらず、聖書から解き明かされています。「メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか」と言われていますので、弟子たちはすでに教えられていたことだったわけです。
4.イエスだと分かった弟子たち 28-35節
エマオへ向かう二人の弟子に伴われたのがイエスであることが分かったいきさつが記されています。二人の弟子は、イエスご自身について聖書から解き明かされていきました。解き明かされるうちに、イエスが苦しみの後に栄光に入るということが理解できる準備が整えられていったのでしょう。そして、パンを祝福して裂き、渡された時に分かったというのは、言葉を換えて言えば、目の前でパンを親しく弟子たちに渡される方が、聖書に示されていた「苦しみを受けて栄光に入る」方であり、そしてイエスであるということが分かった、ということになります。
5.二人の弟子は「この一切の出来事」をどう受け止めていたのか
ここから、二人の弟子が「この一切の出来事」について話し合い論じ合っていた(15節)こと、そして、そこに主イエスが伴われ、ご自身について聖書から解き明かされたこと(27節)について見ていきたいと思います。
二人の弟子同士で話し合っていた「この一切の出来事」の内容がどのようなものかは、弟子たちがイエスに説明した言葉で知ることができます。「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。」(19節)と説明しています。ナザレのイエスが弟子たちにとって、また民にとっても力ある預言者であったと語っていますが、そこには彼らの期待も表されています。単に「民全体の前で」というだけでなく、「神と民全体の前で」と述べているところに、期待の大きさがうかがわれます。この期待はどんなものだったのかというのが、「私たちは、この方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」(21節)という言葉です。ところが、主イエスは弟子たちの話に、「預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち」だと言っておられます。「愚かで、心が鈍い」(25節)とも言われています。ちょっと厳しい言葉のようですが、弟子たちが説明したことに、理解の上で何か足りない、あるいは問題が含まれているということです。どのような点で、「心鈍く」「信じられない者」であったのでしょうか。
エルサレムでの出来事を尋ねられて、二人は「暗い顔」(17節)をしたとあります。エルサレムで起こった出来事を説明するとなったときに、説明する出来事に希望を見出せないままだったので、暗い顔になったということなのでしょう。「この方こそ・・・と望みをかけていました。」(21節)と説明していますが、言外に、この方イエスに抱いた期待、託した望みが消えてしまい、落胆していると言っているようです。
では、「イスラエルを解放する」ということで、どういうことを期待していたのでしょうか。このときのユダヤはローマの属州になっていました。ローマの支配から解放されて、かつてのダビデ王国のような、彼らの神、父祖の神ヤハウェを唯一神とする国を再興するという希望をユダヤの民は抱き続けていました。しかし、バビロン捕囚から帰還後、実現できていなかったことでありました。そこにナザレのイエスが、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者としてあらわれたのです。それで、今こそローマの支配からユダヤを解放し、「神の国」をもたらしてくれるメシアと見ていたわけです。「それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです」(20節)という説明は、祭司長たちや議員たちがなぜそのようなことをしたのか、いまだに理解できないということを言い表しているようですが、さらに、主と仰ぐイエスが二人の犯罪人とともに十字架に架けられて死んでしまわれたということが、自分たちにとっていまだに受け入れがたい出来事であることを物語っているようです。それは、弟子たちにとっては主イエスの死の意味すること、すなわち主が教えておられた「メシアは、これらの苦しみを受けて」ということが分からないまま、彼らが抱いた期待は十字架の死によって終わり、望みは消滅してしまったということだったのだと思います。
イエスに対して抱くメシアの像(すがた)は、最高法院の祭司長たちや議員たちもまた別の思惑から見ていたものでした。捕らえられ連れてこられたイエスに祭司長たちは「お前は神の子なのか」と尋問しています(22:66以下)。それから、ローマの属州としてこの地を統治する総督ピラトも同じように「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問しています(23:1以下)。彼ら統治者にとっては、イエスを裁く理由としての「神の子(メシア)」また「王」でありました。イエスの返答次第では、自分を「神の子」、また「ユダヤ人の王」と自称しているという言質(証拠となる言葉)、言葉尻を取るための問いかけでした。ナザレのイエスという男が自分を「神の子」、「王」と自称しているに過ぎない、そう見ているわけです。イエスが、「それは、あなたが言っていることだ」(23:21)と、それぞれの問いかけに対して、同じように答えておられるのは、彼らが問いただしているのがこの世の神の子、また王だからです。ですから、祭司長たちや議員たち、また総督ピラトにしてみれば、十字架の死をもってこの男に対する関心や興味は終わり、「メシア」像も「王」としての像も消えることになります。二人の弟子も、イエスが十字架につけられて死に、墓に葬られたことをもって、希望としてのメシアが彼らの内から消えてしまっていたのではないかと思われます。その点では、祭司たちや議員たち、またピラトの抱く「メシア」や「王」と同じです。それで、イエスはこの二人の弟子に、「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち」(25節)と言われたのでしょう。エマオ途上の彼らの目が遮られ、イエスだとはわからなかったというのは、彼らが抱いたメシア像が、本当の姿のイエス、苦しみを受けて栄光に入る主の姿を見るのを妨げていたことを示しています。
弟子たちは、それから三日目の今朝の出来事を語ります。墓に葬られて三日目の朝の出来事についても、婦人たちの言ったこと、他の弟子たちが目撃したという言葉などを、間違いなく伝えているように思われます。しかし、弟子たちの話からは、イエスがよみがえったとは明確に受け止められていないようです。イエスの遺体がなくなっていたことをどう受けとめればよいのかわからず、困惑する出来事だったのでしょう。今朝の出来事を婦人たちから聞いたペトロをはじめとする使徒たちでさえ、空になった墓穴を確かめるまでは、そんな馬鹿なことがあるのかと考えた(24:11)くらいですから、この二人の弟子が困惑するのも無理からぬことだったのではないかと思います。
二人の弟子がエルサレムを発ってエマオに向うこと自体が、イエスとの関わりが消滅し、失意を抱いた旅であったということです。では、なぜ「一切の出来事」を二人の弟子は道々話し合い論じ合っていたのでしょう。これまで話してきたことを覆すようですが、彼らの希望が全く潰えてしまったのなら、話し合い論じ合う余地はなかっただろうと思います。「論じ合う」とか「議論する」という言葉に、私たちはどのようなイメージを持つでしょうか。論じ合うことに積極的で建設的な意味がはたしてあるのかという、今日の時勢では消極的な面の方が強くイメージされるかもしれません。新約聖書、ことに福音書で「論じる」という言葉が他の箇所でも使われていて、必ずしもすべて同じ意味合いを持つかはわかりませんが、しかし、ここで二人の弟子が「論じる」という言葉を辞典(『新約ギリシャ語辞典』岩隈直、1971山本書店)の解説を参考にすると、結論を見出すために一緒に探す、そのためにやり取りするという意味を含んでいる言葉のようです。このような意味合いが含まれるということ踏まえると、「この一切の出来事」のうちにイエスについて何か希望が見いだせないか、どこかに手掛かりがあるのではないか、そういう思いがあって二人の弟子は互いに話し合い論じ合っていた、と考えることができます。ここに、イエスが彼らの歩みに伴われる理由があったのだということも見えてきます。イエスも「メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか」と、あらかじめ弟子たちには語り、教えておられたのです。そのことが弟子たちに不明瞭ながら残っていたのかもしれません。ここが、祭司長たちや議員たちがメシアについて考えるところと違うところです。さらに今朝の出来事、イエスの遺体が墓穴から消えていたということと、見いだそうとする彼らの希望とが結びつけられないままだったので、落胆と困惑を抱えたまま、道々話し合い論じ合っていたのではなかったか、と考えられるのです。
そしてもう一つのこと。弟子たちの説明を聞いて、イエスはご自分について解き明かされました。ご自分のことですから直接解き明かすこともできたと思います。が、イエスは「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた」(27節)のです。このことは、聖書を調べるなら、「苦しみを受けて栄光に入る」メシアについて(私たちでも)知ることができ、「この一切の出来事」の意味を理解することができる、ということを意味しているのです。
後に二人の弟子が、「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」(32節)と言っています。「一切の出来事」のうちに、十字架の死をもって終わらない希望が聖書から紡ぎ出され、暗い顔をせざるを得なかった彼らの心に灯りがともったことを言い表しています。どうしてそのように変化したのでしょうか。「説き明かす」という言葉があります。27節にも「解き明かす」という言葉がありますが、こちらは解説する、説明するという意味の言葉です。32節の「説き明かす」は、「開く」「開いて明らかにする」という意味の言葉で、弟子たちにとってはイエスが聖書を開いて見せてくださったという意味になります。聖書を持ち歩くということはこの当時ないことですから、巻物としての聖書を開くという意味ではなく、聖書が語っていることを弟子たちが分かるようにしてくださったという意味になります。弟子たちは、イエスの遺体が墓から消えていたことにもその理由、意味があって、「苦しみを受けて栄光に入る」ことと結びついていることを見出したということも示しています。パンを取って祝福して裂いて弟子に渡されたとき「弟子たちの目が開け、イエスだと分かった」(31節)というのは、弟子たちが、いわば準備段階としての聖書から説き明かされることを経て、苦しみを受けて栄光に入るキリストを理解できるところに至ったということを意味しています。
「メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入る」ことを理解できた弟子たちは、このあと、時を移さずしてエルサレムに戻りました。エマオ村へ向かう失望と困惑の歩みに代わって、エルサレムへ向かう道は、聖書の言葉が示してくれる確かな希望の歩みとなりました。二人の弟子は、主の十字架の死の意味を受けとめることができたのです。それはまた、主のよみがえられたことも受けとめることができた、ということを意味しています。エルサレムへの道は、信仰を同じくする弟子たち、兄弟姉妹たちとの交わりに向う歩みとなりました。そして復活された主のもとに集う交わりへと向かう歩みでもありました。この弟子たちに主イエスが解き明かされた聖書については、イザヤ書からも取り上げられたことでしょう。その中に、「主の望みは彼の手によってなしとげられる。」(イザヤ53:10)という箇所があったかもしれません。
終わりに
今回の箇所は、エマオ村に向かう二人の弟子に起こった出来事を記していますので、私たちが聖書を読む、また学ぶということについて直接的に教えているところではありません。ですから、ここから聖書を読むこととか、学ぶことについて、こういうことが教えられているというような結論めいた事柄を述べるのは控えなければなりませんが、弟子たちが話し合い、論じ合っていた「この一切の出来事」を、私たちには「聖書全体」と置きかえて考えてもよいのではないかと思います。そうしてこの箇所から私たちが聖書を読むこと、学ぶことについて思い巡らすことで、益するところがあるのではないかと思っています。